こどもたちの祭典
その日、宮殿内で盛大な兄妹喧嘩が勃発していた。
どれくらい盛大かというと、カーテンはびりびりに引き裂かれ、飾ってあった花瓶や食器、果てはテーブルや椅子まで投げつけられたのか、木っ端微塵に砕けていた。ついでに武器にされる危機を逃れた壁の絵画は、所在無げに床へ落下していた。
「おにーさまの意地悪――――ッ!」
ガシャーン!
部屋にあった最後の椅子が窓の外へ飛び出した。椅子は窓を破っても斜め四十五度ほどの角度を保ったまま、天に浮かぶ七つの月のうち、二つ目の紅い月に向かってビュンビュン飛ぶ。きっと月もビックリしていることだろう。
頬の横を椅子に通り抜けられたお兄様、こと、トールは顔面蒼白だ。もともと彼らの種族は色が白いのだが、その美麗な顔を紙よりも白くしていた。防戦一方で妹の攻撃を避けてきたが、今のはちょっと危なかった。一歩間違えば顎に椅子がクリーンヒットである。
トールより百五十二歳ほど年下の妹・ライアはさすがに体力がつきてきたのか、荒い息を吐きながら小さな肩をせわしなく上下させている。人間の年齢に換算してまだほんの七歳ほどの子どもが疲労困憊している様は、哀れをもよおして痛々しく感じる。余談だがトールの外見年齢は十四歳くらいだ。
ああ、病み上がりなのにそんな無茶をするから。
一瞬そう思ったトールだが、いやいや病み上がりでよかったこれ以上続いたら間違いなくノックアウトされていた、と考え直した。
「意地悪もなにも、ライアはまだヒューヒュー病が完治していないだろう。人間界へ連れて行ってやれないのは、俺のせいじゃない!」
ヒューヒュー病。それは人間の世界の言葉に置き換えれば、風邪である。魔界では喉がヒューヒューなることから、そのような名前がつけられていた。安直かつ親しみやすい名である。
「でもでもでもッ! たしかにわたくしの自己管理がなってなかったせいですが! 外出したいのも我慢して必死に治したというのに、直前になって『やっぱりダメ!』なんて、これが八つ当たりせずにいられるものですか!」
ここまでしておきながらただの八つ当たりかよッ!
扉の向こうからこっそり様子を窺っていた使用人一同は心の中でツッコんだ。何しろこの惨状の後始末をするのは彼らなので。
「とーにーかーく! 鼻もぜんぜん利かないんじゃ、危険すぎるからダメ! 敵の接近に気づけないどころか、同族と他種族を嗅ぎ分けることすらできないじゃないか」
「うーっ、うーっ、うーっ!」
「そこ、レディが唸らない」
「う――――っ!」
意地になっているのか、猫の仔のように威嚇するライア。恨めしげなマナザシがトールの顔にちくちくちくちく突き刺さる。妹にかなり甘い自覚のある彼は、このままだとほだされてしまいそうな自分を悟り、背中に黒い蝙蝠のような羽を広げると、窓から逃亡した。
疲れ果てて不貞寝した少女は、目を覚ましたら閉じ込められていた。ベッドの周りが鉄の檻に囲まれ、檻にはさらにぐるぐると紐のようなものが巻きつけられている。
彼女が手を伸ばすと、指先が触れる直前で、バチッ、と火花が散った。よく見ると紐には細かな文字が書き付けられたリボンが巻き付けてあり、それが少女を閉じ込めるための魔法の結界となっていた。
「ふふふふふ……うふふっ、ふふふふ……! このわたくしを閉じ込めるなんて! 結界を破るのと床を突き破るのと、どちらが早いかしらね」
剣呑な含み笑いが不気味である。彼女の眠りを妨げるのを恐れたのか、使用人が誰もロウソクに火を灯しに来なかったのが幸いして、少女は窓から入る月明かりに気づいた。
「いけない、七つ目の青い月がもうあんなに傾いているわ。ハロウィンが始まってしまう」
ライアが人間界へ遊びに行きたい理由は、ハロウィンだからだ。人間界でのそのイベントは、モンスターと呼ばれる彼女たちが素のままで遊びに行ける素敵企画だ。兄のトールも毎年欠かさず参加して、人間の友達を作ったり、他にも普段は交流のない種族とも友達になったりしている。しかも兄はそれを毎年自慢げに、面白おかしく語るのだ。ライアの好奇心は膨らむ一方である。
今年は、いろんな女性のところへ飛びまわっている父と、趣味に生き俗世を忘れたかのように研究室に閉じこもっている母を捕まえて、参加していいとの許可を得たのだ。今着ている衣装のままでも参加できるが、ここはやはり仮装するのが醍醐味だろうと、別の種族の仮装も準備した。
それなのに――まだ鼻がつまっているから参加不許可?
