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WP&HL短編集+スピンオフ  作者: ころ太
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29/45

WPspinoff13 先輩と後輩

腕時計を覗くと時刻はまだお昼を過ぎたばかり。

平日なので学校は休みではなく、今頃はお昼休みが終わり午後の授業が始まっているだろう。

当然教師である私は学校に向かい生徒たちに勉強を教えなければいけないのだけれど、朝から体調が優れなかった為お休みを取ってしまった。

症状は吐き気と酷い倦怠感。熱があるわけではなく身体も難なく動くので、多少具合が悪くても市販の薬を飲んで我慢すれば大丈夫だろうと

思ったけれど、もし風邪だったら生徒たちにうつしてしまう可能性もあるので、きちんと病院で診察して貰うことにしたのだ。

掛かりつけの病院に行き、医師から告げられた結果はただの過労ということだった。大した病気ではなくて拍子抜けすると共に、首を傾げてしまう。

確かに一日の大半を仕事に費やしたりと多忙な日々も多いけれど、休める時はしっかり休んでいるはずなのに、どうして過労になったのだろうか。

子供たちの相手は大変で悩みや苦労も多い。でも、それ以上に充実している。ほぼ残業はないので、働き過ぎということもない。

確固たる原因は掴めないけれど、今日一日ゆっくり養生していれば回復するらしいので、深く考えず言われた通りにすることにした。

それに、考えれば考えるほど気持ち悪さが増していく気がして、気分が落ちていく。胸の奥の奥の深いところに、どろどろとしたものが溜まっていく。

最近ずっとそんな調子で、吐き出そうにも吐き出し方が解らなくて、積み重なっていく一方だった。これも、休めば消え去ってくれるのだろうか。


陰鬱な気分を少しでも振り払いたくて、真っ直ぐ家に帰らず遠回りしてゆっくり帰路につくことにした。

冷蔵庫の中身もほとんど空だった気がするので、通りがかったお店で食料を買っておこう。


「あれ、植田ちゃん?」

「えっ?」


俯いていた顔を上げて正面を向くと、自分に声を掛けた女性が目を丸くして立っている。

私よりも少しだけ背が高くて、着飾っていないけれどそのままで充分に綺麗な人。

大学時代からお世話になっている先輩が、そこにいた。


「久しぶりね、元気にしてた?――って、その酷い顔はどうしたのよ。何かあった?」

「……えっと」


どう説明しようか悩んでいると、先輩は怪訝な顔を一変させて、良いことを思いついたとばかりに表情を明るくした。


「よし。それじゃあちょっとそこの小料理屋にでも腰を落ち着けてお姉さんと軽くお話でもしましょうか。

 ほらほら遠慮しないの。何か悩んでるって顔してるじゃない。え、迷惑? そんなわけないでしょう。たまに会った時ぐらい先輩らしいことさせてよね」


「あ、あの、先輩、わたし…」


誘いを断るための言葉を紡ぐ前に、にっこりと笑みを浮かべた彼女は強引に私の手を取って近くのお店に引っ張っていく。どうやら拒否権はないようだ。

元々気の弱い方である私が、散々お世話になった大学の先輩の好意を断るなんて大それたことをできるわけがないので、早々に諦めはついた。

引き戸を開けて暖簾をくぐると、店主のぶっきらぼうな「らっしゃい」という声と共に、どこか懐かしいと感じる温かな香りが私たちを迎えてくれる。

平日の昼間だからか、お客さんの数は少ない。時間帯を考えると、きっとこれからどんどん増えていくのだろう。

話をするなら座敷の方がいいよね、と先輩は奥のお座敷にあがり、私も誘われるまま彼女の向いに座る。


「私の奢りだから好きなもの頼んでね。ここの山芋ステーキはすっごく美味しくてお勧めだよ。あ、お酒も頼む? 植田ちゃん飲めたよね?」

「いえ、あまり食欲はなくて。お酒も、飲めますけど、まだ昼間ですから」

「そう? じゃあ私も控えようかな。お酒飲んじゃったら植田ちゃんとまともな会話できそうにないからね」


先輩は元気よく店主に声をかけて、メニューの中から幾つかのお惣菜を注文していた。

