恋を想えば
少年は、いつもの時間、いつもの場所で、いつもの様に中庭のベンチで本を読んでいた。
いつ見てもその場所だけが『別世界』に思える。まるで、置物の様に佇むその姿が人形に見えてしまって、いつ見ても背筋が凍りそうになる。
感情の欠片も無い少年の表情はクローニング・ヒューマニティの比ではなかった。
閉ざされた心は見えない壁を作り、その身から滲み出る拒絶の雰囲気が近づけない空間を作り上げる。そんな少年の暗い一面に私はいつも戸惑いを覚える。
……気配を察したのか、ふと本から視線を外し私の方を見る。次の瞬間、その表情が一変した。
「――レイさん、こんにちは」
スイッチが入ったかの様に表情が明るくなる。
先ほどまでとは似ても似つかぬ笑顔。毎日の様に見るその変化に私は毎度すぐに返す言葉が出てこない。
「こんにちは」
ワンテンポ遅れの挨拶。ぎこちないトーン。慣れないもどかしさが言葉を制限する。
「……慎君、今日は何を読んでいたの?」
この空気に慣れようといつもと同じセリフを口にする私。
「今日は“虹ヶ丘の百合”っていう恋のお話。内容はドロドロしてるけど、切ないラブストーリーなんだよ」
屈託のない笑顔で慎君は語り始める。本の話をする時の表情は、入所せねばならないほどの不幸を背負っている様にはとても見えない。
憂いを帯びた表情とのギャップに私は人間の心の難しさを知った気がした。
「……ところで、レイさんは恋した事ってある?」
「え?」
突然の質問に間抜けな声で返してしまう。
「恋って切ないよね……その人の事を想うだけで胸が締め付けられるっていうか、苦しくなるっていうか……」
そう言って慎君は照れた表情を浮かべ、まるで反応を確かめる様にチラッと私の顔を見た。
(……クローニング・ヒューマニティに恋の話をしても、まともな答えなんて得られないわよ……)
もともと感情制御されているクローニング・ヒューマニティに個人に対する恋愛感情は無い。
というよりも、一個人を愛するのではなく人間そのものを慈しむ様にできている。
その点は、事故により通常のクローニング・ヒューマニティより感情をもった私でさえ、その例に漏れる事はなく個人よりも人間全体に対しての愛情―人類愛―しか説明する事はできない。
そのクローニング・ヒューマニティに恋の話を振ってくるなんて……そう思うとなんだか立場が違う様な気がしておかしくなった。
「……慎君、私は生まれたばかりだから、まだ恋をした事がないの。逆に私が聞きたいくらいよ」
恋。それは人間が人間たる証の様な気がする。人間は様々な恋を経験して成長する生き物だと思う。
少なくとも私よりは慎君の方が詳しいんじゃないかなぁ?
「……慎君は、今まで人を好きになった事ってある? どういう感じなの?」
なんか質問を質問で返してるみたいで気が引けたが、せっかくの機会だから少し追求してみよう。
「……えっ?」
慎君は顔を赤くして視線を逸らした。はた目から見て動揺している。
恋とは、恥ずかしいものなの?
明らかに戸惑っている慎君の体がかすかに震え、言葉を発しようと口をパクパクさせていた。
きっと慎君の心では過去の恋愛が思い出されているのだろう。なんだか可愛く見える。
「……実は、僕もよくわからないんだ……」
そう言って手を膝に置き指でトントン叩く。視線は泳ぎ、焦点が合ってない。懸命に動揺を抑えようとしているようだ。
(……変ねぇ、データでは恋ってただ人を好きになる事なのに、慎君を見てるとなんか違うみたいねぇ……)
恥ずかしい行為が発覚したかの様な仕草。私の目に映る慎君は、まるで辱めを受けてる様にしか見えない。
慎君の動揺は収まらない。
顔は真っ赤になり動悸が早いのもわかる。その様子は一見すると何らかの病気ではないか、とクローニング・ヒューマニティなら思うかもしれない。
そのくらい慎君の状態はおかしかった。
「……あ、あのさ……レイさんは、その、恋をしたいと、思った事ある?」
恥ずかしそうに問いかける慎君。
「……ない?」
少し遠慮がちな言葉。
恋……どうだろう?
したいかしたくないか、恋そのものがよくわからないから何とも言えない。
データには恋は素晴らしいもの、とあるけどクローニング・ヒューマニティには必要のない感情、とあるから……してはいけないのだろう。
いくら感情をもっても規則を破るわけにはいかない。私は少し興味を覚えていたが、ここは規則に従っておこう。
「……よくわからない。ただ、クローニング・ヒューマニティは『個人に対して特別な感情を抱いてはならない』と教えられてるから、恋をしてはいけないと思うの……」
私の言葉に慎君の表情が凍り付いた。ショックを受けたのか、体がガクガクと震えだす。
「……そ、そう……なんだ……」
先ほどまでの動揺は一気に消え失せる。
「?」
「……」
「??」
「……」
「???」
沈黙が痛い。それに気まずい空気が満ちていくのを感じた。何か気を悪くする事でも言ってしまったのだろうか?
