WPspinoff04 重なる予兆
BGMは、カツカツと黒板にチョークを叩きつける音と、カリカリとノートを走るペンシルの音。
普段なら私語の飛び交う歴史の授業であっても、テスト前となればこの通り静かなものだ。
先生の紡ぐお経のような言葉も、今だけはありがたいお言葉として一字一句聞き逃さないようにみんな聞き耳を立てている。
赤点を取ってしまえば夏休みに追試を受けないといけなくなるので、必死になるのも頷ける。
せっかくの休みに好き好んで登校する奴なんて、そうはいまい。
(んあー、暇だなぁ)
クラスメイト達が必死に黒板の内容を書き写しているなか、私はこそこそと机の下で携帯をいじっていた。
今授業でやっている内容は頭の中に完全に記憶されているから、ノートに書き写す必要がないのだ。
無意味なことをやっても仕方ないのでこうして携帯と向き合っているわけだが、それも段々飽きてきてしまった。
普通の授業であれば冗談を言ったり先生をからかってみたりして場を盛り上げるのだけど、流石にテスト前のピリピリした空気を壊すことなど出来ない。
真面目な人も、不真面目な人も、みんな同じように頑張っているのだが、私は他人事のように心の中で「頑張れ若者たちよ」とエールを送るだけ。
私のほかにも約一名、教科書を立てて居眠りをしている生徒がいるけれど、まあ、その子はいつも寝てるくせに成績はトップクラス。
天才なのか、実は家で猛勉強しているのかわからないが、いつもテストの順位は一桁という凄い奴なのだ。
だから私と同じように授業態度が悪くても『あいつだからしかたない』で済む。よくサボる私と違って、彼女は居眠りの常習犯なのだけど。
早く終わんないかなぁと携帯をポケットに突っ込んだ瞬間、待ち侘びたチャイムが鳴った。
今日の授業はこれで終わりなので、後はもう帰るだけだ。
よし、帰ろう。今すぐ帰ろう♪
勢いよく立ち上がってから机に掛けていた鞄を引っ掴み、スキップしながら移動して教室のドアに手をかける。
けれど熊のような大きい手にがっしりと肩をつかまれて、それ以上身動きできなくなってしまった。
後ろを振り返ればさっきまで教鞭を振るっていた先生の呆れた視線………ちっ、遅かったか。
クラスメイトたちは捕まった私を助けてはくれず、妙に温かい目でこっちを見ていた。
懲りないねぇとか、ご愁傷様ーとか、苦笑を含んだ声が聞こえてくる。
「おいこら椎葉。まだHRが残ってるだろうが」
「えーやだ帰るーめんどいー」
ぶーぶーと口を尖らせて拗ねると、歴史担当の先生は大きな身体を揺らして深い溜め息を吐いた。
「HRなんてすぐに終わる。それにお前が帰ると植田先生が泣くぞ。毎回お前の奇行に胃を痛めてるみたいだから、もう少し労わってやれ」
「…む、それを言われると心が痛みますな」
「お前の担任になった植田先生は大変だな」
「ふへへ、照れますね」
「いや、褒めてないからな?」
私は大人しく自分の席に戻って、担任の植田先生が来るのを待つことにする。
歴史の先生は呆れたように笑い「んじゃ明日のテスト頑張れよー」と若干気の抜けた激励をしてから教室を出て行った。