本当に今日はお酒を飲むつもりはないらしい。私と食事をする時は必ずと言っていいほど飲んでいるイメージがあるので、珍しいと思ってしまう。

いや、先輩は昔から真面目な話をする時だけは大好きなお酒を控えていたはず。それだけ真剣に私のことを心配してくれているのだ。


「今日は植田ちゃんの学校も休みなの? うちの学校はこの前の休日に行事があって、今日が振替休日でね。

 せっかくの休みだけど特にすることもなかったから目的もなく商店街で暇をつぶしてたわけよ」

「そうだったんですか。私は……その、朝から体の調子が悪くて、病院に行ってきた帰りなんです。学校は普通にあるので、休みました」

「えっ、具合悪かったの!? ご、ごめんね、早とちりして無理矢理お店に連れ込んじゃって。そういうことなら、家に帰って休んだ方がいいよね」


慌てて先輩は立ち上がり、お店を出ようと言ってくれたけれど、私は首を横に振った。

診断結果はただの過労で、朝よりは随分と体の調子は良くなっている。……それなら今からでも学校に向かうべきかもしれない。

生徒たちは真面目に授業を受けてい頑張っているというのに、教師の私が頑張らなくてどうする。これでは、ただのズル休みだ。

意味もなく授業をサボらないよう椎葉さんに説教していたのは、何処の誰だったか。今の私は、あの子に合わせる顔がない。

教師失格だと言われても、頷くことしかできないだろう。

罪悪感を覚えても。誰に何を言われても。それでもやはり、今から仕事に行く気にはなれない。

だってこのまま学校に行っても、いつもと同じように笑える自信がないのだ。


「駄目な教師だと自覚はしているつもりです。ですが今日は少し、相談に乗ってもらえませんか」


それに目の前にいる彼女なら。私と似た『目標』を持っていたこの人ならば。

きっと身体の奥底に抱えている気持ちの悪いモノの原因を教えてくれるかもしれないから。

どうしようなく期待して、縋ってしまいたくなるのだ。



「お願いします、赤口先輩」



原因の解らない不安に押し潰されそうで、怖くて。他人のことを考える余裕がなくなってしまって。

自分の事ばかり考えて、そんな自分の身勝手さに嫌気がさして。

もう、どうしたらいいのか解らない。


「そっか。植田ちゃんはまだ、頑張っているんだね」


何かを察したのか、先輩は困ったように笑って再びその場に腰を降ろした。

テーブルに置かれたお茶を一口飲んで、彼女は緩やかに息を吐く。


「教師だって人間だもの。体調を崩すこともある、悩みだって生徒と同じように持ってる。

 普段真面目に頑張ってるんだから、たまにはこうして羽根を伸ばして休んでも罰は当たらないよ」

「そうでしょうか」

「うんうん。恥ずかしい話だけど、私だって遅刻して怒られたり、急に休んだりして迷惑をかけちゃうこともあるんだよ。ふふ、教師のくせにね。

 そういうわけで、今日は仕事のことは忘れて思いっきり自分のことを考えようか。私でよければ、いくらでも聞くから」

「ありがとうございます、赤口先輩」


就職した学校は違えど同じ教師である先輩、赤口瑠美さんには、これまで何度も助けられている。昔から先輩は面倒見がよく、私のことを気にかけてくれていた。

出会ったのは大学生だった頃、同級の子に誘われて断り切れなかった飲み会で、ひどく酔っ払った赤口先輩の介抱をお願いされたことがあったのだ。

その時に彼女が教師を目指している理由を聞いてしまい、私と似た『目標』を持っている人なのだと知って親近感を抱いた。

酔いが醒め、変な話をして申し訳ないと詫びる彼女に、我慢できず自分が目指している目標を語った。この人なら、笑い飛ばさずに理解してくれると思ったからだ。

直感通り先輩は私の話を真剣に聞いて、理解してくれる人だった。

それからたびたび食事に誘ってくれるようになって、身の上を知っているからかお互い腹を割って話をするようになった。

今は私も彼女も忙しく頻繁に連絡を取り合うことはないけれど、今日みたいに偶然会った時には一緒に食事をして、その時にお互いの近況を話したりする。


「それで、植田ちゃんは何に悩んでるの? 結構深刻そうだけど」

「それが……自分でもよく解らなくて」

