WP短編 家出少女と素敵な未来
朝起きてすぐ、両親と口論になった。親と喧嘩なんて特別珍しいことじゃない。
私も両親も感情的になる方だから、些細なことで頻繁に言い合っている。
けど今日の……さっきのアレは我慢できなかった。あーこれはもう無理だわーって、早々と諦めてしまった。
だから「ふざけんなクソばばあ」と口汚く叫んで勢いよく部屋に閉じこもった。
ベットの上のぬいぐるみに拳をぶつけて八つ当たりしても、いつも私を癒してくれる枕を床に叩きつけても、気分はちっとも晴れてくれない。
部屋で大人しくしていると両親の言葉を思い出してしまい、イライラは消えるどころか徐々に増えていく。
これ以上家にいると溜まった鬱憤が爆発して自分でも何をしでかすか分からない。
財布と携帯を握りしめ、部屋のドアを開けた。母の「あんたどこいくの!」という叫びに返事をするのも嫌で、だがしかし無視する勇気もなく、足りない頭で捻りだした「グッバイマイハウス!!」という残念な英語を投げ、私は家を飛び出した。
つまり私は親と喧嘩をして、家出を決行したのだ。計画も準備もない、突発的でお粗末な家出だ。
何も考えず、とにかく家から離れた場所に行きたくて駅に向かい、適当に券売機で切符を買ってからホームへ着いた電車に乗り込んだ。
当てもない旅の途中、積りに積もった両親への不満とストレスを少しでも減らそうと、自分の意見と親の意見をすり合わせてみる。けれどやっぱり、自分の意見は譲れず怒りは収まることはなかった。
ずっと頭の中でいろんなことを考えて、何度も同じことを肯定して、やっぱり否定して、繰り返して繰り返して、なんとか負の塊を上手く呑み込めるくらい落ち着いた頃。
気付けば、私は見知らぬ住宅街の小道に佇んでいた。
「……うっそ」
今、自分が何処にいるのか全く予想がつかない。
考えることに夢中で、どこの駅で降りてどの道を歩いてきたのか少しも覚えていない。
どうしよう、駆け出しの家出少女は意図せず迷子少女へとクラスチェンジしてしまった。
「よ、よーし落ち着こう。今の時代、携帯で調べれば道くらい簡単にわかるはず」
怒り心頭で何も考えていなかったけど、ちゃんと携帯は持って来ている。流石だわ私。
最新型の二つ折り携帯を開いて現在地を確認するために地図を見ようとすると、急に画面がブラックアウトした。ボタンを押してもカチカチと鳴るだけで画面には何も映らない。
嘘、壊れちゃった? いやでも買ったばかりなのに。……あ、しまった、そういえば充電してなかった気がする。
こういう時に限って充電切れだなんて、どれだけ運が悪いんだろう。
「どうしよーん」
ちょっとこれ、本格的にまずいのでは?