そんなの、納得できるわけがない。
うっかり父の情人に嫉妬されて殺されかけたり、母が実験に失敗して垂れ流した毒の煙で死にそうになったり、衣装の手縫いが面倒になって魔法を使ったら標的を誤って自分を縫われそうになった苦労の記憶がよみがえる。その成果が報われずに、泡と消えるなんて、腹の虫がおさまらない。
あとからあとから思い出される黒歴史に、少女は再び肩を震わせて笑い始めた。
「うふふふふふ! このわたくしを、結界の十や二十で止められるはずがありませんわーっ!」
高笑いと共に少女がブチブチと兄特製の結界を引きちぎっていく。飛び散る火花をものともせずに、素手で。呪文も何もあったものではない。臨界点を突破したライアは豪快に、怒りのパワーだけで檻すら破壊してのけた。
「るんるんらー♪ るーららら~♪」
まんまと人間界へ到着した少女は浮かれていた。
猫耳と尻尾をつけ、ケット・シーに扮装した少女のスカートの端がちょっとコゲついているのもご愛嬌だ。
人間界へのゲートを開くときに少々魔力の制御に失敗して、ゲートそのものをコゲコゲのスミスミにしてしまうところだったのだから、それに比べたらほんの些細なことである。
あちらこちらから聞こえてくる「Trick or Treat」の声も、戦利品のお菓子を見せ合ったり交換したりしている子たちの声も、耳に心地よい。
「Trick or Treat♪ Trick or Treat♪ さあ、どこから行きましょうか。まずは友達を作りましょうか☆」
人間の街で、仮装する子どもたちに混ざったライアは、まるっきり周囲に同化していた。これなら人間の友達もすぐにできると、ライアは信じて疑わなかった。
彼女が誰に声をかけようか見回していると、なにやら後方から喧騒が聞こえた。
「こらーっ! このイタズラ小僧! 待ちやがれッ!」
「へへーん、誰が捕まるかよ! このカメ!」
「カメだとぉっ! このクソガキ!」
「あっかんベー!」
ひらり、ひらりと、その子どもは自分を捕まえようと躍起になる男を、身軽にかわしている。その子はライアと同じくらい小さいけど、三倍も四倍も大きな大人を手玉に取りながら、こちらへ近づいてくる。
「こぉんの……いいかげんにしやがれッ!」
着地したところを狙って男が飛びかかると、その子どもは間髪いれずに大地を蹴り、ライアの頭上を飛び越えた。
――広がる黒いマントが、羽のように見えた。瞳を奪われ、その軌跡を辿る。
本当に、羽が生えているみたい……。
ライアが陶然とする中、子どもは地面にスライディングしてしまった男を鼻でせせら笑った。そしてくるりと背を向けると、人ごみの中へ走っていってしまう。
「あ、待って!」
ライアは思わず追いかけた。たくさんの人の中を走り慣れていないため、小さなその背中を見失いそうになりながらも、懸命に追いかけた。素敵な予感に小さな胸を躍らせながら、ひたすら走った。
やがて、人の気配が途絶えた公園の入り口で、真っ直ぐにこちらを見て佇む人影に、ライアの足が止まった。
「ねえ、どうして追いかけてくる? あたしになんか用?」
肩まで奔放に伸びた黒い髪に、猫みたいな金色の瞳。吸血鬼の仮装をしているのか、しゃべると口元から作り物の牙がのぞいた。
胸元までゆるやかに波打つ金の髪に、夜のような漆黒の瞳を持つライアは、自分と正反対のようなその子どもに、自分を駆り立てた衝動を告白した。
「――わたくし、あなたと友達になりたいですわ!」
「あはははは! わざわざそんなこと言ってくるヤツ、はじめてだよ」
ライアの申し出にお腹を抱えて笑った少女は、サンと名乗った。屈託のない表情が、印象的だった。
「あたし、実はこの街に住んでるわけじゃないんだ。大きな街のほうが、たくさんお菓子もらえると思ってさ。ライアはこの街に住んでるのか?」
「ううん、違うわ。わたくし、こっちへ来るのははじめてですの」
「へー。キグウだねー。……あのさ、あたしがこの街に来たのにはもう一つ理由があってさ」
何かを思案して、サンが内緒話するように声を潜める。ライアが心持ち首をかしげると、そこには悪巧みをするような、ちょっぴり(?)凶悪な笑顔があった。
「知らない街なら、思いっきりイタズラができると思って!」
