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WP&HL短編集+スピンオフ  作者: ころ太
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WPspinoff19 ひとつの答え

 


職務に追われているうちにあっと言う間に日々は過ぎ去り、学校は夏休みの期間に入った。

今頃生徒たちは喜んで長い休みを満喫しているだろうけど、私たち教師に夏休みはない。

授業はなくともここぞとばかりに研修や会議があるのでそれなりに忙しかったりする。

今日は予定がないので休み明けの授業計画を練ったり、研修のレポートを纏めたりしていたけれど、集中力が続かず思うように筆が動かない。諦めて少し休憩しようと椅子の背に身体を預けて背伸びをしてみた。

ずっと座っていたせいで腰が痛いけど、立つ気になれなかったのでそのままぼんやりする。

元気な声が聞こえたので窓の外の運動場を見てみれば、暑い中一生懸命に部活動を頑張っている子たちと、

大きな声で生徒に指示を出している顧問の先生がいた。この炎天下、子供たちに交じって動くのは大変そうだ。

自分は顧問をしている部がないので、気楽な方なのかもしれない。

部活動を生徒たちと一緒に頑張ってみたい気持ちはあったが、教員経験の浅い私はそこまでの余裕がない。

それに私は今年いっぱいで教師を辞めないといけないのだから、顧問になるなんて到底無理な話だ。

そう、私は部の顧問どころか、教師でさえなくなってしまう。

ふとこれから先のことを考えてしまい、自然と溜息を吐いた。


「おや、お疲れですね植田先生」

「いえ。そんなことは」


職員室の扉を開けて入ってきたのは、学年主任の先生だった。

持っていた教材を机の上に置いて、ドカッと豪快に椅子に座る。


「まあでも今年は去年より気が楽でしょう。なんせ、椎葉の面倒を見なくていいんですから」

「…………そう、ですね」


確かに去年の夏休みは、慌ただしかった。

ただでさえ研修や書類整理の仕事が山ほどあるのに、それに加え問題を起こした罰として夏休みに校内清掃をするはめになった椎葉さんの監視を命じられていたのだから。

彼女が大人しく掃除するわけがなく、夏休み中さんざん振り回されてヘトヘトになっていたっけ。

今思い返しても頭が痛くなる事ばかりだったけど、それでも彼女と一緒だったあの時間は楽しくて、充実していた……かもしれない。

今年はあの喫煙事件から椎葉さんは大きな問題を起こすようなことはせず、そこそこ真面目に学校生活を送っていたからなんのお咎めもない。今頃彼女はご家族やお友達と楽しい夏休みを楽しんでいるはずだ。

