WPspinoff14 それぞれの選択
とても懐かしい夢を見た。
まだ私が小さな子供だった頃の、過去の夢。
朗らかな笑顔を浮かべたお母さんが傍にいた頃の、楽しくて、暖かくて、泣きたくなる日々のこと。
あの頃は幸せだったと、心から思う。仕事で忙しかった母は家を空けることが多くて、私はよく寂しい思いをしていたけれど、
時間を見つけて遊んでくれていたし、どんなに遅くなっても美味しい手料理を作ってくれた。
父親は私が生まれた時からいないと聞かされていたけれど、お母さんがいてくれるだけで満たされていたから、気にしたことはなかった。
それに短い間だったけれど、あの人も傍にいてくれたのだ。
今まで生きてきた時間の中で、母と、あの人と過ごした短い日々は間違いなく幸せだったと言える。
(……お母さん)
重たい瞼を開ければ、ほら現実だ。
見慣れたアパートの天井が夢の余韻を散らしてくれる。
満面の笑みでおはようと言ってくれる大好きなお母さんはもういない。
もう二度と、その声も、姿も捉えることはできない。
大人になったはずなのに、いつまでも親の夢を見て、その温もりを求めている自分が惨めで情けなかった。
『子供はいずれ大人になり、親から離れていく。お前はそれが普通より早かっただけのことだ。大人になれば、その辛さは消える』
なんて、あの人は澄まし顔で言っていたけれど。
いつまでたっても大切な人を失った悲しみが消えないのは、私がまだ大人になりきれていないからだろうか。
……教えて欲しい。またあの頃のように教えて欲しいけれど、私が解らないことを渋々ながら教えてくれていたあの人も、もうこの世にはいない。
母の夢は何度も見るのに、どうしてかあの人だけは一度も夢に出てきてくれない。元々素っ気なくて厳しい人だったから、あの人らしいとは思うけど。
それでも私は母と同じくらいあの人のことが大好きだった。
(ああ、そうだ)
私は教師になったんだ。
もう教わる立場ではなく、教える立場の大人になったのだ。
自覚して、目が覚める。
私は教師で、あの子は生徒だ。
「……椎葉さん!!」
眠りにつく前のことを思い出して、勢いよく身を起こした。
あの状況で眠ってしまった自分が信じられない。教師として、大人としてあるまじき失態だ。
いくらあの子が類まれな才能を持ち、自信に満ち溢れていたとしても、あの小さな少女が大人の男性に対抗できるわけがない。
なのに私は、全てを任せて眠ってしまうなんて、なんて取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
どんどん血の気が引いていく顔を両手で押さえ、酷く後悔する。ううん、後悔している場合じゃない。
何よりも先に椎葉さんの安否を確認しなければ……!
「おっ、先生起きた? おっはよー、もう朝だよん」
「椎葉さん!?」
慌てて彼女の声が聞こえた方向に視線を向けると、そこには腕立て伏せをしている椎葉さんの姿があった。
安定した姿勢で腕を動かし、無駄のない動作を繰り返している。なんて綺麗な腕立て伏せだろう。まるでお手本のように美しい。
ええとそうじゃなくて。どうして椎葉さんが私の部屋で腕立て伏せをしているのだろう。
ここは私の部屋で、私しかいないはずで、そもそもどうやって自分のアパートに帰ってきたんだろうというか、椎葉さんが部屋にいるって、
それより腕立て伏せって、ちがちがう、待って待って、頭が混乱してるからもうちょっと待って。
「はい、お水飲む?」
「あ、ありがとう」
腕立て伏せを切り上げた椎葉さんが冷蔵庫からミネラルウオーターを持ってきてくれたので、ありがたく頂く。
起きたばかりで喉が渇いていたのもあって、一気に飲み干してしまった。混乱していた頭も心なしか冷えてくれたみたい。
一度だけ深呼吸をして、椎葉さんを見る。至って普通で、いつも通りの彼女だ。何かあったようには見えない。
「……えっと。あの後、大丈夫だったの?」
「うん? ああ、心配しなくても全然平気だった。先生が寝ちゃったあとは、あのおじさんとお話してすぐに和解できたから。
警察に突き出さない変わりに大人しく帰ってもらったよ」
