WPspinoff23 泡沫の夢
『――――』
声が聞こえた。
聞き覚えがある声だが、意識が明瞭ではなく誰の声か判別できない。
『み――――』
私を呼んでいる。
何度も何度も、私のことを呼んでいる。
急かすわけではなく、ゆっくり促すような穏やかを感じとれる声だからか、耳障りだとは思わなかった。
無理に起こそうとせず、その人は私が自分で起きて声に応えることを、ずっと待っているようだ。
『みつ―――』
どこの誰だか知らないが、応えてやる義理はない。私はまだ起きるつもりはないのだ。
起きる時間になったら勝手に起きる。私は、そういう風にできているのだから。
どこぞの他人の為に、貴重な睡眠時間を減らすような愚行はしない。
……それより、覚えてろ。快眠を妨げた罪は、あとでしっかりと罰してやる。大人しくそこで震えているがいい。
『ほらほら、もうすぐごはんできるから起きなさい』
「……ごはん?」
誤判? それとも御飯だろうか。
まだ頭がぼやけているのか、言葉の意味が理解できない。単語を噛み砕いて飲み込み、じっくり考えてみる。
いや、ちょっと待て。そんなことよりなぜ私の寝室に他人がいる?
私は一人暮らしで、一緒に寝るような仲の人間はいない。たまに仕事絡みで他人が転がり込むが、その時は防衛本能が働くので熟睡したりしないはずだ。しかし、この部屋には人の気配がある。それなのに意識が不明瞭になるほど眠っていたということは、つまり私は今まで無防備な状態で他人と一緒にいたということになる。
危機を感じ、早く現状を把握しようと微睡んでいた意識が急速に覚醒していく。
相手次第では物理的に処理をしなくてはいけないので、身体を僅かに動かして状態を確認する。よし、問題ない。
最後に自分の中の記憶を探り、ずっと私の名を呼んでいた声の正体を突き止めたら高まった警戒心が一気に萎えた。
意味の解らない今の状態は、きっとこいつが原因だ。絶対に間違いなくこの女のせいだ。
「あ、起きた。今は夜だけど、おはよう光葉」
「なぜお前がここにいる。植田麻衣」
「え、だってここ私のアパートだから、いるのは当たり前でしょ?」
「…………」
「もしかして寝ぼけてるの? やだ、初めて見たっ、かわいい~っ! 記念に写真撮っちゃお」
「騒ぐな、見るな、撮るな」
周囲を確認すると、確かにこいつの言う通り私の部屋ではなかった。
もう何度も強引に引っ張られてきた場所なので、すぐに此処が何処なのか把握する。
此処は、いつも半ば強制的に連れてこられる植田麻衣とその子供が暮らしているアパートの一室だ。
寝ていた所はベットではなく、椅子に座ったままテーブルを枕にして眠っていたようだ。
意識を失うまでの記憶を辿ると、私はいつものように此処まで連れてこられ、子供の勉強を見ながら仕事をしているうちにいつの間にか居眠りをしてしまったらしい。使っていた仕事用のパソコンはテーブルの隅に追いやられており、眠っている間に掛けられたのか、肩には柔らかな毛布の感触があった。
「光葉が居眠りだなんて珍しいわよね。あ、もしかしてまた徹夜したんでしょ? 夜更かしは乙女の大敵っていつも言ってるのに」
「うるさい。私に指図するな」
「ふふ、寝癖つけたまま凄まれても、ちっとも恐くないわよ」
「…………」
目の前の女はへらへらと笑いながら私の頭に手を伸ばし、髪をゆっくりと丁寧に撫でる。
普段であればすぐさま払い除けるのだが、まだ完全に目が覚めていないのか瞬時に反応することができなかった。
跳ねているであろう髪の部分を手櫛で梳かれ、ボサボサになっていた頭が綺麗に整えられていく。
何が嬉しいのか、私に構う彼女はいつになく上機嫌だ。
「今日の光葉は大人しくて気持ち悪いわね。なにか怖い夢でもみたの?」
「……べつに」
恐い夢など見ていない。そもそも夢すら滅多に見ない。目を閉じ目を開ければ、いつだって現実が待っている。
「あら図星? よしよし、怖かったのね。私が優しく慰めてあげるわ」
「やめろ」
子供をあやすような手つきが癪に障ったので、頭の上にあった部下の手を払い除ける。
しかし気にした様子もなく、彼女は私の目を覗きこみ微笑んだ。
見透かされてしまいそうな瞳から逃れるように、視線を仕事用のパソコンへ向ける。途中だった資料を保存してから電源を落とし、画面を閉じた。今日はもう仕事をする気にはなれない。急ぎの案件ではないから、調子が良い時に仕上げてしまおう。