私も、彼女の面倒を見るお役目からは解放されて自分の仕事に専念できている。


「椎葉には手を焼いていましたが、随分と大人しくなって良かったですよ。問題を起こさなければ、優秀な奴ですからね」


あれから、彼女は問題を起こすようなことはしなくなった。

明るく活発で、クラスを盛り上げることは変わらなかったけれど、突飛なことは控えているようだった。

だから指導の必要もなく、必然的に私と彼女の接点は減っていった。

担任だから毎日顔を合わせていたけれど、以前よりも会話の数が少なくなってしまったと思う。

気のせいだと思いたいが、会話もどこかぎこちなく、上滑りで空疎なものだった。

そう感じるようになったのは、椎葉さんがお見舞いに来てくれたあの日からだ。


意見を違えたあの日から――――私はまだ迷い続け、答えを見つけることができていない。


「おっと、植田先生は今日早番でしたね。そろそろ15時なのであがってください」

「あ、はい。お疲れさまです。お先に失礼します」


昨日遅番で帰りが遅かったから、今日は早く帰れる日だ。すっかり忘れていた。

急いで机の上を片付けて、職員室を出る。

今日はあまり仕事が進まなかったな……まだまだ夏休みは続くけれど、早めに授業の計画を練っておきたいし、終わらせないといけない書類だって溜まってる。

やることはたくさんあって、余計なことを考えている暇なんてないのに。

そう思っていても、どうしても違うことを考えてしまって仕事に身が入らない。


「紫乃ちゃん」

「えっ、丸戸さん?」


校門を出たところで私の名前を呼んだのは、私の後見人をしてくれている丸戸さんだった。

いつも通り堅苦しいスーツを綺麗に着こなして、背筋をまっすぐに伸ばし堂々と立っている。

相変わらず凛として格好いい人だなぁ。昔はもっと自信なさげでおどおどしていた気もするけど。


「お疲れさま。待ってたわ」

「いきなり、どうして」

「今日そっちに行くってメールしたんだけど、その様子じゃ見てないみたいね」

「あっ」


慌てて携帯を確認すると電源が入っていなかった。

勤務中は電源を切っているので、仕事が終わってからもずっとそのままにしていたようだ。

受信トレイを見てみると、丸戸さんからのメールが数件届いている。


「まったく。何かあったんじゃないかと心配したわよ。きちんと連絡は取れるようにしておきなさい」

「う、うん、ごめんなさい。気をつけます。それで今日は何か用があって来たの?」


いつも仕事で忙しい人なので、わざわざこっちに足を運んでくれたって事はよほど大事な用があるのだろう。


「ええ。確認したいことと、話しておきたいことがあるのよ。落ち着ける場所で話したいから、貴女のアパートにお邪魔してもいいかしら」

「えっと」


ここのところ忙しくて片付けてなかったから、出来れば違う場所にして欲しい。

足の踏み場もないほど散らかしてはないけど、見られたら確実に怒られるくらいには荒れている。

返答を渋っていると、丸戸さんは私の様子を見て察してしまったらしく、大きな溜息を吐いて眉間に皺を寄せた。

あ、これは久しぶりに正座でお説教コースかな。


「とりあえず座れる場所があればいいわ。お小言はまた今度にしてあげる」

「は、はい」


今日は見逃してもらえるみたいだけど、後で結局怒られるみたい。

片付けを怠った自分が悪いのだから当然の報いだ。


「貴女って真面目な性格なのに、昔から片付けが苦手よね」


アパートに着いて部屋に入るなり、丸戸さんはボソッと呟いた。

恥ずかしいけれど、彼女の言葉は間違いではないので反論はできない。


「うっ。でも、時間がある時は片付けてるよ。今は仕事で忙しいから、散らかってるだけで」


掃除はちゃんと定期的にやっているし、時間があれば片付けもする。

ただ私は『整理整頓』が人一倍駄目のようで、片付けても見た目がごちゃごちゃしていることが多い。


「そんな調子で結婚して、上手くやっていけるのかしら」

「……大丈夫だよ」


丸戸さんの鋭い目が、私の心を探るように容赦なく突き刺さる。

彼女はずっと鹿島さんとの結婚に反対していて、隙あらば説得しようと機会を窺っているのだ。

私の決意が固いことを知って一応は納得してくれたけれど、反対の姿勢は崩していない。


「貴女、本当に鹿島雅之のことが好きなの?」

「……うん」


会って話した回数は片手で数える程しかない。それも短時間。

爽やかで誠実そうな印象を受けたけれど、丸戸さんに聞かされた情報では非人道的な方らしい。

でも、彼はあの人の弟さんなのだ。だから大丈夫。私はきっと、耐えられるはずだ。


「近々鹿島グループは衰退するわ。それでもあの男のことを好きって言える?」

「でも、大丈夫だって、鹿島さんが」

「そうね。鹿島は一時的に建て直すだけの策を持っていた。けど、ある人が動いた結果、その策は使えなくなりそうなの」


ある人。

そう聞いて思い浮かぶのは、あの小柄な教え子だった。



『私さ、わりと本気で鹿島を潰そうと思ってるから』



彼女の声とは思えない、腹の底から絞り出したような低い声を思い出して身震いする。

信じられないけれど、まさか本当に彼女が何かやっているのだろうか。


「近々ある大きな企業が鹿島を買収するわ。たとえ策を使っても、お得意の小細工をしても、その企業には太刀打ちできない」

「そんな……」


母と折り合いが悪く絶縁状態にあった祖父母だけど、血の繋がった人たちだから少しでも力になれればと思ったのに。

唖然としていると、丸戸さんは私の様子を窺いながら淡々と話の続きを聞かせてくれる。


「でも貴女の祖父母が経営している会社との取引契約は継続するそうよ。ある程度の制約は受けるけど、無難に経営できる条件みたいだから優遇されている方でしょうね」

「丸戸さん、祖父母の会社の経営が悪化していたこと知ってたの?」

「つい最近ね。ずっと疎遠になっていたし音沙汰もなかったから油断していたわ。私としてはあの人たちの会社がどうなろうと知ったことではないけど。孫を引き取ることもせず娘の財産だけ得ようとする輩なんだから、むしろ潰れればいいと思うわ」


