WP短編 バレンタイン番外編2
つつがなく仕事を終え、私はひとり帰路につく。
今週の勤務もそれなりに頑張ったので疲れも溜まっているが、明日は休みで特に用事もない。つまり、暇なのだ。
せっかくだから寄り道でもして帰ろうと思い、たまたま目についた本屋に足を運んで適当に選んだ雑誌を数冊買ってみた。女性週刊誌やファッション誌なんて興味がないから普段読まないけれど、暇つぶしにはなるだろう。
それと姉さんと椿ちゃんが喜びそうな料理系の雑誌も見つけたので、それもお土産用に買っておいた。
このまま家に帰るつもりだったけれど、お土産も買ったことだし彼女の家に寄っていくことにする。
連絡してから行くべきか悩んだが、あと数分もかからず着いてしまうので、そのままお宅に突撃しよう。
「というわけでお邪魔します」
「はいはい。いらっしゃい瑠美ちゃん」
突然やって来た私を邪険にせず、快く出迎えてくれた陽織さん。
私がいきなりやってくるのは珍しいことではないので、随分と慣れていらっしゃるご様子。
陽織さんは友人であり、元・姉の恋人だから私にとって義理の姉みたい人で、つまり家族のような間柄と言っていい。
ほんの数年だが、うちの家で一緒に暮らしていた時期だってある。
ややこしい関係ではあるけれど、私たちの仲なので、いまさら遠慮なんて必要ないなのだ。
「紅茶でいい?」
「うん。ありがとう」
いつものようにリビングのソファに座わり大人しくしていると、陽織さんが二人分の紅茶を淹れてきてくれた。
上品な香りを楽しんでから口を付け、ほぅと息を吐く。うーん、あったかくて美味しいなぁ。
春が近づいている時期ではあるものの、まだまだ肌寒いので紅茶の温かさが身に染みる。
「姉さんと椿ちゃんは?」
「二人なら買い物に出掛けてるわよ。そろそろ帰ってくる頃だと思うけれど」
陽織さんは好んで外出する方ではないから、一緒に行かなかったのだろう。
まあ、おかげでこうして私の相手をして貰えているわけなのだが。
彼女と一緒にいるときは近況などを話し合ったり、のんびりテレビを見て雑談したりしている。
……基本的に鈍感な姉のことについての相談が多いけれど。
「そうだ。本屋に寄って雑誌を買ってきたんだけど、陽織さん読んでみる?」
買ってきたファッション誌を手渡すと、彼女は怪訝な顔をする。
「あら意外。瑠美ちゃんこういうの読むのね」
「普段は読まないんだけどね。興味がない分野に目を向けるのも、たまにはいいかなって」
「そうね。視野を広めるのは知識を深める事に繋がるし、素晴らしいことだと思うわ」
「いや…陽織さんが思ってるほど大層な意味はないんだけど」
目的は単なる暇つぶしだ。私は女性週刊誌のページをパラパラと捲り、流し読んでいく。世間を騒がせている芸能人の騒動も、とあるドラマの裏話なども、やはりどれも興味が湧かない。記事の隅っこに載っている犬と猫の可愛い写真には幾ばかりか心惹かれたけれど。
陽織さんも雑誌の内容に関心がないのかページを捲る速度が速い。けれど、あるページでその動きがぴたりと止まる。
何か目を惹く記事でも見つけたのだろうかと覗き込んでみれば、そこにはバレンタイン特集が載っていた。
「もうすぐバレンタインね」
