WPspinoff18 それは誰かの通り道
ひなたんと話をしたその日の放課後、私は一人であゆの家を訪れていた。
その目的は、世界でも一目置かれている大企業の社長『オーギュスト・ルヴァティーユ』の助力を得るためだ。
鹿島を潰すには対抗できる…いや、上回る有力企業の力を借りることが、一番効率がいい。
前世の自分はオーギュスト氏と接触する機会はなかったが、今世ではあゆを通じて面識がある。しかし、知り合いといえど簡単に会えるような間柄ではなく、ましてやなんの変哲もない子供である私が有力企業の社長と交渉など、夢のような話であった。
……だが、わずかな糸口は存在する。それは彼の娘、アル・ルヴァティーユとその姉に、仲介をお願いすることだ。
オーギュスト氏は、それはそれはもう親バ…子煩悩であり、娘たちと、孫のように可愛がっているあゆに甘い。
いくら愛する娘たちの頼みといえどビジネスの話となれば別かもしれないが、ひとまず切欠さえ作れればいい。
アルの助言によれば、彼女の姉の協力を得られれば、オーギュスト氏を交渉の席に座らせることができるかもしれないとのこと。
なので意気込んであゆの家にやってきたのはいいが、お目当ての人は仕事に行っていて留守だった。
今の時間帯なら仕事に行っていると知っていたはずなのに、頭からすっぽりと抜け落ちていたみたいだ。
ああこれは参ったな、柄にもなく緊張してしまってる。こんなことじゃ、話を有利に進めることなんてできやしない。
花壇の雑草を引っこ抜きながら、心を落ち着かせよう。クールにいこうね、クールに。
ぶちぶちと無数に蔓延る雑草を摘んでゴミ袋の中へ入れていく。しかし抜いても抜いても減らないなぁ……
「ちょっと待て。なんで私、友達の家の草をむしってんの?」
冷静になって、ようやく現状に気付く。
目的の人がいなくて、仕方ないから出直そうとして、一人だけ家にいた家主に捕まって、笑顔で軍手を手渡されて、草が伸びまくりの庭に案内されて――黙々と、草むしりをしていた。
いつもなら上手いこと言って逃げ出せたはずなのに、まんまと手伝わされている。なんてこったい。
「まあまあ。待ち人が帰ってくるまで暇なんだから、雑草でも抜いて時間を潰しててくれないかな。この時期は大変なんだよ。抜いても抜いても生えてくるし、暑いから長時間の作業もできない」
家主……あゆのパパさんは、苦笑して縁側に腰を下ろす。
「はぁ。いや、別にいいけどね」
どうせ他にやることもない。恩を売る、なんて考えていなかったけど、むしろ日頃お世話になっているから少しでも恩を返しておこう。たかが草むしり程度、自分がこの人から教えてもらった事の価値と比べれば安いものだ。
「ありがとう光希。そう言ってもらえると、すごく助かる」
「どういたしまして。でもそうだなー、頑張ったらご褒美を期待しちゃうんだけど?」
「ああ、それならちょうどいいものがある」
そう言って彼女はそそくさと部屋へ引っ込み、箱のような物を持って戻ってきた。
手渡されたのは、昔流行った深夜アニメに登場するキャラクターのフィギュアだ。
「なっ!? こ、これはまさか、幻の『マルセリア・キルベスト』の限定フィギュア!?
人気キャラなのにたった101体しか製造されていない超プレミア品!
発売されてもう何年も経つけど未だに高値で取引されていて中古でも数万はするお宝だよ!?