彼女は嫌悪を隠す気がないようで、顔を露骨に顰めている。綺麗な顔が台無しだ。

私だって祖父母のことはあまり良く思ってないけれど、経営を続けられると解って安堵したのだから、血の繋がりってやっぱり大きいのかな。自分の中に残された母と同じ血に、縋っているだけなのかもしれないけど。


「鹿島は潰れる。貴女の祖父母が経営している会社はひとまず安定する。貴女があの男と結婚する理由は、もうないでしょう」

「…………で、でも私は!」


鹿島雅之さんのことを好きになろうと決めて――


「幸せになることが貴女の母親と、あの人との約束だったわね。けど、あの男と結婚して幸せになれると思う? むしろ不幸一直線よ? 結婚することが幸せだと思うのなら、違う相手を探しなさい。お金がなくてもいい、見た目が醜悪でもいい。どんな人でもいいのよ。だからちゃんと、貴女が心から好きだと想える人と、一緒になりなさい」


眼鏡の奥にある優しい瞳がとても穏やかで、言葉の一つ一つが胸に響く。

まるで、お母さんに諭されているかのようだった。

今まで母と丸戸さんを重ねたことなんてなかったのに、初めてそう思えた。


「……好きな人」


意地悪そうに笑ってるあの子の姿が、脳裏を掠める。

彼女のことを好きだと気付いたのは最近のことだった。というより本人から自分の気持ちを教えてもらった。

好きな人なんて……自分の気持ちなんて、知らないままの方が幸せだったのかもしれない。

彼女は生徒で、女の子で、なによりもう振られているようなものだ。

このまま好きでいても絶対に幸せになれない。


「あら。気になっている人がいるみたいね」

「い、いないよ。私はもう鹿島さんと婚約してるんだし」

「ああもう、貴女も頑固よね。意志が強いのは認めるけど、自分の気持ちから逃げるのはやめなさい」

「逃げてなんか、ない」


幸せな道を進んでいるのだ。自分で決めたことなんだから、私はそれを貫き通すだけ。

頑な私に呆れたのか、丸戸さんは重い溜息を吐いた。


「しかたないわね、貴女にだけは黙っておく約束だったけれど、言わないとこのまま結婚しそうだし。

 ま、貴女を今こうして焚きつけている時点であの人との約束を破っているようなものだから、今更ね」

「えっ?」

「今まで黙っていたけれど、社長…貴女が慕っていた先生は事故死なんかじゃない。鹿島に消されたのよ」

「!!」


どういう、こと?

大きな企業にはそれぞれ裏があり、消したり消されたり物騒なやり取りがあることは知っている。

鹿島グループだって大企業だ。それなりに色々とやっているに違いない。

でも先生は。鹿島光葉さんは、おんなじ『鹿島』なのに、どうして。

だって、身内なのに、そんなことするはずが。

それに先生はずっと会社の為にずっと仕事を頑張っていたのに。

あんなに、仕事だけをやっていたのに、そんなのって。


「社長はある時を境に鹿島に反旗を翻したの。鹿島の悪行を調べて裏を取って、周りを固めて、公表する一歩手前まで上手くいったんだけどね。残念な結果に終わったわ。鹿島は身内でも容赦しない。使えないものは、我が子でも処分する。それがあの大企業の上層部『鹿島』よ。鹿島雅之も、その性質を立派に受け継いでいるわ」


衝撃の告白に、驚きを隠せない。

口の中がどんどん渇いていく。


「なんで、今まで黙っていたの? 結婚に反対していたのなら、言ってくれていれば!!」


あの人を手にかけた人たちなら、絶対に婚約なんて受けたりしなかった。

幸せになれなくても、祖父母の会社が潰れてしまおうとも、死んでも断っていた。


「遺言なのよ。もしもの時の為に、あの人から託された約束のひとつ。もしも鹿島に消された場合、貴女に余計な感情を抱かせないよう、死んだ原因は話すなって口止めされていたの」

「そんな……」

「貴女に身内の汚い部分を知られたくなかったんでしょうね。社長は貴女に嫌われることが恐かったみたいだから」


信じられないことばかりだったけれど、今日一番信じられない言葉を聞いてしまった。

先生が、私に嫌われることが、恐かった?


