WPspinoff20 希望の光は何度でも
夕日が照らす道を、ひたすら走る。
日頃の運動不足が祟ったのか何度も足が縺れそうになるけれど、その度に叱咤して走り続けた。
息が苦しくても、汗が流れて気持ち悪くても、速度を落とさず進んでいく。
衝動的に飛び出したので肝心の行先を考えていなかったのだが、ひとまず彼女の家を目指すことにした。
あの子が居そうな場所なんて、自宅かお友達の家くらいしか思いつかない。
だから、お願いだからどうか家にいて欲しい。一分でも一秒でも早く会いたいから。
必死に走っている姿を通行人にジロジロと見られても、気にしてなんていられない。
気持ちばかりが先行して、身体が追いついてくれないことが酷くもどかしい。
――彼女の家まであとどれくらいだろうか。
走っている間、ずっと椎葉さんのことを考えていた。
去年の春に初めて出会ったあの日から今日に至るまで、彼女とは沢山の出来事を共有してきたのだから思い返すことは山ほどある。その思い出一つ一つを掘り起こして、確認を終えたら大事に大事に仕舞っていく。
大変だったことや困ったことが多くて苦労した記憶ばかりだったけれど、振り回されてばかりだった日常には、いつでも彼女の楽しそうな笑顔があった。騒ぎを起こしては面白そうに笑って、友達と遊んで盛り上がった時は馬鹿笑いして、いいことがあった時は嬉しそうに笑う。
心の内に鮮明に記憶されている彼女の笑顔を思い出すと、不思議と安堵する。
その理由を今更ながら思い知った。
私は、彼女のいろんな笑顔を見るのが、ずっと好きだったのだ。
「……っはあ、やっと、着い、たっ」
ようやく目的地についたので足を止め、その場に留まる。
早く会いたい気持ちを押さえて、まず先に乱れた呼吸を落ち着かせたほうが良さそうだ。
息が上がったまま会ってもまともに話すことができないし、驚かせてしまうだろう。
それに急いできたから身なりも整えたい。汗をたくさん掻いていたからハンカチで拭おうとして、何も持って来ていないことに気付いて愕然とした。どうしよう。早く会いたい一心で飛び出してきたから、化粧ポーチの入ったバッグを持って来ていない。携帯すら携帯していない。丸戸さんにいつでも連絡が取れるようにしておきなさいとさっき言われたばかりなのに早速言いつけを破ってしまった。いや、それよりもどうしよう。この姿で会うのは少々恥ずかしい。今更アパートまで戻るのは遠慮したいけど、でも走ってきたから髪も乱れてるし汗だくだし出来れば化粧もしたいけどやっぱり早く会いたい……
「あら、先生」
「っひぃ!?」
玄関が開いたと思ったら椎葉さんのお母さんが出てきた。
驚きと乱れた呼吸のせいで変な声が出てしまう。
「ど、どうしました? そんなに息を弾ませて……」
「えっと……その、光希さんに、話がっ、あって」
ぜいぜいと息が邪魔して、普段通りに喋れない。
それに加え好きな人の母親なのだと意識してしまって、いつも以上に緊張しているというのもある。
「はっ!? まさかうちの馬鹿娘がまた何かやらかしたんですか!?」
「いえっ、違うんですっ。今日は私が、教師としてではなく、個人的に、光希さんとお話したい事があるんですっ」
正直に言ったことを後悔する。
教師という枠を超えて生徒に個人的な話とは一体なんだろう。もう遅いけれど、無難な理由を考えておけば良かった。
しかも汗だくで肩で息をしているこの酷い有り様なので、どう誤魔化しても無駄かもしれない。
怪しまれても仕方がないと諦めていたけれど、椎葉さんのお母さんは追及することなく一度家の中に戻ってタオルを持って来てくれた。汗を拭いてください、と渡されたのでご厚意に甘えて受け取る。タオルはふわふわで、優しい匂いがした。
「急いで会いに来て頂いたのに申し訳ないんですが、光希は朝から出掛けているんですよ」
「そう、ですか」
「良かったら家でお待ちになって下さい。陽が沈む前には帰ってくると思いますから」
「ありがとうございます。でも、ごめんなさい。お気持ちは嬉しいですけど、私、行きます」
話している間に息は整った。足もまだ動くから大丈夫。速度は落ちるかもしれないけど、まだまだ走れる。
走れなくなっても、歩くことはできる。とにかく、じっとしていられないのだ。
「それで光希さんはどちらに……」
「あの子なら『ちょっとナンパしてくる!』と言ってすぐ出掛けてしまったので、場所まではちょっと」
「…………」
「遠慮なく補導してください」
「……あ、あはは」
ナンパをするなら駅前か商店街の辺りかな。あの辺なら人通りも多いし構ってくれる人もいるだろう。
それじゃあまずは駅前に……って、いやいやナンパは嘘だよね。お母さんには言えない目的があって誤魔化しているだけだよね。でも椎葉さんなら本当にナンパしに行ってそうだから油断できない。
「すみませんね。先生にはあの子のことでずっとご迷惑をおかけして」
「あ、いえ。迷惑なんてとんでもありません。光希さんには、助けて頂くことも多いんです。それに今日は、約束も何も言っていなかったから、突然来てしまった私が悪いんです」
ぺこぺこ謝るお母さんに、わたしもぺこぺこと頭を下げる。
よく解らないお辞儀合戦を何度か繰り返していると、椎葉さんのお母さんは「あ」と呟いて携帯を取り出した。
