動き出す歯車
施設に到着すると、職員専用入り口に何人もの人間が立っていた。
その中に見覚えのある姿があった。
(……矢神……)
山崎博士と双璧をなす優秀な頭脳の持ち主、矢神博士が待ち構えていた。
「――矢神様、おはようございます。今日はいかがなされましたか?」
どことなく嬉しそうな表情で挨拶するサラ。
「おはよう、今日は緊急の用事で来た。悪いが、今日はお前の相手をしている時間は無い。レイ、何故私がここへ来たか、理由はわかっているな?」
表情を変える事なく矢神は私の元へ来ると、下から覗き込む様に顔を見た。
「……ふむ、確かに顔つきが変わったな。にわかに信じ難いが、どうやら山崎の話は真実の様だ」
私の顔を見て独り呟く。
「サラ、今日はレイに用事があって来た。お前も事情を知っているはず。先に行って小野寺慎にレイが遅れる事を伝えてくれ」
矢神はサラの顔を見もせず命令を下す。
「……かしこまりました。では、お先に失礼します……」
少し寂しそうに返事をしたサラは、一人施設の中へ入って行く。
なんだか冷たい。
あんなに慕っているサラに対してのこの態度。私は思わず不快感を顔に出してしまう。
「おやおや、どうやらお前を怒らせてしまった様だな」
私の機嫌が悪くなったのを察知した矢神だったが、何の悪びれもなく私の観察を続ける。
そして、後ろに控える人間(おそらく部下)に向かって指示を出した。
「――レイの身柄は確保した。これより福室主任の部屋へ行き、データファイルのチェックを始めろ。ロックの解除とデータ抜き取りはルナが行う。お前たちは内容をチェックし転送後の削除を頼む。福室主任の身柄の拘束は山崎のアンナに依頼してある。時間が無いのでさっそく作業に取り掛かれ」
矢神の指示を受けた部下たちは足早に施設に入る。
彼らが研究員か何かわからないが、福室主任の件で急いでいる様だった。
私の疑問を察したのか、矢神はポケットから紙を取り出すと私に差し出してきた。
「ん? 何、これ?」
渡された紙に目を通すと、そこには私の身を案じた山崎博士の言葉が書かれている。私の件を矢神に託したのだ。
「昨夜、山崎が来てな……詳しい話は聞かせてもらった。この件は外部に漏らす事は出来ない。まったく福室主任には困ったものだ、意味の無い実験をして何とする? 愚か者め」
吐き捨てる様に言うと矢神は私から紙を取り上げる。
「――レイ、中で話そう。他の奴らには聞かせたくない。それに、お前の大事な小野寺慎について聞きたい事がある」
矢神は私の腕を掴むと強引に引っ張って行く。
「え、ちょっと、何!?」
私の返事を待たず急ぐ矢神。だが、慎君に関する情報が得られそうだったので私は抵抗せずに歩き出した。
施設内の一室に入った私たちは、それぞれの席に座ると自然と顔を見合わせた。
「レイ、福室主任の件は心配するな。あんな無駄な実験なんか絶対にさせない。現実を思い知らせ、口を封じるから安心していい――」
矢神は表情も変えず冷たい口調で話す。
その言葉に私は背筋に冷たいものが走る。それだけ矢神の本気さが込められていた。
「……え、こ、殺すの? それは、それはやり過ぎじゃないの?」
恐ろしい事をさらりと言ってのけた矢神に恐怖を覚える。
いくら国際クローン法を違反したからといって、何もそこまでする必要があるだろうか?
確かに福室主任に対して許せない思いはある。憎しみの感情を抱いた事もあった。それでも殺意を感じたわけじゃない。
(人の命は地球より重いんでしょ? なんで、ルール違反でそこまでするのよ?)
事態の深刻さに私の身体は震える。それだけクローニング・ヒューマニティの存在は重要かつ危険なものなんだと理解できた。
恐る恐る矢神の顔を見る。
その瞬間、目が合う。私は目を逸らしたい気持ちを懸命に堪え矢神の言葉を待った。
「……おい」
矢神は、呆れた表情で私の視線を受け流す。溜め息混じりの言葉が思わずこぼれる。
「ここは日本だぞ、そんな事するか。変な勘違いをするんじゃない」
「……えっ?」
驚く私に矢神は頭を抱える。そして、気を取り直すと口を開いた。
「私の言葉が悪かったな。とりあえず言っておくが、お前の考えている様な残酷な事はしない。ただ、福室主任に“現実”を知ってもらい、その研究の無意味さをわからせるだけだ。お前、考え方が極端だぞ? そんなんで小野寺慎の心は癒せないぞ?」
返す言葉もない。確かに言葉の表面的な部分だけを解釈していた。
でも、そんな表情で言われたら誰だって勘違いしない?
