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WP&HL短編集+スピンオフ  作者: ころ太
WPスピンオフ
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WPspinoff21 終わりとはじまり




数日後、鹿島グループの不正がメディアを通して世間に公表された。

脱税、贈収賄、粉飾決算などの疑惑が大きく報じられたものの、グループの上層部は不正問題への関与を否定。

緊急記者会見を開き、全ては部下の勝手な判断であるとして各々の責任から逃れようとしている。

企業イメージに打撃を与えることはできたけれど、このままでは蜥蜴の尻尾切りによって不正問題は有耶無耶のまま終わってしまう。衰退しつつあるとはいえ大企業が相手だからか各メディアも踏み込んだ報道が出来ないようだ。今は騒がれていてもすぐに世間は不正問題など忘れ、やがて元通りになるだろう。

鹿島を潰すと言っていた彼女にこれでいいのかと問えば、これでいいのだと暢気な返事を返された。

確かに今の状況は聞かされていた計画通りなのだ。彼女の読み通り、鹿島は強気の姿勢を崩すことはなかった。

しかしどれだけ相手が抵抗しても、すでに追い詰める為の準備は整っている。

難しいことは解らないけれど、じわりじわりと少しづつ、けれど確実に、一つの企業の崩壊は始まっていた。


その引き金を引いたのは、高校生の女の子。

問題児の彼女は学校だけでは飽き足らず、社会にまで範囲を広げ騒動を巻き起こしてしまった。

もはや子供だからという免罪符は通用しないところまで来ている。引き返すことも、止まることもできない。

それが可能だとしても、彼女はきっとどちらの選択肢も選ぶことはしないだろう。

不安の欠片もない自信満々の表情をしていた椎葉さんを思い出して、頬が自然と緩んでしまった。

緊張で固くなっていた身体から余計な力が抜けていく。その代わりに、なけなしの勇気を束ねて気持ちを引き締めた。


「私も頑張らなきゃ」


大きく息を吸い、深呼吸をひとつ。

これから話し合わなければならない相手は一筋縄ではいかない。少しの油断が身の破滅を招いてしまう。

肩の力は抜いたほうが良いけれど、ある程度の緊張感は必要だと椎葉さんは何度も言っていた。

しかし、解っていても気分を制御するのは難しい。さらにひとつ息を吸い、深く息を吐いておく。


約束の時間まで、もうすぐだ。


穏やかな風に揺らされる木々の優しい音を聞きながら、目の前に佇む立派な屋敷を見上げる。

もう何年も無人となっている年季の入った建物は、一般の家屋に比べ数倍大きく荘厳な雰囲気を醸し出していた。

そして家だけでなく庭も広い。今は水が抜かれているが大きな池があって、頑丈な橋まで架かっている。

隅にある花壇や植木鉢には雑草しか生えていないけれど、昔はきっと綺麗な花を植えてあったのだろう。

庭も家屋も業者によって丁寧に管理されているみたいだが、それは最低限でしかない。

なんとなく物寂しい気分を感じながら周囲を観察していると、一際目立つ大木を見つけた。

大人二人がちょうど隠れるくらいの大きな幹と、眩しい太陽を遮るように広げられた無数の葉。

周りに生えているものと同じごく普通の木だけれど、大きさだけは他と比べ物にならない。

高さを確認しようとして見上げる前に、草を踏みしめる音に気付いた。

警戒心を飲み込み、意を決して後ろを振り返る。


「やあ。待たせてしまったかな」

「いえ……今来たところです」

「ははは、それは良かった。女性を待たせるような男にはなりたくないからね」


紳士的な振舞いを見せ、爽やかな笑みを浮かべたスーツ姿の男性が傍にやって来た。

彼の名は鹿島雅之。鹿島グループ現社長の長男であり、私の婚約者だ。

私と歳が十以上も離れているけれど、重ねた年月は端正な顔立ちに深みを加え、異性に好印象を与える容姿をしている。これで大企業の跡取り息子だというのだから、周りの女性たちは放っておかないだろう。


「お忙しい時にお呼び立てして申し訳ございません」

「ああ、気にしなくていいよ。会社の不正問題のことならもう既に手は打ってあるんだ。あの程度のことで鹿島が追い詰められたりはしない。しばらくは周囲が騒がしいだろうが、すぐに元に戻るさ。なにより、君は俺の婚約者なんだから、君を優先するのは当然のことだろう」