「解らない?」

「はい。順調だと思うんです。仕事も、私生活も。学校は楽しくて充実していますし、それに会社を経営している立派な方と婚約できたんです。

 怖いぐらい順調に進んで、とても、幸せになれていると、思うのに……周りの人も祝福してくれて、何も問題はないはずなのに。

 痛いほど、心が苦しいんです。理解できない不明瞭な気持ちが、ずっと心の奥に溜まっているようで、気持ちが悪いんです」


ずっと気のせいだと目を逸らし続けていた。誤魔化し続けてきた。けど、それももう限界だった。

小さかったモヤモヤは積りに積もって心を圧迫し、抑え込むことが出来なくなってしまっている。


「幸せなはずなんです。私はっ、幸せになれる道を、選択したはずなんです」


テーブルに乗せていた手を固く結んで握りしめる。震えが水の入ったコップに伝わり、カタカタと小刻みに揺れた。

先輩は穏やかな目で私を見つめしばらく黙っていたけれど、意を決し、ゆっくりと息を吐くように口を開く。


「うん、解るよ。植田ちゃんほど深刻なものではなかったかもしれないけど、確かに私も似たような経験がある。

 夢であり目標だった教師になれて、自己評価だけど立派な大人にも近づけたと思ったのに、どこか物足りなくてね。

 心の隅に空いた穴が埋まってくれなくて、苦しくて……寂しかった」


彼女は幼い頃に亡くしてしまった姉との約束を叶えるため、ひたすらに努力して頑張っていたのだという。

大学時代の先輩は社交的ではあったけれど、どこか影を含み、他人を遠ざけて一定の距離をとっていた。

しかし、今の先輩は昔とは違って親しみが増し、明るさに違和感がなく、雰囲気も和やかなものに変わっている。


「その、先輩の心に空いた穴は埋まったんですか?」

「そうだね。私の場合はちょっとずるいっていうか、恵まれていたというか……奇跡みたいな形で埋まったから、参考にはならないと思う。

 それと申し訳ないんだけど、率直に言って植田ちゃんの抱えているものを消す方法は、私には解らない。だから背中を押してあげることもできない。

 私ができることは、ただ話を聞くことだけ。たったそれだけなの」


先輩は申し訳なさそうに首を垂れる。


「いえ、いいんです。相談に乗って頂いて、少し気が楽になりました。こんなこと話せる人、先輩くらいしかいませんから。

 せっかくのお休みの日に話を聞いてくださって有難うございます」

「ううん、あまり役に立てなくてごめんね。……ああ、でも他に少しだけできることがあるかな」

「?」


すっと立ち上がった先輩はそのまま私の真横に来てしゃがみ、私の腕をとり手のひらを表にしてから指を一本添える。

彼女は黙々と私の手のひらを滑るように指を動かして、何か文字を書いているようだった。

何の意図があるのかわからないけれど、先輩の手つきは優しくて、くすぐったい。


ゆっくりと丁寧に書かれた文字は、ひらがなで四文字。


「……しあわせ?」

「正解。それじゃ、仕上げに――」

「!?」


指でなぞられた手のひらを口元へ強引に持っていかれ、押し当てられた。

何が何だが解らなくて驚いていると、先輩はいたずらが成功した子供のように純粋な笑顔を向けてくる。


「ふふ。これはね、幸せになれるおまじない。私と姉さんだけが知ってる、秘密のおまじないなんだけどね。植田ちゃんだから特別。

 手のひらに幸せって書いて、最後に飲み込む真似をすれば、幸せになれる。まあ、ただの暗示なんだけど」


思わずごくりと喉を鳴らすと、握られていた腕は解放され、口から手が離れる。


「植田ちゃんは幸せになろうと頑張って、私は幸せになろうという意思を失っていた。

 私たちは正反対だったけれど、とてもよく似ていたよね」


再び手を取られ、両手で包み込むようにぎゅっと握られる。


「ねえ植田ちゃん。幸せってね、人それぞれだから自分で見つけるしかないの。他人のいう幸せをなぞっても、必ずそうなれる保障なんてない。

 ……亡くなった人との約束を果たしても、全てが満たされるわけじゃない」

「っ……それでも私は」

「解ってる。貴女が決めて、進んできた道だものね。私もそうだったから否定はしないけど、だからといって肯定もしない。