「先生。あの……プリント、できたよ」
「…………」
おずおずと控えめに一枚の紙を差し出してきたのは、植田麻衣の娘だった。
受け取って目を通すと、私が片手間に作った算数の問題を全て解いている。
数日前に教えたばかりの計算式を使って正解を導き出しているので、物覚えはいいらしい。応用はまだまだだが、基礎は確実に身についてきている。そろそろ難易度を上げてもいい頃だろう。
「全問正解だな。なら次はこの問題を解いてみろ。解らなかったら聞きに来い」
「う、うん!」
「紫乃ちゃん、もうすぐご飯だからほどほどにね」
「はーい」
新しいプリントを渡すと、奴の娘は意気込んで自分の部屋へと戻っていった。
しかしまだ十にも満たぬ子供が積極的に勉強するのも珍しい。自分はともかく、普通あの年頃の子供というのは勉強を嫌がるものだ。やる気があるのはいい事だが、一つのことに偏ると後々飽きが来る可能性もある。
……そうだな、次は課外学習を取り入れてみるか。様々な生態系を知っておくと、将来役に立つこともあるだろう。
「あらまぁ、すっかり仲良くなっちゃって」
「ただ勉強を教えているだけだ。そういう契約だっただろう」
「光葉って意外と先生に向いてるんじゃない? 紫乃ちゃん、勉強苦手だったのに今じゃクラスで一番だし、いつも楽しそうに勉強してるもの」
「興味ないな。そんなことより、例の件はどうなっている」
「はいはい、あの取引先の新規事業のリサーチなら終わってるわよ。ご飯のあとで資料を渡すわ」
「ならいい」
この部下はこれでも我が社でトップクラスの実力を持っている。何をやらせても誰よりも早く仕事をこなし、頼んだ案件を100パーセントではなく120パーセントで仕上げてくるのだ。コミュニケーション能力も高く営業もこなせ、緊急の事態が起こっても機転を利かし解決できる判断力も備わっている。
あの性格でなければ、完璧で理想の部下だったのだが。
「それじゃあご飯にしましょうか! さーて、今日の献立は何でしょう!」
「カレー」
「大正解! さすが社長、先を見通す能力を持ってるわね」
「馬鹿か。さっきからカレーの強い匂いがしてただろうが」
「正解者の光葉さんには特別にチーズ特盛カツカレーにしてあげましょう♪」
「それは嫌がらせか? 私を高カロリーで殺す気なのか? 普通にしろ普通に」
食器棚からカレー用の皿を取り出して渡す。サラダもあるみたいなので、取り分ける為の皿を人数分出してテーブルに並べて置いた。
準備を整えていると、カレーの匂いに釣られたのか奴の娘が部屋から出てきて、こちらの様子を窺っている。
「手が空いているなら、このコップをテーブルに並べておけ」
「うん!」
嫌な顔一つせず、言うことを聞いてコップを持っていく。
どうしてあの自由奔放でやかましい親からこんなに素直で大人しい子供が生まれるのだろう。
このまま親に似ることなく育てばいいのだが。
「んん? なんか今、どこかで誰かが私の悪口を言ったような気がする」
「気のせいだろ」
手を合わせて、いただきます。
この家でご飯を食べる時は、絶対に言わなければいけない言葉だ。
食事の挨拶は世間の常識だが、私が実家にいた頃は強制されなかったし、ひとりの時は誰にも咎められなかったので口にすることはなかった。しかし黙って食事を始めると植田麻衣が煩いので言う通りにしている。
「今日のカレーの出来はどう? サンプルで貰ったスパイスを使ってみたんだけど」
「そうだな、なかなか良い素材を厳選したようだ。スパイスの輸入事業の案が会議で出ていたが、進めてもいいかもしれないな。ああそれと風味はいいが塩が足りてない。減塩はいいことだが、味がぼやけている」
「光葉はすーぐ仕事を絡めるんだから。あと期待した感想じゃないけど的確なご意見はありがとう、次の参考にするわ」
「えっと、お母さんが作ったカレー、おいしいよ」
「んもうっありがとう紫乃ちゃん大好き! さすが私の可愛い娘! 光葉も美味しいなら美味しいって言いなさいよね」
「不味くはない」
「ほんっと素直じゃないんだから」
非難めいた声を無視して、空になった皿を流し台に持っていく。
食事を無料で提供して貰っている対価として、私が洗い物をすることになっているのだ。
袖をまくり、洗剤を纏わせたスポンジで料理器具や皿を洗っていると、奴の娘が自分の皿を持ってきた。