甘い笑顔を張り付けて、彼は私を婚約者と呼ぶ。

その呼び方に実感が沸かないのは彼のことを好きになれなかったからか、彼の言葉が中身のないただの飾りだからなのか。

真実はきっとどちらでもいいのだ。答えは、私の中にある。なにがあろうと揺るがない想いがある。

だから、終わらせよう。新しい道を歩むために、いま目の前にある壁を体当たりで壊してしまおう。


声が震えないように気をつけながら、ゆっくりと始まりの言葉を告げる。


「実は今日、鹿島さんにお伝えしたいことがあるんです」

「うん? ああ、そういえばこれからの事を何も決めていなかったね。愛しい婚約者の要望だったら、出来る範囲で叶えてあげよう」


それでは、そのお優しいお言葉に全力で甘えさせていただきます。


「婚約を解消してください」

「……………………は?」


にこにこと微笑んでいた彼の表情が一瞬で驚愕のものになる。

目を大きく見開き、視線で穴が開いてしまうのではないかと思ってしまうほど凝視された。

けれどすぐに彼はまたにっこりと薄ら寒い笑みを作る。


「もしかして今問題になってる不祥事が原因かな? さっきも言ったけど大丈夫だよ、あの程度じゃうちの会社は潰れない。不安なのもわかるが、俺を信じてくれないか」

「違います。他に好きな人がいるので、婚約を解消させていただきたいんです。身勝手な理由で、ごめんなさい」


一度は承諾したのに今さら反故にするのだから、正直に告げる。

相手に様々な思惑があったとはいえ、私も幸せになる為に彼を利用しようとしたのだからこちらにも非はある。

怒鳴られても仕方がないと覚悟していたけれど、意外にも鹿島さんは冷静だった。

ただ笑顔は剥がれ落ち、表情が消えてしまっている。


「ああ、これは酷いな。悲しいよ。考え直す気はないのかい?」

「はい。私はもう自分の気持ちに嘘を吐きたくないので、貴方とは結婚できません」

「俺には膨大な富も権力もある。そこら辺の女性より幸せな人生を歩めるんだよ?」

「お金も権力も要りません。ただ、好きな人の傍にいたいんです」

「…………そうか」


鹿島さんは面倒臭そうに溜息を吐く。


「困った人だ。誠実そうな女性に見えたんだがね」

「申し訳ございません」

「まあいいさ。素直に従ってくれるものが理想だが、多少扱いが難しくてもどうにでもなる。俺は優しい男だから穏便に済ませてあげようと気を配っていたというのに、俺の愛が伝わらなかった事はとても残念だよ。無駄な労力だった」

「……え?」

「ははは、悪いね婚約者殿。俺は一途でね、諦めが悪いんだ」


にやりと口の端を歪めて、愉しそうに彼は嗤った。

初めて見る笑い方に酷い悪寒を感じて、背筋に冷たいものが走る。

きっとあれが作り物の裏に隠された、彼の本物の笑顔なのだろう。


「婚約は解消しない。これはもう決定事項で覆ることはないから早々に諦めろ。キミの気持ちなど初めから関係ない。キミは俺と結婚して大人しくしていればそれでいいんだ。求めているのはそれだけだから、簡単な事だろう?」

「私は、貴方とは、結婚できません」

「強情で無知な女だな。失望したよ、植田紫乃。しかし『鹿島』から逃げられると本気で思っているとはな、 ははははは!」

「っ!」


彼の瞳に宿る狂気に気圧される。この人は普通じゃない。どこかが、何かが、酷く歪んでいるのだ。

得体のしれない恐怖で足が震えて動かない。それなのに、逃げ出したい気持ちが溢れて止まらない。

どうしようもなくて、ただその場に立っていることしか出来なかった。


「それより、どうして俺を“この場所”に呼び出したのか聞いてもいいかな」


彼は警戒するように周囲を見渡す。あるのは立派な屋敷と庭と、それら全てを覆うような雑木林。

ここは社会的地位を古くから維持してきた由緒ある『倉坂』の家だ。

事件が起こってからは誰も住んでおらず売物件になっていたが、椎葉さんが購入したので今は彼女の持ち家になっている。名義はお父さんと言っていたけれど、将来彼女はここに住むつもりなのだろうか。


