私の想い
熱い日差しを浴びながら、私はベンチで慎君の帰りを待つ。
周りには誰もいない。少し暑いが誰も来ないこの空間は、考えるにはちょうど良い。
(……私のするべき事は山崎博士に相談し、慎君との関係を出来るだけダメージの少ない結末に持っていくこと。疑似恋愛という人の心を弄ぶ悪質な行為を早めに切り上げること)
福室主任に慎君の想いを知られたからには、疑似恋愛は避けられないだろう。
逃げ出したい気持ちに駆られるほど辛い。しかし、逃げたところで慎君は救えない。
逆に私が居なくなった悲しみに付け込み、他のクローニング・ヒューマニティをあてがうに決まっている。
福室主任なら遣りかねない。それなら権威のある山崎博士や矢神博士を頼った方がマシだ。
(……確か、矢神博士は疑似恋愛テストを行っていたはず……)
毎日のデータファイルの閲覧で特に興味を引いた項目だ。
残念ながらパスワードがわからずに詳しい内容は見れなかったが、矢神博士は他にも様々なテストを行い論文にしていた。
それを考慮すると矢神博士に頼るのは危険かもしれない。しかし、山崎博士だけに頼って大丈夫だろうか?
一人より二人。味方になってくれるなら、慎君を守る事が出来るなら権威ある二人に頼るしかない。
最悪、私を実験のモルモットに差し出しても構わない。
私は気持ちの整理をつけると慎君の持ってきた本を手に取った。
『名も無き恋の詩』……歌詠み投稿サイトに寄せられた恋の詩をまとめた詩集。
(……恋する心を詩にしたものね)
詩集に収められるくらいだから、どの詩もその情景がすぐに頭に浮かんでくる。
一つのテーマなのに、どれも個性的で人間の感性というものが色濃く表れている。これは、なかなか勉強になる。
(人によって、恋に対する印象が違うのね……幸せのかたちも人それぞれ、か)
詩に込められたそれぞれの想い。
私でも理解できるシンプルかつ強いメッセージに心が引き込まれていく。
(人間の感性は素晴らしい。心の美しさが詩の中にしっかりと表れている。こんなにも純粋な詩を詠める繊細さがある一方、何故あんな非道な行いを思い付くのだろう? ホント、人間って不思議な生き物だわ……)
私は人間という生き物の本質の複雑さに惑わされる。
この詩集を見るだけでも人間の想いの複雑さがわかる。同じ結末でも、詠み手の受けた印象や与える印象が異なっている。
一つの感情ですら、それぞれの違いがここまで浮き彫りになるなんて……それが幾つも積み重なって形成される『性格』が、全く異なるものになるのも当然と納得せざるを得なかった。
(人間はそれぞれ個性を持っているから、それを考慮しなければならないわね。同じ研究者でも、福室主任と山崎博士や矢神博士は違う価値観を持って当然……だから、研究者に対する悪い印象は捨てなくちゃ。冷静な判断が出来なくなる)
そう、まだ研究者が私の『敵』だと決まったわけじゃない。
怒りのあまり研究者に対して憎しみの感情を抱いてしまったが、それは間違いであり思考の幅を狭める危ういものだ。
(……また感情に振り回されている。冷静になろうと意識しているから、目の前の出来事に心が乱されるのかな?)
さっきから揺れ動く感情に振り回されっぱなしだ。
落ち着かなくちゃ。私は胸に手を当てて目を閉じる。
ゆっくり息を吸って思いっきり吐く。そして、空を見上げて目を開く。
「――ハァハァ、レイさん、お、お水……ハァハァ、お水、持ってきたよ」
息を切らして慎君が駆け寄ってくる。視線を向けると肩で息をしている。
よっぽど急いで来たのだろう。その優しさが何だか嬉しかった。
「ありがとう、慎君」
私は手渡された水の入ったペットボトルを額につける。熱を持ったおでこを冷やしクールダウンする。
「冷たくて気持ちいい~」
隣りに座る慎君がそんな私を心配そうに見つめていた。
「もう平気よ。慎君のおかげで元気いっぱいよ」
そう言って私は慎君の方に身体を向け、笑顔を見せて元気アピールする。
「……良かった」
慎君はホッと胸を撫で下ろすと安堵の表情を浮かべ、私の顔を窺う様にジーッと見つめてきた。
その視線の意味するところはすぐにわかった。しかし、慎君は性急に答えを求めてこない。
私の体調を気にかけてくれている?
