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WP&HL短編集+スピンオフ  作者: ころ太
WP&HL短編集
14/45

HL番外編 平ルート後日談っぽいバレンタインの話

 


 特になんの予定もない休日。

 やりたいことはないけれど、やらなければいけない大学の課題は山ほどあるので嫌々進めていたのだが、数時間ほど根を詰めていたせいか集中力が途切れてしまった。

 ずっと向き合っていたタブレットから目を逸らして、気分転換に窓のカーテンを開ける。窓から覗いた空は薄い灰色の雲で覆われており、太陽はすっかり機嫌を損ねて隠れてしまっていた。冬のこの時期、陽の光が届かないとなると底冷えするような寒さがより一層強まってしまうだけだ。部屋の中は暖房が効いていて暖かいけれど、この空間から抜け出してしまえば待ってましたとばかりにキンキンに冷えた空気が容赦なく襲ってくるに違いない。

 小腹が空いたので台所に行って何かお菓子でも取りに行きたいのだが、この暖かい空間から出なければならないと思うと憂鬱でため息が漏れる。気温の変化に若干鈍い体質だけど、寒いものは寒いのだ。

 しかしお腹もすいている。意識してしまえば、何か食べたいという欲求が止まらない。


 しばらく悩み続けること数十分。決心がつかず布団の上でごろごろしていたら、インターホンが鳴ったので結局は部屋から出ることになった。

 予定にない来訪者なんて珍しいな、誰だろう。なんて考えながら部屋の扉を開くと、冷気が待ってましたと言わんばかりに身体に突き刺さってくる。これで新聞の勧誘とかわけわからんセールスの類いだったらどうしてくれよう。節分の時に買った豆がまだ残っていたから投げつけてやりたい。

 玄関のドアを開けてるとまた一段と寒い冷気が襲ってきたが気合で耐えて、来客を確認する。なんてことはない、馴染みの宅急便のおじさんだった。ばあちゃんがよくネットで通販を頼んでいるから宅急便が来るのは珍しいことじゃないけれど、今日は何かが届くなんて聞いていない。

 小箱を渡され、いつも通りにペラペラの紙にサインをすると、宅急便のおじさんは事務的に挨拶をしてすぐに帰っていく。ドアを閉めてからラベルに書かれている宛名を見ると私になっていて、差出人は『大須賀 柚葉』と書いてあった。


「柚葉? 何も聞いてないけど」


 数日前に電話でやりとりした時は何も言っていなかったはずだ。確か、お互いの近況を伝えあって、あとはなんてことない世間話とか。彼女が伝え忘れる事はないと思うので、たぶん意図的に黙っていたんだろう。

 箱の中身が気になってしまったので、部屋に戻らず玄関で箱を開けることにした。なんとなくアレじゃないかなぁと予想はしているけれど、違ったら恥ずかしいので期待はしない。

 丁寧に梱包された箱から出てきたのは、予想通りチョコレートだった。聞いたことがある有名なメーカーの、きっと高い方のやつ。これはお返しが大変だな、と苦笑して、今は遠くにいる柚葉の姿を思い浮かべた。

 彼女は現在、家族と海外にいる。確執があった両親と仲直りして、学校に通いながら会社の手伝いをしているらしい。充実した日々で楽しいとは言っていたが、学業と仕事の両立は想像以上に忙しくて大変だろう。それなのにわざわざチョコレートを送ってくれたのは素直に嬉しい。今年は誰からも貰えないだろうと思っていたのだから、なおさら。


 ―――― 今日は2月14日、バレンタインだ。

 

 毎年痛チョコくれていたばあちゃんは、今は推しアイドルのライブツアーに推し友と遠征していて家にはいない。

 仲良くなってから毎年チョコをくれていた美空と菜月の二人はバレンタインは用事があると聞いている。本命が出来たのかと聞けば、二人同時に溜息を吐かれた。意味がわからない。