「この家は以前、倉坂の本家の方々が住んでいた場所です。私がここにいる意味を、貴方なら察することができるでしょう」


この場所を指定したのは挑発の意図があってのことだと椎葉さんは言っていた。

だから彼女に言われた通りの言葉を彼に告げた。


「なるほど、知られてしまったわけか。一体どこで漏れたのやら。これだから情報化社会は恐ろしい」


恐ろしいと言いつつ、くっくっくと愉しそうに笑っている。

本質を曝け出して開き直ったのか、秘密を隠そうという気がないようだ。


「私を利用して、倉坂を自分の物にしようとしているんですね」

「ああそうさ。話が早くて助かるよ“倉坂紫乃”」

「私は植田です。その血が流れていても、倉坂の人間ではありません」


私の身体には由緒正しき旧家『倉坂』本家の血が流れている。

計画の段取りを伝えられたその日、椎葉さんは私に関する隠された真実を教えてくれた。

それは私の両親のこと。母の名前は植田麻衣、そして父の名前は倉坂康介。

愛人の子で認知もされていないので、厳密に言えば倉坂の人間ではない。


「古い思考を持つ倉坂の奴らは血族を重視する。特に本家の血だ。無知で愚鈍な小娘だとしても、愛人の子だとしても、血を引いていればトップになれる。だから俺は倉坂の血族と結婚し、倉坂の全てを手に入れる」


酔ったように野望を口にして、何が可笑しいのかケタケタと笑っている。


「本妻の子である倉坂陽織には断られたが、取れるものは取り尽したしもう用はない。それにあいつは人殺しの娘だからな。倉坂の分家の奴らも血族とはいえ渋るかもしれん。だから多少の格が落ちるとしても、愛人の子である君の方が奴らも喜ぶだろうよ」


ねっとりとした醜悪な喋り方に吐き気がする。彼の剥き出しの欲望に当てられて、気持ちが悪くなってきた。

早く立ち去りたい。でもまだ何も終わっていない。自分で決めたことだから自分で終わらせたいと言ったのは私なのだ。反対する椎葉さんに無理を言って私一人で彼と対峙することを選んだのだから、簡単に諦めるわけにはいかない。引き返すことも、止まることもできないのは椎葉さんだけではなく、私も一緒だ。だから一緒に、頑張る。まだやれる。大丈夫だから、見ていてね。


「……貴方の思い通りにはさせません。貴方とは絶対に結婚しません」

「ははは、嫌われたなぁ。文句も嫌味も好きなだけ言ってくれて構わない。旧家の血を引いているだけの一般人の女にどうにかできるとは思えないが、せいぜい足掻いてみればいいさ」

「わかりました。では遠慮なく告発させていただきます」

「…………なに?」

「こちらをどうぞ。告発する際に提出する予定の資料になっています」


鞄から取り出したファイルを手渡すと、彼は訝しみながらも開いて中身を見始めた。

一枚一枚確認していくにつれ、彼の表情は青褪めていく。ファイルを持つ手はぷるぷると小刻みに震えていた。


「これ…は……っ!!」

「鹿島グループが過去に犯した恐喝暴行・贈収賄・脱税等に関する証拠です」


椎葉さんによると『言い逃れが出来ない言わせない証拠集・完全版』らしい。

なので世間に公表したのは抜け道のある不完全版ということになる。

私は見なくていいと言われたので、どんな事が書かれているのかは知らない。


「なんで、お前がこんなものを持っている!!!!」


先程までの余裕は消え失せ、醜く表情が歪む。

証拠のファイルを力任せに破り投げ捨てられてしまったが、当然それは複製した物なので破られても問題ない。


「私だけでは何もできません。だから、協力してくれた人たちがいます」

「こ、こんな証拠で俺を追い詰めたと思っているのか!? 俺は鹿島グループの後継者だぞ! こんなものすぐに握りつぶして、お前に協力した屑どもを始末してやる!!」

「諦めてください。もう、鹿島さん達にできることはありません」

「はははははは!! 何を言ってるんだ! 大企業である鹿島の力を見くびるなよ!? 今までどんな不正も犯罪も潰してきたんだ。うちはメディアや警察、政界にだって通じている。完璧な証拠を揃えてこようが無駄だ!!」