慣れた手つきで操作をしてからしばらく画面を見つめていたけど、渋い顔をして携帯をポケットに突っ込んだ。
「メールも駄目、電話も出ない。あの子、いったい何やってるのかしら」
いつもならすぐに返事があるとのことなので、心配そうに表情を曇らせる。
「私、心当たりを探してみますね。見つけたら、お母さんに連絡するように伝えます」
「うう……本当にいつもいつもすみません」
「私が好きでやっていることですから」
それは偽らざる本心だ。だから自然とその言葉が口から出て、無意識に笑みがこぼれてしまう。
お母さんはきょとんとした顔をして、それからふふっと小さな声を漏らした。
そして、目の前の女性は母の顔になる。
「光希のこと、よろしくお願いします。今のあの子にはきっと貴女が必要なんでしょう」
どきりとした。この人は、いったい何をどこまで知っているのだろう。
沸いてきた好奇心を散らして、なんと答えるべきか考えを巡らす。
「あの子が高校生になった時から。……そう、先生と出会ってから、あの子は変わったように思います」
「変わった?」
「光希はある時から明るく騒がしい子でしたが、それでも中学まで問題を起こすような子じゃなかったんです」
「――――え?」
「ああ見えて真面目で頭のまわる子なんですよ」
「…………」
それはつまり、私が椎葉さんに悪影響を与えてしまって、問題児になってしまった、と。
せっかく汗を拭ったのに、また嫌な汗が噴き出してしまう。
自分はこんなにも新陳代謝が活発だっただろうか。
「ああ、先生を責めているわけじゃないんです。むしろ感謝しているんですよ。あの子のことをきちんと見て、考えて、叱ってくれる人は、多くないんですから」
「そ、そうですか」
そんな大層なことをした覚えはない。ただ、個人的な感情が含まれていた可能性はあるかもしれない。
それより椎葉さんがいつも問題を起こして、騒ぐようになった理由は一体何だろう。
楽しいから? 反抗期? 多分、そんな安易な理由ではないと思うけど。
「変わった理由はわかりませんが、光希が先生を振りまわす理由はたぶん好きな子をいじめてしまう心理じゃないかと思います」
「は!? え、好っ!? そそそんなことはっ」
「まあ冗談ですけど」
「でっ、ですよねー!」
「ふふふ、あの子が特別に先生を気に入ってるのは間違いないですよ」
そうかな。だとしたら、嬉しいな。
一定のリズムを刻んでいた心臓が、また少しだけ乱れる。
「問題を起こして人様に迷惑をかけることは悪いことです。けど、親としては、あの子の変化を嬉しく思っています。変化は、あの子が生きようとしている証ですから」
「生きようとしている、証……ですか」
まあ悪いことしたらビシバシ叱りますけどねぇ、と椎葉さんのお母さんは良い笑顔で拳を鳴らす。
椎葉さんはいつもどんな風に怒られているのだろうか。恐いので想像するのはやめておこう。
「あの子が何かやらかしたら、思いっきり叱ってやってください」
「……はい」
頭を下げて、お礼を言ってからまた走り出す。
椎葉さんのお母さんは、椎葉さんが何かやろうとしている事に気付いているのかもしれない。
彼女の行動には大事な意味があるのだと信じて、黙っているのかもしれない。
本当のところは解らないけれど、椎葉さんに対する愛情は本物だった。
さて、これからどこに行こう。
椎葉さんの言葉を信じて駅前周辺を探し周るか、自分の感を信じて彼女の友達の家に向かうか。
もうすぐ日が暮れてしまうので、時間的にも体力的にも片方にしか行けないだろう。
どちらにも居ない可能性だってある。しかし、思いつく選択肢は2つしかない。なら、できるだけ可能性の高い方に賭けることにした。これではずれだったら、今日は潔く諦めよう。
自分の感を信じることにして、椎葉さんといつも一緒にいるあゆさんのお宅に向かうことにした。
椎葉さんががそこに居なくても、彼女の一番の親友なら居場所に心当たりがあるかもしれない。
目的地を決めたので、少し走る速度をあげる。……明日も仕事なんだけど、筋肉痛になりそうなので無事に出勤できるかどうか不安だ。
「あれ、植田先生だ。こんにちは」
「は、はいっ!? こんにち、は……早瀬さん」
閑静な住宅街を走っていると教え子の早瀬さんとすれ違ったので、慌てて足を止めてから挨拶をする。
彼女の隣に綺麗な女性がいたのでそちらにも挨拶すると、会釈を返してくれた。
あれ? この人、前にどこかで見たような気がする。
確か……そうだ、赤口先輩と一緒に飲んだ日、早瀬さんと一緒に先輩を迎えに来た人だ。
倉坂椿さんにそっくりで歳の離れたお姉さんかなって思っていたけど、そのまま忘れて聞けずにいた。
「早瀬さんの担任の、植田紫乃と申します」
自己紹介をすると、女性は「ああ…」と小さく呟いて反応したので、初めて会った時のことを覚えているようだった。
あの時の自分は酔ってフラフラしていたので、恥ずかしいから忘れてくれても良かったんだけど。
「一度お会いしていますね。倉坂陽織といいます」
「あっ、やはり倉坂椿さんのお姉さんでしたか」
「母です」
「え」
少しの間、頭の中が真っ白になる。はは……母……母親……? って、お母さん!?
倉坂椿さんのお姉さんじゃなくて、お母さんだったんだ!?
