HL番外編 これからの日々へ挨拶を 後編
「今日は、お二人に大切なお話があります」
「ほう、なんだね」
ごくりと唾を飲み込む。もう、心臓が爆発しそうだ。気を抜いたら、失神してしまうかもしれない。
でも、言わなきゃ。言わないと何も進まないのだから。
「私は、柚葉さんと、お付き合いをさせていただいています」
「………………」
「なので、どうか。交際を認めては頂けませんか」
言った。
言えた。
けれど、二人の反応はない。他に何か言うべきだろうかと迷ったが、焦らず相手の反応を待つことに決めた。
壁に掛かっている大きなデジタル時計が時を刻んでいくほど、部屋の空気が重さを増していく気がして息が苦しくなる。
ただ待っているだけなのに、この時間はまるで拷問のようだった。
「……いくつか確認しておきたいことがある」
「はい」
しばらくの沈黙の後、ようやくオーギュストさんは重たい口を開いた。
「それは結婚を前提にした、真面目な付き合い、という意味か」
「はい。この国では正式に認められていませんが、彼女と人生を共にしたいと考えています」
「それが、どんなに困難なことか、理解しての発言なのかね」
「はい。全て覚悟の上で、今ここにいます」
「もし、私が反対したらどうする。私が認めないと言えば、それまでだ。これでも私はそこそこの権力者でね、あらゆる手段を使ってキミたちの仲を引き裂くことができる。……柚葉は大切な私の娘だ。愛しい我が子をむざむざ険しい道に行かせるわけがない。そこまで考えが及ばなかったか?」
彼の発言を聞いて柚葉が反論しようと身を乗り出したが、手で遮って静止する。
最初から、反対されるとは思っていた。同性なのはもちろんだが、なにより私の身体は人一倍弱い。悪くなることはあっても、治ることはない。
この先、この身体のことできっと迷惑をかけるだろうことは明らかだ。
私にはマイナスを補えるプラスの部分など全くない。自慢できる長所なんて、思いつかない。
「それでも、諦めません」
オーギュストさんの睨みつけるような厳しい視線を受け止めて、はっきりと答える。
「子供の我儘だな。キミは柚葉が悲しい思いをしてもいいと言うのか? 傷ついても必ず守れる自信があるとでも?」
「自信なんてありません」
「なに?」
「私は臆病者なんです。今だって、隙あらば逃げ出したいって考えてます。
勉強も運動も、人付き合いも苦手です。面倒なことも、大嫌いです。こんな私じゃ彼女に釣り合わないって卑屈になることも多いです。
――でも、諦めません。反対されても、心の底から納得してもらうまで諦めたりしません」
「自分が今、何を言っているのか解っているのか?」
「解っています」
私が言っていることは支離滅裂だ。自分で柚葉に相応しくない人間だと訴えているのに、その上で諦めないと言っているのだから。
なんて傲慢。厚かましいにもほどがある。問答無用で叩きだされても文句は言えない。
だからといって自分を飾る為に綺麗な言葉を並べても、何の意味も成さない。
「そんな、駄目な人間の私が、彼女を好きになりました。とても、大切な人だと、胸を張って言えます。
その大切な人に迷惑をかける恐怖も、劣等感で苦しむことも、この先失ってしまう可能性も、全て理解してるのに、それでも好きなんです」
ずっと面倒なことや怖いことから逃げていた。傷つきたくないから、大切なものを作りたくなかった。
自分は何も守れないから、守りたいものを、傍に置きたくはなかった。
なのに。
「柚葉さんのことが、好きです」
いっとう好きな人が、出来た。
自分の全てをかけて守りたいと思った。
いつだって自信はないけれど。
好きと言われるたびに、自分のことをほんの少し好きになれる。
彼女が隣で笑ってくれるのなら、無限の力が湧いてくる。
小さい頃大好きだった漫画の主人公がヒロインに向けて似たような台詞を言っていたっけ。
「彼女の為なら何だってできます。全力で、ない力を振り絞って、幸せにしてみせます。