地図が見れず電話もかけれないってもう詰んでる。
「いや」
まだだ。まだやれることは残っている。
ここは樹海じゃないんだから、歩いていればきっと看板とか目印があって駅まで辿り着けるはずだ。
とにかく歩いてきたと思われる道を引き返してみると、何故か行き止まりに行き着いた。
あれ、私ってばこのブロック塀を乗り越えてきたのかな? 無意識って凄いね。
……いやいや、きっと手前の分かれ道で間違えてしまったのだろう。大丈夫、きっと大丈夫。
そして今度は違う道を選んで進むと、不思議な事に知らない人のお宅へ来てしまった。おかしいな、私ってこんなに方向音痴だっただろうか。
もしかするとこの辺りは迷路みたいな区画になっているのかもしれない。だとしたらこれ以上むやみに歩き回るのは止めたほうがいいだろう。
自力では無理だと悟ったので地元の人に道を聞こうと決めたのはいいけれど、周りに人が一人もいなかった。
幸い、見渡した時に公園のような場所が見えたので、そこに行けば誰かいるかもしれない。
ずっと歩きぱなしで疲れていたから、ついでに休憩もしよう。
「お、第一町人はっけーん」
公園に着いて周囲を確認すると、自転車の前に立っている小学生くらいの男の子と中学生くらいの少女を見つけた。少女はしゃがんで子供用の自転車を一生懸命触っていて、男の子はその様子をじっと眺めている。
道を尋ねるよりも先に、二人が何をやっているのか気になったので傍に寄ってみた。
「ねえねえ、何をやってるの?」
「え? ああ、この子の自転車のチェーンが外れてたから、直してるとこです」
少女はチェーンを引っ張りながらペダルを逆回転させて、ひとつひとつギアをはめ込んでいく。
全部のギアを噛み合わせると、彼女は満足げに頷いて立ち上がった。
「よし、これで大丈夫だよ」
「わあ! ありがとうお姉ちゃん!」
いいなぁ。私も優しくて頼れるお姉ちゃんが欲しい。一人っ子だから無理だけど。
「じゃあ気をつけて帰ってね。応急処置だから、自転車屋さんに見せないと駄目だよ」
「うん!」
男の子は元気よく手を振り、自転車に乗って帰っていった。
「……あれ、先に帰っちゃったけど、もしかして弟さんじゃなかったの?」
「はい。妹はいますけど、弟はいません。あの子は全然知らない子です」
どうやらこの少女は幼馴染の家へ遊びに行く途中で、困っている様子の男の子を見かけたから声を掛けたそうだ。
自転車が動かなくなったと聞き、調べてみるとチェーンが外れているだけだったので直したとのこと。
しかし自転車のチェーンを手早く直せる女の子っていうのも珍しい。
随分と慣れた手つきだったので不思議に思い聞いてみると、彼女の妹がよくチェーンを外してしまうので修理の仕方を覚えてしまったそうだ。
「手、真っ黒じゃない」
「あはは。ほんとですね」
少女は困った顔も嫌な顔もしないで、油まみれの黒い手を見て笑った。
えー、笑い事じゃないと思うんだけど。水で洗ってもなかなか落ちないだろうから大変だよ。
公園に石鹸やハンドソープは置いてないだろうから、綺麗にするなら家に帰らないと駄目だろう。
「うーん、ざっと水で洗って、一度家に帰るしかないか」
そう言って少女は公園の手洗い場で真っ黒な手を丹念に洗っていたが、やはり黒い汚れは残っている。
ああ、私が石鹸を持ち歩くような女子力を持っていたら良かったのに。……石鹸を持ち歩く女子はそう居ないと思うけれど。
「ところで、私に何か用ですか?」
「あ、そうだった。私、実は迷子で駅までの道を教えて欲しいんだけど」
危ない危ない。要件も告げず初対面の少女と普通に雑談してたわ。これじゃ不審に思われてしまうのも仕方がない。でもなんかこの子、話しやすいというか、不思議な魅力があるのよね。
「それなら駅まで案内しますよ。近道すればそんなに時間もかかりませんから」
「え、悪いって。行き方教えてくれたら一人で帰るよ」
「ちょうど駅の方に用があるので気にしないでください」
ぜ、絶対嘘だ。私、知ってる。これ、絶対この子の目的地は逆方向のパターンだ。それにさっき一度家に帰るとか言ってたじゃん。
