WPspinoff11 ひと夏の成長譚
彼女のその手を取ったのは、ほんの気紛れでしかなかった。
たまには公園で子供らしく遊んできなさいと母親に言われ渋々やってきたこの場所で、都合よく彼女が視界に入っただけだ。
楽しそうに遊ぶ同年代の子たちの輪から外れた場所で、寂しそうにひとり佇んでいた少女を、可哀想だと憐れんだわけではなかった。
欲しいものがあるくせに、自分で行動しようとしない者の後押しをしてやるほど、自分は優しい人間ではない。
ある程度の暇つぶしになればいいと、自分の都合しか考えていなかったのだ。
そう、相手のことなんてこれっぽっちも考えていなかったのに。
それなのに彼女は。あゆは。私を見て驚いて、握られた手に怯えて、泣きそうになって、そして最後に、嬉しそうに笑ったのだ。
拙いながらも小声でしっかりと、ありがとうと、私に向かって言ったのだ。ああ、なんてことだ。妙な勘違いをされたと思った。
善意も優しさも、同情さえも持ち合わせていなかったのに、そうとも知らず少女は私に感謝をした。
馬鹿な奴だと呆れてしまったが、まだ人を疑うことを知らない幼子なのだ。簡単に靡いてしまうのも仕方がないことなのだろう。
しかし私はただ手を取って引っ張っただけで、周りの子供たちのように遊んであげたわけじゃない。
彼女の手を掴んだ手前そのまま動かないわけにもいかず、ただ一緒に公園の中を無意味に散策しただけだ。
その時間は、とても“一緒に遊んだ”とは言い難い。一人と一人が近くにいた、たったそれだけのこと。
「……それだけで十分なんだよ。光希がどんな思いであゆの手を取ったのかなんて、そんなこと関係ない」
「理解に苦しむ」と零すと、隣で話を聞いていたあゆの保護者はそう答えた。
夕暮れの公園。我が子を迎えに来たはずのその人は、すっかり人気のなくなってしまった敷地内のベンチに座って
遊び疲れて眠ってしまったあゆを膝の上に乗せている。時折起こさないように優しく頭を撫でたり、目を細めてじっと寝顔を眺めていた。
「なにそれ単純すぎ」
「そう、単純なんだよ。例え光希が悪意を持っていたとしても、あゆが善意だと感じれば、善意になる。
同情でも憐れみでもなんでも良かった。あゆは、傍にいてくれる子が欲しかったんだよ」
特別なことをした覚えはないけれど、短い間であゆは私に懐いてしまった。初めて顔を合わせた時はあんなに怯えていたのに、
今では顔を合わせれば駆け寄ってきて、遠慮がちに後ろからついてくる。徐々にではあるが、言葉を交わす回数も多くなっている気がした。
他に構ってくれる子がいなかっただけかもしれないけれど、私だって彼女が望む遊びをしてあげたことなんてなかったはずだ。
愛想を振りまいたこともないし、彼女が望むことに応えてあげたこともないと思う。
「……こっちの気も知らないで喜んじゃってさ。そんなだとその子、いつか酷い目にあうよ。いいの?」
純粋といえば聞こえはいいが、ずっと無知なままではこの先痛い目を見る。この世界は身を守る術を知らぬ者を、容赦なく排除していくのだ。
人を疑うこと、警戒することを忘れてはいけない。綺麗なものだけを選んで見ているだけでは、生きていけない。
人の汚さや醜さを知って、学んで、自衛しなければ手痛い仕打ちを受ける。まあ、子供にそこまで求めるのは酷かもしれないけれど。
常に人を疑えとは言わないが、せめてもう少し自衛してほしいものだ。
「あゆは人の悪意に敏感だから、その辺は心配してないよ。だから光希にもすぐ懐いたんじゃないかな」
「はぁ」
その人は呑気に笑う。こっちが心配してやっているのに、笑って誤魔化そうとしているのだろうか。
親のくせに子が心配ではないのだろうか。いや、“偽物の親”だったか。
「じゃあ、あなたがあゆに吐いている嘘に、悪意は含まれていないんだ? “パパさん”?」