先ほど言った通りの、駄目な私じゃ信用して貰えないのは解っています……だから見届けてほしいんです。
私が諦めない限り、見守っていてほしいんです。私たちがどれほど幸せに過ごせているか、見極めてください」
「…………」
「お願いします。私たちの“これから”を、見ていてください」
言いたいことを言い尽くして、最後に頭を下げる。
自分の想いと覚悟を、彼女の両親に全て伝えることが出来た。これで駄目でも、絶対に諦めてやるもんか。
「都合のいい話だ」
「はい」
「見極めるために使う時間は、戻ってはこないんだぞ」
「はい」
彼は眉間に皺を寄せて深い息を吐く。それが何を意味するのかは解らない。
一挙一動に内心で怯えながら、次の言葉を待つ。
「……そうか。そうか、そうか……そんなに、柚葉が好きか!」
「はい!」
「娘を愛しているのか!」
「はいっ!」
もはや勢いで答えていた。返事を躊躇っては自分の気持ちを疑われるからだ。決して言葉の意味を考えてはいけない。恥ずかしくて悶えるのは全てが終わってからでいい。隣にいる柚葉の顔を見るのが怖いので、オーギュストさんの厳しい視線を受けていられるのは不幸中の幸いか。
「くっ、くくく、はははははっ!……よくぞ、よくぞ言ったチハル!! やはりうちの娘の目に狂いはなかった!」
「はい! ……は、はい?」
張り詰めていた空気が、ほんの一瞬で解けた。
さっきまでの威厳は消え失せ、変わりに嬉しそうな笑みを浮かべて立ち上がるオーギュストさん。
状況を理解できずぽかんとしている私の傍までやってきて、肩を叩かれる。
「いや~良かった良かった! 柚葉から聞いていた通り、素晴らしい女性だ! キミが家族の一員になってくれるなんて誇らしいよ!」
「ええ! とてもカッコよかったわチハル! 素敵だったわ!」
エディスさんまで寄ってきて腕を抱きしめられる。なにこれ。え、なにこれ。どうなってるの。何が起こってるの説明して。
頭が混乱して思わず隣の柚葉を見ると、ほんのり頬を染めていた彼女は、困った顔で溜息を吐いた。
「これが本来の父です。お恥ずかしい限りですが、普段はこんな感じなんです。仕事の時や真面目な話をする時は先程みたいになります」
ちょっと柚葉さん、どうして前もって教えてくれなかったんですか。あ、でも堅苦しいのは苦手な人たちって言ってたっけ。
「いや~騙してしまったみたいになって済まなかったね! でも念のため君が柚葉のことを真剣に考えているか知っておきたかったんだ。
ま、余計な心配だったみたいだけどね。チハルが本気で柚葉のことを考えてくれていることは、十分に伝わったよ。
ああそれとね、娘さんを下さい!って言ってくる奴に簡単に娘は渡さん!って言うやつ、あれ、実はやってみたかったんだよね」
「はあ」
脱力して気の抜けた返事をしてしまう。緊張して損した…と思ったが一応試されてはいたようだし、無駄ではなかったのだろう。
どうやら私のことは認めて貰えたようなので、ひとまずは安心だ。ああもう、心臓に悪いったら。
「チハル。キミの言葉を信じるよ。どうか、うちの娘をこれからもよろしく頼む」
「は、はい」
「そしてキミも、今日から僕たちの家族だ。家族の為なら協力は惜しまない。だから、困ったことがあればいつでも遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます、オーギュストさん」
「パパって呼んでくれてもいいんだよ?」
「遠慮します」
「それは残念。……だが、安心したよ。良かったな柚葉。おめでとう」
オーギュストさんは優しい目をして柚葉を見ている。それは紛れもない、子を想う父親の目線だ。
しかし柚葉は素直に父の祝いの言葉を受け止められず、俯き気味に頷いた。
それでも満足したのか、彼はにっこりと笑う。
「さて。これから少しチハルと二人で話したいことがあるんだ。少しの間、エディと柚葉は席をはずしてくれないか」
え。ちょっと待って。もう話は終わりじゃなかったの? 実はこれからが本番ってことはないよね?