早瀬さんは女性を見ながら声を殺して笑っていたが、すぐに気付かれて頬を軽く抓られていた。
「えっと、失礼しました。お母様だったんですね。その、随分とお若く見えましたので」
「いえ。よく間違えられるので、気にしないでください」
私と同年代かもしれないと勝手に思っていた。
高校生の娘さんがいるなんて思えないくらい綺麗で若く見えたから、凄く驚いてしまった。
よく間違えられるというのも納得だ。
「それで先生は走って何処に行こうとしてたの?」
「あ、実は椎葉さんを探してて――」
「光希ならさっき河川敷で見たよ。なんかウナギ釣るんだとか何とか言ってた」
う、ウナギ?
ナンパは諦めて今度はウナギを釣るために川に行ったのかな……。
いやいやそんな馬鹿な、これも嘘だよね。椎葉さんは本当に何をやっているんだろう。
「なに、光希また問題起こしたの?」
「ううん。そういうわけじゃなくて……ちょっと、お話しがしたいだけ」
「そっか。まだ居ると思うけど、急いだ方がいいかも」
「! あ、ありがとう! それじゃあまたね早瀬さん……と、失礼します倉坂さんっ」
「ええ」
せっかく貴重な手掛かりを得られたのだから、機会を逃すわけにはいかない。
別れの挨拶もそこそこに、彼女が居たという河川敷へ向かう。
それにしても、どうして早瀬さんと倉坂さんのお母さんは一緒にいたんだろう。
赤口先輩を迎えに来た時も一緒に来ていたし、仲がいいのかな。
知り合いなのだから一緒にいてもおかしくはないけど、なんだか気になってしまった。
けれどそんな小さな疑問もすぐに消えてしまい、また椎葉さんのことで頭がいっぱいになる。
だから、気付かなかった。
「…………大丈夫かしら」
「大丈夫だよ」
走り去る私の背中を見送る二人の視線に。
心配を含んだ呟きに。
まっすぐ前を向いて走る私は、気付くことができなかった。
*
「そろそろ帰ろうかな」
まだ空は明るいけれど、遅くなると両親が心配するので陽が暮れる前には帰った方がいいだろう。
とにかく今日は疲れてしまった。こうして、河川敷でぼんやりと川の流れを眺めてしまうほどに、疲弊していた。
無意味に時間を浪費せず家に帰って休めば良かったのだが、頭の切り替えが必要だったのだ。
母を誤魔化して向かった先はルヴァティーユの社長の所だった。なんとか協力を得られ、即座に対応してくれたおかげで計画は順調に進み、半月も経たずに実行できる段階まできた。
鹿島の裏の裏まで知り尽くしている私が情報を提供したとはいえ、こんなに早く準備が整うとは思わなかった。
これが世界的大企業の力というものなのだろう。私がいなくても、ルヴァティーユは簡単に鹿島を潰せるのかもしれない。昔、鹿島の会社の一つで偉そうに踏ん反りかえっていた滑稽な女を思い出して、笑ってしまった。
さて、計画を遂行する日は明後日だ。といっても、すでに裏ではルヴァティーユの人たちが動いており、鹿島はもう包囲から逃れることはできない。終わりはもう始まっている。
明後日には鹿島のやってきた様々な不正が公表されるだろう。それからが、私の本来の役目だ。これだけは、ルヴァティーユにも譲れない。自分の責任は、自分でとる。
力を借りる代償として自分が思い描いていた夢を実現できなくなってしまったが、支援の対価としては安いものだ。この程度で済んで良かったと感謝したいぐらいだった。
「えいっ」
川に小さい石を投げ入れると、ぽちゃんと軽い音がして緩やかに波紋が広がっていく。
流れに抗う波を消えるまで見届けてから立ち上がった。振り返ると沈んでいく夕日が眩しくて目を細める。
――――そういえばさっき、ひなたんと倉坂陽織に会ってしまったのだった。
心を落ち着けようとしていたのにさらに心を乱してしまうことになるとは思わなかった。
いつものように明るく誤魔化したのだが、不審に思われていなかっただろうか。
道具を持ってもいないのにウナギを釣りに来たとか全く誤魔化せていないだろうけど。確実に変な奴だと思われいるはずだけど。
ともかく今は弁解も謝罪も後回しにするしかない。全て終わってからだ。
帰ろうと川に背を向けた途端、ピロリンとポケットから短い着信音が鳴る。
携帯を開くとさっき会ったばかりのひなたんからメールが届いていた。
『今度みんなでお茶会しようね』か。うん、それは楽しみだなぁ。
ひなたんの作るお菓子は凄く美味しくて、将来店を出すなら出資したいくらい好きなのだ。
甘く優しいクッキーの味を思い出してつい頬が緩んでしまう。
穏やかな気持ちになれたのでこのまま家に帰ろうと再び踏み出したところで、そのまま足を止めた。
彼女が、私の目の前まで走ってきたから、止まるしかなかった。
――――どうして。
「……先生」
「こんにちはっ、椎葉、さんっ」
どうしてここに。
先生は苦しそうに肩で息をしているのに、私を見て嬉しそうに微笑んだ。
なんでそんな、宝物を見つけた子供みたいにキラキラと瞳を輝かせて、自分を見るのだろう。
眩しくて目を合わせているのが辛い。けれど、何故か目を逸らすことができない。
無性に逃げ出したいのに、足は地面に縫い付けられたように動いてくれない。
なんだこれ。先生は魔術的なものでも習得したのだろうか。どうやったらこれ解呪できるんですか。
「はあ、やっと会えた。探したよ」
「なんで」
「会って話がしたかったから。ねえ、椎葉さんは本当に鹿島グループを衰退させようとしているの?」
息を整えた先生は、今度は真剣な表情でこちらを見る。慌てているのか早々に本題を切り出してきた。
鹿島雅之から状況を聞いたのだろうか。だとしたら察知が早すぎるな。計画に支障はない範囲だが、探りは入れておこう。
「前にも言ったけど、本気で動いてるよ。そろそろ、あちらさんから連絡あるんじゃない? もうあった?」
「ううん。鹿島さんから連絡は何もないよ。でも鹿島グループがもうすぐ買収されるって、知り合いに聞いた」
「あー……なるほど丸戸か。口止めしたのになぁ。知的でクールな風を装ってるけど、あれで情に脆い奴だから仕方ないか。可愛い物とか凄い好きだし」
それと若干ドジっ子属性で大事なところで小さなミスをする。あと世話焼きで面倒見がいい。真面目で嘘が苦手。