有名な原型師によって作られたそのボディは最高傑作であり、
特にの腰の曲線と太ももの膨らみなんて芸術の域を超えて宇宙へ飛び出すほどの――」
「いや、解説とかいいから」
彼女はフィギュアに関心がないのでその価値がわからないのかもしれないが、これは特定の人々にとって喉から手が出るほど欲しいものなのだ。
流石にこんな高価な物は貰えないので、フィギュアは丁重にお返しする。
要らないのならあゆにプレゼントしたらいいのではと一瞬思いかけたのだが、親が全裸の美少女フィギュアを子供に渡すのは非常によろしくない気がしたので黙っておいた。でも祖母が際どい漫画やらアニメを孫に勧めてるんだけどそれはいいのだろうか……うん、よその家庭に余計な口出しはするまい。頑張れパパさん。
「そうだ。冷蔵庫にアイスがあったから、報酬はそれでいい?」
「やったー!」
冗談半分で言ったことだけど、本当にご褒美が貰えるようだ。
もりもりやる気が沸いてきたので花壇に向き直り、草むしりを再開した。
ぶちぶちと無心で雑草を引き抜いて、ぽいっと袋に入れていく単純作業。ひたすらそれの繰り返しなので、すぐに飽きそうだ。ていうかもう飽きた。沸いたはずのやる気は早々に消えてどこかへ行ってしまったが、除草作業は気合で頑張ろう。
しばらく草むしりに没頭していたけれど、横目で時計を見ればそろそろお目当ての人が帰宅する時間だ。
あゆはアルと一緒にカラオケに行ってるから、彼女たちはもう少し遅れて帰ってくるだろう。
庭の雑草も大分むしってやったので、結構すっきりした。まだまだ生えているので、ママさんが帰ってくるまでもうちょっと続けますかね。
陽も沈みかけているからそこまで暑くないが、縁側に座っているあゆのパパさんには辛いのか、気怠そうにこちらを眺めている。彼女は体が弱く、すぐに体調を崩してしまう人なので心配だ。
「しんどいなら冷房の効いた部屋でのんびりしてなよ。一人でもサボらないで真面目にやるからさ」
「……見張ってないとせっかく植えた花の芽まで引っこ抜きそう」
「信用ないなぁ。そんなことしない!とは断言できないのは事実だけど。残念ながら」
雑草と花の芽の区別って苦手なんだよね。どれも似たり寄ったりで、判断が難しい。
さっきも間違って抜こうとして、何度かパパさんに怒られてしまったのだ。
もう面倒だから除草剤を撒いて綺麗にすればいいじゃんと愚痴れば、花まで枯れると言われて頭に拳骨を落とされた。
「…………」
見分けるのには時間がかかる。手間もかかる。
だから、昔の私は“雑草”と判断したものを枯らしていた。
育てればいつしか綺麗に咲くかもしれなかった芽を、雑草と変わらないからとすぐに摘み取った。
大事に育てれば、綺麗な花を咲かせたかもしれないのに。
雑草であろうとなかろうと、邪魔であれば徹底的に排除してきた。
何の感情も抱くことなく淡々と。今、私が草むしりをしているように、ただの作業として。
考えることも、見ることさえもせず。
「こら光希」
「あいたっ」
こつん、とまた拳骨が頭に降ってくる。今度はちょっとだけ威力が弱い。
おかしいな。間違って花の芽を抜いたわけでもないのに、どうして殴られているんだろう。
「光希が真面目な顔をしてると、気持ち悪いなぁと思って」
「ひっど」
目の前の彼女は僅かに笑みを浮かべているけれど、目は笑っていない。
真面目な顔されるとこっちだって困るんだけどね。
「そんな真剣に雑草を抜いてたら、無駄に疲れるだけだよ。除草を極めてプロにでもなるつもり? なってくれたら私は凄く助かるけど」
「嫌だよそんなプロ」
「それは残念。けど草取りはもういいよ、ありがとう。助かった」
「どういたしまして。大変だったけど、いい暇潰しにはなったよ」
縁側に腰かけて、疲れた体を休める。
随分とすっきりした庭をぼんやり眺めていると、パパさんは報酬のアイスを持って来てくれた。
おお、これって私が好きなやつだ。美味しいけど量は少ないし値段は高いので滅多に買わない物だから素直にうれしいご褒美だ。労働の対価なので、遠慮なくいただきますよ。
袋から取り出してアイスを口に含むと、優しい甘みとひんやりとした冷たさが脳に染み渡る。