「わかったわ。ユズハ、ご飯の準備をするから手伝ってくれないかしら」
「は、はい、もちろんです。……では千晴さん、その、頑張ってください」
「ん。柚葉も、手伝い頑張って」
名残惜しそうに彼女は隣を離れ、母親と一緒にキッチンの方へ歩いて行った。
残されたのは私と、未来の義理の父親だ。気まずいってもんじゃない。
静寂のなか、これから何を言われるのだろうと怯えていたら、彼は緩んでいた顔を引き締め、再び真面目な顔を作った。
「まずはチハル。僕は君に謝らなければならない」
「ど、どうしてですか?」
「6年前、キミは柚葉を命がけで助けてくれたじゃないか。そんなキミに礼をせず、まともに挨拶もしなかったんだ。心から、すまないと思っている。
とても、とても遅くなってしまったけれど、僕の娘を救ってくれて、本当にありがとう」
彼は深く頭を下げて、詫びと感謝を告げた。
でも、そんなことを言われても困るのだ。私は、全てを守れたわけじゃないんだから、感謝される謂れはない。
それに今まで挨拶をしなかったのは、私が辛い過去のことを忘れていたから、思い出さないように配慮してくれていたんだろう。
「頭を上げてくださいオーギュストさん。私なんかに頭を下げないでください」
「……キミはもっと、自分を誇った方がいい。なんと言っても、あの柚葉が惚れ込んでいるんだ。知っているかい?
あの子はね、ずっとキミのことを想っていたんだよ。誰に言い寄られても、会えないキミのことをずっと考えていたんだ」
「…………」
「だからチハルが柚葉を選んでくれたことが嬉しいんだよ。たとえキミたちが隠れて付き合っていても、こっそり応援するつもりでいたんだ。
逃げてくれて良かった。誤魔化してくれても良かったんだよ。
けれどキミは堂々と僕に会いに来た。そして認めてほしいと言った。……付き合い始めてまだ間もないというのに」
「それは――」
「解っているよ。キミは踏み込んでくれたんだ。僕と、柚葉の仲を取り持ってくれようとしているんだろう?」
オーギュストさんは苦笑して、窓の外を見る。最上階からの景色は絶景だが、彼はきっと景色なんか見ちゃいない。
どこか遠い所を見て、思いを馳せている。
「娘に嫌われるのは辛いけどね。でも、このままでいいんだ。僕は柚葉の母親を見捨てたんだから、当然の報いなんだよ」
「……何言ってるんですか。貴方が良くても、柚葉は違います。逃げてきたものと向き合う為に今日ここまできたんです。
自分の中だけで答えを出して、柚葉のことを無視しないでください。簡単に諦めないでください」
私は父を簡単に諦めた。父もきっと諦めていた。だから何も変わらないまま、本当の気持ちを知れないまま終わってしまった。
でもこの人と柚葉は違う。彼は娘のことを大事に思っているし、柚葉は父親を理解しようと頑張っている。
「そう、だね。チハルの言う通りだ。自分の中で正しいと思っていたことが、同じように柚葉にとって正しいこととは限らない」
柚葉のものと似た瞳がこちらを向く。鮮やかで深みのある蒼い色が、とても綺麗だと思った。
「僕の家、ルヴァティーユは貴族の家系でね、今でも血筋や誇りを大事にしている一族なんだ。その中でも父は特に顕著だった。
一般女性で日本人だった柚葉の母親との結婚も猛反対されたんだけど、頑張って無理矢理押し通したんだ。