「そうですか。できれば自首して欲しかったです。貴方は、あの人の家族だから」


鹿島雅之さんは悪いことを沢山してきたのかもしれない。

それでも自然と自首を促す言葉が出てきたのは、彼が先生の弟さんだからだ。

自分の意志で罪を償って欲しかったけれど、これ以上説得しても聞き入れてはくれないだろう。

伝えるべき意志はどうにか伝えることができた。だから後は、彼女の番だ。


「今日はお忙しいところ来てくださって有難うございました。しばらくはお会いすることもないでしょう」


もう彼と話すことはない。話しても、諦めてくれないのだから仕方がない。

彼の視界から消えようとして足をほんの少し動かした瞬間、両肩を掴まれ後ろの大木に押し付けられた。

痛みに耐えきれず小さな悲鳴が漏れる。


「っ!!」

「よくも俺を散々貶してくれたなクソ女。予定変更だ……今すぐにでも結婚してもらう」


目の前の男は歪んだ眼を細め、ニタリと厭らしく笑った。

拘束から逃れようと試みたけれど、強い力で押さえられて身動きが取れない。

……恐い。とても怖い。恐怖で身体が震えている。

彼は平気で人を傷つけることが出来る人なのだ。怯えるなと言われても無理だろう。

けれど私は挫けない。視線を絶対に逸らさない。弱音を口にしたりするものか。


「ごめんなさい。私、好きな人がいるんです。貴方とは結婚できません」

「お前の意見など聞いていない!! 黙っていろ!! お前は俺の人形なんだよ!!!!」


さらに力が加わり、肩に激痛が走る。痛みに顔を歪めた私を見て、彼は満足そうに嗤った。


「ったく、手間をかけさせるな。お前は黙って俺の言うことを聞いていればいいんだ。くくく、何もしなくていい生活を送れるなんて、幸せだよなぁ?」


そう言って男は私の衣服に手を伸ばした。これから行われることは容易に想像できる。

拘束は緩まず、脱出は不可能。自分ではどうにもできないので、絶体絶命の危機という状況だ。

なのにどうしてだろう。私は自分でも驚くほど落ち着いている。恐れも震えもなくて、ほんの少し笑う余裕すらある。

彼は私が怯えて取り乱すことを期待していたようで、つまらなそうな顔をしていた。


「ちっ、馬鹿にしやがって。まあいい、これからじっくりと啼かせてやる。その強がりも、いつまでもつやら」


顔を近づけられ、シャツの第一ボタンを外される。

気持ち悪くて凄く嫌だけど、包み込むような安心感は消えない。

なぜならば、私は知っているから。




「その人に、汚れた手で触るな屑男」




私がピンチの時にはいつも、彼女が来てくれていたことを。



「なっ!? 誰だ! 何処だ!?」


どこからか聞こえてきた声に、鹿島さんは慌てて周りを探る。

しかしどこにも人らしき姿は見当たらない。どこかの木の後ろにでも隠れているのだろう。

注意深く声の主を探していると、ガサガサと音がして、たくさんの木の葉が降ってきた。


「とう!」

「なんっ、う、うわあああああっ!!」

「へ!? きゃあっ」


大木から降ってきた小柄な少女は、ドスンと重い音を立てて私の傍に着地し、体操選手のようなポーズを決める。

それからすかさず私と鹿島さんの間に入り込み、にっこりと普段と変わらぬ笑顔を浮かべた。


「な、なんだおまえは!?」

「どうも初めまして椎葉光希です! よろしくお願いします! 死ね!」

「はあっ!? 何を言って――――ぐふぉ!?」


挨拶が済んだ途端、彼女は握りしめた拳を鹿島さんのお腹に打ち込んだ。

私も鹿島さんも状況を把握できていないのに、椎葉さんは休む間もなく今度は片頬を目がけて素早い一発を放つ。

殴られた衝撃で彼は後ろへと吹き飛び、情けなく尻もちをついた。打たれた部分が痛むのか、手で押さえながら苦悶の表情を浮かべ、辛そうに呻いている。


「ちっ、やっぱり体格差のせいで威力が出ないか。吹っ飛ばすのに2発もいるなんて」

「し、椎葉さん!? 暴力は駄目って言ったでしょう!?」

「いやいや、これは正当防衛だよ。悪漢から先生を守るためには実力行使するしかなかった」

「う……そう、だよね。ありがとう、助けてくれて」


椎葉さんは何も言わず、私のシャツの一番上のボタンを留めてくれた。乱れた上着も綺麗に整えてくれる。

彼女の優しさが嬉しくて、なんだか恥ずかしくて、こんな状況だけど照れてしまう。


「助けに入るのが遅くてごめん。嫌な思いさせた」

「ううん、平気だよ。私が叫ばなかったのが悪いんだし、椎葉さんはちゃんと助けてくれたもの。それに、私が自分でやれるギリギリのところまで、黙って見ていてくれたんでしょう?」