「本当に? 何もされなかった?」
「本当だってば。むしろ逆……げふん、ではなく。とにかく、何事もなかったから安心していいよ」
どうやら本当に何もされなかったみたいで、ほっと胸を撫で下ろす。彼女が無事で本当に良かった。
わざとらしい咳をしていたことが気になるけれど、嘘を吐いているようには見えない。
最悪の事態だけは避けられたことがわかったので、強張っていた全身が緩んでいくのを感じる。
一番懸念していたことが消えてくれたけれど、すぐに次の疑問がふつふつと浮かんできた。
どうして腕立て伏せしていたのか聞きたい衝動を抑えて、大事な疑問を優先する。
「私をここまで運んでくれたのは、椎葉さんなの?」
「うん。あの場所から一番近いのは先生のアパートだったしね。あ、鍵は先生の鞄から勝手に拝借しちゃった。ごめんなさい」
「それは、いいんだけど。むしろお礼を言いたいくらいで……」
自分よりも大きな私の身体を、どうやってここまで運んだのだろう。あの細い腕で、意識のない大人を抱えることが出来たのだろうか。
どうやって運んだのか気になったので聞いてみると、背負ってここまで運んでくれたらしい。
この小柄な少女のどこにそんな力があるのだろう。
「小さい頃から馬鹿みたいに筋トレしてたから、こうみえて力はあるんだよ。筋肉付き過ぎて女子としてはどうかと両親に言われたから
今では週末くらいしかやってないけどね。ほらほら、触ってみてよ~すっごい固いから」
自慢げに差し出された腕を恐る恐る触ってみると、言われた通り本当に固かった。見た目では解らないけれど、椎葉さんって凄く鍛えてるんだ。
なるほど、今日は週末だ。さっき腕立て伏せをしていたのはそういうことだったのね。
でも、どんなに鍛えていても、自分より大きな体を運ぶのは一苦労だっただろうに。
「そういえば先生、体調はもう大丈夫そう? 顔色は良いみたいだけど」
「あっ、ごっ、ごめんなさい!」
「え?」
体調が悪くて学校を休んだのに真昼間からお酒を飲んで酔い潰れて、挙句の果てには生徒に助けてもらって介抱される始末。
謝って済まされることじゃないのは重々承知しているけれど、謝罪の言葉を言わずにはいられないのは、私の心がとても弱いからだ。
頭を下げたまま顔を上げられないのは、そんな自分が恥ずかしいからで。
消えてしまいたいくらい情けなくて、目元が熱くなってくる。これ以上恥の上塗りをするわけにはいかないと、
ちっぽけな意地が涙を引き留めてくれているけれど、それももう限界で。
ああもう零れそうだ、という絶妙のタイミングで、ぱちん、と指でおでこを弾かれる。その小さな刺激のお蔭で、涙が引っ込んでくれた。
顔を上げると困ったように笑っている椎葉さんが目の前にいて、もう一度同じように、でこピンをされた。
全く痛くないのに、その衝撃はしっかりと私を揺さぶる強さがあった。
「謝られると困るから、元気ならそれでいいよ。それよりお腹空いてない?
簡単なものだけど朝食作っておいたから、食べれそうなら一緒に食べようよ」
最近は朝起きると胃がムカムカして食欲が湧かず、ずっと朝食を抜いていた。
けれど今日は身体の調子も良く気分もすっきりしていて、しっかりお腹も空いている。
昨日、病院に行ったからかな。でも、処方してもらった薬はまだ飲んでないはずだけど。
「う、うん。ありがとう…本当に、色々と面倒かけちゃって…」
「も~いいってば。こっちも普段迷惑かけまくってるんだから、おあいこだよ。ふふふ…それに、いいものを見せて貰ったからね」
「? いいもの?」
にこにこと満足げな笑顔で両手を合わせ、ごちそうさまでした、と椎葉さんは私に向けて言う。
何のことを言っているのか解らなくて戸惑っていると、彼女は笑みを深め、悪巧みをする時によくしている表情を見せてくれた。
「先生って、意外と着やせする方なんだなって。私が予想してた数値がはずれるとは誠に無念なり」
「どういうこ、と……っ!!?」
彼女が示唆したことにようやく気づいて、すぐに自分が身に着けているものを見た。
よかった、服はきちんと着ている。肌蹴てもいない。けれど安堵したのも束の間のことで、来ている服がおかしいことに気付いた。