でもある日、同じく元貴族の一族であるエディスとの縁談を父が持ってきてさ。もちろん断ったんだけど、父は彼女に何か言ったんだろうね。
彼女は柚葉を連れて自分の国に帰ってしまった。連れ戻そうとしたけど、駄目だった。
エディスと結婚することが一番幸せになる道だと彼女は言って、頑なに譲らなくて。……僕は諦めたんだ」
辛そうに目を細め、彼は言葉を吐き出していく。
「後悔はたくさんした。何度も諦めなければと思った。だけど、今の生活はとても幸せでかけがえのないものだ。エディスのことを愛している。
理由なんて言い訳でしかなくて、結果が全てなんだ。僕は前の妻を見捨て、今の妻を選んだ。柚葉が怒るのも当然なんだよ」
オーギュストさんは諦めて、大切なもの見捨てた。でも、柚葉の母親は、自分で離れることを選んで、納得して離れていった。
その先で、私の父と出会って再婚して……幸せだったのかはわからない。でも彼女はよく笑っていた。いつも楽しそうに過ごしていた。
早すぎる死を迎えて結果的に不幸だったのかもしれないけど、彼女が自ら選んだ人生だったのだ。その結末は、誰のせいでもない。
今は、そう思うよ。
「それで、また諦めるんですか?」
「いいや。キミのおかげで目が覚めたよ。僕はもう諦めない。柚葉が認めてくれるまで、諦めないさ。どんなに長い時間をかけてでも、ね」
彼は意味深にニヤリと笑う。なんにせよ、前向きに向き合ってくれるのならば、良いことだ。それだけで今までと全然違う。
これ以上はこの二人の問題なので、後はゆっくり互いに歩み寄っていくしかない。
「ありがとう、チハル。キミと話せて良かった。娘が愛した相手がキミで、本当に良かった」
手を差し出されたので、躊躇いながらも自分も手を出すと、ぎゅっと握られた。
力強くて大きな手は、やはり父親なんだなと思わされる。
「お義父さんと呼んでくれていいんだよ」
「嫌です」
真顔で拒否すると、オーギュストさんは楽しそうに笑った。もしかしてからかわれているんだろうか。
いや待てよ、よく考えると将来はお義父さんになるわけでそう呼ぶのは当然のことなのでは……いやいや、深く考えるのはよそう。恥ずかしくなってきた。
「ところで柚葉とはどこまでやったのかい?」
「セクハラですよ」
なんてこと聞いてくるんだこの人は。柚葉に言っちゃうぞ。
「そうそう、うちの女性社員は肩に手を乗せたぐらいですぐにセクハラだのキモイだの変態だと言うから困ってるんだ。
こちらとしては場を和ませるための冗談なんだけどね。迂闊に話せないし出来ないしで大変だよ」
「それは大変ですね。心中お察しします」
程度にもよるし、相手にもよるし、場所にもよる。カッコいい人がちょっと触れても女性は照れるだけだが、不細工な人が少しでも触れれば非難される。
私の場合、女なのに誤って触れただけで痴漢未遂に発展したりする。まったくもう、理不尽な世の中ですよね。
うんうんと頷いていると、オーギュストさんは不思議そうに首を傾げている。
「まあなんだ。今日は柚葉の部屋に泊まっていってくれ。部屋は狭い方だが、ベットはキングサイズだから二人で寝ても大丈夫さ」
「え、いや、同じ部屋というのはちょっと」
「安心してくれ、防音に適した壁で作られた部屋だからどんなに声を出しても漏れないようになってるんだ。遠慮なくやってくれ!」