 ただ、植田ちゃんには幸せになって欲しいからいつだって相談に乗るし、できることがあるのなら協力もするよ。

 答えは自分で考えないといけないけど、一人で全部抱え込んじゃ駄目だからね。苦しいときは我慢せず、必ず誰かを頼ること!」


力強い視線が私を射ぬく。

答えを教えてもらうことはできなかったけれど、答えを見つける為の勇気を彼女はくれた。


「はい。ありがとうございます、先輩」

「うん、いい返事」


誰にも話せなかったことを話せてすっきりしたのか、心の重みがだいぶ軽くなっていた。これでまた、私は頑張れるだろう。

辿ってきた道の是非も解らない私だけど、彼女と出会えたことは幸運なのだと胸を張ってはっきり言える。

これまでもこれからも彼女は私にとって憧れの存在で、尊敬のできる先輩だ。同じ女性として、教師として、誇りに思える。

先輩のように、誰かを支えることが出来るような自分になりたい。生徒に信頼されて、正しく導くことのできる教師になりたい。

高望みだとわかっているけれど、彼女を見ているとそう思ってしまう。無茶だとしても、不思議と頑張りたくなってしまうのだ。


「よし! それじゃあささやかだけど、乾杯しよっか。植田ちゃんの婚約のお祝い!」


ぱんっと両手を合わせて場を仕切り直し、先輩はにっこりと良い笑顔を浮かべた。


「はい………………え?」

「おやっさーん、ビール2つお願い! あ、植田ちゃん具合悪いなら無理して飲まなくていいからね。まだ大丈夫?」

「体調の方は大丈夫です、けど」


今日は飲まないって言っていたような気がするのですが、私の聞き間違いだったのでしょうか。


「いや~まさか植田ちゃんが婚約してるとはね。すぐに教えてくればよかったのに」

「は、はあ」

「今日は飲むつもりなかったけど、後輩のめでたい話を聞いたからには飲まずにはいられないって。

 悩みを抱えてる植田ちゃんは今そんな気分じゃないかもしれないけど、これはこれで祝わせて欲しいな」

「いえ、いいんです。祝って貰えてすごく嬉しいです。その、有難うございます」


私の幸せを純粋に喜んでくれているのだから、嬉しくないわけがない。


運ばれてきたビールを受け取り、お互いのジョッキを軽く当てて乾杯の音を鳴らす。

今日は仕事を休んでいる上に、お酒を飲むにはまだ少し早い時間帯なのでとても気が引けるけれど、

せっかく先輩が祝ってくれているのだから酔わない程度に付き合おう。あまり強くないので半分程度でやめた方がいいかもしれない。

そう思ってちびちび控えめに飲んでいると、目の前の彼女は私とは反対にぐいっと気持ち良くジョッキを傾けていた。

ごくごくと喉をならして、勢いよく中身を減らしていく様は圧巻だ。初めて見る光景ではないとはいえ、やはり驚いてしまう。


「あ~美味しい! 最近あまり外で飲んでなかったからなぁ。あ、おやっさーん、酎ハイ追加でお願いします~」

「あの、先輩。あまり飲み過ぎないようにしないと、また大変なことに」

「大丈夫だって~。なんか今日はいけりゅ気がすりゅ」


ああ、どうしよう。もうすでに呂律が怪しいですよ先輩。

お酒が大好きなのにお酒に弱い人なので、いつもすぐに酔っ払ってしまうのだけど、今日は特に早い気がする。

私が止める暇もなく彼女は追加のお酒を口にしている。こうなってしまっては、もう何を言っても止まってはくれないだろう。

普段は頼りになる立派な先輩だけど、酔った彼女はそのなんというか、色々と大変なことになるので手に負えない。

何かやらかす前に止めたいのは山々なのだが、毎回絡まれて結局はお互い酔い潰れ散々な結果となってしまう。

うう、不甲斐ない後輩でごめんなさい。


「さてさて。植田ちゃんの婚約者とやりゃの詳しーことを聞こうかなぁ。ね、かっこいいひと? やさしいひと? おかねもち?」

「えっと、そうですね。世間的にはカッコいい部類に入ると思います。会社を経営している方で、性格はまだよくわかりません。

 正式にお会いしたのは片手で数えられる程ですから」

「スペックはほぼ完ぺきだねぇ。普通に考えれば幸せになれる未来へまっしぐらだけど、でもそれって気持ちを無視して成り立ってない?