今になってようやく気付くことができた昔の部下のことだ。
「で、結婚が破談になりそうだからわざわざ文句を言いに来たの?」
破談になると決まったわけじゃない。鹿島の悪あがきで強行する可能性もある。
でも結婚相手を陥れようとしている私は先生にとって恨みの対象だ。あれだけ幸せになりたいと言っていたのだから憎まれるのも当然だろう。先生に嫌われるのは辛いが、これも報いだ。
しかし、先生は不機嫌そうに首を横に振る。
「違うよ。そんなことで、文句を言いに来たんじゃない」
「そ、そんなことって」
「結婚とかもうどうでもいいの」
「どうでもいいの!?」
あっれ、おっかしいなぁ。
あれだけ結婚に固執して幸せになりたいと意地になっていたのに、いつの間にか“そんなこと”になっている。しかもどうでもいいって、彼女にいったいどんな心境の変化があったのだろうか。
「椎葉さんが何をやりたいのか、聞きに来たの」
「何をやりたいって……前に言ったはずだよね。恨みがあるから鹿島を潰したいって」
「どうして恨んでるの? 殺されたから?」
「!」
「正直に答えて、椎葉さん。ううん、鹿島光葉さん」
「…………」
気付かれていたのか。それとも、丸戸から全て聞かされたのだろうか。
経緯はどうあれ、植田紫乃はもう椎葉光希に前世の記憶がある事を知っている。
ならもう隠す必要はないのかもしれない。いい機会だ、とことん話して幻滅してもらおうか。
思っていたより動揺していない。心が乱れていない。さっきまで水面を見つめて精神統一していたおかげだろう。
これなら落ち着いて話が出来そうだ。
「鹿島に消されたことは別に復讐するほど恨んじゃいない。あいつらに復讐するほどの価値なんてない。今更手を出しても、何の得にもならない。だから今までずっと関わらないようにしてきた」
「じゃあどうして、今になって動いたの? 私が鹿島雅之さんと婚約したことが理由なの?」
「……切っ掛けはそうかもしれない。先に言っておくけど、私は植田紫乃と麻衣に関わる記憶の全てを覚えていない。だから私が身を粉にして動く理由は完全に自分の為だ。私は自分が…鹿島が犯した数々の愚行の責任を取る。先生の婚約を破棄させるのはそのついでだ」
「………」
「だから先生は関係ない」
強い口調できっぱりと突き放しておく。
しかし先生はこう見えて意外と意志は強く、簡単に折れてはくれない。
怒っているのか私を睨むように見ているが、童顔と優しい性格が災いしてちっとも怖くなかった。
「関係ないわけないでしょ。私はまだ、鹿島さんと婚約しているよ」
「そんなもの、すぐになくなる」
「婚約が解消されるとしても。私が決めたことだから自分の意志で終わらせないと駄目なの」
「それはやめておいた方がいい。先生が手に負える相手じゃない」
結婚を諦めてくれたのはいいが、動かれると困る。
奴らは追い詰められたら何をするか解らない。純粋な話し合いでどうにか出来る相手じゃないのだ。
「何もしなくていい。大人しく事が終わるのを待っていればいい。大丈夫、全部上手くいく。幸せなんて、他にいくらでも見つけられる。もう鹿島のことなんて、忘れろ」
あんな屑だらけの一族を覚えていても損するだけで何の得にもならない。
どうでもいいことを覚える方がまだマシだ。もっと違うことに、大事な時間を費やせばいい。
「嫌だよ。絶対にいや」
「いやって……」
なんで解ってくれないんだ。
何もしなくていいと言っているのに、どうしてわざわざ面倒な方を選ぼうとする。
「いい加減、聞き分けてくれ。鹿島は先生が思っている以上にどうしようもない奴らなんだよ。邪魔な他社の取引を卑怯な手で潰すし、利益の為なら陥れることだって平気でやる。人を人として見ていない。自分のことしか考えない。気に入らない人間を無能と決めつけて見下し、自分が有能なんだって勘違いをしている。周りを蹴落として優位に立ち、偉そうに高笑いしている間抜けなんだよ」
「そうかもしれない。でも私はそれだけじゃないって知ってる。少なくとも一人、知ってるよ」
先生は私を見て微笑む。その眼差しは力強く、陰りはない。
「一緒だよ。鹿島は例外なく全員腐ってる。先生の頭の中にいる鹿島光葉は美化されてるだけだ」
「ううん……貴女は私とお母さんを忘れても、私は貴女を覚えてる。ちゃんと知ってるんだよ。鹿島光葉さんは、それだけじゃないって」
違う。誤解している。私はそれだけの人間だ。覚えられる価値もないゴミのような存在だ。
私がどれほどのことをしてきたか知らないからそんなことを言えるのだ。
「私は、他人の大切な物を何もかも奪ってきた。下劣な行為を躊躇いもせず、欲しい物を自分の物にして悦に浸っていた。不幸になる奴らを嘲笑っていた。何も解っていないくせに何でも知っている気になって、自分の行いは正しいのだと微塵も疑いはしなかった。子供でも理解できることを、死ぬまで、気付かなかったんだよ」
過去の自分を振り返ると、殺意が沸いてくる。殴り飛ばして、何もかも間違っているのだと罵ってやりたい。
鹿島が私を消したことを強く恨んでいないのは、救いようのない馬鹿な自分を殺してくれたからだろうか。
「気付いたことを、後悔してるの?」
「それはない。気付けなかったことをたくさん教えて貰って、間違いなく幸せだったから」
今世は恵まれていた。昔の私には縁のなかったものが、何もせずに与えられた。
愛してくれる両親がいて、慕ってくれる友人がいた。
毎日が楽しかった。幸せだった。
「榛葉さんは前に言っていたよね。今がすごく幸せだから、過去にやった過ちを思い知るって」
「……」
幸せを知るということは、同時に過去に私が踏みにじってきた幸せの重みを知るということ。
自分がどれほど酷いことやってきたのか、今になって思い知らされる。
その罪深さに、押し潰されそうだった。
「じゃあ、幸せになるたびに、同じくらい苦しんできたの? 今まで、ずっと」
泣きそうな顔をしていて、声は震えている。馬鹿だな、そんな顔しなくてもいいのに。
こんな人間の為に心を揺らす必要なんてない。
「当然の報いだ」
だって、おかしいだろう?