「どうして余計な構造に…っ! というか、や、やりません!」
「なんだって? うちの娘に魅力がないとでも!? あんなに綺麗で可愛くて、スタイルの良い柚葉の身体でも不服だというのかい!?」
「べっ、別に不服じゃないですけど!? 親のくせにけしかけようとするのはやめてください!」
「むむむ……チハルはあれだな。大事にしたいとかそれらしい理由を付けていつまでも手を出せないタイプだな」
「ぐっ」
痛い所を突かれて言葉に詰まる。実際、付き合い始めてからそれらしいことはしていない。
柚葉は何も言わないけれど、きっと待っているんだろう。いつまでも、ずっと、待っていてくれる。そういう人だから。彼女は。
「なんせ6年も待ったんだ。ほんの少しでいいから、健気な娘の気持ちに報いてやってくれないか」
「…………」
何も言えなかった私にしびれを切らしたのか、オーギュストさんは手を叩いて沈黙を破る。
「さ、真面目な話はお終いにしよう! 夕飯が出来るまで、自分の家だと思って寛いでくれ」
「はい。ありがとうございます」
ソファから立ち上がって、頭を下げる。
とりあえず柚葉とエディさんの様子を見に行こうとリビングを出たけれど、肝心の台所の場所がわからない。
微かに聞こえる物音を頼りに彼女たちを探していると、部屋の扉を少し開いて中を覗いている女の子を見つけた。
その横顔は険しくて、けれど、どこか寂しそうに見える。
「何してるの、アルレット」
「!?」
驚いたアルレットは私を睨み付けて、どこかへ走り去ってしまった。乱暴にドアが閉まる音が聞こえたので、また自室に籠ったのかもしれない。
追わない方がいいだろうと思い、先程まで少女が覗いていた部屋に入ってみる。
「……千晴さん? もうお話は終わったんですか?」
「うん。一応ね」
そこにいたのは料理をしている柚葉とエディスさんだった。アルレットが覗いていたのは、台所だったのか。
「あら、チハル! 待ちきれなくてキッチンまできたの? 残念だけど、出来るまでもうしばらくかかるわよ!」
「はい。晩御飯、楽しみにしてます」
しばらく隅っこで料理をしている二人を眺めていたが、邪魔になりそうだったので退散することにした。
柚葉もエディスさんも、雑談しながら楽しそうに作業をしていて、見ていて微笑ましい光景だった。
その光景を見ていたアルレットの表情の意味に気付いてしまい、溜息を吐く。そうだ、彼女は、小さい頃の柚葉に似ているのだ。
今は慕ってくれている柚葉も、昔は今のアルレットのように私のことを毛嫌いしていた。
自分に色々な問題があったのはもちろんだが、主な原因は私が柚葉の母親を横取りしてしまったからだ。
つまりアルレットも、母親を柚葉に取られてしまったと思い込み、嫉妬しているのかもしれない。
そういうことなら、誰よりも先に柚葉が気付いてそうだけど……。
あまり私が踏み込んでも煩雑なことになりそうなので、しばらくは様子を見ることにした。
何かあれば、その時は私に出来ることをしよう。
ひとまずアルレットのことは置いておいて、晩御飯が出来るまでどうしようかと悩みながら廊下を歩いていると、
リビングにいたはずのオーギュストさんと鉢合わせした。手に書類を抱えているので、仕事でもしていたのだろうか。
「お、暇そうだねチハル! することがないなら、マンションにある施設で遊んできたらどうだい?