さてと、担任が来るまで少し時間があるから、また携帯でもいじって暇を潰しましょうかね。
携帯を取り出してアプリを起動させていると、友人がひょっこりと寄ってきた。
「みっちゃーん、ちょっと解んない問題がいくつかあるんだけど、教えてくんない? あ、今忙しい?」
「おぉ、構わんよ。どれどれ」
「これなんだけど」
アユが困った顔で差し出したプリントは数学の問題だった。
きっと散々悩んだのだろう。何度も消しゴムで消した後や、空いてる余白に計算式がいくつも書かれている。
それを見て、彼女がどこで躓いているのかすぐに理解した。
「やり方は間違ってないね。ただ、ここでちょっとミスってる……こうして、こうすれば…どどん!」
「おおおお解けた! さすがみっちゃん、解り易い解説と正しい答えをありがとう! この天才っ!愛してる!」
「へへ、よせやいっ」
「よくサボるし授業は真面目に聞かないくせに、どうしてみっちゃんはそんなに頭いいのよぅ。ずるい~!」
「はっはっは僻むな僻むな。持って生まれたモノだからねー」
そう、私の知識は生まれた時から既に備わっていたモノなのだ。
けれど生まれつき天才というわけじゃない。今の私が苦労して身に着けたモノというわけでもなかった。
だから胸を張って「どうだ凄いだろー!」なんて言えない。褒められても、あまり嬉しいって思えないんだよね。
片手で携帯をいじりながら、もう片方の手で次の問題をスラスラと解いていく。
「ひゅー、凄い。ってかみっちゃんてよく携帯いじってるよね。何?メール?ゲーム?」
「そうだねぇ……ゲームかな」
「ふぅん。それって無料の奴? 私もたまにやるけど」
「んー…無料じゃないねー」
「えぇ? もしかして課金とかしてるの? 気をつけないと、お金使いすぎちゃって怒られるかもよ」
「引き際は心得てるから大丈夫だよん。あ、それよりアユに聞きたいことがあるんだけど」
この友人は交友関係が広い。先生の婚約の噂を教えてくれたのも、彼女だった。
もしかしたら詳しいことを色々と知ってるかもしれない。
「先生の婚約者がどんな男かだって?…うーん、私が知ってるのは先生が婚約するってことだけなんだよね」
「そうなんだ」
「職員室の前を通った時にさ、先生たちが話してたのを聞いたの。あ! そういえば他に玉の輿とか言ってたかもしんない」
「…ほう、それはそれは」
「それが本当だったら羨ましいよね。やっぱ男は年収。あと顔。できたら性格も」
「うん。悲しいけど、もう少し現実を見ようか」
「やだ! 夢は大きく持ったほうがいいのー!」
友人の結婚願望を延々と聞かされながら考える。
詳しい情報は手に入らなかったけれど、興味深いことは聞けた。どうやら結婚のお相手はお金持ちらしい。
それが本当なら、普通、喜ぶものだろうけど。お金が嫌いな人なんていないと思うし、周りの人間は声を揃えて「勝ち組」と称するだろう。
先生は見た目で人を選ぶような人じゃない。それに性格が問題ならそもそも結婚なんて同意するわけがない。
もう少し考えてみて、思い浮かぶひとつのパターン。お金持ち、そして結婚……その二つの言葉から連想される負のワード。
(――政略結婚、とか?)