指摘すると、少女はそうだっけ? とすっとぼけやがりました。
悪いと思いつつも一緒に来てくれると正直凄く心強いので、結局お言葉に甘えることにした。
知らない子の自転車を直したり、面倒な迷子の案内まで快く引き受けるなんて、凄いお人好しだなぁ。
良い子なんだけど素直で簡単に騙されそうな感じだから、知らない人にホイホイ付いていきそうで不安だ。
うーむ、なんだか姉になった気分。もし妹がいたら、こんな感じで心配しちゃうんだろうか。
「いっそ姉になりたい」
「は?」
「いや冗談。私、実は親と喧嘩して家出してきちゃったんだよね」
道すがら、さっき出会ったばかりの年下の子につまらない身の上話を長々と口にしてしまった。
将来のことで親と大喧嘩して、我慢できずに家を飛び出して現在に至る、私のしょうもない話を。
少女は真剣に聞いてくれて丁寧に相槌を打ってくれるから、色んな愚痴や泣き言を吐いた。
「家に帰りたくないんですか?」
首を横に振る。
家を飛び出した時はもう二度とこんな家に帰るもんかと思っていたけど、怒りが鎮まればはやく帰りたいと思ってしまう。
素直に謝れる自信はまだないけど、もう一度だけ親と話をしてみたい。
「私もよく両親と喧嘩しますよ。大事なことでも、どうでもいいことでも、たくさん喧嘩します。どっちの意地が強いか、いつも根比べです。勝ちとか負けとかは、ないんですけどね。やっぱり、自分の中で譲れないものって、あるから」
穏やかな性格をしてそうな彼女でも、やっぱり喧嘩するんだなぁ。
多分それはきっと、自分の譲れないものの為に、主張を貫き通さなければいけないから。
「……そっかぁ。そうだよね」
喧嘩なんて、普通のことだ。
真正面から向き合えば、衝突するのは当たり前だ。近しい者であれば何度も何度もぶつかって、傷を負うことも
癒されることもある。思いやりって、綺麗なものばかりじゃない。そうやって良いことも悪いことも積み上げていくものが、絆というものだ。
今日の苦い家出も、いつかは笑い話になる。もしくは大切な思い出として残るのかもしれない。
「家に帰るんですか?」
「うん。時間が経って頭冷えたし、愚痴を聞いて貰えてスッキリしたから、帰るよ。また、両親と話してみる」
親には謝るけど、まだ自分の主張は曲げない。
ずっと考えて、いっぱい悩んで決めた、自分の将来なのだ。私の譲れないものだから、まだ諦めない。
解ってもらってから、親の意見を全部聞いてから、それからこの喧嘩に決着をつける。
「そうですか。うん、それは良かったです」
話を聞いて貰えるだけで、こんなに気持ちが切り替わるとは思わなかった。
この子に会えて良かった。会えなかったら、いろんな意味で迷子になってたかもしれない。
「ありがとね。いろいろ頑張ってみるわ」
「はい。応援してます」
さっき会ったばかりの私なんかのことを励ましてくれるなんて、ほんと、優しい子だなぁ。
こんな馬鹿みたいにお人好しな女の子と一緒にいると、自分の悩みが馬鹿馬鹿しくなってくる。
気分がすっきりして、無事に家にも帰れそうだから安心したのか、きゅるるっとお腹が鳴った。
恥ずかしくて両手で顔を覆うと、隣の少女はあははと遠慮なく笑ってくれがった。やだもー。
「良かったらこれ食べます? 手作りで申し訳ないですけど」
彼女は鞄からラッピングされた小袋を取り出して私に差し出した。
中に入っているのは、クッキーみたい。
「でも、これって誰かに渡すんじゃなかったの?」
「大丈夫です。いつも渡してるし、いつでも渡せる相手なので。食べてくれたら嬉しいです」
「うう、じゃあ、遠慮なくいただきます」
丁寧に結ばれたリボンを解き、袋の中のクッキーをひとつ手に取る。
お店で売ってる物より形は歪だけど、綺麗に焼かれたクッキーは凄く美味しそうだ。
空腹に後押しされ、眺めるのもほどほどに口の中に入れた。もぐもぐと噛みしめると、程よく甘い味がぶわっと口内に広がる。
……え、なにこれ、すごい美味しい。本当にこの子が作ったの? まじで美味しいんですけど!?