散々他人を苦しめてきた奴が、どうして幸せになって生きている。たくさんの人に愛されている。
私が切り捨ててきた人たちは不幸になっているのに自分は幸せになっているなんて、そんなのは不公平だ。
「椎葉さん。お願い、正直に答えて。貴女は……本当に責任を取る為に、鹿島さんと戦おうとしてるの?」
「そう、だ」
罪を償おうと思っても、自分の幸せは捨てられなかった。そんなの、無理だった。
一度知ってしまえば、二度と手放したくない。
だから今自分にできることで、罪を償って責任を取ろうとした。
「いいや」
―――――嘘だ。
「違う」
そうだ違う。
本当は逃げ出したかった。楽になりたかった。幸せも苦しみも置いて、消えてしまいたかった。
私は。
「私はずっと――――――死にたかった」
誰よりも、何よりも一番憎んでいたのは、自分だったのだ。
本当に自分がやろうとしていたのは、自分を殺すことだった。
「鹿島ならまた、殺してくれるって思ったんだ」
自分でも気づかなかった本当の理由を、心の奥底から吐き出す。
嘘をつくのは得意だけれど、まさか自分に嘘をつくのも得意だとは思わなかった。
はは、何が責任を取る為だ。結局自分本位の、身勝手な理由じゃないか。
「死にたいくせに、死にたくないんだ。だって、幸せだから」
幸せと責任を同時に感じながら、心の奥で消えたいと願いつつ日々を生きてきた。
だからもっともらしい理由を作り上げて、自分の望みを叶えようとした。
皆に支えられて育まれてきた命を、無駄にせず正しいやり方で消費できると思った。
「馬鹿は死んでも治らない。なるほど、その通りだ。大事なことに気付いても、大切なものを得ても、腐った性根はそのままだった」
沢山の愛情を与えてくれた両親に申し訳がない。
前世の記憶なんてなかったら良かったのにと切実に思った。
そうしたら、両親は余計な心配をせずに普通に子供を育てられたのに。
「私なんて――――」
生まれてこなければ。
その言葉の続きを言う前に、先生は私の頬を叩いた。
叩いたと言っても、もの凄く弱い。ぺちっと湿った音がしただけで痛くも痒くもない。
「ご、ごめんなさい」
しかも謝ってくる。とんでもないことをしてしまったように、すごく申し訳なさそうに謝ってくるから、なんだか気が抜けてしまった。本当にこの人は、とことん生徒に甘くて、優しすぎる。
「その言葉の先だけは言わないで欲しいから、言わせない」
「…………」
「貴女が過去に何をしてきたとしても、私は貴女に生きて欲しいし、鹿島光葉さんのことも忘れない」
「…………」
「何をどうしたいか、何が好きで何が嫌いか、自分の答えは自分で選ぶよ」
「…………この、わからずやっ」
「うん。だから私は貴女に生きて欲しいって何度でも言う。例えみんなが貴女を責めても、貴女が自分をどれだけ卑下しても、私は何度でも好きだって言うから」
私の頬に手のひらを当てたまま、彼女はゆっくりと丁寧に言葉を連ねていく。
「冷たくて、厳しくて、優しくなくて。でも沢山のことを教えてくれた先生が大好きだよ。
問題ばかり起こして、すぐ人をからかうけど、みんなを笑顔にできる椎葉さんが、大好きだよ」
どれだけ私の醜い部分を曝け出しても、彼女の答えは変わらなかった。
愚かな自分に向けられる真っ直ぐな好意は混じり気のない本物なのだろう。
それは解るのに、卑屈な私はそれを信じることができない。
「私は、生きてても、誰かを不幸にする」
「みんなそうだよ。そんなつもりがなくても、誰かを傷つけることはあるよ」
「私は、与えられても、同じように返すことができない」
「見返りなんて望んでないよ。好きで、貴女の為に何かをしたいだけだから」
「私は、愛される資格なんてない」
「資格がなくても、貴女が否定しても。貴女を好きな人は、貴女が好きだよ」
「そんなの……迷惑だ。これ以上の幸せなんていらない」
「ごめんね。私は、貴女が好きだから、もっとたくさん幸せになってほしいって思うよ」
頬に当てられていた手は離れ、今度は私の手に重なった。
私より少し大きくて、綺麗で暖かな手に包まれる。
「貴女が、好きです」
知っていた。解っていた。彼女が自分に好意を向けてくれていることに前から気付いていた。
だから先生のお見舞いに行ったあの日、先回りして、遠回しに拒絶したのだ。
私を好きになっても不幸になるだけだから、彼女の為を思って。
――いいや、それも嘘だ。ただ自分が恐かっただけだ。臆病な私は逃げたのだ。
ただ一人に向けられる特別な好意は未だに理解できない感情で、自分が持っていないものだったから。
