感情に振り回されて
休憩室でお弁当を食べながらテレビを見る。
この施設では、見られるチャンネルがかなり限定されており、ニュースや歴史、スポーツ関連の番組以外視聴できない様に設定されていた。
これは感情に乏しいクローニング・ヒューマニティに余計な思想を与えない様にするためだ。
本来ならテレビの視聴を禁止すれば良い話。だが、個人の思想や誤った知識、感情の起伏があまり強くない番組なら、クローニング・ヒューマニティの『人間学習』に支障をきたすほどの影響はないので、出来るだけ幅広い知識を学ばせる教材にしようと規制を緩めたのだった。
研究者たちも娯楽の少ない生活のクローニング・ヒューマニティに同情し、ささやかな楽しみを与えようと思ったのかもしれない。
とは言うものの、お昼で視聴できる番組はニュースしかない。全国の天気や大きな事件、時事ネタぐらいしか放送されていなかった。
「――サラ、博士達に会う時間って取らせてもらえるのかなぁ?」
何らかの用事で来ている博士達に簡単に会えるとは思えない。
彼らは日本でも有数の頭脳の持ち主。日々研究に追われている彼らが、ただの私用で会ってくれるとは考えられなかった。
「短い時間でしたら、おそらく大丈夫かと。その時に“話したい事がある”と言えば、仕事の後にでも時間を作ってくれると思いますよ」
サラは柔らかな笑みを浮かべながら続ける。
「クローニング・ヒューマニティからの相談には、博士達も快く乗ってくれますよ。クローニング・ヒューマニティの自発的な行動は、心理データを得るまたとない機会ですし、たとえ忙しくても優先して時間を作って会ってくれますよ」
そう言ってサラはにこにこ表情を緩ませて箸をすすめる。
(……矢神博士に会うのが楽しみ、って感じね。父親みたいに慕っているのかしら?)
私はサラの態度から矢神への信頼の強さを知り、なんだか複雑な気持ちになった。
(私は山崎博士に対して、そんな感情持ってないもんなぁ……すぐに研究施設から出て行っちゃったし、まともな会話なんてほとんど無かったから、いまいち信頼し切れないって思っちゃう……)
山崎博士は私を造った父親代わりの人間だったが、事故により一緒に居る時間がほとんど無かったため、父親と認識する前に研究者と認識していた。
だから、山崎博士が来たと聞いても素直に喜べないでいるのだ。
(……会って何を話す? 慎君の事をそのまま伝えても大丈夫なの? 彼も研究者、それも日本でもトップクラスの知識を持ち、また大きな成果を挙げてきた人なのよ……本当に大丈夫? 私の味方になってくれるの?)
急に不安になってくる。
よくよく考えてみれば、私は山崎博士に造られた者……運良く強い感情を持ったから特別な存在と思っているかもしれないが、数あるクローニング・ヒューマニティの一体である事実は変えられない。
不完全だけど、私はクローニング・ヒューマニティであって人間ではないのだ。決して家族の様な関係になれるとは思えない。
貴重なサンプル程度に思っていても何ら不思議はないのだ。
(……余計な事ばかり考えてしまう……こんなに不安になるなんて、感情って本当に厄介なものね……)
慎君の未来が掛かっている。
そう思うと悪い事ばかり考えてしまう。
もし慎君と疑似恋愛なんてしたら、きっと慎君の心は壊れるだろう。
誰にも心を開けず、生きる希望を無くし絶望の中でもがき苦しむ事になる。
(初めての人間の友達なの。不幸な目になんか遭わせたりしない。私にとって、慎君は一番信用できる人間なのよ。だから、絶対に選択を誤ってはならないの)
私は不安で乱れる心を必死になだめ、慎君のためになる事を冷静に考える。
確かに既婚者である山崎博士なら、慎君の想いを理解できるだろう。また自らの体験から上手い解決法を伝授してくれるかもしれない。
しかし、それは私が人間であれば、の話だ。
恋愛におけるクローニング・ヒューマニティの心理を得ようと考えてもおかしくない。
(正しい選択をするの。私は山崎博士の性格すらまともに理解できていないのだから、会ってみて性格を知る事から始めなきゃ。私の事をどう思っているのか、見極めなきゃ……)
単なる研究素材として見ているのか、それとも家族として見ているのか。いや、せめて家族とは言えなくとも特別な感情を抱いてくれれば……少しは話も通じるかもしれない。
――サラの表情を見ていると、淡い期待を抱いてしまう。
少ない交流しかないが、矢神の印象は正直あまり良くない。研究論文を見る限り、クローニング・ヒューマニティに対して愛情を持っているとは思えなかったから。
その矢神に対するサラの態度を見ていると、私が思っているほど冷酷ではないのかも……そう思うくらいサラは矢神との再会を待ちわびている。
(……まるで家族との再会、って感じがする。私から見て、矢神はクールな印象なんだけどなぁ。よほど大切に育てられてきたのかなぁ?)