この建物の所有者は僕だから、話を通せば全て無料で利用できるよ」
「……いえ、疲れたんで、リビングで休んでます」
改めて凄い所に来てしまったと慄きつつ、精神的な疲労が限界を超えそうなので休むことにした。
*
「ふう……」
美味しい晩御飯をお腹いっぱいご馳走になり、大きくて落ち着かないお風呂を借りた後、柚葉の部屋へ案内された。
柚葉の部屋といっても本人は一度も使ったことがないらしく、正確にはいつ柚葉が戻ってきてもいいように用意されていた部屋らしい。
なので必要最低限の物しか置いてないと聞いていたが、テレビも家具も十分そろっており、個性がないだけの一般的な普通の部屋だった。
……いや、置いてあるものはきっと普通ではなく高価なものだろうし、部屋の広さだって普通とは言えないほど広いんだけど。
身の置き場に困ったので、とりあえず無難な床に座ってみる。敷いてあるカーペットの触り心地も良くて、このまま寝てもいい位だった。
試しに寝そべってゴロゴロしていると、部屋をノックする音が聞こえたので、慌てて身を起こしてその場に正座する。
「入りますね、千晴さん」
「どうぞどうぞ」
自分の部屋なんだから、そんなに遠慮しなくてもいいのに。
控えめに足を踏み入れた柚葉はパジャマ姿で、いつも前で括っている髪は解いてる。
一緒に住んでいるのでよく見る姿ではあるけれど、場所が違うせいか妙に落ち着かない。
「あの、どうして正座しているんですか? それに、髪もボサボサですよ」
「庶民の好奇心を抑えきれず、つい」
「?」
さっき自分がやった子供みたいな行為を教えるわけにもいかず、曖昧に誤魔化しておく。
すると柚葉は傍に寄ってきて、手櫛で丁寧に乱れた髪を整えてくれた。優しく頭を撫でられる感じで、くすぐったい。
ふと、すぐ近くにいる彼女からお風呂上がりのいい匂いがして、思わず身を引いてしまう。
これから一緒のベッドで寝なければいけないのに、こんなことで本当に自分は大丈夫なんだろうか。
……もういっそのこと床で寝るというのもありかもしれない。さっき試してみて分かったけれど、枕と布団さえ借りれれば余裕で寝れる自信がある。
「千晴さん。今日は、ありがとうございました。わざわざこんな遠い所まで、私の両親に会いに来て下さって」
「ううん、私が勝手に柚葉について来ただけだよ。余計な気を使わせちゃったかもしないし」
「いえ、父も母も千晴さんに会えてとても喜んでいました。私も、貴女がいてくれたおかげで、少し、前に進めた気がします」
「そうだね。柚葉、頑張ってた」
エディスさんと話している時の柚葉は見るからに緊張してぎこちなかったけれど、和やかに雑談したり、一緒に料理したり、大分打ち解けていた。
オーギュストさんの時は素直になれていなかったが、向き合うようになっただけ前進だろう。
「二人とも、優しくていい両親なのは解っているんです。大人の事情があるのも、知っています。
でも、ずっと自分の中で譲れない部分があって。それが邪魔するから、大きく進めなくて。捨てようとしても、捨てられないんです」
「いいんだよ無理に捨てなくて。それは、捨てちゃ駄目だよ」
「でも」
「捨てなくても、柚葉は前に進める。ゆっくりでいいんだよ。少しずつでいい。いつかきっと、邪魔にならなくなって、大切に仕舞っておける」
母親との思い出は邪魔なものじゃない。エディスさんだって、そんなこと望んでない。
今は持っていて辛いものかもしれないけど、いつかふと思い出して、穏やかに懐かしむことが出来るそんな日が、きっとやってくる。
「……はい」
泣きそうになっている柚葉の頭を、先ほどのお返しとばかりに撫でてやる。
どれだけ大人びていても、彼女も私と同じ子供だ。割り切れないことだって、沢山あるのだ。
「それと、アルレットのことだけど……」
「わかっています。あの子は昔の私と同じなんです。自分の両親を取られると思い込んで、警戒しています」
昔のことを思い出したのか、申し訳なさそうにしてこちらを見ている。いや、べつに気にしてないから、そんな顔しなくても。