身体を包んでいるのは、私が普段愛用している部屋着だ。自分の部屋で部屋着を着ているのはおかしいことじゃない。
おかしいのは、私が寝てしまう前に着ていた服ではないということ。寝ながら着替えるなんて器用な真似はできないから、誰かが着替えさせてくれたのだ。
ここには私と椎葉さんしかいない。なら答えは簡単だ。彼女が、ご丁寧に外出用の服を脱がせて、部屋着を着せてくれたということになる。
彼女が呟いていたことはつまりその過程のこと。つまりつまり、自分が寝ている間にあられもない姿をばっちり見られたわけだ。
「みっ、みっ、見たの!?」
「眼福でした」
「――――っ!!!」
その場に崩れ落ちて、声にならない叫びをあげた。
このまま爆発してしまうんじゃないかと心配になるほどの熱が顔に集まってくる。
「まあまあ、全部脱がせたわけじゃないんだから。女同士なんだし、そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃん」
「そうっ…だけどぉぉお…」
彼女の言う通り同性同士なのだから、恥ずかしがる必要はないはずなのに。
何故だか妙に意識してしまって、無性に恥ずかしくて堪らない。
それに私だけが動揺して、椎葉さんは平然としている……そのことが、ほんの少しだけ悔しいと思ってしまった。
色々といっぱいいっぱいで彼女の顔を見れないので、ひとまず頭から布団を被って隠れてみると、くすくすと小さな笑い声が聞こえた。
もう、私、いったい何をやっているんだろう。教師の矜持も大人の体面もひと思いに捨てて泣いてしまいたい。
「やっぱり先生の反応は可愛いなぁ。うんうん、からかい甲斐があるってもんだ」
「か、かわ……」
「じゃあご飯の準備してくるから待っててね。あ、ちょっと聞きたいんだけど先生って白い下着好きなの? 前見た時も白だったような――」
「知りません!」
散々からかって満足したのか、椎葉さんはにこにこと機嫌よく台所へ向かっていった。
全て任せるのは気が引けるから手伝いに行こうと思ったけれど、顔の赤みが取れないまま行ってもまた弄られるだろうと考えて尻込みしてしまう。
あれ、そういえば椎葉さんは昨晩どこで寝たんだろう。朝まで傍にいてくれたみたいだけど、ずっと起きていたわけではないようだし。
私の部屋にベットはひとつしかない。他に寝れるようなところなんてないはず。かろうじて床で寝れるとは思うけど、人が寝た形跡はない。
だとすれば。目線が自然とベットに向いて、ひとつの可能性を想像してしまった。まさかとは思うけれど、同じベットで寝た、とか、なんて。
何処で寝たの、とか寝ているのをいいことに何かしてないか、とか凄く気になるけれど、
聞いたら最後、椎葉さんにいいように遊ばれてしまいそうなので何も言わないことにした。
うん、もう、考えるのはやめよう。それが一番いい気がする。
「へいお待ち! 椎葉さん特製の朝食だよ」
「ありがとう。わぁ、おいしそうだね」
それからしばらくして、椎葉さんが朝ごはんを持ってきてくれた。ご飯と味噌汁と目玉焼きとサラダの、一般的な日本の朝食だ。
小さな丸テーブルを挟んで向き合い、手を合わせていただきますをする。
彼女が作ってくれた料理はどれも普通に美味しかったけれど、味付けは全体的に薄めだった。椎葉さんは薄い味付けが好みなんだろうか。
黙々と食事をして、全て完食してからごちそうさまをする。
きちんとした朝食をとるのは随分と久しぶりだった。思えば、朝食を誰かと一緒に食べるのも久しぶりな気がする。
「椎葉さんは料理も出来るんだね。凄いなぁ」
「意外だった?」
「う、うん」
「私としては、先生が料理できないっていうのが意外だったかなー。
家庭的な雰囲気を漂わせているくせに実は料理が苦手とか詐欺…いやむしろそのギャップが面白いかも」
「詐欺って……これでも昔は努力はしてたんだよ?…ん、あれ?」
料理が苦手だということを彼女に打ち明けたことはないのに、どうして知っているんだろう。
不思議に思っていると彼女は苦笑して、台所と冷蔵庫を見れば簡単に察することができると教えてくれた。