慎君は黙り込むと目を伏せて深呼吸をした。
(……気持ちを落ち着けようとしている?)
やがて、慎君は立ち上がると私に向き直った。
「……あ、あのさ……今日はもう部屋に帰るよ……また、明日ね……」
いつもより静かな口調でそう言うと、慎君は私の言葉を待たずして走り去って行った……。
(……やっぱり、何かしちゃったみたい……)
でも、何が原因なのかさっぱりわからない。
慎君の心がわからないのが辛い。
しばらく考えてみたが、私は一人ではどうしたらいいのかわからず、サラ達に相談する事にして施設に戻った。
休憩室。
自分の担当(慎君)に帰られた私はする事が無くなり、とりあえず休憩室で待機する事にした。
サラ達はまだ仕事中だし、かといって施設をブラブラしてるわけにもいかなかったから。
(……いったい、何がいけなかったんだろう?)
慎君との会話を思い起こし、自分の言葉を一字一句検証する。
すぐに思いつく点……慎君の態度がおかしくなったのは『恋をしたいかどうか』の話題になってからだろう。
(……言い方が悪かったのかな?)
恋をしたい、と言えばよかったのか?
でも、この施設にいる以上は多少なりともクローニング・ヒューマニティの事は知っているはず。それなら私の答えは容易に想像できると思うのだが?
……考えれば考えるほどわからない。ただわかる事は、慎君の気分を害してしまったという事だけだ。
(……話を合わせた方がよかったのかな?)
もっと相手の気持ちを考慮しなければいけなかった。慎君に対する気配りが足りなかった。
そう思うとなんだか悲しくなってきた。
これ以上、自分を責めても問題は解決できない。それなら休憩時間になるまでの時間を有効に使う事にした。
『恋』についてわかる範囲でデータを集め、慎君のその時の反応を加味した上で慎君の心境をシュミレートする。
『感情』がどう作用するのかがわからないので正確な答えは引き出せないが、これで少しはその時の慎君の気持ちはわかるはず。そのデータを元にすれば、いい解決策が浮かんでくるだろう。
(……えっ?)
シュミレートの結果は意外なものになった。
何度、シュミレートしても同じ答えになる。だが、慎君の入所状況を鑑みるとその信憑性は疑わしいものだった。
(……計算ミス? 感情の解釈を誤った?)
もし、この答えが合っているなら……ますます『人間』の心がわからなくなる。
まさか、重度の人間不信と診断された慎君が『恋をしている』なんて……人間、とりわけ女性に強い嫌悪感を抱いているはずの慎君が恋愛感情を抱くなんて、私には到底理解できない。
心の知識が少ない私でさえ、慎君の人間に対する嫌悪感ははっきりと認識できるのに。
(……では、相手は? まず人間の可能性は低いから、クローニング・ヒューマニティ? まさか、人間じゃないクローニング・ヒューマニティのはずはないと思うけど……となるとやっぱり……)
私は困惑を隠せない。
ここまでくればシュミレートしなくても答えはわかる。
おそらく、慎君は私に恋愛感情を抱いている。その私に『恋する事はできない』と言われれば、あの態度も納得できる。
(……傷つけてしまったわね……)
でも、いったいどうすればいいの?
はっきりと拒絶したかの様な返事をしておいて、その後に受け入れたりしたら余計に慎君の心を傷つけるだろう。
確かに慎君に対して好意はもってはいても、それは慎君の抱く想いとは違う。
そんないい加減な気持ちで接したら慎君に失礼だ。
(……困ったわね……)
本当に困った。初めての経験だから、何をどうしたらいいのかさっぱりわからない。
理屈ではなんとなくわかっていても、実際に体験していないから正しい対処なんてできないだろうし、傷つけない様に対応する事もたぶんできないだろう。
むやみに傷つけてしまいそうだ。慎君に会って傷つけない自信がもてない。
自画自賛ではないが、遺伝子操作により学習能力が飛躍しているクローニング・ヒューマニティのシュミレート予測は正確だ。
たとえ感情を強く持った私のシュミレートでも、その正確性は変わらないはず。
やはり、ここは慎君に人間とクローニング・ヒューマニティの根本的な思考の違いを教えるしかないだろう。
人と人ならざる者の恋の結末はあまり明るいものではない。
この現実を伝えれば、慎君も納得してくれる……わけがない!
恋とは計れないもの。理屈が通るくらいなら、はじめから私に恋愛感情を持つはずがないのだ。
――時計を見るとサラ達が来るまで三十分近くある。
やっぱりこの件は、一人で解決できないので彼女達の力を借りよう。
私は時間まで椅子に座ってサラ達が来るのをひたすら待つ事にした。