あの頃だって嫌われていても特に何も思わなかったし。
「どうする? 話して納得してくれるような感じではなかったけど」
「そうですね……特別なことは何もしません。ただ普通に。無理に話したり、変に遠慮しないで、あの子に関わっていきます。
これから私のことを知って貰って、妹のことを知っていきたいんです。何が好きで、何が嫌いだとか、学校でどんなことをしたとか、
そんな些細なことを沢山話していきたいです。……私はあの子の姉で、家族なんですから」
「そっか」
あんなに険悪だった私と柚葉も、今こうして共にいるのだから、きっと大丈夫だ。
私もアルレットに良く思われていないから、認めて貰えるよう一緒に頑張ろう。
簡単にはいかないかもしれないけど、諦めなければきっと分かり合えると信じている。
「父のことも、時間をかけて受け入れていきたいと思います。いつの日か“母”のことを、笑って話せるようになりたいです」
「うん。でも無理はしないように。しんどい時は、きちんと言うこと」
「ふふ、はい」
焦る必要なんてない。このまま進んで上手くいく保証なんてないけれど、今はこれが私たちの精一杯。
「…………」
「…………」
しばらく晩御飯が美味しかったとか色々と他愛のない話をしていたけれど、お互い言い尽くして会話が終わってしまった。
お互い視線を合わせたまま、沈黙が続く。何か話題がないか必死に考えてみても、余裕のない頭は空回ってしまい何も浮かんでこない。
いつもであれば心地よい沈黙も、今夜を二人きりで過ごすという異質な状況が心の安寧を許してくれないのだ。
「あの、千晴さん」
「は、はい、なんでしょう」
声が裏返った。恥ずかし。
「約束を、守って下さってありがとうございました。両親にも認めて貰えましたし、これで本当に、貴女の婚約者になれたんですよね」
「そういうこと、になるよね。うん」
いつかの嘘は、今日で本当になった。
柚葉は左手の薬指につけている指輪を優しく撫でる。私が告白した時に渡した、母の形見の指輪だ。
「凄く、嬉しいです。これからずっと傍に居られる資格を得たことも、今日、父に向けて言ってくれた言葉の数々も」
「……そ、それは」
ご両親に向けて堂々と言った恥ずかしい台詞たちを思い出してしまい、羞恥で身悶えてしまう。
全部本心ではあるけど、本心だからこそ余計に照れてしまうのだ。
「ありがとうございます。私に、たくさんの幸せをくれて。いっぱい夢を叶えてくださって、ありがとうございます」
彼女は、心から幸せそうに笑った。頬を染め、目尻に僅かな雫を添えた顔を見て、鼓動が速まる。
こんなに可愛くて、綺麗で、優しい彼女が、これからずっと傍に居てくれるのだから、ありがとうという台詞は私が柚葉に伝えるべきもので。
「一緒に居られるだけで幸せです。だから、無理しないでくださいね。私に合わせようとしてくれなくていいんです。千晴さんは優しいから――」
違う。
それは違う。
「柚葉」
それ以上先を言わせない為に、彼女の唇を自分のもので塞ぐ。
どうせまたこっちのことばかり気遣った遠慮の言葉が出てくると思ったのだ。そんなの聞きたくなかったから、実力行使をさせてもらった。
――――なんて、また自分に言い訳をしている。
正直に言おう。したいと思ったから、しました。確認もせず、心の準備もせず、ただ、勢いで。
触れていた時間は僅かだったけれど、驚かせて言葉を止めるには十分すぎるほどの効果があった。
柚葉は目を大きく見開いて、放心している。無意識なのか、緩やかに手を唇に当てて、何かを確認している。
私は平静を装っているものの心臓はばっくばくと大きな音を立てており、顔はきっと真っ赤になっていることだろう。
「ごめん。その、好きだから…いや違う……あ、違わなくて、だから、つまり、えっと」
胸が苦しくて大きく息を吐く。
これは溜まった不幸じゃなくて、溜まり過ぎた幸福が溢れ出てるのだ。
「千晴さん、今の、は」
何をされたのかようやく気付いて、今にも泣きだしそうになっている柚葉に、伝えないといけないことがある。