「嘘、うそだよ…だって私、先生に嫌われてて」


冷たくて優しくなくて、傍にだって居てくれなかったのに。

素っ気なくて、こっちを見てくれなくて、泣いても面倒臭そうに顔を歪めて舌打ちするようなあの人が。

私のことを、好きでいてくれているはずがない。


「あの人が、貴女の事を嫌いだった?」


丸戸さんは困ったように、悲しそうに、眉を下げて。





「そんなわけないでしょう」





強く、そう断言した。




「あの人は『鹿島』だから、上手に本当の好意を向けることが出来なかっただけよ。社長は社長なりに、紫乃ちゃんと母親……麻衣のことを大事にしていたわ」

「そん、な、こと」

「貴女の生活費、養育費は母親の保険金と遺産を使うように。そして、貴女が心から好きになった、一生を共にする相手を選んだ時には、社長の隠し財産を遺贈するよう頼まれていたの」

「なっ」


なんで? どうして?

そんなの、信じられない。


「あの人の財産はほとんど鹿島の物になったけれど、隠し財産は全て、遺贈によって貴女が相続することになってる。一生は無理だけど、しばらくは遊んで暮らせるぐらい大きい金額よ」

「…………」


お金なんて、どうでも良かった。

私のことを嫌っていなかったのなら、どうして。

どうしてずっと、傍にいてくれなかったの。


「信じられないのも無理はないわ。愛想は皆無で、優しさなんて一ミリも見せなかったもの。でもね、思い出して。社長の最期の日。あの日、紫乃ちゃんと社長は珍しく二人で出掛けていたわよね」

「う、うん」


確か、急に先生がやって来て、出掛けるぞって行先も伝えずに車に乗せられた。

ご飯を食べていなかったからコンビニに寄って、おにぎりを選んでいる時に先生の携帯に電話がかかって来たので、私にお金を渡して先に彼女は車に戻っていったのだ。そして忘れられないあの事故が起こった。


「あの時、どこに行こうとしていたか、知っている?」

「ううん。教えてくれなかったから」

「遊園地」

「え?」

「あの人は、貴女を遊園地に連れていこうとしていたの」


今日は信じられないことばっかりだ。

だってあの先生が私を遊園地に連れていこうとしていたなんて、絶対に考えられないことだから。


「そこでね。社長は帰る時に、貴女に言うはずだったのよ。一緒に暮らそうって」


「―――――――っ」


「鹿島を告発する準備が整って、ようやくひと段落着いたから社長は貴女を引き取ることを決心してね。柄にもなく緊張してて、なんて言おう断られたらどうしようなんてブツブツ独り言零しながらぐるぐる社長室を歩き回って、ふふ、あんな面白い社長初めて見たわ」


這い上がってくる感情を押さえて、飲み込む。

まだ、駄目だ。

まだ、泣いちゃだめだ。

この口は喚く前に、大事なことを伝える役目がある。


「ねえ、鹿島光葉の最期の言葉を覚えてる?」

「うん。もちろん」


聞き間違いかと自分の耳を疑ったけれど。

きっとあの人の、私に対する想いの全てが詰まっていたのかもしれない。

息も絶え絶えの掠れ声で、でもいつもと変わらない愛想の欠片もない口調で、彼女は私に最期の言葉を残してくれた。



『誰よりも、幸せになれ』


なんて。


お母さんと同じ言葉を最後に遺されたら、何が何でも叶えられずにはいられない。

でも、誰よりも幸せになる方法なんて解らない。

だからみんなが言う幸せを辿れば間違いないのだと、思っていた。


「あの人は今でも、貴女の幸せを願ってる。口ではどんなことを言っても、貴女のことを忘れてしまっていても」

「今、でも?」

「紫乃ちゃん。私が言わなくても、貴女ならきっと見つけられるわ。どんなに見た目が変わっていても、性格が反転していたとしても、この世で起こりえない奇跡を信じることが出来なくても」