彼女が近くで見守ってくれていたことは、実は初めから知っていた。というか私と鹿島さんが一対一で話し合いをする事を許可する絶対条件だった。口は出さないけれど、危なくなったら飛び出す為に傍にいる。そう言っていたけど、まさか木の上で待機しているとは思わなかった。


「もっと早い段階で飛び出すつもりだったんだけどね。タイミングを計ってたらいつの間にか襲われ始めてるし気持ち悪い手つきでベッタベタと触ってるしシャツのボタンとか外しやがってくそあのやろうまじ許さんあともう20発追加で殴ろう」

「おっ、落ち着いて! 落ち着こう椎葉さん!」


怒気を滾らせながら鹿島さんの方へ行こうとする彼女の腕をつかんで、暴走を阻止しようと試みる。

けれど椎葉さんは力が強いので逆に引っ張られてしまった。お願いだから止まってと必死に呼びかけると、渋々ながらもようやく止まってくれたのでホッとする。でも、いつも冷静な彼女にしては珍しい。

やはり彼女も、彼と対面して緊張しているのだろうか。


「く、くそっ、このクソガキがっ!! 俺にこんなことをして、ただで済むと思っているのか!!」


鹿島さんは痛む身体を庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。

鬼の形相で椎葉さんの方を睨んでいるけれど、彼女は冷めた目で相手を見ている。


「さあどうだろうね。どうにかできるんならやってみなよ。せいぜい足掻け、屑男」

「くっ、くははははは!!!! 優位に立ったつもりか!! 所詮はクソガキだなぁ、考えが甘すぎる! 不正問題が公になって周囲が騒がしい今、後継者の俺が護衛をつけずに出歩くと思ってるのか!? それも倉坂の土地に! のこのこ一人でくるわけがないだろう!」


携帯を取り出して一つボタンを押し、彼は大声で叫ぶ。


「泣いて詫びても許すものか! さあ、さっさと出てこいお前ら!! アイツらを始末しろ!」


ど、どうしよう、いくら椎葉さんでもプロの護衛相手じゃ敵わないはず。

今から助けを呼んでも間に合わないだろうし、一体どうしたら……。

良い解決策がないか聞こうとして椎葉さんを見ると、彼女は高笑いをしている男の顔を眺めていて呆れていた。

話しかけようとすると、椎葉さんは首を横に振り小さな声で「今度は私の番」と呟く。

――うん。そうだね、交代だよね。なら、今度は私が貴女を見守る番だ。貴女を信じて、最後まで見届ける。


「やっぱり自分でどうにかしようって考えはないか。さすが鹿島の後継者だ。予想通りの行動で助かるよ」

「……? どういうことだ? どうして誰も来ない!? おいっ! なぜ応答しない! くそっ!」


護衛らしき人の姿はどこにもない。いくら待っても、何も来ない。

必死に携帯に向かって呼びかけているようだけど、応答がないみたいだ。


「ふははは阿呆め。護衛が潜んでいることくらい最初からお見通しだ! まったく、若くてピチピチの女性二人が凶暴で凶悪な男に会いに行くのに護衛を付けず来ると思ってるのかねぇ? あ、お前の護衛なら協力者にお借りしたうちのスペシャルなボディーガードが締めたよ。貴方の護衛4人全員、お預かりしておりまーす」

「はあ!?」


椎葉さんは表情を引き締め、目を細める。


「何をしても無駄だ。お前の……鹿島のやり方は誰よりも熟知している。いい加減諦めろ。終わりなんだよ、もう」

「ふ、ふざけるな!! 鹿島のことを熟知しているだと!? なんなんだ、お前は! 一体何者なんだ!!」

「…言っても理解できないだろうなぁ。私が正直に話してもお前は聞いた事実を拒絶するよ。自分の結論が第一で、それ以外は認めない。わかるんだよ、私と雅之は同じように育てられたんだから。お前を見てると昔の自分を見ているようで、結構しんどいよ」

「……は、なんだコイツ。頭、狂ってんのか? 意味の解らないことばかり言いやがって。お前は何者かと俺は聞いているんだ」

「私が誰かなんて重要な事じゃない。お前にとって私は“敵”だよ。利益を奪い合う者同士で、どちらかが勝ち、もう一方は負ける。鹿島雅之にとって、椎葉光希は敵だ。理解するのは、それだけでいい」

「し…先生……」


自分は姉だと明かさなくていいの? 弟さんに言いたいことは、本当にないの?