あはは、まさかね。
情報が少なすぎて、こんなのただの憶測でしかない。
それに、先生はただ結婚を前にして不安になっていただけかもしれないのだ。
あれこれ探って勝手に考えるのは、止めたほうがいいかもしれない。興味本位で首を突っ込んでも、ろくなことにならないだろう。
私はいち生徒として、普通に結婚を祝福すればいいだけだ。
「ねえねえ、みっちゃんの理想の結婚相手ってどんな人なの?」
「……特にないかな。ただ、誰かを真剣に好きになれたらいいなーとは思うよ」
「え、そこからなの?」
「そそ。まだ学生なんだから、恋とか結婚のことなんて考えたこともないよ。若い時にしか出来ないこともあるんだから、今はそっちをやるだけやっとかないとね!」
「みっちゃんにしては珍しく真面目じゃん。しかもちょっと古臭いっていうか、おばさんくさい発言だね」
「ひっど。恋に憧れている純粋な乙女だってのに!」
「あはは何それー嘘くさーい」
「ぬぅ…!」
恋をするというのは、どんな感じなのだろう。
誰かを大切に想う気持ちは理解できる。できるように成れた、と思う。
恋というモノを知識では知っているけれど、実際はどんな感じなのか全くわからない。上手く想像できない。
私が生まれて17年が経つけれど……恋という感情が自分の中に芽生えたことが、これまで一度もなかった。
もしかしたら、欠落してるのかもしれない。一生、誰かに恋をするなど、ないかもしれない。
(それはそれで、いいや)
少し寂しい気もするけど。でも、今の日々だけで、十分に満ち足りているのだ。
味わうことの出来なかった人生を体験できて、知らなかった感情を理解できるようになれて。
幸せというものを。その真の意味を……手に入れることが出来たのだ。こんな奇跡が一度でも起きただけでもありがたい。だから、これ以上望むものなど、ない。
「お、遅れてごめんね! HRを始めるからみんな席についてー」
軽快にスリッパを鳴らしながら慌てて教室に入ってきた植田先生は、教壇に立ちコホンとひとつ咳をする。
それからいつもの調子で連絡事項などを簡潔に伝えて、特に変化のないHRはすぐに終わった。
明日はテストだからか、いつもなら遅くまで教室に残って駄弁っている人たちも、足早に帰っていく。
それぞれ家に帰って勉強したり、図書館で勉強したりするんだろう。みんな意外と真面目だねぇ。
ま、来年は受験だし、そろそろ真剣にならないといけない時期なんだろうな。
「あれ、みっちゃん帰んないの? また呼び出し食らってたり?」
「んーん、今日は何にもないよ。たまにはのんびりして帰ろうかなーなんて思ってみたり」
「余裕のある人は言うことが違いますねー羨ましい。つかHR無視して帰ろうとしてたくせに、どういう心境の変化?」
「へっへっへ、女心は山の天気のように変わりやすいんだぜ。秋の空の如し」
「あー…あれでしょ。女心と秋の空?」
「そこ、テストに出ます」
「マジで!?」
ごめん嘘。出ません。
もしかしたら1パーセントくらいの確立で出ちゃうかもしれないけど。
「さってとー、私はみっちゃんと違って勉強しないとヤバイから帰るね」
「おー勉強頑張ってね。また明日ー」
ブンブンと元気よく手を振って帰っていく友人を見送る。
私もそろそろ帰ろうかな……でも今日は帰ってもすることないんだよね。このまま教室にいても暇なだけだろうけど。
ぼんやりとこれからの予定を考えていると、後ろから肩をポンポンと叩かれた。
気を抜いていたせいか、誰かが近寄る気配を感じ取ることができなかったので、少し驚いてしまう。
思わず彼女に伸ばしかけた腕を、気付かれないように下ろした。……あぶないあぶない。
「椎葉さん」
「お、おお? 植田先生?」
さっきまで前で日誌を読んでいたくせに、いつの間に後ろにまわっていたんだろう。こやつ、あなどれん。
「あれ、今日も呼び出されてたっけ? 身に覚えないけど」