何故だか無性に腹が立って、大人げない事を口にする。私が言ったことは、この人の痛いところを確実に突く鋭利な刃物のようなもの。
言葉にしてしまい少し後悔してしまったが、撤回するつもりはない。自分らしくないとは思うが、腹の中のムカムカが治まらないのだからしょうがない。
けれど当人は泣き所を蹴られたにも関わらず涼しい顔をしていたので、どうも私の言葉は効果がなかったようだ。やっぱり腹が立つ。
「光希は遠慮なく人の急所を突くよなぁ。……ま、悪意はないつもりだけど、あゆを騙していることに変わりはないか。
近い将来その報いはきっと受けるよ。それはいい。ただ、いつかこの子が真実を知ったとき、傷つかないようにできる限りのことはするさ」
スヤスヤと安心しきって寝ている娘を見つめながら、その人は息を吐く。
親というには若すぎて、二人は親子というよりも年の離れた兄妹のようにも見えてしまう。
事実はどうあれ、あゆにとってこの人は大好きなパパさんなのだけれど。
きっとこの人も、彼女のことを大事な娘だと思っている。血が繋がっていなくても。本物のパパにはなれなくても。
吐きたくもない嘘を吐いて、騙し続けているのだってきっとあゆの為を想ってのことで。この人なりの考えが、あるのだろう。
それはなんとなく伝わる。私でも理解できる。そして、私が口出ししていいことでもない。
「この子の心配をしてくれてありがとう。この子のために、腹を立ててくれてありがとう。やっぱり、あゆは人を見る目があるみたいだ」
「…………」
あれ、そういえば。どうして私はこの子の心配をしてしまったのだろう。意味の解らない腹立たしさを感じてしまったんだろう。
他人なのに。関係ないはずなのに。
呆けている私の顔を覗き込んで、あゆの保護者はくすりと笑う。
「そりゃ友達なら心配くらいするもんだ。友達が蔑ろにされたら、怒ったりもする」
「友達? 私が、その子の?」
「今更何言ってんだか。あゆはもう光希のこと友達と思ってるのに薄情な奴だな」
「いや、だって。友達なんて、そんな、一言も」
「友達ってのに定義なんかない。曖昧で、適当で、単純なものなんだよ」
くしゃり、と頭の上に手を置かれて、雑に撫でられる。子ども扱いされて心外だと思うより、気恥ずかしくてむず痒くなった。
これでもこの大人より長い人生を生きているのに、こんな若造に諭されるなんて屈辱的だ。
「小難しく考えても無駄だってことだよ。人付き合いってのは、こっちの常識なんて簡単に通じないんだから。
いらぬ世話を焼いて来たり、変に気を回してきたり。こっちのことなんかお構いなしでさ。ほんと、面倒だっての」
そんなことを言いつつも、その人の目は柔らかく、優しさに満ちていた。
私と同じであまり人と関わろうとしない性分の癖に、私と違って人を信じているのだ。この人は、人を愛することを知っている。
羨ましいなと思う。私の知らないことを知っているこの人が。私も、この人と同じように、人のことを心から信じることが出来るようになるだろうか。
「……あゆはさ。簡単なことを教えただけで目を丸くして驚いて、話しかけただけで馬鹿みたいに喜ぶんだ。何も特別なことはしてないのに、嬉しそうに、笑ってさ」
相手が笑ってくれることが嬉しいだなんて、いったい自分はどうしてしまったんだろう。
どうやったらもっと笑ってくれるだろう、喜んでくれるんだろう、なんて。
いつからだろう。そんな可笑しなことを思ってしまうようになったのは。自分以外の誰かの為に、何かしたいと考えるようになったのは。
きっかけは今の両親だったかもしれない。こんな捻くれ者の私に二人は、時間をかけて私にたくさんのことを教えてくれた。
以前の私が否定したもの、要らないと切り捨てたもの。理解できなかったそれらを受け入れられるよう、両親は根気よく愛情をもって私に接してくれた。
おかげで多少は今までの偏屈な常識を変えることができたけれど、それでもまだ理解できないことが多い。