 植田ちゃん、その様子だと相手のことそこまで好きってわけじゃないよねぇ」

「……好きになれると思います。きっと」

「まー結婚してから好きになるって場合もあるだろうけどさ。そっかそっか、植田ちゃんが不安になるわけだわ」


鹿島雅之さんとは食事を何度かして雑談を交わした程度の関係だった。それで婚約だなんて、確かに不自然かもしれない。

普通に考えて何か裏があるのだと思う。それが何かわからないけれど、彼と私の利害が一致しているのなら、それでいい。

……はじめのころはそう思っていたけど、やはり無理があるのだろうか。


「むぅ。恋人いない歴いこーる年齢で独身の私はなんともコメントしずらい。ただまあ、結婚だけが幸せじゃないもんね! だいいじょうぶだいじょぶ」


自分に言い聞かせるように言って、うんうんと満足そうに頷いている。

いつの間にか彼女の周りにある瓶やらグラスやらが増えているように見えるのは、私の目の錯覚でしょうか。

先輩は火照った頬をテーブルに押し付けて、冷たくて気持ちいいのか潤んだ目を細めている。


「先輩は大学時代から人気があったので、てっきり恋愛経験豊富なんだと思っていました」

「人気? あはは、そんなのないない。人気があったとしても、ちょっと前まで恋愛のことを考える余裕がなかったからなー。

 けど今はそれなりに興味あるよ? 最近は特に、隙あらば幸せそうに惚気る身内がいるもんでね!」

「そ、そうなんですか。でも、先輩ならきっと素敵な人が見つかると思いますよ」


こんなに綺麗で素敵な女性を、世の男性が放っておくわけがない。

もしかしたら、先輩の理想が高いのかもしれないけど。先輩の理想とする恋人像って、どんな人だろう。


「そうかなぁ。でも告白してくるのは生徒ばかりっていう」

「ええっ!? 生徒って……先輩の学校って女子高でしたよね!?」

「そうだよ~。可愛い女の子が告白してくれるのは嬉しいし問題ないんだけどねぇ。流石に生徒はまずいでしょう」


私たち教師が生徒を恋愛対象にするのはご法度だ。うちの学校でも過去に男性教諭が女生徒に手を出して問題になったことがある。

それでもとある先生が生徒と付き合っているなんて噂を小耳に挟むので、こっそり付き合っている人たちもいるのかもしれない。

さらっと流していたけど相手が同性というのも結構問題だと思うが、先輩は全く気にしていないみたいだった。


「…………そうですよね。生徒はまずい、ですよね」


意識せず口から零れた言葉は、そんな当たり前のことだった。常識的に考えて、大人が子供に手を出すのは問題だ。


「んん? 食いついたね。むふふ、もしかして気になってる生徒でもいるのかな~?

 あ、思い出した! 前に会った時に言ってたよね、目が離せなくて放っておけない子がいるとかなんとか」

「そっ、それは別の意味で目が離せない子です! 好きだとかきらいだとかそういうのではなくて!」


にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたあの子の姿が脳裏に浮かぶ。もしこの場に居たら、とことんからかわれていただろう。