本当のことを一つも話さないで、最初から全てを諦めてしまっていいの?


「くく、そうだなぁ!! お前は敵だ! 俺をコケにして、好き勝手殴ってくれやがったクソガキだ!!」

「はいはい、子供相手に躍起になって大人げないね。感情に振り回されるなと父から何度も教えられたはずなのに、まったく成長していないとは」

「なっ、ば、馬鹿にしやがってぇえええ!!!!」


激昂した鹿島さんが飛び出し、椎葉さんに向かって拳を振り上げる。

しかし振り下ろされた攻撃を彼女はひらりと躱し、足を相手の足に引っ掛けて軽く払うと鹿島さんは勢いよく転んでしまった。


「受け身もとれないとは情けない。ああ、武道は苦手だったか」

「またやりやがったなぁ!」

「いや先に向かってきたのはお前だろうに」

「黙れぇ!」


また突撃してくる彼を彼女は容易に受け流して地に叩きつける。

体格に差があるのに、一方的に痛めつけているのは小柄な少女の方だった。


「ぜぇ、っぜぇ、く、くそっ!」

「あれもう終わり? 小さな女の子に負けて今どんな気持ちなのかな? 恥ずかしくないのかな?」

「ああああああ!?」


椎葉さんが煽ると、鹿島さんは簡単に激怒する。そしてまた突撃して投げられる。

取っ組み合っているのは大人と子供なのに、なんだか子供同士の喧嘩みたいだと思った。

私はずっと一人っ子として育てられたから分からないけど、もしかしたら姉弟喧嘩ってこんな感じなのかな。


「はっ、は……ち、ちくしょうが…っ」


何度も繰り返しているとついに彼の体力が尽きたのか、仰向けのまま草の上から起き上がれなくなっていた。

整った顔や真新しいスーツは薄汚れてボロボロになっており、酷い有り様だ。

寝ころんだまま荒い息を吐きだしている男の元に、少女は立つ。


「雅之。鹿島はもう終わる。いや、新しく生まれ変わると言った方がいいか」

「…………」

「膿を出した後、鹿島はルヴァティーユの一部になる。そこからまた、始まるんだよ」

「……はは、ルヴァティーユだと? そいつは面白い冗談だ」


心底可笑しくて堪らないとでも言うように嘲弄する。


「とんだ茶番だよ。道理でお前たちが強気なわけだ。そりゃ世界の大企業様が後ろ盾なら、鹿島を好き勝手できるさ。ははは、なんだよ。俺はまたガキに計画を邪魔されたっていうのか。せっかく倉坂を自分の物のできるところまで時間をかけて準備してきたってのに、もうお終いかよ。ふざけんな、くそがぁ!!」


握りしめた拳を地面に叩きつけ、顔に憎悪を滲ませる。

体力が残っていたのなら、また立ち向かってきていたかもしれない。


「後悔しろ雅之。自分のやって来た事を顧みて償え。これは今まで人々を陥れてきた罰だ」

「はっ、何を言っている。俺は絶対に後悔しないぞ。自分がやってきたは全て正しいんだ。何も間違っちゃいない!」


何を言っても、何をしても。彼は頑なに自分の考えを曲げようとしない。


「……ああ、子供の頃からそう教えられてきたからなぁ。ずっと信じてきた考え方を今さら変えるっていうのは、今まで生きてきた数十年を否定するようなもんだし、簡単にはいかないだろうさ。私だって奇跡みたいな出会いがなければ、変われなかったと思うよ」