「無理に答えを出す必要はないさ。焦らなくていい。何度でも失敗していい。まだまだ、これからなんだから。
いろんなことを繰り返して、たくさんのことを知っていけばいい」
知識なら無駄にあるつもりだった。なんたって、数十年の人生を生きた前世の記憶を引き継いでいるのだから。
でもこんな人との付き合い方は知らなかった。私が知っていたのは、会話という腹の探り合い。『利用』という目的をもって、他人との縁を結んできた。
「……あー、自分も偉そうに説教できるような立場じゃないんだけど。ついペラペラと語ってしまった」
歳を取った証拠か、なんて苦笑しながらその人は今だに夢の中にいるあゆを抱えてゆっくりと立ち上がった。
細く頼りない腕に抱かれたあゆの表情は穏やかで安心しきっている。やはり、信頼されているのだ、この人は。
ぶっきらぼうで愛想がなくて、頼りがいがなくやる気のなさそうな目をしてるくせに、でも時折、酷く優しくて。そっと、背中を押してくれる。
素直に認めるのはなんだかとても悔しいけれど、私もきっとこの人のことを信頼していた。
「いつの間にか随分と暗くなってるし、そろそろ帰らないと心配されるな。光希、家まで送っていこうか?」
「いいよ別に。それより早く帰らないとママさんが心配するよ、パパさん」
「だいたいなんで光希にパパ呼ばわりされなきゃならんのか……はっ、まさかうちの子のことを狙ってる?」
「うわぁ親ばかだ気持ち悪い」
「うるさいよ。それじゃあ、気を付けて帰りなさい」
渋い顔をしつつパパさんとあゆは家族の待つ家へと帰っていった。その後姿を見送ってから、公園に設置されている古ぼけた時計を見ると、もう七時前。
流石に少し遅くなりすぎただろうか。門限は六時と言われてはいるが頻繁に破っているし、私がただの子供ではないことを両親は知っている。
―――けれどやっぱり怒られるんだろうな。私が何者だろうが、本気で怒って、怒鳴られて、心配されるんだろうなぁ。
私が間違ったことをすればいつもそうだ。親の務めだなんて言いながら、真剣な顔で怒られる。それを嬉しく思ってしまう自分は、かなり変な子供なんだろう。
まあ、『早く死にたい』と口にした時ほど怒られるようなことはもうしないつもりだけど。
あの時の父親のビンタと母親の説教と二人の涙は、もう二度と見たくない。
なんだかんだで子煩悩な両親を想うと、胸の奥がムズムズして自然と頬が緩んでしまう。
以前の人生では得られなかったもの。得ようとも思わなかったもの。
それを、当たり前のように与えられる。いや、当たり前ではないんだろうけど。
親の愛情も、友達という存在も、自分には必要ないと思っていたけれど、実際得てしまうと不思議と悪い気はしない。
ずっと自分のことしか考えていなかったのに、他人のために色々と考えるようになってしまって億劫だと感じることもある。
でも、だからといって簡単に切り捨てようとは思えない。面倒でも、厄介でも、手放す気にはなれそうにない。
寧ろ、大切にしたい。
大切なものだから、守りたい。
貰ったのなら、返していきたい。
(そうか。幸せなんだなぁ、私)
誰かに想われて。
誰かを想うことができて。
ただ、それだけで。
泣きたくなるほど、幸福であることに気付いた。だから、ずっとこの幸せをずっと守っていきたい。続けていきたい。
大切にしていこうと決めた。汚いものだけじゃなく、綺麗なものも見ていこうと決めた。
真正面から人と向き合っていこうと決めた。自分の感情を素直に認めて、その感情のままに生きていこうと決めた。
***
(決めていたんだけどなぁ)
初めて友達ができて、理解者を得て。それからたくさんの経験を経て。
今の自分は、どうだろう。大切なものを、大切にできているだろうか。幸せな日常を、守れているのだろうか。
胸を張って「自分らしく生きている」と言えるのだろうか。