 平は、将来の為に必要な資格の勉強で今はとても忙しい。バレンタインなんかに浮かれている暇などないはずだ。


 大学生になって、みんなと会う機会はぐんと減ってしまった。5人全員が揃うことなんて滅多にない。仕方がないことだと理解していても、少し寂しいと感じてしまう。それでも連絡は頻繁にとっているし、都合が合えば遊んだりもする。それぞれの道を進んでいても、高校生だった時と何も変わっていないのだから、それでいいと思っている。……いや、変わってしまったところは所々あるけれど。

 頬をかいて込み上げてきた照れを誤魔化し、柚葉が送ってくれた箱をそのまま持って部屋に行くことにした。ちょうどお腹が空いていたので、早速チョコを戴こう。さすが柚葉、届くタイミングまで完璧である。


「そうだ、ついでに飲み物も……ん?」


 せっかく部屋から出たのだからついでに珈琲でも淹れようと台所に足を向けたその時、またしてもインターホンが鳴った。なんだ、こんどこそセールスか何かかな? 豆を装備していった方がいいのかな?

 とりあえずどんなお客さんであろうと待たせるのは失礼なので、箱を下駄箱の上に置いてから玄関のドアを再び開けた。


「えっ」


 今度は宅急便のおじさんじゃなく、怪しげなセールスでもない。

 玄関先には暖かそうなマフラーを首に巻いて、厚手のコートを着こんだ知り合いが立っていた。


「……久しぶり、天吹」

「う、うん」


 久しぶりに会うのに何故かとんでもなく不機嫌な平さんだった。

 え、今会ったばかりだよね? まだ何も怒られるようなことしてないよね!?


「ど、どしたの、いきなり。何かあった?」


 私、何かやらかしちゃいました? と内心ヒヤヒヤしながら伺うと、彼女はやはりご機嫌斜めな表情を崩さずに私を睨みつけてくる。えぇ、なんなのほんと全然心当たりがないんだけど。忙しい中わざわざ会いに来るほど怒り心頭ってことなんだろうか。まずいなこれは逃げた方がいいか、と考えたところで出来もしない選択肢は却下する。大学でチームに属してはいないといえ、いまだに走り込みをしている平に敵うわけがない。


「なによ、来たら悪かった?」

「いや、そんなことはないけど。連絡もなしに来てくれたから驚いただけ。それに勉強は大丈夫なのかなって」

「ひとまずはね。あとは全力で試験に挑むだけって感じよ。はぁ、ほんっと覚えること多すぎ」


 平は肩を竦めて疲れたように息を吐いた。最後に会った時より少し伸びた髪がさらさらと揺れて、目を惹く。ちょっと髪型が変わるだけで印象が違うから、なんだかそわそわする。というかこうして直接会うのっていつ以来だっただろうか。たぶん一ヶ月くらい、確か会ってない気がする。


「そっか、お疲れ」

「……それだけ?」

「え? ああ、頑張ったご褒美とか? 落花生ならたくさんあるけど、いる?」

「いらないわよ! 節分はもう終わったでしょ!? 今日はバレンタイ――」


 ン、まで言い終えることなく、平は真っ赤になってそのまま固まった。

 ……なるほど。彼女の手に下げられている紙袋の中身を察して、こほんとわざとらしく咳払いする。

 どうやら不機嫌だった理由は、ただの照れ隠しだったようだ。まあ、平らしいな。


「ひとまず家に入ってよ、寒いでしょ。身体冷えて風邪ひくから……もちろん私が」

「は? 自分の心配?」

「ははは冗談だっての。ほら、いいから入る入る。手、冷たくなってるじゃん」


 空いている手を握ると、ひんやりと冷えている。手袋くらい着けて来ればよかったのに。

 中へ誘導すると平は黙って頷き、素直に家に入ってくれた。身体も冷えてるだろうし、まずは珈琲を淹れてから、居間の炬燵でゆっくり寛いでもらうことにしよう。いつものように居間へ案内しようとして、しかしそこで平は止まってしまう。じっと私の方を見て、言い難そうに口をもごもごとさせている。