「ま、紛らわしいのよ……そんな、冷たい口調で言われたら勘違いもするわよ」
私は思わず反論する。
クローニング・ヒューマニティにあるまじき行為。言った後で悔やんだ。
感情的になりすぎている。今度は私が頭を抱えた。
「ははは、そうだな。その件については謝ろう、すまなかった。しかし、お前は面白いな。小野寺慎がお前に恋をするのもわかる気がする」
矢神は楽しげに言って笑い出した。
「うっ」
慎君の事を言われると言葉が返せない。
話しぶりから、矢神がそれを知ってて慎君を話題に盛り込んでいるのがわる。
いい性格しているわ。この人には口で勝てる気がしない。
「――さて、お前をからかうのもここまでだ。本題に入ろう。小野寺慎について話を聞きたい」
矢神の口調が真剣なものに変わる。その表情も厳しいものになった。
「……小野寺慎の入所の理由はわかるな? 家族による虐待だ。しかも女性からの性的虐待……お前が見たデータファイルには詳しい内容は載せてないが、半年程度……いや、お前が来てからだから約十日か、その程度でまともな交流ができる状態になるなんて通常は有り得ないんだ」
そう断言すると矢神はポケットから煙草を取り出す。だが、灰皿が無い事に気づいたのかポケットに戻すと舌打ちした。
「ふん、仕方ないな。話を戻すぞ。小野寺慎に下された診断は精神疾患の複合型だ。しかも解離性障害の兆候もあったという。保護された時、人格が変わったと複数の証言があったし、検査でも特に疑わしい結果にならなかったそうだ。私も何度か会っているが、長期戦を覚悟するほど症状は深刻なものだった……それが十日そこらで改善できると思うか?」
矢神は疑問をまくし立てる様に言い放った。
その疑問は私も思った。データファイルを閲覧した時、私は性的虐待にばかり意識が向いていたが確かにどこか矛盾を感じていた。
「うん、私もちょっと思った。でも、一人でいる時と私といる時のギャップが凄かったから、そういうものだと思っていた。だって、医者が診て判断を下したわけだし、それを疑う余裕もなかったから……」
気づいてあげられなかった悔しさで言い訳がましいセリフしか出てこない。
感情にばかり気を取られていた。
相手の気持ちにばかり目が行き、原因となった病気に気を配る事が出来ていなかった。
慎君の変貌ぶりに圧倒され不安を覚えた私。感情に振り回され肝心なものから目を背けてしまっていた。
「レイ、自分を責めるな。私たちも気づけなかったのだ、責任は我々にある。それに、お前のおかげで“真実”が明らかに出来るのだ。お前はよくやった、胸を張っていいんだぞ?」
私の事を思いやり慰める。意外な言葉に私は少し気が楽になった。
「……だが、問題は複雑だぞ。小野寺慎は、我々に嘘をついている。病状ではない別の“何か”だ。我々を欺く彼の闇は想像以上に深いだろう。お前はこの事実を知り、どう思う? 奴は“怪物”だぞ。それも極めて危険な……」
怪物。天才とも称される矢神の口から思いがけない言葉が飛び出す。
あの慎君が、天才を欺く怪物?
にわかに信じ難い形容に私の頭は混乱する。
もしかしたら、私の事も欺いている?
思いたくもない不安が頭をよぎる。
違う。慎君は私を欺いたりしない。
心の中に芽生える葛藤。人間の本質が全く理解できない。
“愛”に触れ、私は人間の素晴らしい一面を知ったはずなのに、突き付けられた現実が私の心を強く締めつける。
それでも私は慎君を信じたい。いや、信じたかった。
「……私は、慎君を救いたい。何が慎君を変えたのか私にはわからないけど、慎君の心の傷を癒やしてあげたい。慎君に普通の暮らしをさせてあげたい……」
偽りのない心からの言葉。
私が抱いたこの“愛”で彼を救う。それが私の願いなのだ。
矢神は私の顔を見つめていた。心の中を覗かれる様な鋭い視線が容赦なく向けられる。
真実を見極めようとする目が私の覚悟を強くする。
「――いいだろう。お前の彼に対する“想い”を信じよう。だが、覚悟はしておいた方がいい。彼を通して『人間を学ぶ』なら、お前も傷つくはず。感情に振り回され、苦しみに悶え自己嫌悪するだろう。それは、人間とほぼ同じ感情を宿したお前でも……いや、だからこそ厳しいものとなる。無論、私たちもお前をサポートする。それでも大変だぞ?」
長い沈黙の末、矢神は口を開いた。
厳しい言葉の中にある気遣いが困難である事を物語っている。
矢神でさえ警戒する慎君の“闇”とは、いったいどれほどのものだろうか?
心が未熟な私に耐えられるのか?
不安な思いを振り払おうとしても拭いきれない。
「わかってる。それでも私は慎君を救いたい。私に好意を寄せてくれた慎君は、偽りの無い愛情を私に向けていたの。あの時の慎君に嘘はなかった……だから、きっと大丈夫! 私は慎君の心の傷を癒やしたいの」
私は慎君を信じる。だから私は逃げたりしない。
とっくに覚悟は決めたのだ。
今さら何を言われようとも私の意志は変わらないの。
「……了解した。では、今日から小野寺慎との出来事を私に報告しろ。メールで構わん、詳しく内容を書いて知らせるんだ。それと、決して一人で思い悩むな。私やサラに相談するんだぞ? お前は一人じゃない、周りにはお前を理解する“仲間”がいる事を忘れるな」
どうやら私の意志の固さに矢神も納得してくれた様だ。
なんだかんだ言って優しいところもあるんだ。
サラが慕う理由もわかるかも。少し不器用なだけなのかな?
私は矢神から目を逸らさず真っすぐ見つめ返すと静かに頷いた。