思えば出会った時から今に至るまで、ずっと彼女に振り回されていた気がする。

初めの頃は手に負えなくて先輩に相談したこともあったけれど、共に過ごした時間が増えるにつれ、彼女の言動に徐々に慣れていった。

大変なのは今も変わらない。何を考えているのか、今でもよく解らない。子供っぽくて、悪戯ばかりして周りを困らせる問題児。

目が離せないのは、教師としての責任があるからであって、そこに個人的な感情は含まれていない。


「…………」


振り回されてばかりだった。この町に越してきて、あの子の担任になって。

余計なことを考える暇がないくらい振り回されていたから、大変だったけれど毎日が楽しくもあった。

彼女は面倒事を起こすけど、意味もなく人を傷つけたり問題を起こしたりしない。

むやみに褒められることではないけど、彼女の破天荒なところはクラスの明るさに繋がっていた。

持ち前の明るさで周りを楽しくすることのできる子で、友人やクラスメイトの為に頑張ることができる一面だってある。

大人をやり込めるほど頭の回転が速く口も達者で、成績も文句のつけようがない。

―――椎葉光希という女の子は問題児であり優等生でもある。その二つの部分を合わせ持つ不思議な生徒だから、目を離せなかったのもある。

それ以上は本当に、特別な感情なんて。


「植田ちゃんがそー言うんならそーなんだろうね。ていうか、そうじゃなかったら婚約なんてしないかぁ。ごめんごめん。

 ちょっとね。身内にね、鈍感すぎる人がいてね、相手と両思いなのになかなかくっついてくれなくてずっとヤキモキしてたからさ。

 あ、その人たち最近つきあいはじめたんだけどー。付き合うまでが長くって長くって」

「はあ」


ぐいっと焼酎を飲み、ぷはぁと息を吐いて満足げ。と思いきや、いきなりテーブルに固く握った拳を叩きつけた。

その表情はかなり憤っているように見える。あの、先輩、飲みすぎです。

遠慮気味にこれ以上飲まない方がいいですよと言ってみたけれど、聞こえなかったのか黙殺された。わあ、どうしよう。


「ふつうならさ、奇跡的に再会した時にもうくっつくでしょ? なのにあの二人ときたらいつまでたっても踏み出さないんだから。

 色々あったから仕方ないとは思うけど……再会して1年以上もそのままの関係だったってどういうことなの?」

「はあ」


誰の話かわからないけれど、変に口を出して絡まれるのは困るので適当に相槌を打ってやり過ごそう。

このまま穏便に先輩の話を聞いて、区切りのいい所でお開きにするのがいいかもしれない。


「だいたい姉さんは鈍すぎるっ! 乙女心がわかってない! 付き合い始めた途端にバイト始めたりして何考えてんの!?

 ずっと想い続けてようやくせーじゅしたのにひにょりさんがくぁわいそうっ!」


あれ、私の聞き間違いだろうか。今、『姉さん』って聞こえたような気が。

先輩のお姉さんは先輩が小学生の時に亡くなっているはずだけど、彼女のデリケートな部分なので不用意に聞き返すのは躊躇われた。

きっと私が聞き間違えただけだろう。そう思うことにして気にしないようにする。


「ねえうえだちゃん、ひどいとおもわない!? 普通は好きな人とできるだけ一緒に居たいって思うよねぇ!?」

「はあ、そうですね。そう、思います。たぶん」

「だよね!だよね! よし、姉さん呼びだしてお説教しよう。そうしよう」


お姉さんを呼び出す!?