中学生にしてこんな美味しいお菓子を作れるなんて、将来有望だなぁ。
「やばい、このクッキーめっちゃ美味しいよ。これをいつでも食べれる人が羨ましいっすわ」
「えへへ、ありがとう。幼馴染にはいつも酷評されてるんだけどね」
えぇ、どんだけ舌が肥えてるんだよその幼馴染さんは。
他に話すこともないので、興味半分でこの少女の幼馴染のことを色々聞いてみた。
とても可愛くて綺麗で頭が良くて、しかもいいとこのお嬢様だという。なるほど舌が肥えるわけだ。
厳しいけど本当は優しい子なんですよ、と自慢するように話す少女は、幼馴染のことが本当に大好きなんだろう。
話を聞いていた限り、その幼馴染の酷評は照れ隠しみたいだけど、この子は気付いていないっぽい。
指摘するのも野暮だろうから黙っておこうかな。ふふふ、仲が良くて大変よろしい。
「はぁ、満足~」
お腹が空いていた事と、とても美味しかったことが合わさり、残りのクッキーをあっという間に平らげてしまった。
「大変美味しゅうございました。この御恩は一生忘れません」
「お、大袈裟ですって。作ったクッキーを食べて満足してもらえたなら、私も嬉しいですから」
「それでお代はおいくら万円?」
「いいですよお金なんて。家にあったもので作ったから自分の痛手にはならないし」
「いやいや流石にお世話になりすぎだから、何かお礼をさせてよ」
ポケットから財布を取り出して広げる。
お金を渡せなくてもせめてジュースぐらいは奢らせてほしい。
「んん?」
あれ。
あれれ。
私の財布の中、なんでからっぽなの? すっからかーんなの?
「どうしたんですか、急に黙って」
「財布の中が、からっぽぅ」
「わあ」
そういえば切符買うときに、有り金はたいて行けるとこまで行ってやるぜもう戻らねえしなHAHAHA!ーって感じで後先考えてなかった。いくら憤って何も考えていなかったとはいえ、最高にアホすぎる。
これじゃお礼をするどころか帰ることも出来ない。
――――もう仕方がない。使いたくはなかった、最終手段だ。
彼女に携帯を借りて、親に電話しよう。迎えに来たとき滅茶苦茶怒られそうだけど、自業自得だ。
問答無用で話を聞いて貰えないかもしれないが、身から出た錆なのだ。どうにか頑張るしかない。
「ごめん、携帯借りてもいい?」
「いいですよ」
二つ返事で了承してくれた彼女は、ぽんっと私の手の上に紙きれを乗せる。
え、なんで、違うよ、私が借りたいのは携帯なんだよ。
お金を貸してくれとは、一言も言っていないのに。
「ごめんなさい、携帯は家に置いてて、今持ってないんです」
「携帯を携帯しないでどうすんのさ……」
「ですよね。だから、ごめんなさい。こんなことしかできなくて」
ぎこちなく笑う彼女を見て、携帯を持っていないことが嘘だと解る。
一緒にいた時間は僅かだけど、この少女は嘘が下手なのだ。もっと頑張れよと言いたくなる。
「でも、流石にお金は借りれないよ」
「貸したつもりはないですよ。あげます。返さなくていいです」
「はあ!? 本気で言ってるの!?」
「もちろん」
「なんで、なんで今日会ったばかりの私に、そんな簡単に渡すの!? 駄目でしょ、そんなの! 余計なお世話かもしれないけど、そんなんじゃ貴女、いつかきっと痛い目を見るから!!」
他人の為に身を削る行為は美徳かもしれない。
でも、それは本当に自分の為になるのだろうか。
相手の為に、なるのだろうか。
「よく言われます、お節介が過ぎるって。私の余計なお節介が時に他人を、そして自分を傷つけることも、解ってます。でも、やっぱり、結局やっちゃうんですよね、学習しない馬鹿なんで」
「そうだよ。ほんと馬鹿」
「あはは、はい、その通りです。だから、そのお金は使ってください。私の自己満足に協力すると思って」
「…………いつか必ず、お礼しに来るから」