うん、いつ食べてもやっぱり美味しいや。
勿体ないのでゆっくりアイスを食んでいると、隣に彼女が座る。
もしゃもしゃと口を動かしている私の顔をじっと見つめて、目を細めた。
「それで、光希はどんな厄介事に首を突っ込んでんの?」
「……バレバレかぁ」
気付かれるだろうと予測していたから、驚きはしない。
自分の態度がいつもと違うことは自覚しているし、隠しきれるとも思っていなかった。
「そりゃあいつもの間抜け面が珍しく真面目な顔をしてるんだから、誰でも気付くよ」
「ひっどい」
味わいながら食べていたアイスを一気に口の中へ入れて、飲み込む。
交渉する相手はまだ帰宅していないけど、この人になら話しても構わないか。どうせ伝わるだろうし。
「どうしても、やらなくちゃいけないことがある。だから力を借りたくて、頼みに来た」
「ふうん。なるほど……歩多だけじゃなく、光希も成長してるんだな」
「えっ?」
「何でも一人でやろうとする光希が、人を頼ることを覚えたみたいだから」
親が子を褒めるような眼をして、がしがしと乱暴に頭を撫でられる。
……この人、何年たっても撫で方が荒くて下手くそだよね。ちょっと撫でられただけで髪がぼっさぼさなんだけど。
「違うよ。頼るんじゃなくて、利用するんだよ。世界的大企業の社長を父に持つ、彼女を」
「……ああ、そういうこと。ルヴァティーユの力を借りたいんだったら、彼女じゃなくて私でもいいんじゃない? お義父さんと話をしたいのなら、私から言っておくよ」
あ、そうか。そういや一応この人も、義理の娘ってことになるのか。
実の娘と同様に愛されてるみたいだから、話を繋ぐことくらい容易いことなのかもしれない。
でも利用するって言ってるのになんでそんな軽く了承してくれるんだろう。こっちは助かるからいいけど、気になってしまう。私が捻くれているせいかもしれないが、無償の好意ほど怖いものはない。
「あのさ……なんでそうあっさり協力してくれるの? 利用するって言ってるんだから、不快に思わない? 身内を厄介事に巻き込もうとしてるんだよ?」
「そりゃ面倒なことは正直ごめんだけど、友人が困ってたら手助けしたいって思うのは普通のことだよ。出来ることがあるのなら、出来る範囲で協力する。利用するっていうんなら、利用してくれて構わない。なんていうかまあ、これでも信頼してるんだよ、光希のことは」
普段の覇気のない目とは程遠い、 力強く、そして曇りのない綺麗な瞳が自分を射抜く。
知っていた。出会った時からこの人はこういう人だ。困っている人がいれば、他人でも助けずにはいられない。
それが大事な人なら、自分を犠牲にする事も厭わない。損を自ら望んでいく、愚かで理解し難い、私が大嫌いだった、自己犠牲を体現したような人。
なのに私は、ずっと前からこの人に憧れのようなものを抱いている。
「だから、なんで簡単にそんな格好いいこと言うのさ……まったくこれだからイケメンは」
「誰がイケメンだっての。言っとくけど、私はオーギュストさんと話す機会を作ることしか出来ないから。あとは光希が自分で頑張るしかないんだよ」
「機会を作ってくれるだけで十分。あとはこっちでどうにかするから」
交渉が上手くいかなくても、他に策はいくつか用意してある。
強硬手段という下策しかないが、諦めることだけはしたくない。
「会社に関わることは彼女の方が向いてるけど、仕事絡みだと融通が利かないんだよ。だからこのことは黙ってた方がいい。光希が行動することで損害をもたらす可能性がほんの少しでもあれば、問答無用で行動を制限される」
「そうだね。うん、出来ればそうしたかったんだけど。ちょっと遅かったかな」
「千晴」
背後から優しげな声がした。心地よいはずのその声に、呼ばれた本人はびくりと体を震わせる。
……どうやら少し前から会話を聞かれていたようだ。私としたことが、人の気配に気付かないなんて。
それだけ余裕がなかったんだろうけど、こんな時だからこそ気を張っていないといけないのにな。
「ゆっ、柚葉。お、お帰りなさい」
「はい。ただいま帰りました」
にっこりと綺麗な笑顔を向けてくれる彼女こそルヴァティーユ家の長女であり、あゆの母親がわりでもある柚葉・ルヴァティーユだ。