「ううん違うよ。今日は珍しく教室に残っているから、どうしたのかなと思って」
「いやー特に理由はないけどね。なんとなく」
「ふふ、そうなの?」
何がおかしいのか、彼女はクスクスと小さく笑う。
おやおや?なんだか先生の機嫌が良いみたいだぞ。さっきからにこにこと嬉しそうな顔をしている。
「せんせー何か良いことあったの? すっごい嬉しそうだけど」
「うん、あったよ。今日は椎葉さんがHRをサボらないで最後まで残ってくれたもの」
「え、それだけ?」
「だっていつもHRになるとフラ~っと何処かに行くか帰っちゃうでしょう? 今まで出席してくれたことなんて数えるほどしかないじゃない」
「あれ……そうだっけ?」
「そうなの」
HRは授業じゃないから出席率に関係ないし、大事な連絡事項があれば友達がメールで教えてくれるからなぁ……ついつい、サボってしまうのだ。
植田先生もうるさく言わないから、HRのことなんて今まで全く気にしてなかった。
「ただHRに出るだけでそんなに喜んでくれるとはね~。…なら今度からは先生の為にちゃんと出ようかなー」
「ほ、ほんと?」
先生は嬉しそうに目を輝かせる。
こんなことで喜べるなんて羨ましいっていうか、チョロい人だなぁ。
でも……ごめんね先生。
「やっぱ無理。私って期待されちゃうと、裏切りたくなるんだよねー」
「えぇっなんで!?」
途端、残念そうに顔を曇らせた。ずーん、って暗い効果音が鳴った気がする。
……いやいや、そこまで落ち込まなくてもよくない? さすがにほんのちょっとだけど、罪悪感が沸いてくるわ。
この先生ってからかうと反応が面白いから、つい困らせたくなってしまうんだよね。うんうん、仕方ないんだよ。愛ゆえにだよ。
がっくりと肩を落としている先生の姿を見て満足しつつ苦笑する。
「それよりテストの件だけど、約束忘れないでね」
「うぅ、ちゃんと覚えてます……椎葉さんはテスト勉強しないの? のんびりしてるみたいだけど」
「うへへ、自信ありますからぁ。勉強よりも先生にどんなお願いをしようか考えることに忙しいっすよ」
無理そうで無理じゃないギリギリスレスレのあんなことやそんなことをお願いしたら楽しそうだなぁ、なんて。
勿体無いからちゃんとよく考えておかないといけませんしね!
「あの……参考までに聞きたいんだけど、いったい何をさせるつもり?」
「ひ・み・つ! 私が賭けに勝ったときのお楽しみだよ!」
「先生としては良い点を取って欲しいはずなのに、満点をとられることが怖いなんて……でも、全教科満点なんて、学年一位の子でも無理だし…うん…」
やっぱり私が全教科満点を取れるって思ってないみたいだ。そりゃ普段サボってるし、今も勉強せずにだらだらしてるもんね。
成績が良いと言っても、ちょっと出来る人って程度のものだ。もちろん、手を抜いてるから、だけど。
どうしてそんなことをするのかと問われれば、目立ちたくないからだと答える。ぶっちゃけ、成績には興味がないのだ。
「ねえ先生。私が満点取れなかったら、なんて命令するの? やっぱりサボるなーとか、真人間になれーとか?」
「せっかくの機会かもしれないけど、命令なんてしないよ。もし椎葉さんが全部満点取れたら、それはそれで喜ばしいことだから。
……お願いを聞くのは、なんとなく、怖いけど。うん、すごく、怖いけど」
さすが先生。私が無茶なお願いを考えていることを、心のどこかで確信しているのだろう。顔、めっちゃ引き攣ってます。
「えーそれじゃ賭けになんないじゃん。なんでもひとつ言うこと聞くのにー」
「ちゃんと授業に出て欲しいとは思ってるけどね。でも、私は椎葉さんの意志で授業に出て欲しいの。教師の命令なんかじゃなくて」
「……………」
「勉強は大事だけど、それ以外にも大事なことが沢山あると思うから。だから、無理強いはしたくないかな」
教師が言っていい言葉じゃないかもね、と先生は自嘲気味に笑う。
確かに普通の先生はそんなこと言わないけれど、でも、植田先生らしい言葉だなと思った。