「私の自己満足が、貴女の素敵な未来になってくれるなら、それが一番のお礼になります」
「……っ、ありがとう」
駅に着いて、ようやく私は彼女の名前を聞いていないことに気が付いた。
あと住んでいるところ……せめて、携帯の番号だけでも聞いておかないとお礼が出来ない。
「ねえ、貴女の――――」
「あっ!? もうこんな時間だ! 早く行かないとまた怒られちゃう!」
少女は時計を見ると顔を青くして狼狽える。
そういえば幼馴染のところに遊びに行く途中だって言ってたね。
またってことは、いつも遅れて怒られているんだろうな。
「ごめんなさい、もう行かなきゃ。じゃ、頑張ってくださいねお姉さん!」
「あっ! ちょっと待ってせめてお名前だけでもーーっ!!」
雑踏に紛れて私の声が届かなかったのか、親切な少女は振り向きもせず走り去っていった。
どうしよう、名前を聞けなかった。携帯の番号も解らないから連絡も出来ない。
これじゃあお礼が出来ないではないか。お金だって返すつもりだったのに。
「……絶対、お礼してやるんだから」
手掛かりはないけれど、この町にすんでいるのなら絶対に見つけてみせる。
見つけて、今度はちゃんと私から名乗って、彼女の名前を聞く。
どれだけ時間がかかっても絶対に、この恩を返すのだ。
自らに誓いを立て、私は家に帰った。
――――そして、月日は流れる。
あれから私は親と喧嘩をしてまで行きたかった大学に無事通うことが出来た。
そこで出会った男性と恋に落ちて、結婚して、希望の職に就けて、順風満帆の日々を送り……もうすぐ私は母親になる。
そんな時、ふとあの心優しいお節介な少女のことを思い出した。
あの出会いから数年経っているけれど、私はまだ彼女にお礼が出来ていない。
大学が決まってから一度あの町まで行ったのだが、結局見つけることが出来なかったのだ。
それから大学生活で色々忙しく、誓いを果たせぬまま長い月日を重ねてしまった。
……このままではいけない。あの子のおかげで、私は希望の大学に通えたようなものだ。
あの無様な家出の末に出会えた少女のことがなければ、親と解り合う努力を放棄していたはずだから。
大学に行かなかったら夫とは出会えなかった。夫と出会えなければ、お腹の子を宿すこともなかった。
そう思うと、いてもたってもいられなくなる。
会いに行こう。今度こそ、見つけて見せると意気込んで、私は身重の身体でまたあの町を訪れた。
結果を言えば、私はあの少女の名前を知ることが出来た。『赤口 椿』という、名前だそうだ。
彼女の母親に会えたのは偶然だった。彼女と出会った公園で身体を休めていたら、心配して声を掛けてくれたのだ。それで雑談ついでにこの町に来た目的を告げると、もしかしたら私の娘かもしれない、と女性は言った。
そして私はその女性の家まで案内され、彼女と再会を果たす。
……間違いない、彼女だ。成長して髪も伸びて大人っぽくなっていたけど、優し気な表情は変わらない。
遅くなってごめんね。そう言って、私は頭を下げる。彼女は何も言わない。ふふ、怒るような子じゃなかったもんね。むしろ笑ってくれそうな気がする。
ああでもお礼は出来そうになかった。方法が解らない。あの時貰ったお金は、強引に彼女の母親へ渡した。
だから、彼女があの時言ってくれた言葉に甘えることにする。
『私の自己満足が、貴女の素敵な未来になってくれるなら、それが一番のお礼になります』
それなら私は、お礼を返せるかもしれない。
「素敵な未来をありがとう、椿ちゃん」
一緒に居た時間はたった数時間。
友達とも呼べるような間柄ではなく、辛うじて知り合いと名乗ってもいいぐらいの希薄な関係だ。
けれど私にとって彼女は恩人だった。
だから私は涙を流す。ちゃんとした形で恩を返せなくて、悲しかったから。
ねえ、貴女は私のことを覚えてるかな。私みたいなの、お節介なあなたにとって日常茶飯事かもしれないけど。