「……おい、ニンジンが残っているぞ」
「うう、だって」
「全部食べるまでは受け取れないな。さっき母親の料理を美味しいと言ったのはどの口だ。一度言ったことは、最後まで責任を持て」
「……はい」
ニンジンが残った皿を持ったまま、暗い顔をして渋々と戻っていく。
あの子供の好き嫌いなど興味はないが、私は『無駄』が嫌いだ。食材を無駄にする事など許されない。
それにニンジンは栄養価の高い野菜で育ち盛りの子供には必須の食べ物だから……いや、そんなことは、どうでもいいか。
「ふふ、厳しい先生ね」
「なんだ、文句があるなら自分で洗え」
「ないわよ文句なんて。片付けは私がやるからしなくていいって言ってるのに、いつも手伝ってくれてありがとう」
「ちっ」
私が洗った食器を、隣で植田麻衣が丁寧に拭いていく。
私が全部ひとりでやるから座っていろと何度言っても、彼女はいつも頑なに手伝おうとする。
台所は狭いから大人が二人並ぶと邪魔で仕方がない。まったく、嫌がらせのつもりなのだろうか。
「あ、そうそう明日は休みでしょう? 買い物付き合ってくれない?」
「会社は休みでも私は手持ちの仕事がある。娘と二人で行ってこい」
「えー、いいじゃない。帰ってきたら私も手伝うから行きましょうよ~。最近ブラのサイズがきついから新しいの買いたくて、柄を光葉に選んでほしいのよ~」
「知るか。下着の柄ぐらい自分で選べ。あと太ったんなら痩せろ」
「あら~? 光葉も面白い冗談が言えるようになったのね?」
「冗談ではなく事実だろ。その胸部についてる無駄な脂肪が増えているひょわひひつ……おひ、ひゃめろ」
植田麻衣はにっこりと営業用の綺麗な笑みを作って、私の頬を摘まみそのまま横に引っ張る。
抵抗しようにも、私の手には泡まみれの食器とスポンジが握られているので抗うことができない。
痛いが耐えられないほどでもないので好きにさせておこう。これ以上こいつの機嫌を損ねてしまうほうが、面倒臭い。
しばらくそのまま洗い物を続けていたが、奴の娘が来たのでようやく解放された。
「ニンジン、全部食べたよ!」
どうだ!と言わんばかりの自信満々の顔で、空になった皿を見せつけてくる植田麻衣の娘。
食べれるなら最初から食べろと言ってやりたいが、母親の鋭い視線が鬱陶しいので黙って皿を受け取った。
「偉いわね紫乃ちゃん。ご褒美に、先生が一緒にお買い物に行ってくれるって」
「ほんと!?」
「おい、行くとは一言も言ってないぞ。勝手な事を言うな」
「黙らっしゃい。明日は貴女の服も新調するわよ。素材はいいくせに、いっつも地味なシャツばっかり着てるんだから」
「余計なお世話だ。仕事の時は当然着飾っているし、普段着も機能性を重視したものを選んでいる」
「はいはい、明日は十時に迎えに行くわね。震えて待て」
「人の話を聞け!」
服などどうでもいいし、奴の買い物に付き合う義理もない。
絶対に行ってたまるかと拒否の姿勢を貫いていると、植田麻衣は自分の部屋に戻り、とある紙を持ってきた。
「これなーんだ♪」
「……お前、こんなものまで。ちっ、わかった明日は十時だな。だが陽が暮れる前には戻るぞ。それだけは譲れん」
「ええ」
機嫌よく部屋へ戻っていく親子を見届けて、気付かれないよう静かに息を吐いた。
事業拡大の為に必要だった土地の許可証を見せられてしまっては、奴の我儘を受け入れるしかあるまい。
何度も交渉してその度に断られてきたものを、どうして簡単に手に入れてくるんだあいつは。
これでまたひとつ停滞していた案件を動かすことが出来るが、どうにも釈然としない。
なんというか、奴の思い通りに動かされているような気がする。実際、極上の餌を見せられて、私は素直に尻尾を振っている。確かに利益は大事だ。利益を得ることが、一番のはずだ。だがその為に、プライドまで捨ててしまってもいいものだろうか。
「ねえ、光葉」
「なんだ」
部屋に戻ったと思ったら、また台所に来たのか。
植田麻衣は似合わない愛想笑いを浮かべて、私の傍へ寄って来た。
「ごめんね」
それは何に対する謝罪だろうか。正直、心当たりが多すぎてどれが正解か解らない。可能性が高いものは、きっとさっきの我儘だろう。しかしまあ、見合う対価は貰っているので謝罪は余計だ。つまらないオマケなど、必要ない。
「謝るな馬鹿が。その気持ち悪い顔を今すぐやめろ」
「ひっどい」