どうしよう。昨日や今日で、私の駄目なところが惜しげもなく披露されてしまっている。うう、また泣きたくなってきた。
「ところで、ご両親にちゃんと外泊の許可はとってあるの?」
「もちろん。先生と熱い夜を過ごしてくるから心配しないでって言ってあるよ」
「それは逆に心配されるんじゃないかな」
「うん、お願いだから捕まるようなことだけはするなって念押しされちゃった。……あ、片づけは自分でするって」
「体調はもう大丈夫だから、せめて片付けぐらいはやらせて」
空になった食器を重ねて持ち上げる。
椎葉さんは朝食の準備をひとりでやってくれたんだから、片づけは私がやりたい。
こちらの意を汲んでくれたのか、彼女は浮かせていた腰を降ろして「それじゃあお願いしようかな」と言ってくれた。
「何もないけど、ゆっくりしててね」
「はーい」
台所に移動して二人分の食器を洗う。自分の分と、自分の予備の食器。
この部屋に誰かが泊まりに来ることなんてないだろうと思っていたから、お客様用の食器は買っていなかったのだ。
たまに丸戸さんが訪ねてくるけれど泊まることはないし、私が料理ができないことを知っているから食事はいつも外で食べていた。
うーん、いざという時の為にお客様用のものを買っておいた方がいいのかな。誰かが来ることなんて、滅多にないだろうけど。
「椎葉さん?」
洗い物を終え、せめてものお礼にと食後のコーヒーを淹れてから部屋に戻ると、椎葉さんは手に持った何かを食い入るように見つめていた。
二つ分のカップをテーブルに乗せてから、彼女が持っている物を覗き込んでみる。
――それは、棚の上に伏せて置いていたはずの、写真立てだった。
「この写真の真ん中に写ってる子供って、もしかして先生?」
「……うん。私が小学生の時に撮った写真だよ」
その写真を見ると胸が詰まって、懐かしい気持ちが溢れてくる。
同じくらい辛い気持ちも湧き上がってくるので、普段は見ないように裏にして伏せていたのだけど。
彼女に動揺を悟られないように、どうにか気持ちを落ち着かせようと努める。
「この、先生を抱きしめて笑ってる人は先生のお母さんだよね。見た目がそっくりだし」
「似てるかな」
「似てるよ」
きっぱりと。そう言った彼女はずっと写真を凝視している。
彼女にとってはただの写真で、特別面白い写真というわけではないはずなのに、その眼は真剣そのものだった。
なんだろう。今の彼女の表情を見ていると、例えようのない気持ちになる。胸がざわつく、というか、これは不安……なのだろうか。
「そっか、これが先生のお母さんね。…はは……見たことも、どんな人かも解らない。全くこれっぽっちも、知らない人だ」
ぽつりと零れた彼女の呟きには、何の感情も込められていないように思えた。
知らないのも当然だ。椎葉さんが生まれる頃にはもうお母さんはこの世界に居なかったのだから、どんな偶然があったとしても、絶対に会うことはない。
もしお母さんが今でも生きていて、椎葉さんと出会っていたら、きっと仲良しになれていたかもしれない。
母はいつも明るくて、面白くて、悪戯好きで、子供みたいな大人だったから、きっと気が合っただろう。
絶対にありえない『もしもの話』なんて空しいだけかもしれないけれど、そんな夢物語を頭の中で描いてしまった。
「ねえ先生。この写真の端っこで不機嫌そうに明後日の方向を向いてる目つきの悪い性格歪んでそうな女の人のこと、知ってる?」
「えっ、あ、うん。母が勤めていた会社の社長さんで、よくうちに来ていたの。というより、母が無理矢理連れてきてたんだけどね。
よく勉強を見てもらっていたから、私はその人のことを“先生”って呼んでたの」
「先生…」
嫌そうな顔をしながらもあの人は沢山のことを私に教えてくれた。
小学生にはまだ早い計算の仕方や漢字の書き方、大人社会の常識や難しい言葉の意味まで、幅広く叩き込まれたものだ。
聡明な人で教え方がとても上手だったけれど、厳しくて手加減をしてくれないからよく泣いてしまって、そのたびにお母さんが困ったように笑っていた。
でもそのおかげで頭の悪かった私はあっという間に成績を伸ばし、クラスで一番になったのだ。