人は見かけによらず。
その言葉が頭をよぎった。
「――レイさん、レイさん」
不意にサラの言葉で現実に引き戻される。どうやら考えに夢中で上の空になっていたのだろう。
私を見るサラの目が少し切なそうに映った。
「……山崎様と会うのが不安になったのですか?」
サラはどこか遠慮がちに言う。今までの経緯を知っているだけに、私の不安な気持ちをそれとなく感じたのだろう。
サラの優しさが心に沁みる。
私は戸惑いつつも素直に頷いた。
「……ちょっと、ね」
そう言って無理矢理笑顔を作る。どことなくぎこちない笑顔でも、笑えば気分も変わるんじゃないかと思って。
「うふふ、レイさん、顔がひきつってますよ? 綺麗な顔が台無しです」
サラは口に手を当てて静かに笑う。
「……あはは」
すかさずツッコミを入れてくれたサラの気遣いに、私はなんだか胸に暖かいものを感じて自然と笑顔になった。
「……レイさん、不安になる気持ちはわかります。会ってすぐに離れてしまった山崎様に対して、本当に信用できるか不安になる気持ち……ですが、そこは安心しても問題ないと思います。何故なら、私たちは彼らの“娘”なのですから。娘を想う父親の気持ちは、すべての生物が抱く普遍的な家族愛に満ちています。いくら短い交流しか無くとも、娘を想わない父親はいません」
サラはそう言って真剣な表情で私を見つめた。
その眼差しが私の心に突き刺さる。
(……家族愛……)
クローニング・ヒューマニティから出た想定外の言葉。感情制御された者からのまさかの言葉に、私は疑心暗鬼になった自分の心が雲が晴れる様な感覚になった。
(……私は、慎君の事を思ううちに冷静な判断が出来なくなっていたんだ……ひとつの事に固執し、全体を見極める目を自ら曇らせていた……)
これも、強い感情のせいなのか?
冷静に考えていたつもりが、知らないうちに思考の罠に嵌っている。
感情のもたらす心理変化に、私は過ちを繰り返す人間の業を理解した。
(……なんて厄介なものなんだ……)
感情の複雑さに私は恐怖を感じる。それと同時にクローニング・ヒューマニティが感情制御されているのも少し理解できた。
(……自分が自分じゃなくなる。感情のコントロールは極めて困難だ。人間って、こんな恐ろしいものを生まれつき持っているんだ……)
私は深呼吸し気持ちを落ち着ける。
――今は慎君の事を第一に考えなきゃ。
冷静に情報を整理し、優先順位をつけていく。
まずは慎君の未来を考える。山崎博士の性格や私に対する思いを見極める。そして、慎君の想いを伝えても大丈夫なのか、信用できるのかを判断する。
(サラのいう家族愛があるなら、慎君の事を相談できる。人間の恋愛は人間に聞くのが一番だし、感情に振り回される私だけでは解決法が見いだせない。頼れるなら……きちんと頼ろう。サラの言葉を信じ、まずは話してみてから決めればいい)
徐々に冷静さを取り戻した私は、気持ちを整理しサラの目を真っ直ぐ見つめ返す。
言葉はいらない。
サラは私の心が落ち着いたのを察すると、無言で頷き食事を続ける。
それを見て私もお腹が空いてきた。
腹が減っては何とやら、私はサラの愛情たっぷりのお弁当に箸をつけはじめた……。
空腹を満たし、まったりとした時間を過ごす。
この施設は昼休みが長い。患者の検査やカウンセリングなどがあるためだ。
山崎や矢神の二人も、今日の検査に参加しているはず。
そのため、二人に会うのは午後からになるだろう。もしかしたら夕方になるかもしれない。
二人に会って本当に信頼できる人物かどうか見極める。
やる事が決まれば気分も少しは楽になる。
――問題は、午後から会う慎君への対応だ。
自分を慕う心に深い傷を持った少年。
人間、特に女性に対する強い嫌悪を抱くはずの少年の想い。私はどう受け止め対処していけば良いのか?