(なんて、考えてもしょうがないか)
ひとり自分の席に座って過去の思い出に浸っていた私は、現実へ意識を戻し重い溜息を吐く。ひとり…そう、今日はひとりなんだ。
親友と気軽に呼べるようになった大切な友人は、昨日のひと悶着で心に負担をかけてしまい今日は欠席している。
表向きは風邪で欠席ということになっているけれど、本当の理由を知っているのはこの学校で私とウッキーだけだろう。
そのウッキーは委員会活動で今日は忙しいらしく、少しも構ってくれなかったので、私はこうしてひとり教室の一角でぼんやりしていた。
クラスメイト達が気を使って声をかけてくれるけれど、どうも調子が出なくて愛想笑いで誤魔化してしまった。らしくもない。
久しぶりにサボりたい衝動が湧いてくるけれど、そんなことをすれば皆の好意を裏切ることになってしまう。
私の悪行を諌めてくれる人が『二人』も休んでいるのだから、気持ちが揺らいでも仕方ないと思うのだ。
あゆとそしてもう一人、植田先生。彼女も、学校を休んでいた。先生といえど私たちと同じ人間なのだから休む日ぐらいあるだろう。
しかし理由は体調不良だ。たとえ熱が出ても、怪我をしても、どんなに疲れていても無理してやって来る生真面目なあの人が、
体調不良という曖昧な病名で休んだのだ。起き上がれないほど酷い体調なのか、もしくは精神的に追い詰められて出て来れないのか。
最近の先生の様子から察するに後者の可能性が高いのかもしれない。病は気からというし、心身ともに病気ということもありえる。
やはり全て私の推測でしかないのだが、的を射ていないということはないだろう。
もうそろそろ、限界なんだろうな。自分の本心を偽り続けるのは。
「……難しいなぁ」
ぽつりと愚痴が漏れてしまう。日常を大切にしたいのに、守りたいのに、うまくいかない。何が最善なのか解らなくなる。
自分にできることとできないことははっきりと解っているのに、何をすべきか迷ってしまう。燻って、現状維持に走ってしまう。
結局、自分は怖いんだ。行動することで積み上げてきたものが壊れてしまうことが。
優先順位を決めて、切り捨てることが、怖い。
「光希」
名前を呼ばれる。顔を上げれば、そこにいたのは柔らかな笑みを浮かべたひなたんだった。
珍しく元気のない私を心配して声をかけてくれたのだろうか。んもう相変わらずお人好しなんだから。
「顔色悪いよ。無理しないで、今日は早退したらどう? 代任の先生には私が言っておくから」
「へ? いや、別に具合が悪いわけじゃないって。ただちょっとホルモンバランス的なアレでね? 情緒不安定なんですよ」
「いやいや、顔色ひどいって。鏡見てみる? 青色通り越して紫色になってるから」
「え、それ本気でやばくない?!」
早退とか言ってる場合じゃないよねそれ。顔が紫になってたら救急搬送されてもおかしくないと思うんだよね。
こっちの言い分は無視して、ひなたんは微笑んだまま、私の肩を優しく叩いて起立を促す。
――ああもう。彼女の真意なんて、最初から気付いていたとも。どこまでも優しい、お人好しめ。
今生の私は、本当に周りに恵まれているようだ。
「ひなたんは、お節介だね」
「よく言われる。でも、これが私だからなぁ」
「うん、そうだね。これぞ早瀬日向って感じがする」
「あははなにそれ」
こんなところでうじうじして、大人しくしているなんて私らしくない。
自分に正直に、好き勝手生きるって決めただろう。どうしたいかなんて決まっていたのに、気付かないふりをしていただけだ。
これからのことを決断する勇気はまだないけれど、じっとしてるのは性に合わない。
「じゃあお言葉に甘えて早退させてもらいますかね。早退理由は…そうだなぁ、悪阻が酷いからって言っといて」
「それはどうかと思う」
机の中の物を鞄に押し込んで、急いで帰る準備を整えた。まずはあゆの家に行こう。会えなくてもいい、行くことに意味があるのだ。