「あ、そっか。もうそんな時期なんだ。今年も姉さんは張り切って作るんでしょ?」
「でしょうね。最近やたら楽しそうで、目がキラキラしてたわ。なるほどバレンタイン……そういうことだったのね」
「あはは、姉さんらしい」
姉さんが作るチョコは美味しいから楽しみなんだけど……うぅ、バレンタインかぁ。
悲しいことに、私にはチョコを贈る相手なんていない。むしろ毎年貰う側なのである。しかも教え子たちから。
今年は生徒たちに持って来たら駄目だと早めに釘を刺しておいたけれど、お年頃の女の子にはまったく効果がないだろう。
うちの学校はお菓子の持ち込みは厳禁だが、隠れて持ってくる分には黙認している。うちの職員たちは寛容な人が多いのだ。
好きな子にチョコを渡す? いいことだ、青春じゃないか。友達同士でチョコを交換する? 微笑ましいじゃないか、もっとやれ。
しかし、教師に向かって堂々とチョコを渡してくるのは流石に頭を抱えてしまう。
百歩譲って義理チョコはいいのだが、本命を渡されると非常に困る。気持ちは嬉しいのだが、はっきりいって面倒だ。
チョコは好きだが、貰ったものを全部食べるのは大変だし(陽織さんと椿ちゃんに手伝って貰ってるけど)、
生徒の想いを後腐れなく丁寧にお断りするのも骨が折れるのだ。
バレンタイン限定だが、モテモテのイケメンになった気分になれる。正直、とっても複雑だ。一応私も、女ですので。
「……今年はチョコを作ってみようかしら」
「え? なんだって?」
今、陽織さんがとんでもないこと言った気がするけど、急に耳が遠くなったようで聞こえませんでした。
それで、何を作るって? チョコをどうするって? いやぁ困ったなぁ私もいい年だから耳が聞こえ辛くなってるのかも。
「今年は手作りのチョコレートを渡そうと思ってるのだけど」
「あっそういえば陽織さん、駅前のデパ地下に美味しいチョコが売ってるらしいよ。手作りもいいけど、既製品も喜ぶと思うなぁ」
「あからさまに話題を逸らそうとするわね」
つい目まで逸らしてしまう。陽織さんが睨むと怖いんですよ。姉さんは喜んじゃうけど。
「いやほら、姉の危機を救うのが妹の務めなので」
「ちょっと危機ってどういうことよ。ま、まあ私が料理苦手なのは自覚しているわ。
でも、チョコを溶かして固めるだけなんだから、流石に私でも作れると思うの」
「陽織さんこの前『焼くだけだから私にも出来る』とか言って目玉焼きを墨にしてたよね」
「……人は失敗して成長するものよ。今度は大丈夫だわ」
どこからそんな自信が湧いてくるのであろうか。
彼女は確かに万能だ。頭も良く器用で要領も良い。才色兼備という言葉が恐ろしく似合う人だ。
けれど致命的に家事が出来ない。料理をすれば暗黒物質を作り出すし、掃除をすれば逆に散らかるという不思議な現象が起きる。
ついにはあの温和な椿ちゃんがガチギレして「お母さんは何もしないでください」と真顔で言うほどだ。
そんな彼女が料理をすれば何が起こるかわからない。想像するのも恐ろしい。
「じゃあチョコの溶かし方……湯煎のやり方ってわかる?」
「それぐらい知ってるわよ。板チョコをお湯に入れて溶かせばいいんでしょう」
はいアウトー!!