「私が教師になれたのは、きっとその人のおかげ」
効率のいい勉強の仕方を学んでいたので、先生が居なくなっても成績が下がることはなかった。だから高校も大学も難なく志望校に入れた。
いろんなことを教えてくれた“先生”に憧れて、進路を問われた時にはすぐに教師を選んだ。
進む道を決めたのは自分だし、本人もそんなつもりはなかったと思うけれど、あの人は私が進む道の土台を作ってくれていたのだ。
「なるほどね。……先生、変なこと聞いても良い?」
「うん?」
「先生は、その人のこと、どう思ってた?」
変のことを聞く、と言われたのでいつもみたいにからかい半分で妙な質問をしてくると思っていたのに、椎葉さんは真剣な声色で、少しも笑っていなかった。
どうしてそんなことを聞きたいのか理由を尋ねたかったけれど、あまりにも彼女が真面目な表情をしていたので余計な言葉は慎むことにした。
だから自分が持っている、いつまでも色褪せることのない答えをそのまま彼女に告げる。
「大好きだったよ。憧れてた。冷たくて、厳しくて、優しくなくて、きっと嫌われていたけれど。ずっと傍にいて欲しかった」
どんなときでも優しくなかった。勉強を教えてくれていたのも、気紛れだったのかもしれない。
部下を失っても顔色一つ変えず、悲しくて泣いていた私を慰めようとせず、ひとりだった私に寄り添ってもくれなかった。
でも、どうしてだろう。嫌いにはなれなかったのだ。
どうしてか解らないけれど、傍にいると安心できた。あんなに邪険にされていたのに、それでも。
「優しくなくて、冷たい人だったんでしょ? 普通、嫌いになるじゃん。なんで先生は好きだなんて言えるの?」
「どうしてだろうね。私も、よくわからないの。あの人が何を考えているのかも、全然わからなかった。
でも、そうね。優しくしてはくれなかったけど、酷い人じゃなかった。それに母がいつも言っていたの。
『あの人は本当は優しいけれど、誰かに優しくすることができない人』って」
「なにそれ。お母さんが言っていた言葉を、根拠もなく信じてたの?」
「その言葉も、お母さんのことも、あの人のことも信じてた。信じることが出来る人だったの。だから、好きになれたのかもしれないね」
それに、最後の最期。あの人は、私の幸せを願って息を引きとった。
そんな人を嫌いになれるわけがない。
「はは……そう。そう、なんだ」
椎葉さんは顔を伏せて、絞るように声を紡いだ。
肩を小刻みに震わせて拳は固く握り、俯いているから表情は見えないけれどその姿はまるで泣いているように見える。まさか、そんな。
椎葉さんが泣いているところなんて出会ってから一度も見たことがない。彼女のお母さんでさえ、一年に一度くらいしか見ないと言っていたのに。
どうして彼女が、今、泣いているんだろう。涙を流す理由なんて、見当もつかない。
「あの、椎葉さ」
「はははははっ!」
顔を上げた彼女は、笑っていた。これまた豪快に。
その顔に涙の跡などなく、浮かんでいるのは笑顔だけで、彼女はこれっぽっちも泣いてなんていなかった。
何が可笑しいのか、椎葉さんはけたけたと笑い続けている。私はその様子を茫然と見守ることしかできない。
ひとしきり笑った後、椎葉さんは写真立てを元の位置に戻した。
「……あのね先生。私は今すごく幸せなんだ」
「え?」
いつもの調子で、急にそんなことを言う。彼女の意図が読めなくて困惑していると、くすりと微笑まれた。
「誰かに優しくされる。誰かに優しくすることができる。そんな簡単なことが、そんな単純なことが、嬉しいんだ。
どうでもいいことで笑って、くだらないことで怒られて、ちっぽけなことで悲しくなって、変わり映えしない日々を楽しんで。
普通の人生が幸せで、このままずっと変わらず平凡に生きていたい。これ以上の幸せなんていらないって思えるほど、幸せなんだ」
椎葉さんはいつも明るくて、無邪気で、悪戯が大好きで、悩みなんてなさそうで。
そんな彼女が。まだまだ子供であるはずの彼女が、ひどく大人びた表情で。ごく普通の生き方を、幸せだと言う。
周りの子たちが当たり前だと思っているものを、彼女は特別なもののように、大切にしているのだ。