「平?」

「居間じゃなくて、あんたの部屋でいい」

「え、炬燵ないけどいいの?」

「炬燵はどうでもいいわよ」


 いいのか。炬燵、あったかくて落ち着くんだけどな。私の部屋も暖房付けっぱなしにしているし、暖まるには問題ないだろうからべつにいいけど。

 平には先に部屋に行ってもらうことにして、私は珈琲を淹れる為に台所へ向かう。棚を漁っているとココアもあったので、選べるように珈琲とココアを一つずつ淹れた。そういえばよく柚葉がこうやって気を遣ってくれていたなって、懐かしい気持ちになる。別々に暮らすようになってまだそんなに経っていないはずなのに、随分と昔のように感じていまうから不思議だ。

 感傷を振り払って部屋に行くと、彼女はベットに腰かけてタブレットを操作していた。いや、それ私のタブレットなんですけど。


「ちゃんと勉強してるじゃない」

「そりゃまあ、最低限やるべきことはやってるよ」


 勉強も家事も運動もちゃんとやるって、約束したからね。やる気は前と変わらず全くないけれど、自分で決めた分は必ずこなすようにしている。それぐらい出来るようにならないと、並び立てないと思ったから。堂々と胸を張れるまでまだまだ時間はかかりそうだけど、少しずつ成長できてる実感はある。これも、こんな私の傍に居てくれたみんなのおかげだ。


「それより珈琲とココア、どっちがいい?」

「ん、じゃあココア」

「はいよ」

「ありがと」


 折り畳み式のテーブルを出して、彼女の近くにココアが入ったマグカップを置いた。平のカップをどこに片したか覚えてないので、ひとまず私の予備のやつを平に使ってもらう。いつもと違うカップだが形も色も似てるのでどうせ気付かれないだろうし、なんの問題もないだろう。


「これ、あんたの予備のやつじゃない」


 げ、秒でバレてんじゃん。なんで私の予備のマグカップまで把握されてるんだろうか。


「いつものカップの場所がわからなかったから。それが嫌なら探してくるけど」

「いいわよ別に、カップで味が変わるわけじゃないんだから。それと、私のマグカップなら食器棚の3段目の奥にしまってるわよ」

「あ、はい」


 そういや平はうちにくるとよく食器の片付けを手伝ってくれていたから、食器の種類や場所を把握していても不思議じゃない。むしろ私よりうちの台所のことに詳しいかもしれないな。

 テーブルの傍にクッションを敷いて座り、ゆっくりと珈琲を啜る。昔は苦くて嫌いだったけれど、今はこの苦味が気に入っていてよく飲むようになった。


「天吹」

「なに?」


 しばらく続いていた穏やかな沈黙を破ったのは、甘いココアを飲んでいたはずなのになぜか苦い顔をした平だった。その手にはずっと部屋の隅に置いてありながらずっと気にかかっていた紙袋が握られている。何度か逡巡した末に、ようやく私の前に差し出されたので心の内でホッとした。もしかしたら、渡してくれないかもしれないかもなんて、不安になっていたから。