破顔して引っ付いてきたのですぐに引きはがすと、今度は拗ねた顔をして唇を尖らせる。
まったく、子供みたいに表情をころころと変える奴だな。一体どれほどの表情を持っているのか、興味深い。
沸き上がった好奇心を押さえきれず、指で奴の額を小突いてやると、目を丸くしてきょとんとしていた。ふむ、こうすると、そういう反応が返ってくるのか。なるほど。
「光葉、私で遊んでるでしょう?」
「いいや、実験してるだけだ。人の反応を観察して、今後の交渉に生かしていこうと思ってな」
「むぅ。まあいいけど、明日の昼ご飯は光葉が奢ってね」
「なぜそうなる」
大した出費ではないが、こいつの言う事に素直に従いたくはない。だが結局、私は折れてしまうのだろう。
私は一度だって、彼女と言い合って勝てたことなどないのだから。流石、数多の取引先を獲得した無敗の営業社員。いや、こいつは元々事務員なのだが、何でもできるから所属が曖昧になっているんだったな。
残念な性格で扱いづらいのが難だが、私直属の有能な部下。彼女が入社してから、うちの会社の業績は上ばかりを向いている。
だから多少の我儘も、目を瞑れる。プライドも、時には捨てたっていい。
利益を得られるならなんだってやろう。
どんな願いも聞いてやろう。
思う存分、私を振りまわすがいい。
だがな。
突然居なくなるのは、卑怯だろう。
「ちっ」
黒に染められた場所で、私は勝手にこの世から去っていった部下へ悪態をつく。
まったく、我儘にも程がある。いくら我が社に貢献してきたといっても、許される限度というものがある。仕事を辞めるなら最低一か月前に知らせるのは常識だろうが。担当の業務も中途半端に残し、引き継ぎも終わらせずに消えるなど迷惑極まりない。
……なにが自殺だ、ふざけるな。あんなにへらへら馬鹿みたいに笑ってた奴が、私を振りまわして楽しそうにしていた奴が簡単に死ぬわけないだろうが。大事な娘の成長を楽しみにしていたあいつが、途中で育児を放棄するわけがない。
「社長」
「なんだ、丸戸」
傍に控えていた忠実な部下が、黙って視線をある場所へ向ける。
そこには、涙を流しながら母を呼んでいる娘の姿があった。
葬式に参列していた周囲の大人たちが、可愛そうにと呟きながら憐みの目で子供を見ている。
気分のいい光景ではないが、そうなるのは自然な事だ。人は自分より不幸な者に同情してしまう生き物なのだから。
「おい」
「ひっぐ、おかぁさん……ぅええ、っおかあさん…っ」
ひたすら泣き続ける奴の娘に、私の声は届かないようだ。
仕方なく頭を掴んで、強引に私と顔を合わせる。
「せん、せー」
「今後の居場所は、お前が選べ。孫の顔を見てにこりともしない祖父母の家か、真面目で厳しい丸戸の家か、好きな方を選ぶんだ」
「……おかぁ、さん」
「奴はもういない。二度とお前の元へ帰ってこない。これからは、一人で生きていくしかないんだ」
なんでだろうな。自分の言葉が、やけに響く。
原因の解らない気持ち悪さを誤魔化すように舌打ちをしたが、益々苛立ちが募るだけだった。
奴の娘は答えが決まらないのか、黙って何も言おうとしない。
今はまだ母親の死を受け止め切れず、他のことを考える余裕がないのだろう。子供なのだから無理もない。
ひとまず、こちらで決めてやるしかないか。世間体もあるから、放っておくわけにもいかない。
「しばらくは丸戸のところに居ろ。決めるのは落ち着いてからでいい」
「…………うぅ」
「泣くな。子供はいずれ大人になり、親から離れていく。お前はそれが普通より早かっただけのことだ。大人になれば、その辛さは消える。今は耐えていろ」
私が言った通り耐えようとしているのか、泣き叫ぶことを止めて今度は静かに涙をこぼしている。
あとは子供の世話が得意そうな部下に任せ、私は丸戸と一緒に人目のつかない場所へ移動した。
「で、あいつの死因は何だ」
「高層ビルの屋上からの飛び降りです。遺書も見つかっており、自殺と断定されています。ですが――」
「わかっている。うちの人間……いや、父の差し金だろう。詳細はこれから調べるしかないが、あの強欲な獣が絡んでいるのは間違いない。くそっ、業績が伸びて目立ち過ぎたのが拙かった。父の動向を常に警戒しておくべきだったな」
自らを追い越そうとするものは、身内でも叩き落す。それを平気でやるのが、鹿島の人間だ。