彼女の考え方は尊いものだと思う。けれど同じくらい悲しいものではないだろうか。
もっと力を抜いて、楽に生きてもいいんじゃないのだろうかと言いたくなってしまう。
けれど、私は椎葉さんのことを何も知らないのだ。
椎葉さんは一度視線を落として、何かを振り切るように、また私に目を向ける。
意志の宿った、力強い瞳で、私を見ている。
「ねえ先生。先生が選んだ幸せは、本当に幸せになれる道だと思う?」
「……それは」
すぐに答えることができなかった。
幸せになれるって、胸を張って答えなければいけなかったのに。
「先生の婚約相手がどんな人間か、丸戸に聞いてるよね。鹿島は情で動くような人間じゃない。金や名誉で動く、性根が腐った人もどきだ。
婚姻を結んだら最後、良くて飼い殺し、悪くて使い捨てのお人形さんだよ。そんな扱いをされる未来に幸せを見出せるの?」
「どうして、丸戸さんのこと……なんで、鹿島さんのこと、そんなに詳しいの?」
「丸戸は古い知り合いでね。先生と繋がりがあるのは知らなかったけど、昨日アパートの前で偶然会って色々聞いた。
鹿島のこともまあ、内部に詳しい知人がいるから色々と知ってるよ。実際、鹿島のことについては先生より私の方が詳しいと思う。
疑うのなら、丸戸に聞いてみるといい」
不思議な子だと、前から思っていたけれど。
椎葉光希という女の子は、私が思っているよりもずっと、底が深いのかもしれない。
「鹿島さんがどんな人だとしても、私は結婚するよ。好きになる努力をする。きっと幸せになれる。
不幸に見えたとしても、私が幸せだと思えば、それは幸せなんだから」
覚悟はずっと前から出来ている。大丈夫、私は自分で選んだこの幸せの道を、幸せだと思うことができる。
「正論だねぇ。私も、先生が言うように幸せは自分で決めるものだと思うよ。…けどさ。そんな幸せで、先生の幸せを願った人たちが喜ぶかなぁ?」
「!?」
「我慢して、無理して幸せになることを、母親が望むわけないだろうに。
死んでいった人間との約束を、願いを、自分を犠牲してまで叶えて何になるの」
「な、なんで、お母さんとの、先生との約束を、椎葉さんが知ってるの? この事は丸戸さんにも言ってないのに」
母の最期の言葉は『幸せになってね。約束だよ』という、遺された者にとって残酷な言葉だった。
幸せを与えてくれていた人がいなくなるというのに、幸せになれだなんて。
「ただの感だよ。なんとなく、そうなんじゃないかなって。先生、妙に意固地になってるからさ」
「……っ、それでも私の気持ちは、変わらないよ」
最後に託された約束なのだ。是が非でも叶えなければいけない。
憐れんでくれた周りの人たちも、私が幸せになることを望んでくれた。だから、幸せにならなければいけないのだと、これまで努力してきた。
何が幸せなのかも解らず、ひたすらに。
「まあいいや。一応、忠告はしたからね。これ以上、私の意見を押し付けはしないよ。
ああそれともうひとつだけ。鹿島雅之の会社は遅かれ早かれ経営破綻するよ。確実に」
「……知ってる。丸戸さんに聞かされていたから」
「ふうん。それでも幸せになれると思ってるんだ? そんなに鹿島雅之のことが好きなの?」
「っ」
揺らいでしまう。せっかく固めた気持ちが、彼女の言葉一つでいともたやすく溶かされてしまう。
本当の事を話して楽になってしまいたい。何もかも彼女にぶつけて、受け止めて欲しいと願っている自分がいる。
でも、駄目。私は裏切れない。この道を進むと決めたのは自分自身だ。
「……鹿島さんは会社のことは大丈夫って言ってたよ。嬉しそうに、これから今以上に力のある会社に生まれ変わるんだって。
その準備を進めてるから忙しくて、たまにしか会えないって言ってた」
「生まれ変わる? どういうことだろ……なにか新しい事でも始めるのか、それとも」
「わからないけど、凄く自信たっぷりだったから。たぶん大丈夫みたい」
椎葉さんは難しい顔で考え込んでいる。
いつも飄々としているから、珍しくキリッとした表情にどきっとしてしまう。
今日の椎葉さんはどこか雰囲気が違うから、落ち着かない。