得体が知れなくて、恐ろしくて仕方がなかった。
「笑ったり、悩んだり――……今を一生懸命に生きている、貴女が好き」
顔を少し赤くして、照れくさそうにはにかんで、けれど決して目は逸らさない。
「……その気持ちには応えられない」
重たくなった口を必死に動かして、予め用意していた拒絶の言葉を吐きだした。
自分の想いを拒絶された先生はそれでも微笑んだまま、こくりと頷く。
「受け入れてくれなくていいから、信じてくれると嬉しいな。椎葉さんの存在が、誰かの幸せに結びついていること。先生の存在が、今の私を作っていること」
「…………そんなの、信じられない。私は、誰かの為に何かをできる人間じゃない」
先生に先生と呼ばれても、違和感しか感じない。何一つ覚えていなくて、何一つ思い出せないのだ。
植田紫乃が覚えている鹿島光葉はもう存在しない。ここにいるのは、無意味な人生の記憶だけを継いだ椎葉光希だ。
何も言えない私を見て、彼女は目を細める。
「……あのね。先生が亡くなる少し前、先生と私のお母さんは賭けをしたの」
「賭け?」
「うん。私がテストで満点を取れるかどうか。先生は取れる方に賭けて、お母さんは取れない方に賭けた。結果は95点でお母さんの勝ち。賭けに負けた先生は、お母さんに『私のことを守ること』を約束させられた」
もちろんそんな約束覚えていない。
だからきっと守ることもできていないはずだ。
「先生は約束を守ってたよ。強制されたわけじゃないのにお母さんとの約束を律儀に守ってた」
本当に何も覚えてないのだ。ビデオレターで見た部分は客観的に知っているが、約束なんて何も言っていなかったはず……いや、最後に先生のことを頼むとお願いされていたか。でもそれはつい最近知ったことだ。
「死んでも、記憶がなくても先生は約束を今も守ってる」
「そう言われても全く身に覚えがない。何度も言うけど二人のことは何も覚えてないから約束なんて知らないし守りようがない。守っているように感じたのなら偶然か気のせいだ」
「気のせいなのかな。椎葉さん、いつも私のこと助けてくれていたよね」
「気のせいだ。困らせた記憶しかない」
「問題ばかり起こして困ってたのは確かだけど、でも、椎葉さんは自分が目立つことで、他の先生や生徒たちの目を意図的に私から外してた。おかげで新任で風当たりが強かった私は、問題児の担任というだけでみんなから同情されて優しくしてもらえた」
「気のせいだって。問題を起こしていたのも、自分が楽しいからだ」
「貴女ならもっとうまく立ち回れるはずだよ。問題を起こしても非難されず、評価を下げない行動を取れる」
「…………」
「やっと気付いたの。貴女はいつだって気まぐれに問題を起こして騒いでいたけど……私が落ち込んでいる時には必ず悪戯をしてきてた。あれは、貴女なりのやり方で励ましてくれていたんだよね」
こじつけだと思った。偶然だとも思った。でも、反論できなかった。
どうして私は大切な両親や周りの人たちを困らせてまで、自分の評価を下げてまで、問題を起こしていたのか。
もっと上手いやり方は他にいくらでもあったはずだ。自分を優位にすることにかけては無駄に得意なのだから。
「私はただ自分の幸せが壊れるのが嫌だっただけ、だ」
植田紫乃はいい先生だった。面倒な生徒でも正面から向き合い、親身になって接してくれる。
先生のおかげで、私は自由気侭な学校生活を楽しめていた。だから守ろうとしたんだ。自分にとって都合がいいから。
「そうだ、いつだって私は自分だけが可愛くて自分だけしか守れない」
誰かを守っていたなんて酷い勘違いだ。全ては己のわが身可愛さで行動していたというのに。
私に優しさがあるとするならそれはきっと紛い物だ。利益を得るための手段でしかない。
「ねぇ、知ってる? 私は先生の母親だって守れなかったんだ。表向きは自殺になってるけど、植田麻衣は鹿島に利用された挙句邪魔になって消されたんだよ。私は、先生の母親を殺した人間の身内なんだよ」
「だから先生は、お母さんの為に身内と戦っていたんでしょ?」
「!」
「あれだけ『鹿島』に尽くしてた先生が反発したのは、お母さんがいなくなってからだもの」
「先生の母親の為なんかじゃない! 私は有能な部下を失った分の損失を取り戻そうとしただけだ!」
「採算が合わないんじゃないかな。だって歯向かった先は会社の大元だよ?」
「…………」
確かに鹿島光葉だったらそんな愚行はやらない。考えなくても、リスクが大きいことが解る。
鹿島という企業を自分の物にしようとしたのか? 自分の部下を勝手に利用されてプライドが許せなかった?