ニヤリと笑んだサンは、先ほど追いかけてきた男の家で、マスタードをぶちまけてきたと楽しげに戦果を語った。
「まあ♪ おもしろそうですわv 実はわたくしも、お菓子をもらうよりイタズラをしたいと考えていたんですの!」
ライアもイタズラは、何よりも大事な睡眠時間をケズってもいいくらい大好きだ。ただ、それをすると兄に人間界に連れてきてもらえなくなると諦めていたのだが、今回、自力でもなんとか(ゲートは半分壊滅させたけど)人間界と魔界を行き来できることが判明したので、兄の機嫌をうかがう必要がなくなった。
ここはモンスターらしく、諦めていたその目的を果たすべきだろう。
「あ、やっぱり! あたしに声かけてくるあたり、きっとそうだと思ったんだ!」
サンは同士を得て、嬉しげにジャンプした。ライアの手を取り、ひゃっほー♪ と奇声をあげる。そうして最も性質の悪い子どもたちは街へと繰り出した。
「Trick and Treat! or Trick and Trick?」
チャイムが鳴ったのでドアを開けてやると、美少女が清楚に尋ねてきた。
「な、なに? とりっく、あんど、とりーと? ……え?」
戸惑いもあらわに聞き返した夫人に、それを答えと受け取った子どもが純真な微笑みを浮かべる。
「はい、Trick and Treatですわね」
ふわふわとした可憐な容貌の少女がそう告げた瞬間、一陣の黒い風がふたりの横を通り抜けた。
「ギャーッ! なんだおまえ? 何をするーっ!?」
「あなた!? どうしたの!?」
奥から夫の悲鳴があがって、子どもを出迎えた女性が慌てて引き返す。そして彼女は絶句した。
リビングの中は戦場だった。
夫は顔を真っ赤にして、黒髪の子どもを追い掛け回している。どこかヤンチャそうなので、その子の性別はよくわからない。だが、野性的なところを入れても、文句なく美形だった。将来が楽しみである。追いかけっこをしているふたりを呆然と見ていた夫人は、夫の顔に何かが足りないことに気づき、まじまじと彼の顔を目で追う。そして、夫がたくわえていた立派なヒゲが半分なくなっていることに気づいて、噴き出した。いつも心の中で鬱陶しい、剃ってほしいと思っていたそれが、まんまとなくなっている。半分だけ残っているさまが間抜けである。
だが、夫人もやがて笑っていられなくなった。
子どもは逃げ回りながらも、器用にテーブルの上に並んでいたごちそうに手をつけては「うーん、塩気が足りない」「油っこすぎ!」「これ、手抜きだな、ちゃんと下味とれよな~」なんて、批評を呟いていた。
「ん、……まーっ! なんてこと!」
羞恥に赤面した夫人は、頭の中も沸騰させ、夫と一緒に子どもを追いかけまわし始めた。
そして夫人は忘れているのだが、彼女が出迎えたもうひとりの子どもはキッチンに陣取って、「あら、このお菓子、なかなかイケますわ。もらっちゃいましょ」と気に入ったものは根こそぎかっさらい、「へそくり発見~♪ 違う場所に隠しちゃいましょ」と、地味にダメージの大きなイタズラをしていた。
ちなみに人の姿をした嵐が去った後、夫はヒゲをのばすことをやめ、夫人は料理をもっと修業するようになり、夫婦仲が円満になったらしい。
また、別の家では、
「Trick and Treat! or Trick and Trick?」
「え? え? え? な、なんか多くない!? しかもTrick and Trickって何!?」
「はい、Trick and Trickですわね♪ 誠心誠意イタズラさせていただきますわーv」
「……は?」
家の主人が固まっている間に、ふたりの子どもが侵入を果たし、家の中を引っ掻き回した。
こっそり蒐集していた人形や人形のための服が窓辺に全部飾られた。後日、それを目撃した人がいて、意気投合。同じ趣味の友達ができた。
溜めていた洗濯物を部屋中にぶちまけられた。なんだか部屋中に異臭が漂った。それから洗濯物は溜めないようにしようと心に誓った。
完成間近の絵に変な色を塗られた。朝になって、この絵は捨てて新たに描き直そうと思っていたら、ゴミ捨て場で何故か気に入られて高値で取引された。
――天使の顔をした悪魔たちがやってくる!