「いつも明るくて、マイペースで、自由で……そんな椎葉さんが、ちょっとだけ、私、羨ましいのかも」
“私は、縛られた生き方しかできないから”
――なんて言葉を、暗い表情でぽつりと漏らす。
すぐにいつもの穏やかな顔に戻ったけれど、どこか脆く、儚げな雰囲気は消えることがなかった。
うん、ごめん、解ってる。私は昔から、人の表情から感情を読み取るのが得意だったから。顔色ばかり伺ってきたから。嫌ってくらい、知っているから。
今浮かべている笑顔が偽物だってことぐらい、すぐに解るんだよ。残念だったね、先生。
でも大丈夫、私はその無理矢理貼り付けた偽りの表情を引き剥がすことなんてしない。
……偽りのモノと一緒に、本当の表情まで剥がしてしまいそうになるから。
だから私も、彼女と同じように、接するだけ。
実に、簡単なこと。
「縛られた生き方……つまりSMプレイですね! 先生がそんな趣味だったなんて思わなかった。びっくり」
「えっ、ど、どうしてそういう解釈に行き着いたの!? ち、違うから! そんな嗜好もってないから!」
「わかってるわかってる。私、愛があればSMもありだと思うんだよね。うんうん、恥ずかしいことじゃないよ」
「全く解ってないよね!?」
「わかってるってばー。先生は縛られていたいんだよねーMだから」
「だから、違――っ!」
「ほどほどにしないとだめだよー? 愛がなければ、それは痛いだけのただの暴力だから、苦痛でしかないよ」
「えっ」
「幸せの定義ってのは人それぞれだし、いいんじゃない? SMな生き方でも、本人がそれで幸せならね」
「………っ」
先生の瞳が揺れる。私の言葉の意味を理解して、動揺しているようだ。
「縛られてても、私、私は……幸せだよ。仕事だって上手くいってて、もうすぐ結婚だってするし、順風満帆で……」
「うん、良かったね。幸せ者だね、先生」
心にもない言葉だけど、先生が欲しがっているなら、何度でも言うよ。
それが正しいとは思えないけれど。
「…………ありがとう」
幸せそうには見えない、儚い笑顔。
彼女の胸の内には、やはり誰にも言えない何かが潜んでいるのかもしれない。
それが解っても、自分にはどうすることも出来ないのだが。
「結婚のお祝いは、SMセットで決まり、と。先生にはお世話になってるし、おまけで拷問セットもつけとくね!」
「いりませんっ!!」
普段通りのやり取りのはずなのに、どこか空虚だった。まるで、昔の自分に戻ったみたいに。
………そう気付いて、寒気がした。
「まったく、椎葉さんはいつも人の話を―――」
「げっ」
あ、やばい。
これから先生の有り難い説教が始まるわぁ…と悟った時に、教室の扉が控えめに開いた。
「失礼します」
「お、ひなたんの保護者が来た」
「あら倉坂さん」
静かに教室に入ってきたのは、下校時間になっても机に突っ伏して気持ち良さそうに寝ている奴の友人だった。
違うクラス、しかもこの教室からだいぶ離れているクラスの子なのに、毎日のように帰る時間になると友人を迎えにやってくる、らしい。
よく2人でいるところを見るし、随分と仲がいいみたいだ。ひゅーひゅー、羨ましいね。
「倉坂さんは、早瀬さんのお迎え?」
「はい」
「仲が良いのね」
ひなたんの保護者、もとい倉坂さんは、ふんわりと柔らかな笑みを浮かべてから、恥ずかしそうにもう一度「はい」と頷いた。
それから彼女は寝ぼすけちゃんの傍に向かい、起こそうと丁寧に肩を揺さぶる。
いやー、でも奴はそんな優しい起こし方じゃ目を覚まさないと思うのだよ。
「日向さん、帰りましょう?」
「……いえっさー…椿……ん、椿?」
「はい、私です」
「おー…」
間延びした声が聞こえたかと思うと、いきなりがばっ!と勢いよく身体を起こして、奴はうっすらと目を開いた。
うわ、起きたよ。え、もしかして、彼女の声を聞くと目を覚ますように特殊な訓練でもさせられたの?