自分がやったことなのに、理解が出来ない。部下の敵を取る為に鹿島と戦うなんて、そんなお優しい人間ではなかったはずだ。
「お母さん、いつも言ってた。あの人は誰かに優しくしたいのに、それが出来ない不器用な人だって」
「違うっ! 私は自分の得になることにしかしない! 今も、昔も!!」
「椎葉さんはもう気付いてるよね。優しさが自分の得になること」
「――――っ」
「椎葉さんが意識してなくても、私は貴女の優しさを貰ってた。貴女は覚えていなくても、先生が教えてくたことは私の中に残ってる」
鹿島光葉の人生は無駄で無意味なものだと、そう思っていた。
踏みにじって奪うばかりで、大事なものは何一つ残せなかったのだと。
『要らなくても、覚えていてね。貴女だって、だれかに幸せを分けてあげられること』
映像の中で植田麻衣が言っていた言葉を反芻する。
本当に、自分はできるのだろうか。こんな私でも誰かに何かを残して生けるのだろうか。
――――『これから』を歩んでいくことを、許されるのだろうか。
「私はきっと貴女のことを何も知らない。何を考えてるか全然解らないし、教えられても全部を理解してあげられない。貴女が背負っているものを肩代わりできるほど強くもない。けれど、だからって、子供の頃のように黙って大人しくしているだけなのは、嫌」
優しく握られたままの手に、痛くない程度の力が込められる。
「今度は一緒に頑張ろうよ。ふたりで一緒に、決着をつけよう」
過去の私は、一人で終わらせようとした。その結果、己の命を無駄に散らすことになった。
では二人なら。支えてくれる沢山の人たちがいるのなら。今度は、どんな結果になるのだろう。
「一緒に、か」
胸が熱くなる。生きていたいと、心臓が叫ぶように動いている。
当たり前だ。だって椎葉光希は幸せなのだから。
最低な人間の私でも、誰かを幸せにできると信じて諦めてくれない人が、いるのだから。
――――恵まれすぎて、大事にしないと罰が当たりそうだ。
「死になくないなぁ」
「死なせないよ。絶対に、私がそんなことさせない」
「はは、頼もしいね。じゃあ期待してるよ先生。今は先生が年上なんだから」
「えっ」
驚いてきょとんとしている先生の手を引いて、強引に自分の元へ引き寄せる。
近づいてきた顔に狙いを定め、そのまま彼女の唇に自分のものを重ねた。力任せにやったのでちょっと痛い。
すぐに顔を離して相手を窺うと、何が起こったのか解っていない様子で呆然としていた。
黙って見ていると、段々と顔が紅潮して口がわなわなと震えだしたので、ようやく理解が追いついてきたらしい。
「な、なんっ……! 今、え、大事な話の途中で、何をっ……え、ええええええ!?」
「わ、そこまで驚くとは思わなかった」
「だって今、そのキ、キキッ、キス…をっ!? 何でいきなりしたの!?」
「まあ面倒臭い私の相手をしてくれたお礼とお詫びを兼ねまして。あと反応が面白そうだったからつい」
「ついって! ひ、酷い! 初めてだったのに!!」
「先生私のこと好きって言ったじゃん」
「すっ好きだけど! でも椎葉さんは私のこと好きじゃないでしょ!?」
「それはまだ解んないけどね。私は好きじゃない人としても抵抗ないからなぁ」
「え」
昔の私はそれすらも利益を得るための手段として利用していた。
ただ口をくっつける行為だけで自分の思い通りに事を運べるのなら安いものだと思っていた。
無愛想だったが自分の容姿が恵まれているのは理解していたので、利用できるものはなんでも使っていた。
今はもちろんそんなことは思っていない。両親を悲しませるし、この行為の重要性を理解している。
ただまあ、やっぱり抵抗は薄いんだけども。海外では挨拶という知識が染み込んでいるからかな。
「椎葉さんは誰とでもキスできるんだ」
真っ赤だった先生の顔が今度は真っ青になっていく。しまった余計なことを口走ってしまった。
きっと尻軽女と思われたに違いない。いくら私でもそうホイホイしませんよ。
衝動的なのは事実だが、それなりに親愛や感謝の情は籠めている。絶対に言わないけど。
「誰彼かまわずってわけじゃないよ流石に」
「こういうことは特別に好きになった人だけにすることなの! 誰にでもしちゃ駄目だからね!」
「これから一緒に鹿島雅之撲殺大作戦を決行するんだから、景気づけとでも軽く思っておいてよ」
「だから軽くしたら駄目……って撲殺!? それはやりすぎというか捕まっちゃうよ!?」
「ふふふ凄い企業が後ろにいるから問題ないっすよ。釘バットとメリケンサックは持参でよろしく」
「えっそれ何処で買えるの? ホームセンターに売ってる?」
冗談に本気の質問が返ってきた。先生はほんと良い反応を返してくれるなぁ。
いつも通りのやり取りが心地よくて、我慢できずに笑ってしまった。
先生は怒ったような困ったような顔をしていたけど、つられるように微笑んだ。
「私の行動の裏には過去の約束や責任を果たそうとする使命感があったのかもしれない。でも、先生を守ろうとしたのならそれは今ここにいる私の意志だ」
「……うん」
「忘れてしまった過去の想いも、今の気持ちも……全部ひっくるめて、大事なもの全部を守りたいと思う」
「うん」
それが自分の為だとしても、幸せを守りたいと思ったことに変わりはない。
椎葉光希が自分で選んだ嘘偽りない答えだ。
「大事なものがあるうちは、無様でも生きてみようと思う」