「あんたにコレを食べる覚悟があるのなら。絶対に後悔しない自信があるのなら……あげるけど」

「なんでそんなハードルあげんの!?」


 どんなチョコレートを用意したのか恐くて尻込みしそうになっちゃうでしょうが。

 それでも、答えはすでに決まっている。


「いるよ。覚悟も自信も余裕であるっての。どんなものでも、平がくれるんなら全部貰う」

「…………そう」


 平の手から、紙袋を受け取る。

 ずっしりとした重みと気持ちが連動して、じんわりと満たされていく。


「わざわざ渡しに来てくれてありがとう。今年は貰えるとは思ってなかったから、私は何も用意してないけど」

「ホワイトデーに返してくれればいいわよ。72倍にして返してよね」

「ちょっと待って数字おかしくない!? いや、3倍返しってのは聞いたことあるけど72倍は狂気の沙汰では??」

「今は72倍が流行っているのよ!」

「流行ってるの!?」


 それが本当だとしたら一体どんなものを準備すればいいんだろうか。まず貰ったチョコレートの価値を金額にするのは難しいし、その72倍っていうんだから想像もつかない。バレンタインデーにチョコを貰った皆様はこの難題をどうやって解いてホワイトデーを乗り越えていくんだろう。


「冗談だけど」

「だよね!?」


 冗談で良かった。とりあえずお返しのことは来月の自分に任せて、今月の私はチョコレートを有難く貪り食うのみである。

 綺麗にラッピングされた箱を紙袋から取り出して、さっそく開封させてもらう。甘い匂いと共に中から出てきたのは、丸い形をした普通の生チョコが6つ。不規則なデコレーションと不揃いな形は、手作りである証拠だ。

 お腹もすいていることだしさっそく戴こうとひとつ手に取って口の中に入れる。ほどよい甘さとほろ苦さのバランスが丁度よくて、自分好みの味だった。口当たりも良く、優しく溶けてあっという間になくなる。


「美味しい」


 素直な感想が思わず口から漏れる。さっきの仕返しに冗談を交えて言おうと密かに企んでいたのだが、あまりの出来の良さに驚いて捻くれた言葉は喉の奥へ引っ込んでしまった。一つ、また一つと食べてしまい、貰ったチョコレートはすぐに無くなってしまう。


「ごちそうさま。で、これ平が作ったの? めちゃくちゃ美味しかったんだけど」

「当然でしょ。ふふん、私が本気を出せばこんなもんよ」

「去年チョコを大量に分離させてた人とは思えない台詞を……」

「うるさいわね。あんただって去年は板チョコ溶かして板チョコ作ってたでしょうが」


 く、くっそぅ。こんな美味しい手作りチョコを渡されてしまったら、ホワイトデーに下手なものを返すわけにはいかなくなった。お互い料理が苦手で克服しようと切磋琢磨する同士だったはずなのに、いつの間にか随分と差をつけられていたらしい。


「絶対に負けられない。ホワイト―デーに72倍返ししてやるから覚悟して」

「ちょ、ちょっとなに本気で悔しがってるのよ。べつに貰えるなら、その、何でも……」

「嫌だ。今日から納得できるチョコが作れるくらい料理修行するんで引きこもるわ」

「馬鹿じゃないの!?」


 声を荒げた平は立ち上がって、私のすぐ傍までやってきた。ふわりと良い匂いがして、ほんの少しだけ息を飲む。肩を掴んで顔まで近づけてくるもんだから悲鳴を上げそうになった。


「待って平、まずい、近いから、ほんとに」

「近づくな? あのね天吹。私がどれだけ耐えたと思ってるのよ。必死に勉強して、すきま時間に料理の練習して、やっと、ようやく、来れたのに。この一ヶ月半、ずっと頑張って、我慢してきたのよ。それなのに近づくな!? 引きこもる!? はあああぁ!? ふざけんじゃないわよこの馬鹿!」

「は、はい。すみません」

「大体ね、久しぶりに会ったのになんで普通の反応しかしないの? もっと嬉しそうな顔しなさいよ!」

「いやめちゃくちゃ嬉しかったんだけど!?」


 肩にある手がいつ頬に飛んでくるのかヒヤヒヤしていたけれど、最後まで飛んでくることはなかった。代わりに頬を摘ままれてしまったが、それで怒りが収まるのなら思う存分やってくれ。

 しばらく私の頬をムニムニと抓っていた彼女は怒りが落ち着いたのか、無言で傍を離れてベットの方へ戻り、布団の中へ潜っていった。え、どういうこと。私はどうしたらいいの。