しばらくぼーっとしていた寝ぼすけちゃんは、周りを見渡してから大きく欠伸をした。
「あれ、椿がいる……てことは、もう放課後?」
「そうですよ」
「うわぁごめんね……今日は椿の勉強を見る約束してたのに」
「気にしないで下さい。まだ、時間はありますから。……あの、今日は英語と数学をお願いしてもいいですか?」
「いいよ。教えるの下手だけど、それでいいなら。うちはお母さんと妹がうるさいから、椿のうちでやろっか」
「はいっ」
ほんとあの2人は仲いいよねー。いつも見ていて微笑ましい。
「先生さようなら」
「ええ、さようなら。2人とも気をつけて帰ってね。勉強、頑張って」
「はい」
「光希もまた明日ね」
「うい。じゃーねー」
2人は軽く頭を下げて、教室を出て行った。
これで、この教室の中にいるのは私と植田先生だけになったわけですが。
なんかこう、2人っきりで対面していると、生徒指導室で反省文を書かされる気分になってくる。うへぇ。
「椎葉さんは帰らなくていいの?」
「もうちょっと先生と話したいから、まだここにいるよ。たまにはお説教じゃなくて、普通の世間話をするのもいいと思わない?」
「……あなたからそんな言葉を聞けるなんて、本当に今日は珍しい日かも」
「そんな日もあるよ」
私は教室の窓をあけて、外を眺めた。
テスト前だから部活動は行われていないらしく、今日は元気な掛け声が聞こえてこない。
いつもの賑やかな声がないのは寂しい気もするけれど、静かな学校内もそれはそれで悪くないと思う。
……なーんて、感傷的になってみたり。
「でさぁ、気になってたんだけど先生の婚約相手ってどんな人?」
まわりくどい聞き方は止めて、本人に直球で聞くことにした。
教えてくれないならもうそれでいいし、諦めるつもりだったんだけど、先生は律儀にも答えてくれるようだった。
「えっ、ええと……年上の人で、仕事熱心な人かな」
「ほうほう。それで他には? 確か相手はお金持ちって噂で聞いたけど~?」
「なんでそんなことまで……」
「People will talk。人の口に戸は立てられないからねー。噂されたくないなら、誰にも言わない方が良いと思うよ?」
「そ、そうね……お金持ちかはわからないけど、結構有名なグループの系列会社の社長さんなの」
「おおお、十分お金持ちじゃない!? 玉の輿じゃん!」
「そう、かな」
先生は私が驚いてるのに満足したのか、安心したような顔で話を続ける。
「鹿島グループって知ってる? 相手は、その創設者の息子さんでね」
「へぇ! よくテレビや新聞でそのグループの名前見るよ! 先生、そんな人と結婚するなんて勝ち組すぎ!」
「うん……夢みたいな話だよね。私なんかが……」
「でさでさ、結婚するのって、いつ?」
「まだ、先かな。でも今年中には籍を入れて、式を挙げる予定なの」
「そっかぁ、ふーん」
私は鞄を掴んで席を立つ。
いきなり立ち上がった私を、先生は呆然とした表情で見つめていた。
そんな彼女に、微笑む。
「ごめんね先生。ちょっと用事思い出しちゃったから、もう帰るね」
「そう? 気をつけて帰ってね」
「うん!」
私は大げさに手を振って先生に別れを告げて、軽快に教室から出る。
他の生徒たちはもう下校してしまったのか廊下には誰もいない。静か過ぎる通路を黙々と歩いて、下駄箱へと向う。
「―――ッ!!!!」
その途中。
我慢できず、私はずっと握り締めていた拳を、力任せに廊下の壁に叩きつけた。
ダンッ! と鈍い音が響く。
そんなに大きな音ではないはずなのに、静か過ぎるせいか、やたらうるさく感じた。
遅れて拳から痛みが伝わってきたけれど、冷静な自分を取り戻すには不十分。
こんなちっぽけな痛みじゃ、胸に渦巻く怒りは収まらない。
震える拳を強く壁に押し付けたまま、私は深い深い場所に押し込んでいた記憶と共に、吐き出した。
「――っ鹿島ぁ!!」
もう二度と口にしたくなかった、忌むべき名を。