そ、それって霊界?から現代へ呼ぶってことだろうか。今ここで降霊の儀式とか始まってしまうのだろうか。いやいやまさか。

心の隙間が埋まったと言っていたけれど、もしや怪しげな宗教に騙されていたりしないだろうか。


「お姉さんは、どうやって呼び出すんですか?」

「けーたいで」

「携帯で!?」


なんて普通な呼び出し方だろう。あ、もしかしたら『お姉さん』って、先輩にとってお姉さんみたいな人のことかもしれない。

きっとそういう人に出会えたのだろう。うん、たぶん、そうだよね。


先輩はゆっくりとした動きで携帯を取り出して、電話をかける。

コール音の後に人の声が聞こえ、繋がったかと思った途端「話があるからはやくきてね」と一方的に伝えて通話を終わらせた。

相手を不憫に思いつつも、先輩を迎えに来てもらえるのは助かるのでありがたい。

誰が来てくれるのかはわからないけれど、彼女の知り合いであれば安心だ。

先輩は喋りつかれたのか寡黙になり、段々と目が細くなっていく。酔いが回って眠くなってきたようだ。


「先輩、大丈夫ですか?」

「んーへいき。まだのめるよ」


いえもう飲まないでくださいお願いします。

迎えが来るまで暫く見守っていると、うとうとと船を漕ぎ出して今にも眠ってしまいそうだった。


「先輩、まだ寝ないでください。もうすぐ迎えが来ますから」

「ぅ―…うん、だいじょうぶ。あー、そうだ、うえだちゃんのこんやくしゃのなまえ、まだきいてな――」

「瑠美」


私たちのところへやってきて先輩の名を呼んだのは、見知った子。そして隣にいるのは初めて見る大人の女性。

その子は知り合いどころかうちの学校の生徒で、さらに私が受け持っているクラスの子の……早瀬日向さん。

どうしてここに。そう思いつつ時計を見ると、下校時間はとっくに過ぎていてる。今気づいたけれど、窓の外はもう真っ暗だった。

学校を休んだくせにお酒を飲んでいるところを見られてしまい、気まずくて生きた心地がしない。本音を言えば逃げ出したい。

隣に居るとても綺麗な女性は初めて見るけれど、知った誰かによく似ている。そうだ、早瀬さんのお友達の倉坂椿さんにそっくりなんだ。

もしかしたら倉坂さんのお姉さんかもしれない。そして、先輩がお姉さんと呼ぶのはこの人なのだろうか。確かに姉のように頼りになりそうな方だけど。


「あ、かいしょうなしがきた! ちょっとそこにせいざしてよ」

「何言ってんのもう。あれだけ外で飲むなって言ったのに……ごめんね先生、瑠美…さんが迷惑かけたみたいで」

「え、あ、ううん。迷惑だなんて」

「ちょっとねえさん、かわいいいもうとがここにいるのにむししないでよぅ」

「あーはいはい。ちょっと大人しくしててね」


早瀬さんは酔い潰れた先輩を立たせて、隣に居る女性と一緒に支えている。

あれ、でもさっき先輩が姉さんって呼んだのは女性ではなく、早瀬さんの方に向かって言ったような。


「会計してくるから、悪いけど瑠美と一緒に先に出ててくれる?」

「ええ」


先輩をなんとか一人で支え、私に一礼してから女性と先輩はお店を出ていく。去り際、先輩がひらひらと手を振ってくれたので、振り返しておいた。

彼女は酔っていた時の記憶を忘れないタイプの人なので、酔いが醒めたら頭を抱えて悶絶してしまうかもしれない。

ぼんやりしていたら、いつの間にか早瀬さんが会計を済ませてしまっていた。

慌てて財布を取り出そうとしたけれど、彼女が苦笑して止める。


「今日は瑠美さんの奢りだから。飲み食いしたのはほとんど彼女だろうし」

「でも」

「気にしないでいいって。あれでも先輩なんだから、彼女を顔を立てると思ってさ」

「じゃあ、ご馳走になります。赤口先輩に伝えておいてくれる?」

「うん。わかった」


早瀬さんは満足そうに微笑む。彼女と先輩が知り合いだったなんて、初めて知った。

どういう関係なのか気になったけれど、引き留めるわけにもいかないのでまた今度の機会にしよう。

先輩にも、明日あたり改めてお礼を伝えるために電話しなければ。

ふと手元にあった携帯を見ると、小さい頃からお世話になっている丸戸さんの不在着信が残っていた。

朝、学校に電話するとき、間違えて丸戸さんにかけてしまったのを思い出す。家に帰ったらかけなおして謝ろう。

それから、あの子から電話があったみたいだった。ああ、私。色んな人に迷惑を掛けちゃってる。


「先輩のこと任せちゃって……それと、学校を休んでこんなところにいて、その、ごめんなさい」


この子に謝っても戸惑わせるだけなのに、謝罪の言葉を我慢できなかった。

ほら。早瀬さん、きょとんとして固まってしまっている……かと思えば、あははと急に笑い出した。逆に、私が戸惑ってしまう。


「先生は何も悪いことはしていないんだから、謝ることも、悪いと思うこともしなくていいんじゃないかな。

 先生が休んでまでここにいるのは、きっと“必要”なことだからだよ」


彼女の言う通り、今日ここで先輩と話さなければ、私は立ち上がれなかった。

自分の抱えているモノから目を背けて、逃げ出して、重たいものを引き摺りながら苦しんでいたかもしれない。

私には必要だったのだ。大事なことだったのだ。自分の内面を誰かに理解してもらうことが。