衝撃の連絡網が、急遽、ご近所を駆け抜けた。
最初にライアがお上品に長々とした口上で油断をさせ、返事をもらったら一気にサンがイタズラを開始していた。だが街の中にふたりの情報が行き渡ると、今度はサンが普通の子どもを装って、これまた長々とした口上を述べ、返答をもらうとライアが姿を現して、ふたりでイタズラに取り掛かった。
無断で侵入はしない。こじつけでもちゃんと返事をもらうという、彼女ら独自の鉄則にのっとって、ふたりは着々と被害を広げていった。
「あはははは」
「うふふふふ」
手を繋いだふたりの少女は、笑いながら街を駆ける。スリリングな追いかけっこも、隣のこの存在あってこそ、より楽しいものとなる。出会うべくして出会ったのだと、何よりも大切な存在だと、確信した。
次はどんなイタズラをしようか、もっとたくさんのことをサンとしたい。
熱に浮かされるような興奮に支配されながら、ライアはめまぐるしく考える。
それにしてもサンはどんな種族なのか。サンのことをもっともっともっともっと知りたいのに、あなたの種族はなんですか? と、面と向かって訊ねるわけにもいかない。もしも人間だったら困るからだ。人間に、人間以外の種族が紛れ込んでいると、知られるのはご法度だ。
でも、人間ではないですわ、絶対!
サンは力持ちですばしっこくて、まるで羽を持っているかのように高くジャンプできる。そんな人間がいるとは思えない。
どの種族なのかしら。一番可能性が高いのは人狼。悪魔、もアリですわね。美形だからインキュバスかしら。魔力で強化しているなら魔女という可能性も……。バンシーはありえないですわね。牙は作り物なので吸血鬼も除外。
そんなことを考えるだけでもワクワクする。
羽を持つ吸血鬼が、羽を持たない存在に憧れにも似た衝動を抱いた。
だって、初めて、なのだ。はじめての、他種族の友達だった。
きっとこれが、お兄さまが話してくださった、一生モノの友達、というやつですわね!
思わずうっとりしてしまう。
疲れることを知らないふたりが走り続けていると、いつの間にか追う人がいなくなり、気がつけば最初に言葉を交わした公園へ戻ってきていた。
――ああ、この手を離したくない……。
足を止め、ふたりは手を握ったままベンチに座った。
「あー、楽しかった!」
キラキラしたサンの目が、真っ直ぐにライアの心へ飛び込んでくる。
「わたくしも! こんなに笑ったのはひさしぶりですわ」
満足そうに溜息をつくライア。ふたりは満ち足りた猫みたいな顔を見合わせる。
と、そこへ雰囲気ぶち壊しの重低音が響きわたった。
「きーみーたーち~~~……」
おどろおどろしい空気を背負って、二人の間からひょっこりと顔を出す。黙っていれば美少年なその人は、ライアによく似ていた。
「あら、おにいさま。おにいさまもこの街へ来ていたのですね」
妹はさらりと受け流した。
「街では君たちのことがウワサになってたよー。ライアちゃ~ん、ハロウィンが何のためにあるのか、ちゃーんとわかってるのかーい?」
んー? と、頭を接近させてねめつける。しかし、顔のつくりが柔和なので、迫力はなかった。彼はその動作の延長というさりげなさで、妹の耳元で囁く。
「というかライア、こっちの子が人間だって、ちゃんとわかってる?」
瞬間、ライアの思考が停止した。
「は? 人間って、あったりまえじゃん。何言ってんの?」
サンは予想外に耳が良かった。
ぴしり、とトールが硬直した。
「んー……なんか変だな。あたしが人間だっていうなら、そっちは違うってか?」
しかも彼女は頭の回転も良かった。
「だ、だいせーかーい……」
思わず白状してしまうトール。もしかしたら彼は妹を罪から庇ったのかもしれない。
「おにーさまの間抜け!」
が、完璧に報われていなかった。