「もしかして拗ねてる?」

「…………」


 近寄って布団を剥ごうとするけれど、力いっぱい握られているようで全然捲れなかった。私の力じゃ敵わないので、自分の意志で出て来ることを待つしかないかな。久しぶりに会えたんだからもっと色々なことを話したかったけれど、私がふざけ過ぎたのが悪いので仕方がない。反省しよう。


「疲れてるだろうから、そのまま寝ててもいいよ」


 彼女はいつも努力をする。高かい目標に向かって努力して、挫折して、それでも努力して。何度も何度も同じことを繰り返しても、絶対に諦めることがない。彼女の努力が実を結ぶことは少ないけれど、これまで頑張ってきた結果が、今の『平 裕子』という人間だ。だから私はそんな彼女を尊敬しているし、ずっと応援すると決めているから、いろんなことを我慢できる。何でもできる自信が湧くし、いろんなことを頑張ろうって、思えるんだよ。


「でもさ……やっぱり顔が見たいかな」


 ささやかな欲望を囁いても、布団の山はピクリとも動かず無言を貫いてる。これは無理かもなぁと苦笑いをして、珈琲のおかわりを淹れにいく為にマグカップをテーブルから取ろうとしたら、何か固いものを踏んでしまいうっかりバランスを崩した。


 ――――あ、やばい。これ、()()()()()()だ。


「っ! あっぶな」


 布団の山に覆い被さるように倒れこんでしまったが、上手く両手を付けたので接触は免れた。安堵に息を吐いて、ゆっくりと起き上がろうとしたら布団の中から出てきた腕が首に巻き付いて動けなくなった。布団が捲れてようやく見えた平の目は、真っ直ぐに私を見ている。


「ご、ごめん。すぐに離れるから」

「なんでよ。このままでも別に問題ないでしょ……私はあんたの恋人なんだから」


 なんだこいつかわいすぎる、と言いかけた口を慌てて閉じてなんとか耐えた。あ、危ないところだった。余計なこと言ってまた機嫌を損ねるわけにはいかない。

 数年前の関係だったら容赦なく突き飛ばされていたかもしれないが、今では逆に引き寄せられる程の仲になっていたりする。紆余曲折を経て惹かれ合い、こういう関係に至ってから2年ほどになるだろうか。変わらないようで色々と変わってしまったが、後悔なんてあるはずもなく、ずっとこのまま続いて欲しいと、続けていきたいと願っている。その為の努力を、私は絶対に惜しむことはない。


「わかった。じゃあ、遠慮なく」

「ちょ、馬鹿、なにやってんのよ!? 」


 言質は取ったので、平を引き起こしてからそのまま抱きしめた。

 久しぶりの柔らかな感触と体温が伝わって来て、胸の奥辺りがじんわりと暖まっていく。昔は他人の体温とか感触とか苦手だったんだけど、今は逆で、こうしていると落ち着いて安心する。恥ずかしい気持ちもあるのでそんなに頻繁にやらないけど、こうやって抱きしめたり抱きしめられたりするのは好きだ。


「あったかい」

「……もう」


 平も口では文句を言うけれど抵抗はしないし、すぐに抱きしめ返してくれる。いつも胸元に頬をすり寄せてくるから、速くなった鼓動を聞かれてしまうのでちょっとだけ困るんだけど。まあ、すぐにどうでも良くなる。


「試験終わったら、また動物園行きたい」

「うん」

「水族館も行ってみたい」

「うん」

「早朝10キロランニングに付き合って」

「5キロで許して」


 頑張っている平に何でもしてあげたい気持ちはあるけど、10キロは私の体力が持たない。最低でも筋肉痛で一ヶ月は動けなくなるだろうな。平との地獄のリハビリランニングのおかげで昔より身体は強くなっているが、まだまだ健康には程遠い。……いつも平の後ろを走っているので、並んで一緒に走れるように頑張らなければ。