「過去のデータを調べたけど、ずっと前から鹿島グループ全体の業績は下り坂。
特にここ数年の崖っぷりは本当に酷い。新しいことに手を出しても一時的に回復するだけで後は悪化してる。景気のせいってのもあるけど。
そして一番危ないのは鹿島雅之の経営している会社。鹿島グループに這い上がる力なんてないから、力のある他の企業と協力するしか生き残る道はない。
でも落ちぶれた会社と協力関係を結びたがる企業なんてどこに――――」
ぶつぶつと一人で呟いて、私は放置されている。
思えば彼女は何の関係もないのに、どうしてここまで一生懸命考えてくれているのだろう。
鹿島さんの真実を伝え、結婚しないよう仕向けているのはわかる。それは純粋に私のことを心配してくれているからだ。
でも、それだけじゃない気がする。何か他の理由があるんじゃないかと、そんな気がしてならない。
「ねえ椎葉さん。どうして、そんなに一生懸命なの?」
「ん? あ~~~~~~~~、暇だから?」
「それで誤魔化してるつもりなのかな」
彼女にしては幼稚な誤魔化し方だから、鈍い私でも簡単にわかる。
「……単純な話だよ。鹿島には個人的な恨みがあるんだ。奴が幸せになるのが許せないだけ」
「恨み?」
「そう。だからどうにかして先生との結婚を破談にさせようと必死になってんの。
でも先生が頑固だからな~上手くいかないなって困ってるわけ。ああ、そうだ。知り合いに大企業の重役がいるから、協力してもらおうかな。
私さ、わりと本気で鹿島を潰そうと思ってるから。わかる? つまり、先生の幸せを壊そうとしてるんだよ」
意味が解らない。冗談にしか聞こえない。
椎葉さんが言っていることは混乱した頭でも理解できる。
理性的に考えれば彼女にどうにかできる問題じゃないけれど、この子はやるといったらどんなことでもやってしまう、そんな気がする。
できるわけがないと、安易に笑い飛ばすことが出来ないのだ。
本当にそんなことが彼女にできるのか定かではないけれど、もし彼女の目的通り鹿島さんの会社が破産してしまったら。
「……そんなの、駄目よ…。そんなことしたら、祖父の会社が……っ」
ハッとして慌てて口を塞ぐ。けれどしっかり聞こえていたのか、椎葉さんは苦笑して溜息を吐いた。
「そんなことだろうと思った。幸せになりたいんなら、鹿島じゃなくても良いもんね。何か裏で取引があるんじゃないかと予想はしてた」
「…………」
「なるほど祖父の会社ね。先生の身内に経営者がいるとは知らなかった。丸戸は何も言ってなかったはずだけどな」
「…祖父母とは、絶縁してるの。丸戸さんは私が祖父母と連絡を取り合ってることを知らないから、考えもしなかったのかも」
「丸戸の奴、ここぞという時でいつも詰めが甘いんだよね」
椎葉さんは笑って、いつもの子供っぽい表情に戻る。
言ってることはとんでもない事なのに、不覚にも彼女らしい顔を見て安心してしまった。
「でも良かった。本気で鹿島のことを好きだったら、どうしようか悩んでたかもしれないから。
……先生ならきっと、もっといい相手が見つかるよ。鹿島なんかより、100倍幸せにしてくれる誰かに出会えるよ。
暖かい目をして見守って、穏やかな声で慰めて、優しく抱きしめてくれる人が、きっと先生を幸せにしてくれる」
「椎葉さ―――」
「だから、諦めた方がいい」
「あ――」
わからなかったことが、わかってしまった。
わかった瞬間に終わってしまった。
彼女は知っていたのだ。
私の気持ちなんて、ずっと前から。
私よりも先に、気付いていたんだ。
その上で、諦めろと言っている。
鹿島さんのことも、祖父母のことも。
そして―――― 貴女のことも。
「酷い、よ」
「今更だね」
次から次へと問題を起こして。振り回されて、からかわれて、こっちの苦労なんかお構いなしで、好き勝手に行動する。
そんな彼女に手を焼いていたのは本当。自由な彼女に焦がれていたのも、本当のこと。明るい笑顔に救われていたのも。
昨日、颯爽と助けてくれた貴女を見て心強く思ったことも。今日、久しぶりに貴女と二人で話せた時間がとても嬉しかったことも。