そうと決めたら一秒でも時間が惜しいので、ひなたんにお礼を言ってから教室を飛び出す。
そのまま昇降口に直行しようと足を踏み出したところで、背後から声がかかった。振り返るまでもない。その凛とした声で、すぐに誰かわかる。
「ちょっとどこに行くのよ。貴女に少し話があるんだけど」
「ごめんねウッキー! ちょっと悪阻が酷いから今日は早退するね」
「そう、おめでたいわね。貴女のその頭が」
腕を組んで仁王立ちしているウッキーは、その鋭い眼光で私をその場に縫いとめようとする。
しかし私が怯まないことを理解すると、お馴染みの溜息を吐いて呆れ顔をつくった。
「授業をサボってあゆのところへ行くんでしょう?」
「お見通しかぁ。ウッキーの話とかお説教は明日聞くから、今日は見逃してくれると嬉しいな」
「勝手にしなさい」
「……あれ? 止めないの?」
品行方正な彼女だったら、規律を守らない生徒を易々と見逃すはずがない。
だからてっきり止められると思っていたんだけど、彼女は私の脱走を止めるつもりはない様だった。
「体調不良で早退するんでしょう? しかるべき手続きを済ませているのなら、止める理由はないわ。
それに私、今日は委員会の方が忙しくて貴女のことにいちいち構ってる時間がないのよ」
「大変だねえ」
「ええ大変なのよ。だから、ついでにこの手紙をあゆに渡してくれないかしら」
そう言ってウッキーは一通の手紙を私に渡した。
綺麗に封をしてあるのでこっそり読めそうにないけれど、きっとあゆのことを気遣った文面が綺麗な字で書かれているのだろう。
「直接ウッキーが渡せばいいのに。一緒に早退しようよ、ぎっくり腰になったとか言ってさ」
「嫌よ」
「あらら、振られちゃった」
今度は予想通りの返事が返ってきた。あゆのことは気になるけれど優等生ゆえに偽って早退することができないのだろう。
だからこそ手紙を私に託したのだ。メールではなく律儀に手紙を書くところが彼女らしいと思う。あゆもきっと喜んでくれるだろう。
手紙の内容について聞きたかったけれど、余計なことを言って機嫌を損ねる前にさっさと学校を出た方がよさそうだ。
一緒に来てくれないのは残念だけれど、私が早退しても苦言を言われないだけ良かったことにしとこう。
「……調子狂うわね」
「うん? 何か言った?」
「別に何も。ほら、行くんならさっさと行きなさいよ」
「わかったそうする。心配してくれてありがとね」
「なっ」
怒鳴られる前に彼女の元から急いで退散する。学校を抜け出そうとする自分の足は、いつもより軽くて速い。
廊下を走るなという教師の怒鳴り声や生徒の奇異の視線を無視して校舎内を駆け抜けていく。
天気は快晴。廊下の窓から見上げた夏の空はどこまでも青く澄み渡っている。
「あっついなぁ」
校舎から出た途端、真昼の太陽が私を阻むように眩しい日差しを浴びせてくるが、日焼け対策は万全なので気にしない。
初夏なのに、真夏のような気温。外に出て間もないのに汗が頬を伝い地面へと落ちていった。
時折吹く生温い風が頬を撫で、いたずらに髪を揺らされる。暑いのには変わりがないけれど、風があるだけまだマシなのかもしれない。
なるべく陽の当たらない場所を選びながら、私はあゆの家に向かって歩みを進めていく。
彼女の家にはそれはもう第二の家と言っても過言ではないほど何度もお邪魔しているし、今更迷うことはない。
早くあゆのところへ行きたいので寄り道をせず真っ直ぐ行くつもりだったけれど、途中にある馴染みの公園でふと足を止めた。
この公園は幼い頃あゆと初めて出会い友情を育んだ場所であり、昨日、沙夜の母親とひと悶着あった場所でもある。
特に用事があるわけではなかったのだが、なんとなく吸い寄せられるように敷地の中に入った。
流石にこの暑さなので遊んでいる子供はいなかったけれど、一人だけ、ブランコに座って物思いに耽っている子がいる。