ヒューヒュー病で鼻がつまっていて、種族の差をかぎ分けられなかったライアは、注意深くサンのにおいをかぐ。正確には、その血のにおいを。しかし鼻が利かないことには変わりないので、眉根を寄せた。
「ねえ、おにいさま、サンは本当に人間ですの? なにかの間違いではなくて? 普通人間の子どもは素手で壁に穴を開けたり、私より速く走ったり高く飛んだりできないものでしょう?」
「……はい? 素手で、壁に、穴?」
「そういえば先ほどお邪魔した家では、ベッドをひとりで持ち上げて、バリケードを作っていましたわ」
いろいろ人間として規格外である。
「ほ、本当に?」
がちがちにこわばった笑顔を、人間(推測)の少女に向ける。
「うん、そんなこともあったな」
「ま、まーじーでー……?」
でもにおいは確かに人間なのだ。しかも、なにか別種族の血が混ざっている気配もなかった。吸血鬼たるトールが血のにおいを間違うはずがない。血のエキスパートだ。
「あー……でも、多分、人間……のはず」
兄は自信がなくなった。語尾が非常に頼りない。
「そうですの……」
ライアはしゅーんとしてしまう。
「なにそれ、人間だとなんかまずいの? というか、じゃあライアたちは人間じゃないのか?」
自分にはよくわからないことでガッカリされてかなりショックだった。しかも相手はライアである。ライアと友達になれてもの凄く嬉しかっただけに、サンの動揺は激しい。
「まずいというか、致命的なほど、寿命が違うんですわ。成長の速度も違いますし……。わたくし、あと六十年たっても外見年齢はさほど変わりませんわ」
「え……」
「今、ライアは七歳くらいの外見だけど、やっと十歳ほどになるかならないか、なんだ」
彼らの種族は、小さい頃は成長が早い。身を守れる程度の年齢、人間で言うところの七歳程度までは、その半分くらいの年月で成長する。しかし、その後は非常にゆったりとした変化しかない。戸惑うサンを置いて、兄妹は悲しげな表情で俯いた。
「ぼくも人間の友達がいるけど、置いていく方も悲しいし、置いていかれる方も悲しいんだ……」
そこには経験に裏打ちされた哀愁が満ちていた。あいにく少女ふたりはお互いを見詰め合っていて聞いていなかったが。
「それに……」
「――それに?」
躊躇いがちに口を開いたライアに、サンが鸚鵡返しする。ライアは嫌われるのを覚悟で、その一言を告げた。
「わたくし、吸血鬼、ですもの」
恐怖や拒絶の眼差しを向けられるのが怖くて、かたく目を瞑った。月明かりに照らされた小さな肩が、小刻みに動く。
「ねえ、あたしの血、吸う?」
ふるふると、俯いたまま首を横に振る。
「じゃあ、他の誰かの――誰か違う人間の血を吸う?」
少女は金色の髪を激しく乱し、さらに横に振った。
「なんで? 生きるのに必要なんじゃないの?」
「食事なんて、人の血である必要はまったくなくってよ!」
勢いよく顔を上げた少女に、サンは破顔した。
「ならいーや」
あっさりしていた。異種族に対する恐怖はカケラもない。サンはこだわらない性質らしい。ライアの心に、じわりと暖かいものが広がる。気をつけてないと安堵のあまり体中から力が抜けてしまいそうだ。
そして、ライアもサンが人間でもかまわないと思うほど、この友人を気に入っていることに気づいた。
「ねえ、寿命とかが違うのがイヤなら、あたしを仲間にする?」
「仲間になりたいなら止めませんわ。でもたまに、そのための儀式をすると、性格が変わったりする方がいたりしますの。わたくし、そのままのサンが好きですわ、ですから……」
「うん、いい、いい。聞いてみただけ。あたしは今のところ人間のままでいーよ。人間として、ライアと友達になりたいな。いい?」
「大歓迎ですわ!」
少女は満面の笑みで、こみ上げてくる歓喜にしたがってサンへと抱きついた。サンはライアの背に腕を回し、きつく抱きしめ返してくれる。兄バカは「うんうん、いい話だねえ」と、ハンカチを取り出してほろりとこぼれる涙をぬぐって――思い出した。
