決意
午後になると、日差しはさらに強さを増す。
空を見上げれば、恨めしく思うほどの澄みきった青の世界が果てしなく広がっている。
雲一つ無い晴天。容赦ない日差しが私の肌を熱くする。
(……いた。いつもと同じだ……)
いつものベンチに腰掛けて本を読む慎君の姿を見つけ、私は緊張に身を強ばらせた。
中庭には他に誰もいない。そろそろ八月も終わるとはいえ、日中は暑くて外に出たがらないのだ。
「――慎君、こんにちは」
緊張が伝わらない様、満面の笑みで挨拶する。
大丈夫、顔は引きつってないはず。
私の声に慎君の表情は、冷たく無機質なものから熱を帯びた年相応の表情へと変化していく。
「レイさん!」
目が合った途端、笑顔が弾ける。
今まで見た事の無いとびっきりの笑顔。
いったい、何が慎君を変えたのか。あまりの変貌ぶりに私は戸惑う心を落ち着けようと息をひとつ吐いた。
「慎君、ずいぶんご機嫌ね? 何か良い事でもあったの?」
となりに座り、慎君のご機嫌な理由を聞く。
本を閉じ、脇に置くと慎君は私の方を向いて笑顔のまま口を開いた。
「……うん、あのね、先生がね、先生が……」
照れた表情で身体をモジモジ動かし口ごもる。
「先生? 検査で何かあったの?」
検査の結果が良好だった?
それとも精神状態が改善された?
慎君の様子から、何か良い事があったのは間違いない。
恋愛の話になるかと覚悟していた私は、思わぬ展開に緊張がほぐれた。
(よっぽど良い事があったのね~)
何があったのかはわからないが、慎君の嬉しそうな笑顔を見て私も嬉しくなる。
「慎君、何があったの? お姉さんにも教えてよ」
少年らしい笑顔。ちょっと照れる姿が何だか可愛らしい。
すっかり気持ちがほぐれた私は、いつもの調子で慎君に接する事ができた。
「慎君の笑顔の秘密、お姉さんも知りたいわ~」
軽い口調で照れる慎君に顔を寄せる。
「……ちょ、ちょっと、レイさん、ち、近いよ……」
そう言って恥ずかしそうに俯く慎君。
こういう会話も何だか久しぶりの様な気がする。
今の慎君からは、年相応の少年の持つ感情が見えていた。その感情豊かな表情や仕草がとても心地良く感じられる。
何はともあれ笑顔になるのは良い事だ。
私は照れまくる慎君を見つめると、気持ちが落ち着くのを静かに待った。
……やがて、気持ちが落ち着いてきたのか、慎君は意を決した様に私の目を見る。そして、深呼吸をひとつ吐くとゆっくりと口を開いた。
「――レイさん、許可を貰ったんだよ」
「は?」
まるで答えになっていない慎君の言葉に、私は思わず間抜けな返事をしてしまう。
だが、そんな私に構わず慎君は続けた。
「この間、レイさんが言ってたでしょ? クローニング・ヒューマニティは個人に対して特別な感情を抱いてはならない、って。だから、先生に相談したんだ。クローニング・ヒューマニティと恋愛するにはどうすれば良いのか、って……」
相談?
恋愛?
まさか、慎君はこの事を……。
嬉しそうに話す慎君は、いつもより饒舌に話し続ける。
「……そうしたら、先生が『本当はダメだけど、特別に恋愛する許可を与えよう』って言ってくれたんだ。レイさん、許可が出たんだよ! 恋愛してもいいって!」
その瞬間、身体中を衝撃が駆け巡る。全身が一気に震えだす。
嬉々としてはしゃぐ慎君とは対照的に、私の心は苦しみでいっぱいだった。
――慎君は、おそらく福室主任に相談したんだ。カウンセリングの際に私との関係を聞かれ、恋愛したいと誘導されたに違いない。
詰めが甘かった。福室主任から尋問を受けた際、うまく言い逃れ出来て油断していた。
日々のカウンセリングで慎君の想いに気付いた福室主任は、私たちの疑似恋愛を諦めてはいなかったのだ。
(……なんて、なんて酷い……研究のためなら、どんな手でも使うっていうの? 心に傷を持つ少年の信頼を利用してまで、クローニング・ヒューマニティと恋愛させたいの!?)
私の中で怒りの感情が湧き上がってくる。
身内の女性に虐待を受け、人間不信になった少年に対してのこの仕打ち。
純粋な想いを利用してまで自らの研究の道具にしようとする卑劣さ。
人間の醜い部分を見せつけられ、私は強い憤りを感じ……初めて人間に対して憎しみの感情を抱いた。
(恋愛の許可、あくまで私たちは『研究素材』ってわけね。この施設でいったい何が行われているのか、だいたい想像が付くわ……クローニング・ヒューマニティに『人間学習』させる一方で、あわよくば疑似恋愛や友情を育ませ引き離す。その時のクローニング・ヒューマニティの心理変化をテストしているんだ。何らかの関係を持った者との別れを経験させる……いつマスターが変わっても良い様に、一番辛い別離の悲しみや失恋などを経験させる目的もあるんだわ)
社会から隔離された施設なら外部に情報は漏れにくい。それにクローニング・ヒューマニティが主人に対して不利な発言をする事も無いし、心に傷を持つ者はカウンセリングで洗脳すれば、如何なる追求を受けても言い逃れできる。
人間の心の闇を見た。
心に闇を抱えているのは患者ではない。研究者たちだ。
都合の良い人材を施設に入れ、用が無くなれば追い出す。
彼らにとって、患者は使い捨ての道具に過ぎない。酷い。あまりにも酷い。
(……いったい、誰を信じればいいのかわからなくなる……)
目の前で無邪気にはしゃぐ慎君の笑顔が、再び無機質なものへ変化していくのか?
私が受け入れようとも拒絶しようとも、おそらく慎君は疑似恋愛を終えれば使い捨てにされる。
絶対に避けなければならない最悪の事態が、近い将来必ず訪れてしまう現実に私は言葉を失い、ただうなだれるしかなかった。
「……レイさん、レイさん? どうしたの? 気分が悪いの? 何だか、顔色が悪いよ?」
不意に慎君が不安そうに囁きかけてくる。しかし、私に返す言葉を出す気力がなかった。
顔を上げる事ができない。
慎君に対して申し訳ない気持ちでいっぱいで、とても慎君の目を見る事などできなかった。
「レイさん、ジッとしててね。今、お水持ってくるから。ちょっとだけ待ってて!」
慎君は慌てた声でそう言うとベンチから走り去っていく。
もしかして、私が脱水症状か何かになったと勘違いしている?
(……でも、今のうちに気持ちを落ち着けなきゃ。慎君の前では元気な姿でいたいもん。こんな、怒りと悲しみの感情で曇った顔は見せられないわ……)
私は顔を上げると空を見た。
果てしなく広がる青い空。降り注ぐ太陽の恵み。自然の雄大な景色に心を落ち着ける。
(もう、秘密にする必要はないわ。山崎博士に会ったら、どう対処すれば良いのか聞かなきゃ。慎君を傷つけない……いや、傷が浅く済む様な方法を聞かなきゃ)
どういう関係になろうとも、慎君が傷つくのは回避できないだろう。それならば、せめて心の傷を少なく済む様にしなくてはならない。
それが、私の責任。秘密を守り切れなかった私の使命よ。
(慎君の心は私が守る。そのためなら、私はどんな事でもしてみせる)
それが、慎君に示す事のできる私の愛。
たとえ慎君の望むかたちで無くとも、私はこの愛を持って慎君を守ると心に決めた。