ほんとは覚えてくれなくても良かった。もう一度、この少女と話したくて、美味しいクッキーを食べたかった。
それだけだ。
それだけなのに、もう叶わないと思うと、とても悲しい。
私は遺影の彼女に向けて手を合わせ、この世にもういない彼女に心の中で感謝を伝えることしかできなかった。
悲しいことがあれば、嬉しいこともある。
去る命があれば、生まれてくる命もある。
私は長女を出産し、そして数年後には次女も生まれた。どちらもとても可愛くて、愛おしい娘たち。
長女は賢く優しい子で、次女は甘えん坊だが気遣いのできる子だ。
すくすくと健やかに育って、あまり私や夫に似ていない、利口な子供たちだった。
「お母さーん、自転車が動かなくなった」
「あらまあ大変。叩いたら直るかしら」
「テレビじゃないんだから。ちょっと見てみてよ」
次女が困った顔でお気に入りの自転車を指さす。
私は修理なんて出来ないし、夫は出張中で家に居ない。運ぶのも大変だから、自転車屋さんに取りに来てもらわなきゃ。
「何やってるの?」
「あ、お姉ちゃん。自転車が動かなくなってさー」
「ふぅん。あ、なんだ。チェーンが外れてるだけじゃん」
昼寝をしていたはずの長女が目を擦りながらやって来たと思ったら、自転車の前に屈んでチェーンを弄り始める。慣れた手つきでギアに嵌めこんでいく様子を見て、心が震えた。
ずっと頭の片隅に置いてあった違和感が、形となっていく。
「……ねえ日向。どこで自転車の修理の仕方を覚えたの?」
「えっ!? いやあ、どこでって、自然に? なんとなく? あ、お父さんだったかも?」
「そう。凄いじゃない。流石私の自慢の娘ね!」
「えへへ」
長女は、嘘が苦手だ。大事な嘘以外は、こうやって態度に出てしまう。
誰に教わったのかお菓子作りも得意だ。料理の本を読んで覚えたと聞いてなるほどと思っていたけど。
それだけじゃない。この子は初めからなんでも出来た。教える前に、どこで覚えたのか自分でやってしまう。
子供っぽくキラキラした目をすることもあれば、大人のように冷静で落ち着いたところもある。
寝ることが好きで、いつもパーカーばっかり着て。誰よりもお節介で、お人好しで、心優しいこの子は。
「日向」
「うん? なに?」
あのお節介な少女のように、優しく他人を思い遣れるあったかい子になってくれるよう願いを込めてつけた名前。その名の通り、まるでこの子は少女本人のように、誰よりも優しい子に育った。
「私の名前、知ってる?」
「当たり前じゃん。早瀬 恵美子でしょ?」
「そうね。結婚する前は、田村 恵美子だったけど」
「へえ。旧姓は聞いたことなかったかも」
「……よし。お母さん、ちょっとやることできちゃった。この洗濯物を庭に干しといてくれる?」
「えっ、これから2度寝を……」
「嘘おっしゃい。もう4度寝でしょう? はい、これよろしく~♪」
「そんなぁ。小姫も手伝っ……もう居ない!?」
次女の小姫は空気を読むことに長けている。
自分に降りかかる面倒をいち早く察して、直った自転車で逃げたのだろう。
溜息を吐きつつ洗濯籠を持って庭に向かう日向を見届けて、私は自室に向かった。
携帯のアドレス帳を開き、目当ての番号を見つけて通話ボタンを押す。
「もしもし、私だけど。ええ、少し調べて貰いたいことが……」
はっきりとした確証はない。
これから私が行うことは、ただの自己満足だ。
これがあの子にとっていい結果となるのか、悪い結果となるのかわからない。
けど私の自己満足が、貴女の素敵な未来になってくれるなら、恩を返したことになるだろうか。
いえ……何があろうと、この子が誰であろうと、私は日向の母親なのだから。
この子の為なら、恩も礼も関係ない。
「ねー日向」
「もーなんだよー」
「引っ越すわよ」
「はあ!?」
私は、私の素敵な未来を紡いでいく。
ただそれだけの話。