まさかそんなベタな間違いをどや顔で言われるとは思いませんでした。
私は今どんな顔をすればいいのかわからない。笑っていいのかな。
「陽織さんや。湯煎っていうのはね、湯を通して間接的に加熱することで、
つまりお湯の入ったボウルに、チョコが入ったボウルをつけて溶かしていくの」
「へえ」
へえって貴女。ちょっとちょっと陽織さん。
湯煎って単純だけど、温度調整とか色々難しいのだよ。
うっかりお湯がチョコのボウルに入っちゃったり、綺麗に溶けなくてダマになっちゃったり。
全て私の体験談なんだけどね。
「まあ何とかなるでしょう」
「…………」
何とかなるんでしょうか。
いや、もう何も言うまい。彼女は大好きな人に手作りのチョコレートをプレゼントしたいのだ。いじらしくて、可愛いじゃないか。
余計な口出しは控えて温かく見守ることにしよう。姉さんも、好きな人から手作りのチョコを貰えるなんて思ってもいないはずだ。
きっと驚いて、それこそ泣いて喜ぶに違いない。いろんな意味で。
「瑠美ちゃんもチョコ作りを手伝ってくれない?」
「え!?」
「驚かせたいから日向には内緒で作りたいの」
「つ、椿ちゃんは?」
「あの子も手作りするみたいだから、邪魔したくないのよ。瑠美ちゃんは作らないんでしょ?」
「そうだけど……でも私、人に教えられるほどお菓子作りは上手じゃないよ?」
「大丈夫よ。私より遥かに上手だから」
「……はぁ、わかった。わかりました。姉さんと陽織さんの為だもの。自信はないけど、手伝う」
「ありがとう」
ぱあっと陽織さんの表情が華やぐ。うぐっ、ほんとに、仕方ないなぁ、この人は。
私たち姉妹は、彼女の一喜一憂にとことん弱い。
どこまで出来るかわからないけれど、大好きな姉たちの為に、この不肖の妹めが最後まで微力を尽くしてみせましょう。
「ただいまー」
「おっと、子供たちが帰ってきた」
私たちが恐ろしい…いや、楽しい企画を練っているとは知らず、のほほんと部屋にやってくる姉さんと、ニコニコご機嫌な椿ちゃん。
手に持っている袋を覗き見ると、板チョコや生クリームなどチョコ作りの材料が入っている。
ああ、そろそろ買っておかないと売り切れちゃうもんね。
私たちも明日買いに行った方がいいかもしれない。失敗を想定して、多めに買っておこう。
姉さんには当日まで内緒にしたいらしいから、バレないようにうちの家で作った方が良さそうだ。
上手くいけば母を巻き込んで成功率を上げられるかもしれない。よし決めた、そうしよう。
「瑠美来てたんだ」
「うん。お邪魔してます」
「せっかくだから、一緒に夕飯食べていく? 今日はお好み焼きだよ」
「んー食べたいんだけど、でも数日前にご馳走になったばかりだし」
「なに遠慮してんの。瑠美は家族なんだから、一緒にご飯を食べるのは普通のことだよ」
「そうですよ。是非食べていってください。材料も多めに買ってきましたから」
「姉さん……椿ちゃん……」
二人の優しさに涙が出そうだ。お言葉に甘えて、今日は夕飯を頂いて帰ろう。
それよりちょっと気になるんだけど、さっきからまるで我が家のように冷蔵庫を勝手に開け閉めしてるね、姉さん。
陽織さんも椿ちゃんも何も言わないので、もはや当たり前のことなんだろう。突っ込むのも今さらか。
泊まってるのは週末だけらしいので、はやく同棲すればいいのにこのバカップルと思わなくもない。
「日向」
「ん? どうしたの陽織」
「明日からしばらく、貴女に会わないつもりだから」
あ、姉さんが青い顔して膝から崩れ落ちた。
この世の全てに絶望したってくらい酷い顔している。
よく顔文字で使われてる orz みたいな姿勢になってるので写真を撮っておこうかと思ったけれど、流石に可哀想か。
椿ちゃんが慌てて姉さんの傍に駆け寄って、甲斐甲斐しく身体を支えている。な、情けない。
「わ、私、なにか陽織が怒るようなことした!? 心当たりなんて一つもないんだけどっ」
残念ながら陽織さんはもうどんなチョコを作ろうかと考え込んでしまっているので、顔面蒼白で訴えている姉さんの声は届いていない。
無視されていると勘違いして、どんどん姉さんの顔色は悪くなっていく。
陽織さんも不器用で、姉さんも鈍感だからね。すれ違うことも時にはあるでしょう。
そういう時こそ、妹の出番というものだ。