業績を伸ばし、力を蓄えた私が鹿島グループのトップの座を奪うかもしれないと父は危惧したのだろう。
だから我が社で最も有能な人間を排除したのだ。
「はは、舐めた真似をしてくれる。売られた喧嘩は買うのが鹿島の流儀だからな。いい加減、父に愛想を振りまくのも苦痛だったから丁度いい。あっちがその気なら、やってやる」
「お、落ち着いて下さい社長! 鹿島本社とやり合おうだなんて無茶ですっ!!」
「私は冷静だ。それにずっと前から独立しようと密かに計画していた。連携のとれる企業も既にリストアップしてある。今回のことは切欠でしかない」
携帯を操作して、各所に電文を送る。さて、これから暫くはいつも以上に忙しくなるな。
私を振りまわすやかましいあいつはもう居ないから、仕事も捗るだろう。
「ああそうだ。これをお前に渡しておく」
厚めの封筒を丸戸に渡す。彼女は恐る恐る受け取って、慎重に中身を取り出した。
「これは……っ!?」
「もしもの時の為の保険だ。鹿島に歯向かう危険性は誰よりも理解している。だからこそ、お前に託しておく」
封筒の中身はあの子供の生活に必要な書類と養育費の入ったカード、それと我が社が再起不能な状態に陥った時に丸戸を受け入れてくれる手筈になっている企業の資料、それと植田麻衣が残したビデオレターと、私の遺言状だ。
負ける気はないが、最悪の結果を想定しておくに越したことはない。
「丸戸、お前は何もしなくていい。通常の業務をこなせ。あとは、あの子供の面倒を頼む」
「そんな社長! 私もっ……!!」
「これはお前にしか頼めないことだ」
信用のできる人間は、情けないことだが丸戸だけだ。彼女に断られたら、もう誰にも頼めない。
「ずるい、ですよ」
「そうだな」
そういう人間だ。私は昔から卑怯で、残酷で、冷たい人間だ。
だがそういう奴にしか、できることだってある。
それから私は鹿島に対抗する為の準備を始めた。いくら我が社の業績が好調で地位を高めたといっても、鹿島本社に比べれば小さな会社でしかない。だが、協力してくれる他社と共に押し潰せば、倒産させることは無理でも業績を悪化させることは可能なはず。時間をかけてゆっくりと衰退させていく事が出来れば、私の勝ちだ。
「……ふう」
ずっと睨んでいたモニターの画面から目を離す。
まだ書類は完成していないが、目が霞んで文字が良く見えないので思うように作業が捗らない。
僅かな時間も惜しいが、数分だけ休憩することにしよう。
椅子の背に身体を預けて、目を閉じる。通常の業務に加え、鹿島対策の準備も秘密裏に進めなければならないのでスケジュールは圧迫されている。正直寝る暇さえ惜しいが、睡眠を疎かにすると逆に効率が悪化する可能性が高い。徹夜は適度に行い、限界を感じれば身体を休めることに努めるしかなかった。
「……先生」
っと、危ない。意識が少し途切れそうだった。
声がした方を見れば、植田麻衣の子供が部屋の扉を少し開けて顔を出し、遠慮気味に覗き込んでいる。
どうして私の住まいにこの娘がいるんだと不思議に思ったが、確か今日は丸戸が出張に行っていて、明日にならないと帰ってこないから一日だけ私が預かっているんだった。
「仕事の邪魔をするなと言っておいたはずだ。遊ぶなら違う場所でやれ」
「……ごはん」
「ちっ、冷蔵庫に色々入っているから好きに食べていいと言っただろうが。気に入らないなら出前を頼め」
すると子供は首を横に振って、許可もなしにおずおずと部屋に入って来る。
勝手に入るなと叱ろうとして、子供が手に持っているものに気付いた。喉まで出かかった言葉が、消える。
「ごはん、作ったから、一緒に食べようよ」
「…………」
「先生、朝からなにも食べてないでしょ?」
皿の上に乗っているのはスクランブルエッグだろうか。それと、歪に切られた人参と、イカ墨でも練られているのかやけに真っ黒なウインナーが添えられている。今は夕飯の時間帯だが、まるで朝食のようなメニューだ。
……これを、こいつが作ったのか。
「えいようをとらないと、頭が動かなくて、ばかになるって言ったの、先生だよ。食べたくなくても、ご飯は絶対に食べろって言った」
「そうだったか」
「一度言ったことは、最後まで責任を持たないと、いけないんだよ」
「そう、だったな」
生意気なガキだ。流石あいつの血を引くだけのことはある。
だが、今の自分に栄養が必要なのは間違っていない。