帰ってきたばかりで仕事用のスーツを身に着けたままだからか、いつもと雰囲気が違う。
普段の家庭的な装いもいいけど、今着てる仕事着も凛々しくて素敵だ。
「おかえりなさいママさん……じゃなくて、柚葉さん」
「はい、ただいまです。光希ちゃん、私を待ってる間、庭の草取りをやってくれたんですよね。綺麗にしてくれてありがとうございます。助かりました」
「いえいえ」
「アルから大まかな話は聞いてます。貴女の要望次第で父に取り次ぐつもりでしたが……」
ここで柚葉さんの視線がパパさん――いや、千晴さんの方へ移る。あ、目を逸らした。
「千晴の悪い癖ですね。私に相談せずまた勝手にひとりで決めて、自分だけ背負い込むつもりですか?」
「いや、そういうつもりじゃなくて。柚葉に話すとややこしくなりそうだなぁと思ってだね」
「私を巻き込まないよう配慮してくれるのは嬉しいです。けど、大事なことを隠そうとするのは止めてくださいって、前に約束しましたよね」
「うっ、はい。ごめんなさい」
どうやら千晴さんの方が劣勢らしく、頭が上がらないみたいだ。
あゆ――天吹歩多の父親代わりであり、柚葉さんの内縁の結婚相手である彼女、天吹千晴さん。
基本、柚葉さんは千晴さんに激甘で従順だけど、危険を孕む可能性がある事に関しては頑として譲らない。
本気で心配されていることが解るから、捻くれ者の千晴さんも素直に従っている。
「でも、そういうところも含めて好きなんですけどね」
「……知ってる」
おーいそこのお二人さーん。隙あらばイチャつくの止めてくださーい。
「それで、光希ちゃんはうちの会社の力を借りたいんですよね。なら、相応の理由と対価を持っていますか?」
「うん。今ここで話せないけど、大丈夫。きちんと持ってるよ。付随する責任と危険も、承知の上だから」
理由ならある。
鹿島の人間として、やり残したことをやり遂げなければならない。
過去の責任を、果たさないといけない。
それと対価はこれから凋落していく予定の『鹿島』だ。ルヴァティーユは海外では軌道に乗っているが、日本ではまだそれほど利益を出していない。そして鹿島は衰退しつつあるとはいえ、日本では指折りの大企業。発展の為の踏み台に丁度いいし、好調の部門を吸収するのもいい。鹿島の表も裏も知り尽くしている私がルヴァティーユに情報を渡して唆せば、簡単に鹿島は潰れるだろう。どちらも有力企業だが、比べることが失礼なほど規模に差がある。ルヴァティーユという巨大な後ろ盾を得られれば、事は簡単に進むはずだ。
「貴女が私たちを頼るという時点で、理解していると思っていました。なら、何も言うことはありません。私も微力ながら協力します。他に必要なことがあれば遠慮せずに言ってください」
「あ、ありがとう。止められるかと思ってたから、拍子抜けしちゃった。柚葉さんもあっさり協力してくれるんだね」
いやほんと、有難いんだけどね。
普通なら問答無用で阻止されてもおかしくないことなのだ。
「光希ちゃんが本気なのは、解りますから」
柚葉さんは穏やかに微笑んでから、すぐに真面目な表情に切り替える。
「けれど貴女が踏み込もうとしている先は、子供の遊びでは済まされない領域です」
念を押すように警告された。
一歩間違えば命を失ってしまう、そういう世界の一部に私は片足をつけようとしてるのだ。
記憶はないが、踏み込みすぎてしまったことが原因で過去の自分は消されているので、嫌というほど理解している。
子供だからと言って、見逃してもらえるほど優しい世界じゃない。入ってしまえば子供も大人も関係ない。優先されるのはどれだけ利益を得られるかだ。
「……望むところだよ」
もう二度と関わりたくないと思っていた世界に、私は自分の意思で戻る。
そうしないと、何も成せないから。
「まったく。何を言ってもどうせ聞かないだろうから止めはしないけど、無茶なことはしないように」
「ふふふ、無茶は私の得意分野だからね」
「そうだった。光希は昔からそういう奴だった」
「千晴もですけどね」
「うっ」
隠し事をされそうになったことを根に持ってるのか、柚葉さんが厳しい。
そりゃ他人の子の父親を数年演じるなんて無茶をした人だ。