(……迫られたら、どうしょう……)
さっきの出来事が頭をよぎる。
突然の抱擁。その中に見え隠れする強い感情。
恋愛に疎い私でもわかる。あれは、私を自分のものにしようとする男の感情だ。
何故?
何故、私?
今までもクローニング・ヒューマニティと接触してきたはず。
慈愛の心を持つクローニング・ヒューマニティ。男性なら、きっと誰もが良い感情を抱くだろう。
増してや心に傷を持つ者なら、恋に落ちるのも何となく理解できる。
理解できるが……何故、今頃?
感情が強いから?
どことなく人間くさい私に何かを感じた?
まさか、私の容姿が慎君の好みにぴったりハマった?
(……外見なわけないか。不完全な私に、きっと何かを感じたに違いない)
人を愛するのに理由はいらない。
恋愛に関するデータを見た時に印象に残った言葉だ。
(……好きになった理由を知ったところで、それはただのきっかけに過ぎない。問題は、どう対処すれば良いのか。慎君を傷つけない様に接する方法を考えなくちゃいけない……)
この施設にいる限り、慎君の愛を受け入れるわけにはいかない。
研究者たちの疑似恋愛の実験に利用されるだけだ。それだけは絶対に避けなければならない。
それに、私の気持ちも大事にしないと。
確かに慎君の事は大事に思っている。今まで出会ったどの人間よりも好意を抱いている。
しかし、それは慎君の望む愛ではない。
いくら強い感情を持つとはいえ、私はクローニング・ヒューマニティ。まだ恋愛するまで心を知らないし、そもそも恋愛感情すら理解していない。
私に人を好きになる資格なんて無いのだ。
(……愛。愛って何? 好きって、ひとつだけじゃないの? 私には難しすぎてわからない……)
異性愛。家族愛。人類愛。他にも様々な愛がある。
感情を理屈で語ろうとするのは無意味だ。それなのに悩みは尽きない。
人間とは、こんな苦悩に苛まされながら生きているのか。
素晴らしいといわれる恋愛を考えるだけで、ここまで苦悩しなければならないなんて、私は人間という生き物の偉大さを垣間見た気がした。
長い休憩時間。
今日は特に長く感じる。いや、今日という日が特別に長く感じるのかもしれない。
これからの時間は、ある意味今後の人生を左右する重要なターニングポイントになるだろう。
そんな気がしてならない。
(……私が生まれてきた意味が、少しはわかるかもしれない……)
愛とは、人間にとって重要なもの。
その愛を突きつけられた私は、人間の本質を知る機会を得たのだ。
私の存在意義。生まれてきた理由。
それらの疑問を一部でも解明できる貴重な出来事に、私は今立ち向かおうとしている。
――時計の針は規則正しく時を刻んでいく。
時間だけは、何が起ころうと正しく時を刻む。
私は来たるべき“その時”をただ静かに待ち受ける。
何が起ころうと、私も私らしくしようと心に誓った――。