私は立ち上がり、リビングへ移動して夕食が準備されている席に座った。
奴の子供も、慌てて自分の席へ座る。
「いただきます」
「いただきます」
まずは見た目が無難なスクランブルエッグを口に入れて噛みしめると、すぐにジャリっとした感触が襲い、強烈な塩気が舌を刺激する。かと思えば後からダイレクトな甘みが口内を包み込んだ。なるほど、塩と砂糖を適当に放り込んだようだな。次に炭のようなウインナーを齧れば本当に炭のような味がした。焼けば焼くほど美味しいとか思ってるんじゃないだろうかこいつは。そして固い人参をボリボリと音を立ててひたすら食べる。生だな、これは。しかし調理されていないこれが一番美味いのはどうかと思う。目の前に座っている奴をちらりと窺うと、黙々と食事を口にしているが子供の顔は引き攣っていて、皿の中身は全然減っていない。……ああくそ、仕方がないか。食材を無駄にするわけにはいかないからな。
「量が足らん、お前の分をよこせ。代わりに弁当を注文してやる」
「え、でもこれ美味しくなかったでしょ…」
「ああ不味い。だが、栄養にはなるからな。味はどうでもいい」
栄養どころか毒になりそうな食事だが、腹は膨れるから問題はない。
「……ごめんなさい」
「そう思うなら努力しろ。一度や二度で諦めるような弱者になるな」
「は、はい!」
二人分の食事を腹の中に納め、コップの中の水を全部飲み干す。
塩分と糖分を過剰摂取してしまったが、最近あまり食事を口にしていなかったから丁度いいくらいだろう。
「ごちそうさま」
いつものように食事を締める言葉を紡ぐと、奴の娘はぽかんとして、それから照れくさそうに笑った。
「…………ちっ」
ふん、こいつの笑った顔を見るのは久しぶりだな。母親が死んでからずっと塞ぎこんでいたようだが、そろそろ気持ちの整理がついてきた頃なのだろうか。
それにしても母親に似て間抜けな笑顔だ。あいつも、私がごちそうさまと言うと、気持ち悪い顔でへらへらと笑っていた。
ああ、そうだったな。
あいつはいつも、ちょっとしたことで、馬鹿みたいに笑っていた。
些細なことで、嬉しそうに笑っていた。
楽しそうな笑顔を、私と娘に向けて。
たまに、慈しむように、静かな微笑みを浮かべて。
「先生?」
心配そうに私を窺う子供の背後に、笑っている女の幻影を見た。
「っ」
心臓を捻られたような、鋭い痛みが胸を抉ってくる。
生まれた時から知っている呼吸の仕方を、一瞬忘れてしまった。
「くそっ」
片手で顔を覆う。
崩れそうになる表情筋を押さえ、余計な思考を停止させた。
『光葉』
声が聞こえた、気がした。
もう誰も、呼んでくれない名を。もう二度と聞けない声で。
「まっ――――」
『貴女が良ければ、紫乃ちゃんのこと頼んでもいいかな』
「…………」
そういえばそんなことを、言っていたな。
遺されたビデオレターであいつが言っていた事を思い出す。もう少しまともな映像を遺しておけと思ったが、きっとどんな内容でも子供にとっては一生の宝になるだろう。
しかしビデオレターが保存されていたDVDに子供の極秘事項を隠してあるとは思わなかった。
パスワードを入力して表示されたのは子供の父親の名前だけだったが、それだけで事の重大さが伝わる。
倉坂本家の血を受け継ぐあの子供は、使いようによっては私に利益をもたらしてくれるはずだ。
それを承知で、あいつは私に子供を託したのだろうか。
不安そうに私を見ている奴の娘は、きっと何も知らない。
鹿島も倉坂のことも知らない、ただの子供だ。
「ん? おい、その手はどうした」
「…………」
子供の手に、絆創膏が貼られている。
朝にこいつを見た時は、傷一つない綺麗な手をしていたはずだ。
「料理をした時だな」
気まずそうにこくりと頷く。
歪に切られた人参を思い出して、溜息を吐いた。こいつ、母親に料理を習っていなかったのか。
まったく、やったこともないくせに料理をするとは無謀な奴だな。あの出来も納得がいくというものだ。
料理ができなくても生きていけるが、一人で生きていくのなら後々不都合もあるだろう。
だから、仕方がない。こいつが自立するまでの間、あいつの我儘に振り回されてやる。
「……仕事が落ち着いたら、お前に難しい問題を出す」
「難しい問題?」
「ああ。二つしかない選択問題だが、とても難しいやつだ」
私と一緒に暮らすか、それともそのまま丸戸と一緒に暮らすか。その答えを出してもらう。