昔も色々と無茶なことをやってきたみたいだし、柚葉さんも大変な思いをしたんだろう。
私たちの視線を受けて、千晴さんは額に手を当ててから疲れたように溜息を吐いた。
後で奥さんのご機嫌取り頑張ってください。
「じゃあ、そろそろ帰るね。あまり遅くなるとお母さん達がうるさいから」
「そうか。もう暗いし、送ろうか?」
「いいよ大丈夫。私の心配はいいから、あゆを迎えに行ってあげてよ」
こちらの無茶なお願いを聞いて貰ったのだ。これ以上、世話になるわけにはいかない。
それに、一人のんびりと歩いて帰りたい気分でもあった。
「光希」
家に帰ろうと二人に背を向け一歩を踏み出した途端、千晴さんが私の名前を呼んだ。
その声に足を止めたけれど、なんとなく振り返ることはしなかった。
「絶対に無理はするな」
こんな私のことを、本気で心配してくれている。
彼女は厳しくて優しいから、私が何をしようとしているか問い質さない。
そして、私を止めるようなことは、絶対にしない。
(……ごめんなさい)
生きる意味を失っていた幼い頃。
ただただ歳を重ねて、人生を浪費していたあの時に出会えたことは本当に奇跡だったと思う。
意味なく差し出した私の手を取って大事に握りしめてくれたあゆと、
面倒くさそうな顔をして無知な私を諭してくれた千晴さんと、
無茶ばかりしていた私を優しく見守ってくれていた柚葉さん。
彼女たちと出会えなかったら、椎葉光希の人生は色を付けることなく、灰色のまま終わりを迎えていたかもしれない。
生きる意味をくれたのは両親で、人生に初めて鮮やかな色をつけてくれたのは、あゆとその家族だ。
それほど感謝している相手を、ついに利用してしまった。
引き返して、ひたすら謝って、全部冗談だよって言ってしまいそうな口を必死に閉じてきつく結ぶ。
全部なかったことにして今まで通り何もなかったように過ごしていく。それはとても甘美で、魅力的な選択だ。
けれど内側にいるもう一人の私が楽な選択を許さない。退路はもう、自分で塞いでいる。
(ごめんなさい)
心の中で繰り返し謝って、何も言わずその場を離れる。
振り返ることなくただ前を見て。前だけを見て、先へ向かう。
大丈夫。
今のところ計画は順調に進んでいる。だからきっと上手くいく。
(そうだ、これで、ようやく――――)
ほんの一瞬だけ、口元が歪に緩んでしまったような気がした。自分は今、笑ったのだろうか。
笑みを浮かべたつもりはないのだが、気分が高揚して自然と笑ってしまったのかもしれない。
思い通りに事が進んでいるので機嫌がいいのだろうと、そう思うようにしておく。
とにかく今は余計なことに意識を割いている時間はないのだ。
雑念を振り払うように頭を振って、歩みを進める。
これからのことだけを考えながら、すっかり暗くなってしまった道をゆっくり帰ることした。
*
「いいんですか?」
小さな背中が見えなくなってから、柚葉がぽつりと声を漏らした。
その問いに対する答えは口に出さず、代わりに大きな溜息を吐き出す。
……本音を言えば、良くはない。大人として、彼女の無謀な行動を諌めるべきだったのだろう。
危険だと解っていることに、むざむざ関わらせたくない。
どんなに賢くても、どれほど大人の振舞いが出来たとしても、あの子は子供なのだから。
けれど。
どんなに正論を吐いても、感情は別だ。
「何を言っても光希は止まらないよ」
そのことを誰よりも、自分がよく知っている。
「そうですね。誰かさんと一緒で」
そして、彼女も。
まだ少し怒っているのか言葉に棘がある。
さっきの嘘と、そして昔やらかした無茶のこともあるから、彼女が怒ってしまうのも仕方がない。
今まで散々困らせてきたから、お小言ぐらいは喜んで受け入れよう。
むしろ私のことを思って遠慮なく本音を言ってくれるから嬉しいぐらいだ。
「柚葉は光希を止めると思ってた」
「止めませんよ。私たちを利用するとまで言ったんですから、それほど大事な理由があるんでしょう。それに逆効果になるって千晴も解ってますよね? 止めれば止めるほど、あの子はきっと立ち向かうはずです」
流石、わかってらっしゃる。