椎葉さんは携帯を取り出して、画面を数回タップする。

操作を終えると端末をポケットに仕舞い、疲れたように笑った。


「私は底抜けのお人好しにはなれない。そういう人に憧れはするけど、なりたいとは思わない。いざって時に、非情な決断を下せないのは困るから」

「………………」



「だからさよならだ、雅之。今まで奪ってきた分、全てを失え」



「……地獄へ落ちろ、クソガキ」


「あはは。……罪を償う機会を得られるお前を、少しだけ羨ましく思うよ」


それ以上二人はひと言も喋らず、私も何も言えず、ただ静かな時間が流れる。


しばらくするとルヴァティーユが派遣してくれた護衛であろう屈強な男性二人がやって来た。

簡単な挨拶とお礼を交わすと、護衛の方は鹿島さんを連れて去っていく。

彼らを見送ると椎葉さんは草むらの上に身体を投げ出して、ごろんと仰向けに寝ころんだ。

大木の近くなので、ちょうど日陰になっていて涼しそうだ。

彼女は先程までの真剣な表情を解いて全身の力を抜き、ふにゃふにゃになっている。


「あー終わった終わったー」

「もう、服が汚れるよ」


そんなことを言いつつ、自分も彼女の傍に腰を下ろす。

椎葉さんは澄んだ青空に視線を向けたまま苦笑した。


「あとはルヴァティーユの人達が上手いことやってくれる。これで先生は自由だよ」

「うん、ありがとう椎葉さん。協力してくれた人達にもお礼をしないとね」


まずは一番頑張った人のことを労わってあげたい。

そっと手を伸ばして柔らかな髪を撫でると、彼女は気持ち良さそうに目を細めて小さく喉を鳴らした。ふふ、猫みたい。

椎葉さんは疲れているのか、いつもより大人しい。やはり緊張していたのだろう。


「弟さんのことは、あれでよかったの?」

「まあね。何も償えなかった私が偉そうに言うのは可笑しいけど。姉として弟に出来ることは、これ以上罪を重ねないように止めることだけだよ。自分の罪を自覚して死ぬほど悔いてくれれば、もっと良かったけどさ。あそこまで歪みまくってたら無理だわ。私の手には負えない」

「……そっか」


彼女が自分で出した結論だから、それでいいのだろう。

だれかにとってそれは間違いだとしても、椎葉さんにとっては正しい答えなのだ。

誰もがその答えを否定しても、私は肯定したい。彼女の味方でありたい。


「私は小さい頃から何でもできた。けどあの子は何もできなかった。初めは頑張っていたんじゃないかな、あいつも。家庭教師に叱咤されて、泣きながら勉強していたあいつを、私は冷めた目で見ていた。鹿島には相応しくない愚弟だと思っていた。けどあいつは長男だから、どんな不出来な奴でも跡取りでさ。どうして私じゃなくてあいつなんだって、憎んでた。大嫌いだったよ。あいつも、何でもできる私のことが大嫌いだったと思う」


先生から弟さんの話を聞いたことは一度もなかった。弟がいたことも知らなかった。

彼女は弟の存在を否定し、自分に弟など最初から居なかったと思うようにしていたという。

険悪とか不仲とかそういう次元ではなく、姉弟の接点すら消えて、もはや『血が繋がっているだけの他人』という認識だったそうだ。


「私は後悔してるのかもしれない。もっと、姉らしいことをしてあげれば良かったと。両親や周りの大人から守ってあげれば、あいつは違う未来を歩いていたかもしれないと。ほんのちょっとだけ、そう思ったんだよ。今更、もうどうにもできないのに。悔いても意味はないのに。私はもう最後の接点すら失って、姉を名乗れないのにね」