最後に選ぶのはこの子供だ。自分の人生は、自分で決めていかなくてはならない。
たとえどちらを選んでも、大人になるまではバックアップをしてやるつもりだ。託されたのなら、最後まで面倒を見る。もし私と共に暮らすことを選んだのなら、立派な人間に育て上げ、将来的に私の下でこき使ってやるからな。植田麻衣は私に託したことをあの世で後悔するがいい。
ちなみに祖父母の元へやる選択肢は用意していない。あの金の亡者どもに渡すのは後味が悪いからな。
「ちっ。まだまだこれから、忙しくなるのか」
「……えっと、だいじょうぶ?」
「はっ、ガキが心配するようなことじゃない。心配するなら自分の事だけにしろ」
頭の上に手を置いて、髪をくしゃくしゃにしてやった。
子供は嫌がって私から逃げたので、歯を磨いて早く寝ろと後姿に声をかけてから自室に戻る。
やることは沢山残っているのだ。それに根っからの仕事人間である私は仕事をしている方が楽だった。
それからの日々は今までにないほど多忙だった。
会社を維持するための業務をこなし、鹿島に打撃を与える為の準備を着々と整えていく。
全てが順調だった。きっと上手くいくという確信があった。出来上がった準備も、完璧だったはずだ。
なのに。
一瞬で、全てが台無しになった。
「…ガ、うッ……あ…」
仕事も落ち着いて鹿島を追い詰める準備も整ったから、奴の娘にあの問題を出して、答えを聞こうと思ったその日。
遊園地に連れていくその途中でコンビニに寄った際、仕事の電話がかかって来たから先に車に戻って、車内に乗せていた書類を確認しながら通話していると、大きな音と共に何かが降って来て車ごと潰されたのだ。
意識があるのは良かったのか悪かったのか、全身が酷い痛みに苛まれ、気が狂いそうになる。
とにかく比較的に軽傷だった腕を使い、割れた窓から這い出た。両足が潰れているようで、歩くことはおろか立っていることも厳しい。大きい音を聞いて駆けつけた野次馬が、血まみれでうつ伏せ状態の私を見て驚愕の声を上げる。ああ、くそ、やかましい。黙っていろ。
こんなとこで、私は寝ている場合じゃない。あの子は、今、一人なんだから、はやく、行かないと。
きっとこれは鹿島の仕業だ。私の企みに気付いた奴らが強硬手段にでたのだろう。あの子を巻き込まずに済んだのは不幸中の幸いだが、奴らがあの子に何かしていないか、それだけが心配だった。
腕を引き摺るように動かして、前へ進む。匍匐前進の要領で、じわじわとナメクジのように動く。
動くたびに、身体が軋み、意識が飛びそうになる。口から血を吐き出して、激しく咳き込む。不味いな、目が霞んできた。
ふざけるな、まだ、死ねないんだよ私は。
私はまだあの子に、何もしてあげていない。
何も残せていない。
「し、の」
そうだ、私はまだあの子の名前すら呼んだことがない。
「紫乃」
ああ、くそっ、なんで、どうして。
いつも気付いた時に、終わってしまうんだろうな。
(悔しいなぁ)
報いだろうか。たくさんの人々を虐げてきた、罰なんだろうか。
私なんかに幸せになる権利はないという事だろうか。
……まあ、そうだろうな。それは納得できる。
けど、このタイミングはあんまりじゃないのか。
あの子に最期の言葉を伝えるくらい、いいじゃないか。それすらも、許されないのか。なあ、神様。
はは、この分だと、あの世でもあいつに会わせて貰えないかもしれないな。
そう、あの我儘で喧しいあいつに私は…………ん?
あいつ?
あいつって、誰だ?
何で、あれ、私、どうして父親に逆らおうとしたんだっけ?
なんでここまで必死に、生きようとしているんだっけ?
大事なものを、守る為、だろうか。私の大事なものは決まってる、会社、だろう。
「う、ぐっ」
頭が酷く痛んで、視界が真っ白になる。
意識を保っていた“芯”が折れて、私はぷつりと意識を失った。
*
「かはっ…!?」
激しい痛みを感じて、私の意識は強引に夢から現実へと引き戻された。
なにか……夢のような夢を、見ていた気がする。現実ではありえない、虫唾が走るくらい生温い夢。
普通の人は現実で簡単に手に入るものだけれど、私はどんなに頑張っても触れることすら出来ないもの。だから、夢。
そんなもの欲しいと思ったことはない。むしろ邪魔だと思っていた。
おかしいな。じゃあどうして夢に見たのだろう。
(……ッ!)
