WPspinoff00 私が初めて願ったこと
激しい痛みを感じて、私の意識は強引に夢から現実へと引き戻された。
なにか……夢のような夢を、見ていた気がする。現実ではありえない、虫唾が走るくらい生温い夢。
普通の人は現実で簡単に手に入るものだけれど、私はどんなに頑張っても触れることすら出来ないもの。だから、夢。
そんなもの欲しいと思ったことはない。むしろ邪魔だと思っていた。
じゃあどうして夢に見るのだ。
(……ッ!)
今まで経験したことのない、考え事を許さないほどの鋭い痛み。
あまりの激痛に耐えかねて痛むところを押さえようとしたが、痛むところが多すぎて手が足りない。その手さえも痛みで動かすことが出来なかった。
せめて自分の状態を確認しようとしたが、身体のどの部分も動かせない。肝心の目さえ、曇った眼鏡をかけたようにぼやけている。
口は動くものの、荒い呼吸を繰り返しているせいで言葉を発することが出来ない。
まともに機能している耳はさっきから酷い雑音ばかりを拾う。嗅ぎたくもないのに、むせ返るような強い血の匂いが鼻をつく。
なるほど、状況は最悪で八方ふさがりのようだ。ここまで酷いと自分の力で対処できそうもない。
……漠然と、もう自分は駄目なんだろうなと悟った。
(なんで、こんなことになった)
出血が酷いのか、どんどん意識が霞んでいく。
混濁している頭で考えても、意識を失う前のことを何も思い出せなかった。
怪我のショックで、軽い記憶障害が起こっているのだろう。しばらくすれば戻る可能性もあるだろうが、身体が持ちそうもない。
……どうせ、ろくでもない理由なんだろう。まともな死に方は出来ないだろう常々考えていたし、長生きできるとも思っていなかった。
死ぬことに未練などない。私の人生には大切なものなど存在しなかったのだから、生に執着する意味もない。
私の死を悲しむ人間も、もちろんいない。ああ、でも表面だけでも悲しんでくれるだろうな。体裁だけはちゃんと繕う、そんな人間ばかりだったから。
今更思い返すことも何もなかった。このまま終焉を迎えることも怖くはない。むしろ、煩瑣な人生から開放されることに安堵すら覚える。
死が刻々と迫っているというのに、冷静でいられる自分が可笑しかった。
これまで沢山のものを築いてきたけれど、私が生きてきた数十年はひたすら空虚なものだった。
教えてもらった“正しい道”を歩んできたはずなのに、どうしてだろう。
(もう、どうでもいい)
もうすぐ私は息絶えるのだから。
何もかも、どうでもいいじゃないか。
(………終わり、か)
段々と体温が下がっていくのを自覚する。
消えていく。痛みも、意識も、記憶も、自分に関わるすべてのものが。
死ぬということは、案外あっけないものだと、ぼんやり思う。
それは私が無意味な人生を歩んできたせいなのかもしれないけれど。
(私の人生は……無駄なものだった)
私なんて
(何のために、今まで生きていたんだろう)
生まれてこなければ、良かったのだ
………
……
…
(……?)
私の身体に、何かが触れている。
感覚はもうすでに失われたと思っていたのに、何かが私の身体をさわっている感触があった。ほんのりと温かさまで感じる。
その感触が気になって、この世から落ちていこうとしていた意識がゆっくりと浮上する。
いったい、誰が触っているのだろう。救命士か、医者か、それともただの民間人か。
そんなのもう誰でもいい。いい加減、眠らせて欲しい。わたしは早く眠りたいのだ。
『――――――ッ!!!』
耳に届く、一際高い音。
どうやら私に触れている人が何か言っているようだが、雑音が酷くて上手く聞き取ることができない。
けど、その声が必死なもので、切実な叫びだというのはおぼろげに理解できた。泣き声のようにも聞こえる。
それに、よく解らないけど……止まりかけの心臓がその声に反応して僅かながら震えるのだ。
(うるさい)
最期くらい静かにしてほしい。
周囲の雑音はあまり気にならなかったのに、私に触れている主の声はやたら響く。
その声に不快感と、あと、なんだろう……不可解な感情が、止まりかけの心臓を動かしている気がした。
私の為に泣いてくれるような知り合いなどいなかったはずだ。
どこぞの知らぬ他人様が、憐れな状態の私に同情して泣いてくれているのだとしたらそれは………最高に、最低なことだ。
(もういい)
いいから早く、泣き止め。うるさい。私は簡単に泣く人間が嫌いだ。甘える人間が嫌いだ。
くだらないことで涙をこぼす人間が、死ぬほど大嫌いだ。
「…っ……げほ、…あっ」
一向に泣き止まないことに酷く腹が立った。
私は一言文句を言う為に最期の力を振り絞り、荒い息を吐き続ける口を自分の思うように動かした。
最期の言葉が文句になろうとは思いもよらなかったが、私は傍にいる人物に向けて、最期の言葉を紡ぐ。
自分の中に存在する、ありったけの、感情を込めて。
「――――――――――――」
紡いだ言葉は、文句ではなかった。私らしくない……私には無縁の言葉だった。
でも口を開いた瞬間、用意していた言葉を押しのけて、一瞬の躊躇いもなく口にしていたのだ。
…上手く伝わっただろうか。
自分の声さえよく聞こえないので、伝わったのかどうかわからない。
でも、最期に言えただけで、経験したことのない満足感を味わうことが出来た。
どうして今、自分はこんなにも満たされているのか……それは死後の世界でゆっくり考えるとしよう。多分、行き先は地獄だろうが。
気が晴れたのか、鼓動が次第に小さく、遅くなっていく。今度こそ、この世とお別れらしい。
もう何も見えない。雑音も、あのうるさい泣き声も聞こえない。
(これでいい)
ああ、私が消える。
全て、消える。
思い残すことも、後悔も、未練もないけれど。
ただひとつ、消えないで欲しいものがあった。
それは最期に遺した言葉。
―――― 私が最期に、初めて願ったこと