力のない声が悲しい。

どうにか励ましたくて、寂しい目をしていた彼女の手に自分の手を重ねる。


「出来なかったことも、やってしまったことも、全てを取り戻すことはできないけど。

 後悔をしても過去は何も変えられないけど。……これから先は変えていけるんだよ」


鹿島雅之さんを止めたのは、椎葉さんだ。彼は野望を阻止した彼女を憎むだろう。

この先、彼はこのまま変わらないかもしれない。自分が犯した過ちを一生理解できないかもしれない。

それでも今回のことは絶好の機会なのだ。彼は全てを失う。失って気付くことだって、ある。


「貴女が一番知っているでしょう? 光葉さん」


全てを失って。たったひとつ『欠けた記憶』だけを抱きしめて生まれてきた貴女は。

今が幸せだと笑って言えるまでの時間を、知っている貴女は。

お人好しになれなくて、それでも非情になりきれない、優しい貴女は。

彼に、知らないことを知る為の時間と機会を与えたのだ。


「さあ、どうだろうね」


素直じゃない彼女は軽く笑って、そ知らぬふりをした。

それから一度目を閉じて、しばらくしてからゆっくりと開く。

その瞳はまた綺麗な青空を映していた。


「ただ何もせず生きるのは簡単だけど、思い通りに生きるのって大変だ」

「そうだね。ほんとうに、難しいよね」


何をやっても後悔は生まれる。だから大きな後悔を生まないように、人は悩んで、選んで、必死に生きる。

自分の望む幸福を目指し、手に入れたらまた再び違う幸福を得るために足掻いて、何度も何度も後悔を繰り返して、かけがえのない人生を作っていく。


「まあ、難しいことばかり考えてても仕方がない。なるようになるさ。とにかく湿っぽい過去のことはこれで終わりにして、今から楽しい未来のことを考えよう」

「楽しい未来?」

「そう。植田先生はめでたく寂しい独り身に戻っ……じゃなくて、自由な身になったわけだ。それに自分の父親のことも知って、会おうと思えば会いに行けるし、近くには義姉だっている。あ、義姪もね。考えることはたくさんあるわけだよ」


あ、そうか。そうだよね。母親は違うけれど父親は同じだから、倉坂陽織さんは私の義理の姉になるんだ。

あんな綺麗な人がお姉さんだなんて恐れ多い……というか私は愛人の子供なので凄く気まずい。

父親に関しては一度もあったことがない人なので、正直今はまだ会いたいという気持ちは持てない。

あと自由になったからって好きな人とつ、付き合えるわけじゃないし。自分で望んでいることだけど、まだ誰かさんに縛られているようなものだ。


「楽しい未来って言ったのになんで暗い顔してるのかな?」

「うう、椎葉さんが悪い」

「なぜに」


もちろん冗談だけど。


「ゆっくりじっくり、考えればいいよ。焦らずたくさん悩んで、自分の答えを出せばいいさ」

「ふふ、椎葉さんも一緒に手伝ってくれると嬉しいな」

「気が向いたらね」

「えー…」

「冗談だよ。色々と迷惑かけてるし、協力してくれたし、なにより先生は私の特別な人だからね」


特別な人という強力な言葉を不意打ちでぶつけられ、顔に熱が集まってきた。たぶん、かお、まっかになってる。

その言葉は私が一番望んでいるものではないと解っているのに、頭が勝手に期待してしまうのだ。

でも特別扱いして貰えて嬉しいのも事実。くやしい。


「さーて、そろそろ帰りますか。山場は越えたけど、後始末が残ってるんだよね。書類整理とか各所に連絡したりとかその他諸々」

「私に手伝えることはある?」

「お気持ちだけ貰っとくよ。まあ、簡単な雑務だからすぐ終わると思うし、平気平気」


椎葉さんはのっそりと起きて立ち上がると、鹿島さんが破り捨てたファイルと書類の破片を掻き集めた。


「コピーとはいえ、徹夜して必死に書類を作ってくれた胸の平な弁護士がこの惨状を見たら怒り狂うだろうなぁ。そして無慈悲な八つ当たりが私ではない誰かへ向かう」

「こ、今度一緒にお菓子持ってお礼に行こうね?」


椎葉さんと一緒に私も資料を回収してファイルに挟みこむ。全て拾い終えたので、後はもう帰るだけだ。

私は自分のアパートに。椎葉さんは結果を報告する為に協力者の所へ。


「それじゃ気をつけて帰ってね。出歩くときはボディーガードが近くにいるから平気だとは思うけど」

「えっ!? ボディーガードの人がいるの!?」

「しばらくの間だけね。鹿島か倉坂の分家が仕掛けてくる可能性もあるから、念の為」

「う、うん。ありがとう」


周りを見渡してもそれらしき人影は見当たらない。けれど、どこかで見守ってくれているのなら安心だ。

見られているのは気になるけど、身の安全には代えられないのでしばらくは我慢しなきゃ。


「じゃあここで」


倉坂の敷地から外に出ると、ここで彼女と別れることになる。残念ながらお互い向かう方向が逆なのだ。

椎葉さんが笑って手を振ってくれたので、私も真似して照れながら小さく手を振った。

駆けていく彼女の背中を見届けてから帰路に着く。

いくら護衛の方がいるとはいえ、不用心な行動は避けた方がいいだろうと思い、寄り道せず人気の多い場所を選んで帰ることにした。

大きな悩みが解決したおかげか気分がすっきりして足取りも軽い。

これからの事を色々と考える必要はあるけれど、それは幸せな悩みだ。

きっと楽しくて、嬉しくて、大変な事もいっぱいあるだろうけど。

自分で選んで決めた道はまだ始まったばかり。


これからの期待と不安を胸に抱いて、私は未来への道をゆっくりと踏締めて歩いた。


 

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