いつの間にか彼女の存在が支えになっていて、どうしようもなく惹かれていたことも、全部ぜんぶ、本当のことなのに。
「私も鹿島と変わらない。自分本位で酷い人間なんだよ、昔から」
「違うよ」
「違わないよ。だってほら、先生のこと泣かせちゃったし」
「これは、違うの」
ぽたぽたと、零れ落ちていく涙。それを、椎葉さんは困ったように見ている。
自分の気持ちに気付く前に…しかもそれを告げる前に断られてしまったことも、確かに悲しい。
けどそれよりも悲しいのは、こんなに近くにいるのに、触れられるところにいるはずなのに、彼女の存在が遠いこと。
私がいる場所よりも遥か先で、見守られているような感覚。
「沢山の人を悲しませてきたよ。尊いものを躊躇なく奪ってきたよ。ね、最低でしょ」
「そんなことっ」
「でも、そんな人間でも好きだって言ってくれるお人好しがいるみたいだから。
こんな子供でも愛してくれる両親がいて、慕ってくれる友人もいるから。私は、今がすっごく幸せ。
だからね、自分が過去にやってきた非道が、どんなに酷いことだったか、思い知るんだよ。
昔の自分が歩んできた人生がいかに無価値で滑稽だったか、嫌でも痛感してしまう」
ゆらゆらと揺れて、そこに見えるのに掴むことが出来ない、まるで蜃気楼のようだ。
彼女はここで生きているはずなのに。まるで、違う世界にいるみたいに、遠く感じる。
貴女はいつだって何でも見透かしているのに、私は貴女が何を考えているのかわからない。
「……けど、無意味だったはずの過去に、やり残したことがあったみたいだから。“私”がやらなきゃいけないことを、見つけたんだ」
「それが……鹿島さんに復讐することなの?」
椎葉さんは答えずただ黙って微笑んで、自分の鞄を掴み玄関の方へ移動していく。
彼女の腕を掴みたくて伸ばそうとした手は、自分の思い通りに動いてくれなかった。
引き留めてもどうにもならないことを解っているからだろうか。
「もう子供じゃないんだから、これからの未来は、自分で選べるよね」
「……待って、私はっ」
「間違ってもいい。幸せにならなくてもいい。自分が一番大切だと思った選択をすればいい。改めて、そう願うよ」
――じゃあね、先生。また学校で。
そう言って椎葉さんは部屋を出ていった。言いたいことだけ言って、去って行った。
私の気持ちなんてお構いなしに遠慮なく踏み込んでくれたおかげで、デリケートな乙女心は傷だらけだ。
固めた決意も迷いに変わり、考えることも増えてしまった。なんてことをしてくれたんだろう。
でも、嬉しいこともあった。相変わらず何を考えているのか解らないけれど、隠していた本心を見せてくれたような気がしたのだ。
常に自信に溢れ、堂々としている彼女の、臆病な部分。自分勝手で不器用な優しさ。
「自分が一番大切だと思ったもの……」
相容れない複数の選択肢の中から、たった一つを選ばなければいけない。
母と先生との約束も、祖父母のことも、椎葉さんのことも、どれも大切なのに、どれかを切り捨てないと前に進めない。
どれを選んでもきっと後悔する。だからこそ“一番大切なもの”を見極めなくてはいけないのだ。
「私は……」
手のひらに指で文字を書き、それを口に当てて飲み込む真似をする。
勇気は貰った。強引だけど背中も押してもらえた。
あとは、自分の意志で選ぶだけ。
悩んで。
足掻いて。
選んだその先にあるものは、いったいどんな未来だろう。
***
自宅へと戻ってきた椎葉光希は、家族と普段通りのやり取りをした後、自室に入り鞄の中から一枚のDVD-Rを取り出した。
これは先生が眠っている間に見つけた怪しいDVDをこっそりコピーして持ち帰ってきたものだ。
タイトルが書かれていなかったので中身はわからない。悪いと思いつつ、何か情報を得られればと複製したけれど。
ただの音楽や映画が入ったDVDならそれでよし、いかがわしい動画が入っていたら参考に……じゃなくて、胸に秘めておこう。
パソコンに円盤をセットし、音が漏れないようにヘッドホンを耳にかける。
さて、準備は万端だ。
「………」
逸る気持ちを抑えてしばらく待っていると、自動的に動画プレイヤーが起動した。
そして
ついに、再生する。