自分の想いを綺麗な言葉にするのは苦手だ。それでも、ずっと自分を好きでいてくれた彼女に、きちんと告げなければ。
「私は、無理なんて全然してない。ただ臆病だから、なんにも出来ないだけだよ。いくじなしで、本当にごめん」
態度で示すのも苦手だ。けれど、言葉だけでは伝えられないものだってあると思う。
柚葉の腕を取って、自分の方に引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
ほら、彼女の温かい体温や身体の柔らかさは、言葉では詳細に言い表せない。
「それと、遅くなったけど。ちゃんと言ってなかったから、今、はっきり言う。
臆病で、不器用で、素直じゃなくて、不安にさせることも沢山あると思うけど。
……貴女のことが、一番好きです。だから、私と結婚してくれませんか?」
ご両親にも挨拶して婚約しているのに今更プロポーズなんて、遅すぎて怒られても文句は言えない。
けど、どんなに遅くても言わないよりはずっといい。
「……はい。私も、貴女のことが、だい、だ、大好き…っ…」
「良かった」
泣いているのか、腕の中にいる柚葉が震えている。肩を押して体を離すと、涙でぐしゃぐしゃになった顔が見れた。
残念ながら零れる涙の止め方は知らないけれど、彼女が悲しくて泣いてるわけじゃないっていうのは知っている。
以前は分からなかったこと、出来なかったことが、少しづつ出来て、分かるようになっていく。
それは全てではないかもしれない。それでも、私たちはそうやって、自分なりに前へ進むのだ。
「待たせてごめん」
両手を取って、もう一度軽く唇を重ねる。
今は羞恥や恐怖より彼女が好きだという気持ちの方が強くて、いつもより思い切ったことができるようだ。
顔は熱くて心臓はすぐにでも爆発しそうになってるけれど、何より幸せで満たされていた。
「……千晴さん」
甘えた声で名前を呼ばれて、首に腕を回される。潤んだ瞳を向けられて暴走しかけた感情を、残っていた僅かな理性で押さえつけた。
ここは柚葉の実家。同じ屋根の下に、ご両親と妹様がいらっしゃるのだ。交際を認められたとはいえ、羽目を外すわけにもいかない。
なので溢れ出る気持ちを誤魔化すように、強く柚葉を抱きしめる。
「そろそろ寝ようか」
「は、はい」
なんか随分と緊張してるみたいだけど、ただ寝るだけだからね。何もしませんからね。
電気を消し、ベッドに乗って布団をかぶると、すぐ隣に柚葉が潜り込んでくる。いや、近い近い。ベッド広いんだから、そんなにくっつかなくても。
目の前に顔があって、視線が合う。どうしよう、今夜、眠れる自信がない。
「あ、明日は…そうだ買い物に行こう。お土産とか、美空に頼まれてたやつ、買わないといけないし」
「そうですね。服も見に行きましょう。あと行ってみたかった喫茶店があるんです。よかったら、行ってみませんか?」
「よし、行こう。場所とか、わかる?」
「それは大丈夫です。……でもいいんですか? 連休中で人は多いですし、結構歩くことになりますけど」
「平気だって。普段動かない分、こういう時に動いておかないと逆に身体に悪いから。あとはまあ、柚葉がいるから大丈夫だよ。
せっかく苦労して都会まで来たんだから、色々楽しんでおかないとね」
心配そうにこちらを見ていたので、笑って彼女の頭を控えめに撫でる。
されるがまま気持ちよさそうにしていたけれど、もう眠たいのか段々と目が細くなってきた。
「デート、楽しみ、です」
「うん。明日は色々な場所に行こう。だから今日は早く寝て、明日に備えますか」
「……はい、ちはるさ、ん」
ずっと気を張っていて疲れたのだろう。やがて柚葉は目を閉じ、可愛らしい寝息をたてはじめた。
しばらく彼女の寝顔を見ていたけれど、安眠の邪魔をしないよう仰向けになり天井を眺める。
緊張して眠れないかもと危惧していたがそれも無用な心配だったらしい。どうやら私も、相当疲れが溜まっていたようだ。
徐々に瞼が重くなり意識が微睡んできたので、そのまま睡魔に抗わず目を閉じる。
明日のこと、そしてこれからのことに想いを馳せながら、ゆっくりと意識を手放した。