「どういう――――」


丸戸さんはそれ以上何も言わず、曖昧な笑顔を作って立ち上がった。


「そろそろ帰るわ。あの人にはもう関わるなと言われたけど、私にできることはやっておきたいし」

「ねえ、丸戸さん。その、あの人って」

「……誰かさんに似て陽気で、誰かさんに似て不器用な優しさしか向けれない人よ」


最近ずっと頭に棲みついているあの子がまた、思い浮かんでしまう。

考えないようにしても、気付けば彼女のことを考えてしまう。



『間違ってもいい。幸せにならなくてもいい。自分が一番大切だと思った選択をすればいい。改めて、そう願うよ』



あの子の言葉が、ずっと耳に残っていた。言葉の意味をずっと、考えていた。

どうしてかわからない。ずっと、ずっと、考えていた。


『……単純な話だよ。鹿島には個人的な恨みがあるんだ。奴が幸せになるのが許せないだけ』

『私さ、わりと本気で鹿島を潰そうと思ってるから。わかる? つまり、先生の幸せを壊そうとしてるんだよ』

『私も鹿島と変わらない。自分本位で酷い人間なんだよ、昔から』

『無意味だったはずの過去に、やり残したことがあったみたいだから。

“私”がやらなきゃいけないことを、見つけたんだ』


あの子がやろうとしてること。

鹿島への復讐。鹿島を、凋落させること。それは結果的に、私の幸せを奪うことになる。

本当に? 彼女がやろうとしているのは、本当にそれだけなのか。


思い出して。

見つけなきゃ。


『自分で立てる? 美人に手を貸してあげたいのは山々だけど、両手は買い物袋で塞がっててさー』


初めて会ったあの日。

不審者に襲われていたところを、あの子が助けてくれた。

でも、腰が抜けて座り込んでいた私に、手を貸してはくれなかった。

小さな買い物袋だったから、片手でまとめて持てたはずなのに。

ゆっくりと長い時間をかけて立ち上がろうとしていた私を、ずっと見ていた。見ているだけだった。


……ああ、そうか。


あれは、見守ってくれていたんだ。

あの時から、ずっと、見守ってくれていたんだ。



『あの人は今でも、貴女の幸せを願ってる。口ではどんなことを言っても、貴女のことを忘れてしまっていても』



見つけた。



間違っているかもしれない。

間違っていてもいい。


もう二度と、私は自分の意志を間違えない。


「丸戸さん」


帰ろうとしていた彼女に声をかける。少し、声が震えていたかもしれない。けど、まだ大丈夫。

目の辺りが熱くて、涙が溢れそうになっているけど、力を込めて我慢する。

この目を曇らせるわけにはいかない。まだ、あの子を見ていなきゃいけないから。




「私、好きな人がいるの」



心から。



「その人の、傍にいたいの」



資格がなくても。


たとえ受け入れて貰えなくても。


その道が苦難の連続だとしても。



「その人を選んで不幸になっても、そこに小さな幸せがあれば。

 私はきっと誰よりも幸せなんだろうなって、思う」



「そう」


丸戸さんは短い言葉ひとつでそれ以上は何も言わず、私のことをそっと抱きしめてくれた。

この人もきっとお母さんやあの人に頼まれて私のことを引き取ってくれたんだろう。

それでも、私が大人になるまでずっと大切に育ててくれて、見守ってくれていたのだ。


「頑張りなさい」

「うん。私はもう子供でも生徒でもない。大人になって、先生になったんだから。

 今度はあの子に……あの人に、教えてあげるの」

「貴女まさか」


慌てて身体を離され、驚きのあまり丸くなった目を向けられる。

どうやら自分が見つけた答えは間違っていなかったらしい。

けど、それは重要なことじゃない。あの子が何者であれ、私は答えを変えたりしない。


「会いに行ってくるね。私、言いたいことが、いっぱいあるから」

「そうね。……行ってらっしゃい」


丸戸さんより先に部屋の外へ出る。

今すぐ伝えたいことがあるから。


何よりも、今すぐ会いたいから。


あの人に。







椎葉さんに、会いたかった。








「いってきますっ」




丸戸さんに見送られ、私は駆けだした。


 

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― 新着の感想 ―
[一言] やっぱこのシリーズすごいです。 もう、涙でぐちゃぐちゃです。 先生頑張れ!  自分の本当の気持ちを、一番大切なあの人に伝えてあげて。
2021/01/07 05:29 退会済み
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