「姉さん。陽織さんは社会人で、忙しい時だってあるんだから。姉さんが何かしたとかじゃないから安心して」
「ほ、本当に?」
「うんうん。だからそんな情けない顔しないでよ」
さっきの陽織さんの言葉を正しく言い直すと
『明日からしばらく(チョコ作りで忙しいから、寂しいけれど)貴女に会わないつもりだから』だ。
チョコ作りのことを言うわけにもいかないし適当に誤魔化すしかないのだが、彼女は口下手で、いつも言葉が足りていない。
姉さんもそれは解っているはずだけど、鈍感だからなぁ。
「あの、瑠美さん」
何か察したらしい椿ちゃんが、困惑した表情で訴えてくる。
彼女にはある程度の協力を頼みたいので、こっそり本当のことを教えておこう。
姉さんに聞こえないように事の真相を耳打ちすると、椿ちゃんは苦笑いをして頷いた。
「日向さん、そろそろ晩御飯の用意を始めましょうか」
「あ、うん……」
ある程度持ち直したものの、まだ落ち込んでいるのか暗い顔をしている姉さんを連れて、椿ちゃんは台所へ歩いて行った。
姉さんのフォローは椿ちゃんに任せたので、私は陽織さんの手伝いを頑張ることにしよう。
ーーそれから数日間、私と陽織さんはチョコ作りの特訓をした。
それはもう過酷な数日間であったが、思い出したくもないので詳細は言わないでおこう。
巻き込んでしまった母や後輩のことを思うと、申し訳なくて泣きたくなる。
そして、ついにバレンタイン当日。
当然のように、姉さんはチョコを持って陽織さんの家にやって来た。
けれど、今年のバレンタインは一味違う。陽織さんの手には、綺麗にラッピングされたチョコレートがある。
大切な人の為に、彼女が頑張って作った一品だ。
チョコを溶かしてほんの少し手を加えて、丸めただけのトリュフチョコレートだが、
食べれる品を完成させるまでにとてつもない労力がかかった。ぶっちゃけ、成功するとは思っていなかった。
けれど奇跡が起こったのか、それとも愛のなせる業なのか、無事に完成したのだ。
「えっ、これって」
「日向の口に合うかわからないけど、作ってみたの」
呆然と受け取った姉さんは、信じられないものを見るような目をしてチョコレートを眺めている。
「開けて、食べていい?」
「ええ」
ゆっくりと確かめるように包装を解いて、中から一粒を摘み、躊躇うことなく口の中へ。
彼女が料理下手なことを一番よく分かっているはずなのに、なんの疑いもなく、恐れもなく、もぐもぐと口を動かしている。
きっと姉さんは味のことなんて考えていないのだ。
ただ、大好きな人が自分の為に作ってくれた。それだけで、幸せだと思える、そういう人だから。
「ど、どう?」
「……美味しい」
「えっ」
「すごく、おいしいよ」
姉さんの素直な感想に、陽織さんは何故か衝撃を受けたような、変な顔をしている。
美味しいと言ってくれたのだから、もっと嬉しい表情になってもいいのに。
満足いく反応ではなかったのか心配になったが、どうやら杞憂であったらしい。
「……そう。自分が作ったものを食べてくれて、美味しいと言って貰えるだけで、こんな気持ちになるのね」
「陽織」
「大切な人の為に料理をすることも、楽しかった。貴女がいつも感じていることに触れられて、嬉しいわ」
「うん。私も、陽織の手作りお菓子を食べられるなんて思ってなかったから驚いたし、凄く嬉しい」
お互いに見つめ合って、仲良く微笑んでいる。完全に二人の世界だ。はいはい、おめでとう。
私が傍に居て眺めているなんて、思ってもいないだろう。完全に存在を忘れられているが、好都合かもしれない。
さて、これ以上はお邪魔というか甘ったるい空気に耐えられないので、気付かれないように退散した方が良さそうだ。
姉さん達には今度美味しいものでも奢ってもらうことにして、こそこそと家を出る。
片手には沢山のチョコが入った紙袋。はい、私は今年もしっかり生徒たちから受け取ってしまったのです。
しばらくチョコは食べたくないどころか見たくもないけれど、貰ったものを無碍にするわけにもいかない。
それに、生徒たちから慕われている証拠だと思うと、やはり嬉しいものだ。
誰かに贈る幸せがあれば、誰かから貰う幸せもある。
来年は私も手作りして誰かに渡そうかな、なんて柄にもないことを考えて苦笑する。
先のことはわからないけれど、とりあえずホワイトデーのお返しのことを思い、私は頭を悩ませるのだった。