黙って近づくと、彼女は私の気配に気が付いて顔を上げて驚きに目を見開いた。
「どうして、みっちゃんがここにいるの?」
「……こんな直射日光が当たる場所でぼんやりしてると、熱中症になるよ」
質問には答えず、あゆの手を引いて木陰になっているベンチの方へ誘導して座らせた。
握った手のひらが熱くなっていたので、結構な時間あそこで考え事をしていたのだろう。
私がここに来たことにあゆは驚いていたけれど、あゆがひとりでこの公園にいたことに私も驚いていた。
PTSDの症状が出た後の彼女は、いつもであればしばらく塞ぎ込んで自分の部屋から出てこようとしないはずだ。
人とと関わることが苦痛になって、誰かに会えば怯えてしまうようになる。そんな彼女が、こうして外にいるのだ。
あゆの様子を見る限り少し元気がないように思うが、それでも普段通りの彼女だった。
「もう、また授業サボったの? 駄目じゃん」
困ったように笑われて、何も言い返せなかった。いつものように、おどけて見せることができなかった。
彼女に気を使わせないように、変な言い訳をして誤魔化さなければいけなかったのに。
「ごめんね。わたしのこと、心配してきてくれたんだよね」
「え、いや、そういうわけじゃなくて、えっと」
嘘を吐くのも誤魔化すのも得意だったはずなのに、どうして言葉が詰まってしまうのだろう。
「みっちゃん」
彼女の目が、真っ直ぐに私を見る。きっと、この目のせいだ。さっきから感じていた、意志の籠った力強い視線に、気圧されているのだ。
それに綺麗に澄んだ瞳を向けられては、もうどんなに誤魔化しても通じないだろう。ふざける気さえ、削がれてしまう。
こんな目をしたあゆを見るのは初めてかもしれない。彼女の保護者もよく似たような目をするのだから、やはり家族なんだなと思った。
「もう外に出ても、平気?」
「うん、大丈夫だよ。ほんとはね、もう完全に克服できたと思ってたんだけど。やっぱりまだ、駄目だったみたい」
「でももう立ち直ってる。昨日あんなことになったばかりなのにさ。あゆは、強いね」
「みんなのおかげだよ。私がここまで克服できたのは、家族のみんなとか、みっちゃんが支えてくれたからだよ」
「私は何もしてないよ。強くなれたのはあゆがいっぱい頑張った結果なんだから、もっと自信をもてばいい」
あゆは首を振る。そしてまた、有無を言わせぬ視線を向けてくる。
「みっちゃんはさ、いつも私を守ってくれてたよね。私の為に明るく振舞って、一緒に遊んでくれた。
両親が本当の両親じゃないって気付いた時も、傍にいて励ましてくれた。
私が人の悪意に怯えなくていいように、盾になってくれてた。
人見知りの私の為に、たくさんの友達をつくってくれた。……私、ずっとそのことに甘えてたの。
全部、自分でやらなきゃいけないことなのに、ずっとみっちゃんに頼ってたんだ。
昨日沙夜ちゃんが自分で自分の問題に立ち向かったってお姉ちゃんから聞いて、私、ようやく気付いたんだ」
違う。それは、私が勝手にやっていたことだ。あゆが気にすることじゃない。
それに私たちは親友なのだ。友のために何かをするのは当たり前のことだ。特別なことじゃない。
「私ね、みっちゃんのこと大好きだよ。ずっと、みっちゃんの友達でいたいよ。だから、頑張りたいの。
守られるだけじゃなくて、私もみっちゃんの助けになりたい。何も、できないかもだけど、せめて自分のことは自分で向き合う。
もう、みっちゃんの枷になんてならない。だって友達って、そういうものでしょ?」
違う。守られていたのは、救われていたのは、私の方なのだ。守られてばかりなんかじゃない。あゆは私の助けになってくれていた。
私に“友達”という曖昧で不確かで大切なものを、教えてくれたではないか。私の世界を、綺麗に彩ってくれたではないか。
奇跡みたいな幸せをくれた彼女が、枷になんてなるわけがない。