それは慎君の勘違いだが、すぐに答えられるわけも無く訂正しないでその好意に甘える事にした。
……無言の時が流れる。
意味深な視線を投げかける慎君と笑顔で固まる私。
(……さて、これからどうする?)
出来れば答えを先送りしたい。
山崎博士に相談してから答えを用意したい。
今の私には『付き合う』や『振る』という事に対する正しい知識も解答も知らないのだ。
だからと言って、今の私が抱く思いを慎君が納得する言葉で説明も出来ない。
これが『普通』のシチュエーションだったら、その場しのぎの言葉で先送りに出来るのだが、ここは特殊な場所であり私がクローニング・ヒューマニティという『普通』とは言えない事情があるため、下手な言葉は事態を大きく混乱させる恐れがあった。
――期待と不安が入り交じる瞳が私の心に突き刺さる。
好意を持たれて悪い気分になる者なんていない。
正直に言えば嬉しい。いくら恋愛を知らないクローニング・ヒューマニティだって人の好意を受けて悪い気はしないのだ。
ただ、その好意が強すぎて混乱してしまうけど。
私は、言葉に詰まりペットボトルの水を飲む。
冷たいのど越しに身体の芯が冷えていくのを感じる。
喉が渇いていたのか、ペットボトルの水はどんどん減っていく。
「……はぁ、冷たくて美味しい」
半分以上飲んだペットボトルを脇に置き、私は改めて慎君の顔を見る。
少し照れた表情で見つめ返す慎君。
遠慮して口を開かない様子に、以前の慎君の姿はなかった。
(恋は、人を変える?)
以前の慎君なら、この状況に耐えられなくなり部屋に戻っていただろう。しかし、今の慎君は私の言葉を……私の答えを待っている。
結果を恐れ、逃げようと思う私。
結果を恐れず、受け入れようとする慎君。
私は慎君の気持ちに応えなければならない気がした。
その真摯な態度に真剣に応えよう。私は意を決して口を開いた。
「――慎君」
私の言葉に慎君の身体がビクッと震える。だが、私は話を続けた。
「私には、『恋愛』の意味がわからないの。慎君と一緒にいると楽しい。慎君の笑顔を見れば嬉しくなるし、元気を無くした表情を見れば悲しくなるわ。慎君に対して好意を持っている事も自覚している。それが『好き』っていう気持ちなのは私にも理解できるの……今は、それが私の持てる感情の限界なの」
出来るだけ、ゆっくり丁寧に話す。
今の私の全てを伝えるのだ。
「だから、慎君の望む『関係』を築く事は今の私には出来ない。愛する事の意味を知らない私に、人を愛する資格はないの……」
身を固くして耳を傾ける慎君の目が泳ぎはじめる。
「……それでも、それでも慎君が私と恋愛したいと願うなら……私はあなたを受け入れるわ。しかし、それは慎君の望む『関係』じゃない。だから、私に時間を与えてほしい。心を学ぶ時間を、恋愛するに値する心を得るまでの時間を……」
不意に目の前が歪んできた。話すうちに自然と涙が溢れてきたのだ。
「……私は、慎君の事が『好き』よ。その慎君を傷つけたくない。私はクローニング・ヒューマニティだから、人の心の機微をまだ察する事が出来ない。そんな無知な私の言葉で、仕草で、行動で、あなたの純粋な想いを傷つけたくない。私は……」
もう、言葉にならなかった。
嗚咽を堪えるので精一杯。溢れ出る涙が止まらなくて、心の痛みが激しくて私は言葉を紡ぎだす事が出来ない。
今の私の心が、少しでも慎君に伝わっただろうか?