幸せを感じる時、また過去を後悔して死にたくなるかもしれない。
その時は思い出す。誰かの心に私が何かを残せるのなら、私の心にだって何かが残っている。
優しくされたこととか、楽しかったこととか、面白かったこと。苦しかったこと、大変だったこと。いろんなこと。その記憶を消してしまわないように、這い蹲ってでも生きていく。
一生懸命生きて、生きた証を誰かに残していきたい。大切にして生きたい。
「臆病で、自分が可愛くて、簡単なことも難しく考えちゃう面倒臭い人間だけど、それでもいいなら――」
私が言い終わる前に、先生は黙って手を差し出した。
ここでその手を取らなければ、私は一生、誰の手も取ることが出来ない。そんな確信があった。
「ちょっとぶん殴ってやりたい奴がいるから、手を貸してくれる?」
私を信じてくれて、好きだと言ってくれる彼女の手を取り握りしめる。
精一杯の強がりでも手の震えは隠せなかったが、先生はその震えごと握り返してくれた。
「もちろんって言いたいけど、暴力的なことには協力できないかな」
「じゃあ精神的にフルボッコでいこう。言葉で追い詰めて情けない姿を写真に撮ってネットで晒す」
「もっと穏便にいこうね!?」
「話し合いで平和的に片が付けば良いけどさ。簡単に諦めてくれる可愛い人達じゃないからね」
「わ、私も頑張るよ!」
「そうだね。今度は一人じゃないから、何とかなるでしょう」
「うん。きっと上手くいくよ」
一人でもどうにか出来る自信はあった。
先生が手伝ってくれても何も変わらないどころか不安要素が加わって手間が増えるだけ。
けれど彼女が傍にいてくれなければ、私はまた自分の過去に酔ってやるべき事を間違えるかもしれない。
「協力してもらうからには、全てを話すよ。先生が知らない鹿島のこと、母親のこと、そして先生自身のこと」
「覚悟の上だよ。私は知らないままでいたくない。自分のことも、貴女のことも」
「わかった。今日は時間がないから、明日にでも計画の段取りも含めて全部聞いて貰う」
私としては今更知らなくてもいいと思うが、真実は何も悪いことだけじゃない。
隠された真実を知って彼女はどう思うだろう。心を砕くか希望を抱くか、まったく予測がつかない。
結果をどのように捉えるかは先生次第だ。良い方に転ぶよう、せめて祈ろう。
「そういや先生。前世のことをあっさり受け入れてるみたいだけど、気持ち悪いとか思わない?」
「思わないよ。椎葉さんは椎葉さんだもの」
「おお……」
見事な殺し文句で意表を突かれた。これだから天然モノの好意は恐ろしい。私じゃなかったら即死だった。
先生は気弱そうに見えてちょいちょい豪胆なところあるよね。
「椎葉さんは、私のこと気持ち悪いって思わない?」
「え、なんで? 全然思わないけど」
「ほら、あの、わ、私、椎葉さんのこと……すき、だから。女同士で教師と生徒だし、い、一方的な好意だし、迷惑じゃないかなって。重荷になってたら嫌だから」
「この期に及んでなんて後ろ向きな発言」
「ううっ、ごめんなさい」
「本音を言えば先生の気持ちは嬉しいよ。こんな私を好きになってくれてありがとう」
過去の私を好いてくれて、憧れだと言ってくれた。今の私を受け入れて、何度も好きだと言ってくれた。
感謝の気持ちを返すことはできても、特別な好意は返してあげられない。
「迷惑じゃないのなら、このまま好きでいてもいい?」
「それはご自由にどうぞ。私よりもずっと良い相手がその辺にごろごろ転がってるのに勿体ない」
「その辺にごろごろ転がってるって石じゃないんだから……」
本当は好意を倍にして返したいのに返し方が解らない。
貰ってばかりなのは嫌なので、せめて何か返すことが出来ないだろうか。
先生が喜びそうなものは何も持っていないし、今の私では何をやっても意味がない。
こんなことなら本当にうなぎでも釣っていれば良かったかなぁと思いつつ辺りを見渡して、
丁度いいものを見つけた。すぐ傍にあったものを一つ手に取り、彼女に向けて差し出す。
「先生にはこれをあげよう」
「これって」
「雑草」
「三つ葉のクローバー、だね」
小さな雑草を先生の掌に載せると、彼女は泣きそうな顔をして嬉しそうに笑った。
それはどこにでも生えているただの雑草なのに、ひどく優しい瞳で、渡した白詰草を見つめている。
探さなくてもその辺にたくさん生えているのに、先生は宝物を得たように喜んでいた。
こんな雑草を昔の彼女は好きだと言っていたけれど、きっと今も好きでいてくれているのだろう。
とても大切にしてくれるのだろう。
「ありがとう。すごく嬉しい」
「……………」
出かかった言葉を止めるように、喉元を押さえる。這い上がってきた感情を飲み込んで息を吐いた。
「そういえばさ。中間テストで全教科満点取ったらお願い聞いてくれるって言ったの覚えてる?」
「えっ!? も、もちろん」
ちょっと、なんで自分の身体を守るように抱きしめて訝しむような視線をこっちに向けてんの。
こんな場面で変態的なお願いをしたら今度こそ幻滅されて見捨てられそうだからしないっつーの。
さっき不意打ちでキスしちゃったことは都合よく無視させて頂く。
「お願いっていうか、約束してほしい」
約束は一つだけでいい。
だから、もう一度。
キミの為に願ってもいいだろうか。
「自分の心のままに――――幸せになれ、紫乃」
「うんっ」
沈みつつある夕日を背にして。
幸せそうに笑う彼女と指切りをした。