「ありがとう、早瀬さん」

「いえいえ。酔っ払いは私たちが連れて帰るから安心してね。あ、先生も一緒に帰る? もう外は真っ暗だから一人で帰るのは危ないよ」

「ううん大丈夫。うちはすぐ近くだから。それに、少し一人で歩きながら考えたいこともあるの」

「そう? 何かあったらすぐ誰かに連絡してね。もちろん私でもいいから」

「うん、本当に何から何までありがとう。気を付けて帰ってね」

「はい。それじゃあ先生、また学校で」


早瀬さんと別れ、帰る準備を整えてから私もお店から出る。火照った頬が夜風に触れ、ひんやりと気持ちがいい。

先輩ほど飲んではいないけれど、結局一杯は飲み干してしまったので少し自分も酔ってしまっているようだ。

ぽつぽつと灯った明かりを頼りに、ふらふらと歩き出す。足元が覚束ないけれど、進むことはできるので大丈夫そう。

明日はお休みだからか、よく仕事帰りの人たちとすれ違う。これから飲みにいく人たちが多いのだろう。

ゆっくりとした足取りで商店街を抜け、人通りの少ない路地へ。薄暗くて気味が悪いけれど、ここを通らないと帰れないから仕方がない。

一度この道で変な人に絡まれたことがあったのでやっぱり怖いと思う。でも、我慢我慢。

そういえば、椎葉さんと初めて出会ったのはこの道だったっけ。変な人に絡まれているところを、彼女はあっさりと助けてくれた。

それから道に迷っていた私を、今住んでいるアパートへ案内してくれたのだ。

まさかその子の担任になるとは思っていなかったので、クラス名簿を渡された時は本当に驚いたものだ。

当時の事を思い出して、くすりと笑ってしまう。


「ちょっとキミ、ふらふらしてるけど大丈夫?」

「え!? あ、はい、大丈夫です。ありがとうございます」


突然話しかけられて驚いたけれど、私のことを心配してくれたようなので努めて冷静に返す。

大丈夫といったはずなのに、声を掛けてくれた中年の男性はそれでも自分から離れていこうとしない。


「女性の一人歩きは危ないから送るよ」

「いえ、本当に、平気ですから。その、結構です」

「はははそんな警戒しなくてもいいじゃないか。……大丈夫、遠慮しないで」


優しそうな声と顔をしているけれど、言動から下心が透けて見え始めていた。

ようやく危機感を覚えたのはいいが、逃げようと思ってもお酒が抜けていないふにゃふにゃの身体では逃げ切ることは叶わない。

鞄から携帯を取り出す前に、その手を掴まれ引き寄せられる。瞬間、変な匂いと煙草の匂いが鼻を衝いて、咽てしまった。


「ちょっと、やめ、やめてくださいっ」

「ほら。そんなに暴れると体に悪いよ。ああ、それともどこか落ち着ける場所で休んでいこうか」


力が入らなくて密着してくる男性の身体を振り払えない。恐怖と嫌悪感で、涙が出そうになる。

泣いたら、駄目だ。負けたら駄目だ。私は幸せにならなくちゃいけないんだ。約束したんだから。

みんなと。お母さんと。あの人と。


「助けっ……!!」


口を塞がれて大声を出せない。絶望で心が塗りつぶされてしまう。せっかく先輩から貰った勇気が、砕け散っていく。

必死に抵抗しようとしていた手が、徐々に動かなくなる。諦めようと、しているんだ。諦めたくはないのに。……約束があるのに。

その先に何もないのに、ありったけの力を込めて手を伸ばした。否、伸ばすことしかできなかったのだ。

この手はみっともなく何かに縋りたくて、残された意地だけで動いている。でも、結果は変わらない。状況は変えられない。


「えっ!?」


虚空を掴むはずだった手が、柔らかな感触に包まれる。

そのまま掴まれて、勢い良く引っ張られたかと思うと、温かな身体に抱きとめられた。今度は、なんだろう。優しい匂いがする。

強く抱きしめられているせいで顔が見えないけれどこの小さな身体は。もしかして。でもまさか。


「悪いけど他を当たってくれませんかね。この人は私が持ち帰って美味しく頂くんです。ガウガウッ!」


場違いな声。聞きなれた声。ああ、やっぱり彼女だ。どうしてだろう、彼女がいてくれることに凄く安心する。

教師として危ないから早く帰りなさいと言わないといけないのに、彼女ならこの状況をなんとかしてくれるって、根拠もないのに確信してる。

恐怖も絶望も消え失せて、残ったのは安堵。そしてこんな状況なのに酷い睡魔が襲ってくる。


「先生眠いんでしょ。寝てていいよ、あとはこっちでやっとくから」

「……で、も……わたし」

「心配しなくてもいいって。こう見えて私、病人の看病くらい朝飯前だからね。安心してお休みくだされ!」

「ちが、そうじゃなくて……もう、へんなこと、しないでよ……ね」

「ぐへへ」


こんな子供にすべてを任せてしまうなんて、やはり教師失格かもしれない。

でも睡魔には抗えなくて、目を閉じれば、どんどん意識が底へと落ちていく。

色々な意味で心配だけれど。



「先生は寝たみたいだし。……はい、そこのオッサン。ちょっとそのむさ苦しい面を貸してくれるかなぁ」



これ以上ないほどの、安堵に包まれていた。


 

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