「……レイさん……泣かないで。ごめん、僕、自分の事しか考えてなかった……レイさんは、まだ生まれて間もないのに、まだ心の勉強中なのに……ごめんね、レイさん。そんなに悩まないで……」
言葉を選びながら話す慎君の優しさが私の胸を締めつける。
申し訳なさそうな口調に私は首を振る事しか出来ない。
「……レイさん、僕にも愛の意味はわからないよ。いや、おそらく人間誰一人本当の意味を知る者はいないんじゃないかな。でも、僕は今、レイさんを好きになって良かったって思ってるんだ……レイさんは、こんな僕の一方的な想いに応えようと必死に考え、悩み、苦しみながら僕の想いに応えてくれようとしている。僕は、そのレイさんの気持ちがすごく嬉しいんだ」
言葉に込められた想いが、私を労ろうとする優しさが心の奥に溶け込んでいく。
どこまで優しい人なんだろう。私は人間の優しさが心を癒やしてくれるものだと初めて体験した。
人間の心の美しさが私にはとても眩しかった。私は人間という生き物が『愛すべきもの』という事を身を持って知った。
泣き止んだ私は、優しい表情で見つめる慎君に向かって精一杯の笑顔を見せた。
感極まる、とはこういう事を意味するのかな、と思いながら涙で濡れた頬を拭う。
「……慎君、この事は、誰にも言わないでほしいの。二人だけの秘密にして」
私は、慎君の想いに応えようと『本音』を漏らした事に不安になる。
もし、この事が福室主任の耳に入ったら……きっと取り返しのつかない事態になると容易に想像できたから。
「うん、わかった。午後はレイさんが具合悪くしてあまり話せなかった、って言っておくよ。大丈夫、レイさんを悲しませたりしないから……」
慎君はそう言って私に近寄る。そして、私の耳元に顔を近づけると小さな声で囁きはじめた。
「……好きな人を傷つけないよ。レイさんの様な無垢な人を僕は傷つけない。僕は……レイさんを想っているだけでいいんだ。だからレイさん、好きでいていい?」
顔を離し目の前で見つめる慎君。
少し近い、と思いつつ私は頷く。
なんだろう、慎君の雰囲気が変わっている。以前より大人びた雰囲気になった様な気がする。
「ありがとう。僕、レイさんの涙を見て、心に決めたんだ。もう二度と、レイさんを悲しませないって。僕は、レイさんと出会えて良かったって心から思うよ」
その言葉には力強い意志が感じられる。
恋とは、こんなにも人を変えるのか?
愛とは、こんなにも人を強くするのか?
私は慎君の劇的な変化に驚きを隠せなかった。
人を愛すると、人は短期間でここまで成長できるものなんだ。
私は、慎君の雰囲気に圧倒され、人間の偉大さに尊敬の念を抱いた。
「……ありがとう、慎君。私もあなたと出会えて良かったと思うわ。あなたが、初めて出会った人間で……本当に良かった……」
もし『神』という存在がいるのなら、私は心からの感謝を捧げたいと思った。
(……慎君と会わせてくれて、ありがとう)
私は、この世に生まれてきた意味の一部を垣間見た気がする。
――私は慎君を通して『人間』を学ぶのだ。
「慎君、今日はちょっと早く戻らないといけないの。今日ね、私を造った博士が来てて、会わなくてはならないのよ……」
良い雰囲気のところで言うのも気が引けたが、私はどうしても山崎博士に会って話をしなければならない。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
そんな私の気持ちとは裏腹に慎君は頷くとベンチから立ち上がった。
「うん、いいよ。レイさんにもレイさんの事情があるし、僕は気持ちを伝えられて満足してるよ。それに、レイさんの気持ちも聞けたし……僕は部屋に戻るよ。また明日、会ってくれるよね?」
「もちろんよ。私のお仕事は慎君とお話する事よ。慎君がイヤっていうまで毎日でも会いに行くんだから」
慎君の大人の対応にドキッとした私は、誤魔化す様にいつもの調子で答える。
「はは、それは無いよ。じゃあ、また明日ね!」
詩集を手にすると慎君は部屋へ戻って行く。
その後ろ姿に私は慎君の成長をはっきりと認識する。
不思議な感覚が心に湧き上がる。それが何なのか理解できなかったが、私はとりあえず最初の危機を回避できた事に安堵の溜め息を吐いた。
――次は山崎博士との対話だ。
慎君との出来事を話しても良いか、相談できるかを判断しなければならない。
二人だけの秘密、と言いながら山崎博士に伝えるか悩む私はいけない女だろうか?
(……今のうちに戻ろう。まずは会ってアポを取り付けなきゃ始まらない)
私は飲みかけのペットボトルを手に持つと中庭を後にした。
夕方になれば博士の仕事も一段落する。勝負はその時だ。
この会合に選択ミスは許されない。相手は研究者にして日本でも有数の頭脳を持つ博士だ。
私は気を引き締めるも、期待と不安が交錯し胸の鼓動が早くなる。
サラの言葉を信じよう。
娘を想う父親なら私の願いを聞いてくれる。しかし、不安は消えない。
――無意識のうちに私は、慎君と引き合わせてくれた『神』に祈りはじめていた。
神の摂理に反し、生まれてきた私の祈りが届くかわからない。
それでも、すがる思いで祈り続けた――。