反論しようと口を開いたけれど、またも視線で遮られる。
「ありがとう、みっちゃん。私はもう、大丈夫だよ」
笑みを浮かべる彼女につられて、自分もぎこちなく笑みを浮かべる。
あゆと出会ってもう何年も経っているのだ。彼女はもう、小さな子供じゃない。外見も内面も、どんどん成長していく。
「……そっか」
嬉しいような、でも少しだけ寂しいような、複雑な気持ちを抱いてしまう。
たとえ私がどんな気持ちを抱こうとも彼女の成長は喜ぶべきことだし、心から祝福したい。
「いつか私を頼ってくれると嬉しいな。もっともっと強くなるから」
「うん。じゃあいざって時は遠慮なく頼らせてもらおうかな」
「りょーかい」
いつの間に、こんなに頼もしくなっていたんだろう。
彼女を守ろうだなんて、偉そうなこと考えていた自分が恥ずかしく思える程にあゆは成長していた。
「ああそうだ。ウッキーから手紙預かっていたんだった」
「わ、ほんと? ウキちゃんにもいっぱい心配かけちゃったな。返事は明日学校で会って直接言おうっと」
あゆは封筒をあけて、その場で手紙を読み始める。しばらく熱心に文章を追っていたかと思うと、クスリと小さく微笑んだ。
「なになに? 面白いことでも書いてあった? 見せて見せて」
「だーめ。あのね、私がいないとみっちゃんの相手をひとりでしないといけないから大変なんだって。だから、早く学校に来てって書いてあるよ」
「なんだとう」
「ふふ、ウキちゃんっていい子だよね」
「そうだね」
背が高くて目つきも言葉も鋭いから誤解されやすいけれど、思いやりのある優しい子だ。
あゆが抱えている問題に無遠慮に踏み込んでこないし、けれど我関せずというわけでもない。
きっとそこが、生真面目な彼女が考えて導き出した立ち位置だったのだ。
「そういえばアルは? 一緒じゃないの?」
「お姉ちゃんなら大学に行ったよ。行かないって駄々捏ねてたけど、無理やり行かせた」
「あゆ、携帯は持ってる?」
「え? 一人でゆっくり考えたかったから、携帯は家に置いてきちゃったけど」
あのシスコンが弱っているあゆを置いて呑気に大学に行くはずがない。絶対、こっそり家に帰ってるはずだ。
それから部屋にいないあゆに気付いて今頃あっちこっち探し回っている頃だろう。
家に置いてきたという携帯にはきっと何十件という着信履歴とメールが残っているに違いない。夏にぴったりのホラーである。
「そろそろ家に戻ったほうがいいんじゃない? あまり長いこと出歩いてると心配されるよ」
主にアルに。それから、今日は家にいるであろう彼女の家族に。
いくらあゆの状態が安定しているといっても、昨日の今日なのでみんな心配しているはずだ。
「うん、もう帰るよ。みっちゃんも一緒にうちに来ない? おばあちゃんが買ってきたお菓子いっぱいあるよ」
「せっかくだけど遠慮しとく。これから寄るところがあるから」
「そっか。残念だけど用事があるなら仕方ないね。あ、学校さぼってるんだから、あまりフラフラしちゃ駄目だよ」
「はーい」
くすくすと笑って。お互いに数秒見つめあって。なんの合図もなしに、自然とハイタッチを交わした。
私たちは違いはあれど同じ子供だ。それぞれの形で、それぞれの速度で変わっていく。己自身も、私たちの関係も、成長していく。
今日よりも、もっと楽しいと思える明日の為に、私たちはみっともなく足掻くのだ。
「じゃあね、みっちゃん。また明日」
「ん、また明日」
手を振って、あゆと別れた。あゆと会ったことをアルにメールで知らせてから、公園をあとにする。
明日が来るまでにまだまだ時間はあるのだ。もっともっと素敵な明日を迎えるために、もう少し頑張ってみよう。
場合によっては最悪な明日を迎えてしまう可能性もあるかもしれないけれど、それでも私は行く。
「……さあ、行きますか」
じわじわと暑い日差しが降り注ぐ中、先生が住んでいるアパートへ向けて全力で走り始めた。