「――じゃなくて! それも確かに重要だったんだけど、ふたりのイタズラっぷり、街中が大騒ぎなんだって! ヤバイじゃん! ぼくたちが人間じゃないってみんなにバレたら、他の種族が迫害されたりして、もうこっちに遊びにこられなくなっちゃうんだって――ッ!」
当初の、なぜふたりを探しに来たかという理由にしたがってお説教を始めようとするが、しかし、彼の叫びは丁重に無視されて終わるのだった。
「あら、そろそろ夜が明けちゃいますわ」
いつの間にか東の空が明るくなりはじめていた。
「あ、ヤバ……急いで帰らないと、かーちゃんにボコられる」
「まあ、大丈夫ですの?」
「走ればなんとか朝食には間に合うんじゃないかな。山二つこえるだけだし」
山二つこえる『だけ』って……ええええ、山二つってそんなカンタンに超えられるものなのぉ? という驚愕がトールに走るが、妹のほうはもう免疫がついていたので、安心したようにニコニコ笑っている。
「そうですの。サン、今度また一緒に遊びましょうねv」
どうやら彼女はサンが人間だという実感がまったくないらしい。
「うん、いつにする? 明日?」
「毎日だって構いませんわv ここから山二つこえたところですわね」
「そうそう。あたしの家もすぐわかると思うよ。小さい村だからな」
「じゃあおにいさま、わたくしたちも帰りましょうか」
「あ、ああ……そうだね」
ふたりは手を振って、サンの後姿を見送った。
サンは名残を惜しんで何度も何度も振り返っては、手を振ってくれたので、ライアも同じように手を振り続けた。
サンの姿が完全に見えなくなって、兄妹は黒い羽で空を飛んで太陽が昇る前にゲートへと向かう。太陽の光を浴びたところですぐ灰になるほど下級ではないのだが、痛い思いはしたくない。
「そうだ、おにいさま。わたくし、ひとりでゲートを開けられるようになったんですのよ」
「へえ、それはスゴイ! そっか、こっちへはひとりで来たんだ」
「ふふふ、これから自由にサンへ会いに行きますわ」
「そっか……」
呟きながら、兄は妹を嫁にやるような心境になった。
「じゃあ、予行演習として、帰りのゲートはライアに開いてもらおうかな」
「任せてくださいませ♪」
自信たっぷりに胸を張る妹を、包み込むようなあたたかい瞳で見守る。両親が放任主義だったために、幼いときからライアの面倒を見ていたトールは、空を飛びながら感慨深げに一回転した。妹のおしめを変えた日のことを思い出しながら、ライアも成長したんだなあ、と遠い目をする。
――そんな彼は、重要なことをひとつ忘れていた。
やがて見えてきたゲートの前に、ふたりは音もなく着地する。
「では、いきますわよ!」
少女が勇ましく両手を門へかざし、魔力を練り始める。そしてその膨大すぎる魔力に、トールは気づいたのだ。自分が忘れていた、重要なことを!
「ちょい待ち、ライア! それ待った!」
慌てて叫ぶが、もう遅い。
少女の小さな手のひらからあふれた、巨大な火の玉に、ゲートは吹っ飛んだ。ついでに爆発の余波で、ライアとトールと周辺の木々もどこぞへと飛ばされた。
嗚呼、わたくし、魔力の制御が苦手なんだわ……っ!
宙を舞いながら、通算三百三十五回目にして、やっと少女は自覚した。
ちなみにそれこそが彼女の両親や兄が、ライアをひとりで行動させないようにしていたゆえんである。
ゲートを吹っ飛ばしてしまったふたりは、人間界にある別のゲートを探さなければならなくなった。その間、サンの家に滞在することとなり、ライアとサンの絆はますます深まることとなる。そして、そのまま定住してしまいそうな妹に、兄はひたすら頭を抱えていたのでした。
おしまい☆
2006年10月29日に発行した同人誌を改稿。