今まで経験したことのない、考え事を許さないほどの鋭い痛み。
あまりの激痛に耐えかねて痛むところを押さえようとしたが、痛むところが多すぎて手が足りない。
その手さえも痛みで動かすことが出来なかった。
せめて自分の状態を確認しようとしたが、身体のどの部分も動かせない。肝心の目さえ、曇った眼鏡をかけたようにぼやけている。
口は動くものの、荒い呼吸を繰り返しているせいで言葉を発することが出来ない。
まともに機能している耳はさっきから酷い雑音ばかりを拾う。嗅ぎたくもないのに、むせ返るような強い血の匂いが鼻をつく。
なるほど、状況は最悪で八方ふさがりのようだ。ここまで酷いと自分の力で対処できそうもない。
……漠然と、もう自分は駄目なんだろうなと悟った。
(なんで、こんなことになった)
出血が酷いのか、どんどん意識が霞んでいく。
混濁している頭で考えても、意識を失う前のことを何も思い出せなかった。
怪我のショックで、軽い記憶障害が起こっているのだろう。しばらくすれば戻る可能性もあるだろうが、身体が持ちそうもない。
……どうせ、ろくでもない理由なんだろう。まともな死に方は出来ないだろう常々考えていたし、長生きできるとも思っていなかった。
死ぬことに未練などない。私の人生には大切なものなど存在しなかったのだから、生に執着する意味もない。
私の死を悲しむ人間も、もちろんいない。ああ、でも表面だけでも悲しんでくれるだろうな。
体裁だけはちゃんと繕う、そんな人間ばかりだったから。
今更思い返すことも何もなかった。このまま終焉を迎えることも怖くはない。むしろ、煩瑣な人生から開放されることに安堵すら覚える。
死が刻々と迫っているというのに、冷静でいられる自分が可笑しかった。
これまで沢山のものを築いてきたけれど、私が生きてきた数十年はひたすら空虚なものだった。
教えてもらった“正しい道”を歩んできたはずなのに、どうしてだろう。
(もう、どうでもいい)
もうすぐ私は息絶えるのだから。
何もかも、どうでもいいじゃないか。
(………終わり、か)
段々と体温が下がっていくのを自覚する。
消えていく。痛みも、意識も、記憶も、自分に関わるすべてのものが。
死ぬということは、案外あっけないものだと、ぼんやり思う。
それは私が無意味な人生を歩んできたせいなのかもしれないけれど。
(私の人生は……無駄なものだった)
私なんて
(何のために、今まで生きていたんだろう)
生まれてこなければ、良かったのだ
………
……
…
(……?)
私の身体に、何かが触れている。
感覚はもうすでに失われたと思っていたのに、何かが私の身体をさわっている感触があった。ほんのりと温かさまで感じる。
その感触が気になって、この世から落ちていこうとしていた意識がゆっくりと浮上する。
いったい、誰が触っているのだろう。救命士か、医者か、それともただの民間人か。
そんなのもう誰でもいい。いい加減、眠らせて欲しい。わたしは早く眠りたいのだ。
「――――――ッ!!!」
耳に届く、一際高い音。
どうやら私に触れている人が何か言っているようだが、雑音が酷くて上手く聞き取ることができない。
けど、その声が必死なもので、切実な叫びだというのはおぼろげに理解できた。泣き声のようにも聞こえる。
それに、よく解らないけど……止まりかけの心臓がその声に反応して僅かながら震えるのだ。
(うるさい)
最期くらい静かにしてほしい。
周囲の雑音はあまり気にならなかったのに、私に触れている主の声はやたら響く。
その声に不快感と、あと、なんだろう……不可解な感情が、止まりかけの心臓を動かしている気がした。
私の為に泣いてくれるような知り合いなどいなかったはずだ。
どこぞの知らぬ他人様が、憐れな状態の私に同情して泣いてくれているのだとしたらそれは………最高に滑稽だと思った。
(もういい)
いいから早く、泣き止め。うるさい。私は簡単に泣く人間が嫌いだ。甘える人間が嫌いだ。
くだらないことで涙をこぼす人間が、死ぬほど大嫌いだ。
「…っ……げほ、…あっ」
一向に泣き止まないことに酷く腹が立った。
私は一言文句を言う為に最期の力を振り絞り、荒い息を吐き続ける口を自分の思うように動かした。
最期の言葉が文句になろうとは思いもよらなかったが、私は傍にいる人物に向けて、最期の言葉を紡ぐ。
自分の中に存在する、ありったけの、感情を込めて。
すぐ近くで泣いている、この子に向けて。
「誰よりも、幸せになれ」
紡いだ言葉は、文句ではなかった。私らしくない……私には無縁の言葉だった。
でも口を開いた瞬間、用意していた言葉を押しのけて、一瞬の躊躇いもなく口にしていたのだ。
上手く伝わっただろうか。
自分の声さえよく聞こえないので、伝わったのかどうかわからない。
でも、最期に言えただけで、経験したことのない満足感を味わうことが出来た。
どうして今、自分はこんなにも満たされているのか……それは死後の世界でゆっくり考えるとしよう。多分、行き先は地獄だろうが。
気が晴れたのか、鼓動が次第に小さく、遅くなっていく。今度こそ、この世とお別れらしい。
もう何も見えない。雑音も、あのうるさい泣き声も聞こえない。
(これでいい)
ああ、私が消える。
(もう、泣くな)
全て、消える。
(笑っていろ)
思い残すことも、後悔も、未練もないけれど。
ただひとつ、消えないで欲しいものがあった。
(お前は)
それは最期に遺した言葉。
(誰よりも、幸せに生きろ)
―――― 私が最期に、初めて願ったこと