光希の頼みを断ることもできたのだが、私たちの協力を得られなくてもあの子なら別の方法で問題を解決しようとするだろう。それなら、始めから彼女の頼みを受け入れて支援することが良いように思えた。
いっそ全てを私達に任せてくれた方が簡単なのかもしない。
けど、そうできない事情があるから光希は何も話さなかったのだ。
「今、光希ちゃんは前しか見ていません」
「……それなら、転ばないように大人が見ててやるしかない」
「千晴」
過保護かもしれない。余計なお世話かもしれない。
だが、自分にできることがあるのなら。自分の手の届く範囲にいるのなら。
自己満足と言われようと、偽善だと蔑まれても、この手を差し出すことは止められない。
「貴女は変わりませんね」
「変える気がないからね」
苦しくても悲しくても、損をすると解っていても。
それが、自分が選んで歩んできた道なのだ。
簡単に変えられるほど、積み重ねてきた想いは軽くない。
「お義父さんの所へ行ってくるから、柚葉はお義母さんに連絡入れといて」
義父母が事業視察の為に近くの別邸まで来ているのは知っている。
上着を羽織り、車のカギを握りしめて玄関へ向かう。
「私も行きます」
「えっ、でも」
「あゆの迎えならアルにお願いしています。それにタクシーも手配済みで二人とも別邸に向かってもらうようになっています。ちょうどお婆さまもいらっしゃるので、今日はあっちでご飯にしましょう」
いつの間に。あとなんでうちのばあちゃんは柚葉さんちの別邸にいるの。やめて恥ずかしい。
「はぁ。じゃあ、行こうか」
「はい」
ご機嫌取りを兼ねてぎこちなく彼女の手をとって握ると、嬉しそうにはにかんだ笑みを向けてくれた。
散々酷使して今はもう思い通り動いてくれない右手だけど、大切な人の手を握る事くらいはできる。
こんな傷だらけの手でも、愛おしそうに優しく握り返してくれる。
だから、充分だ。
充分、幸せだ。
「私たちは、私たちにできることをしよう」
まずは光希に頼まれたことを。
それから念のために弁護士の親友に話を通しておこう。いざという時に、力になってくれるはずだ。
自分自身、出来ることは少ない。身近な人だけを守る事だけで手一杯だ。昔も今も、それがとても悔しいと思っている。
人は一人では生きられない。全てを自分だけで補うことは限りなく難しい。
だから足りないところを補ってくれる人がいてくれる。
私に柚葉がいてくれたように、光希にもきっといるはずなのだ。
私たちでも、ご両親の手でも届かない、彼女の深い部分に手を伸ばせる人がきっと。
こんなお節介も、その人が現れるまでだ。
「……あの光希に付き合える人か。想像できないな。ていうか存在してるのかな」
ちょっと自信なくなってきた。
お調子者で子供っぽいくせに実は何でもできる完璧超人。しかも普通とは違う何かを腹に抱えているし一癖も二癖もある一筋縄ではいかない奴だ。好きになっても、簡単にはいかないだろう。
それに光希は向けられる好意だけではなく、相手に好意を向けることが苦手なのだ。
苦手というよりは、信じられないと言った方が正しいかもしれない。
「そうですか? 光希ちゃん、意外とその人の為にいま色々と頑張っているのかもしれませんよ」
「柚葉、もしかして何か知ってる?」
「いいえ。ただ、あの子の瞳を見てたらそんな気がしただけです」
なんにせよ、あとは光希の問題だ。
あの子にしかできないことにはこちらは関与できないし、する気もない。
できることだけを全力でやって、あとは見届けるだけだ。
「あゆにも素敵な人ができるといいですね」
「は? えっ、いや、それはちょっと」
心の準備がまだといいますかうちの歩多にそういうのはまだ早くないですかね奥さん。
順調に成長しているとはいえまだ子供だし親にべったりで甘えん坊だし、いや、でも立派に自立し始めているから……いやいやいや、歩多だってもう好きな人くらいいてもおかしくない年頃だよね。
喜ぶべきなんだろうけど、寂しいような気もするな。これも親心ってやつなんだろうか。
複雑な心境で渋い顔を作ると、隣に寄り添っている柚葉に笑われてしまった。
くすくすと笑いを漏らしている彼女に釣られて私も笑う。
まあいいか。
それでも、幸せなんだから。