「しかたないわね。あんたの態度次第では、3キロで許してあげてもいいけど?」


 ほんの少し体を離してから真っ赤な顔でそんなことを言ってくる。態度次第ねぇ。間違えたら10キロどころかフルマラソンの距離を走らされるかもしれない。それならそれで、望むところだ。


「いいよ、5キロでも10キロでも。平と一緒にいられるのなら」


 間違えても気にしない。

 だから自分の欲を優先して、平の唇に自分のものを軽く重ねる。一応、ベットの上なのでこれ以上はまずいだろうと自制してすぐに離した。正直足りないけれど、平は大事な試験を控えているんだからあまり無理をさせるわけにもいかない。今日会えて、チョコも貰えて、こうしていつも通りに過ごせるだけで、じゅうぶん幸せだ。


「天吹」

「なに、平」


 ぎゅっと手を握る。

 彼女のこの手は、嫌なことから目を逸らして足踏みしていた私の背中を強く押してくれたことがある。私を傷つけようとする者に激怒し、その手を振り上げて守ろうとしてくれたこともあった。私の消えない傷跡をその手でなぞって、涙を流してくれたこともある。


「ずるい」

「そう?」


 抱きしめられたので、反射的に私も腕をまわす。久しぶりだからか今日は随分と愛情表現が直接的だ。反動が怖いけど、せっかくなのでこの幸せを今は全力で堪能しておく。しかしこの様子だと、私の対応は間違っていなかったらしい。3キロなら3日間くらいの筋肉痛で済みそうだ。頑張ろう。


「ところで平さん。実は今週、ばあちゃんは遠征……えーと、旅行に行っていて家に居なくてですね」

「…………」


 平はすっと身を離して、私から距離を取る。顔がこれ以上ないってくらい真っ赤で茹で上がっていた。


「変態」

「まだ何も言ってないし何もしてないっての。ていうか何もしないから」

「はあ!? しなさいよ意気地なし!」

「なんで!?」


 夕飯を食べていくかとか食べたいものがないかとか聞こうとしただけなのに、誤解された上に煽られた。平の為に我慢しているのにそういう事を言われると決意が揺らいでしまう。いやいや、大切にすると決めたんだから、踏ん張れ私。彼女もきっと売り言葉に買い言葉で本気だったわけじゃない。いつものことだ。


「決めた。今日は泊まっていくから覚悟しなさいよ」

「え!? や、でもほら、試験勉強とか、あるでしょ?」

「対策は終わってるっていったでしょ。復習くらいここでもできるし、せっかくだから勉強見てあげる」

「ひぃ」


 なんか変な方向に話が進んで悲しいような、ほっとしたような。でも一緒に居られる時間が増えたことが嬉しくて、自然と顔が緩んでしまう。


「何へらへらしてんのよ。ほら、さっそく始めるからこっちに来なさいよ」

「はいはい」


 彼女と二人でする努力は苦ではあるけど嫌ではない。

 私の過去も今も全てを受け入れてくれたこの人と同じ道を歩いていけるのならば、全部が些事と言える。

 ああほんと、自分でも信じられないくらい好きになってしまった。


「ところで天吹。美空に聞いたんだけど、大学で可愛い女の子を押し倒したんだって?」

「…………」

「菜月からは、事務員さんの大きな胸に顔を埋めてたって聞いたわね」

「…………」


 大切な彼女ができても、それで体質が変わることはない。

 どうやら勉強の前に、まずは誤解を解いて気持ちを伝える努力をすることが先のようだった。



 

平さんルートの本編はみんなの心の中に……(逃走)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新ありがとうございます! Webサイトで執筆されていたときからのファンです! 久しぶりに読みに来たのですが、まさか、千晴と平のカップリング話が読めるとは思いませんでした! 読めて嬉しか…
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