架け橋
昼休み。
時間になると私は足早に休憩室に戻って行った。
まだ誰もいない休憩室に駆け込んだ私は、壁際に設置されたソファーに倒れる様に身を投げる。
思わぬ事態に頭はパニック寸前。動揺を抑えようにも何の対策も浮かばないし、気持ちを切り替える術もない。
慎君の突然の行為に私は戸惑いを隠せないでいた。
(……人間の心って、本当に難しい……)
まさか、あんな行動に出るとは。
まったく予想だにしない事態に私は自分の置かれている状況を忘れ、ただ為すがままになっていた。
――愛、それを教えようとする慎君。
入所者データファイルに記録された慎君のデータをもとに行動パターンを算出すれば、その様な行動を起こす事など間違っても無いはず。しかし、そこはやはり人間特有の豊かな感情がその理論的見解を見事に崩してくれた。
ほぼすべての事柄を理論的に処理するクローニング・ヒューマニティにとって、矛盾極まりないその行動も“感情”を持つ人間にしてみればごく当たり前のものなのか?
事故により人間並の“感情”を持つと言われる私でさえ、中庭での慎君の行動はまったく理解する事が出来ずに頭がパニック寸前になっていた。
気分を落ち着けようとソファーの肘掛けに寄りかかる様にして目を閉じてみるが、様々な考えが浮かんでは消えて冷静な判断が下せないでいる。
感情を持つという事は、物事をより難解なものにするとでもいうのか。そんな風に思えてしまうほど、今日の慎君の心はまったく読めない。
何を考えているのか、何がその行動に走らせたのか、その心の変化はとても予測できるものではなかった。
「――レイさん、気分が優れないのですか?」
呼ぶ声がしたので目を開いてみると、心配そうな表情のサラがいた。いつもならベアトリーチェも一緒なのに今日は一人のようだ。
「あ、大丈夫よ。ちょっと考え事……」
そう言ってから余計心配させちゃうかな、と思って語尾が小さくなる。
サラは雰囲気で察したのか、敢えてそれには触れず、私の隣に座ると背もたれに寄りかかって息をひとつ吐いた。
「……先ほど伺ったのですが、今日はこの施設に矢神様と山崎様がお見えになるそうですよ」
「え?」
矢神と山崎。二人は私達の生みの親である。
国内ではクローニング・ヒューマニティ研究の第一人者であり、日本でも数少ない世界に誇れる頭脳の持ち主とさえいわれている博士だ。
クローニング・ヒューマニティ研究の最先端を進む彼等がいったい何の用事でここへ来るのか。
一応、入所者へのカウンセリングも行っている二人だが、それも確か月に一、二度のはず。しかも二人揃ってこのタイミングで来るという事に私の件が絡んでいそうで不安になってきた。
「いったい、何しに来たのかしら」
私の事情をよく知る二人。だが、彼等も研究者だ。
疑心暗鬼になっているのかもしれないが、彼等にしてみれば慎君はただの入所者。
正直、研究のためなら何をするかわからないと言わざるを得ない。
「私には見当も付きません。ただ、あのお二人が意味も無くここを訪れる事はないでしょう。何かしらの用事があるかと思われます」
サラは淡々とした口調で答えた。しかし、心なしか表情が明るく見える。
久しぶりに矢神に会える事が嬉しいのか。クローニング・ヒューマニティにとって自分の創造主たる者は親みたいなものだから、やはり他の人間との違いはあるのかもしれない。
(大事にされてたのかな)
不安などまったく抱いていない様子のサラを見て、私はなんとなくそう思った。
(……親、ね……)
目覚めの時からトラブルに見舞われた私は、そういった関係を認識する前に研究施設を出たのでいまいち理解し切れないでいる。
それは、生みの親である山崎博士を“親”と認識する前に“研究者”として覚えたからだろう。
本来なら十分な検査・学習期間をおいてから本格的に人間社会を学ぶはずなのに、人間並の感情を宿した事により異例とも言えるスピードでこの集団生活テストに移行していったから。
それ故に博士達に対する思いは他のクローニング・ヒューマニティより希薄なのだろう。
強い感情を持ったために大切なものをどこかに置き忘れたみたいな気がする。
人間とクローニング・ヒューマニティ、両者の違いがよく見えるから、その思いはより一層強く感じられた。
施設の昼休みは長い。昼食の他に入所者達のカウンセリングなどがあるためだ。
もちろん入所者全員がカウンセリングや検査などを受けるわけではないが、それでも一つ一つの時間が長いため昼休みの時間は三時間もあった。
他のクローニング・ヒューマニティ達は各々のロッカーから弁当やら何やら取り出すと休憩室を後にする。
ほとんどの者は食堂で昼食をとるのだ。
――施設に通うクローニング・ヒューマニティのほとんどは入所者と交流を『人間学習』の一環で行うものだとはっきり認識している。
彼女等にとって入所者は心に傷を持つ“患者”であり、また複雑かつあらゆる予測を覆す不可解な矛盾を引き起こす『感情』を人一倍内面に潜ませた“教材”でしかない。
つまり、それ以上の関係になる事はまずあり得ないのだ。
中にはベアトリーチェの様な例外もある事はあるが、それはかなり特異なケースであると言えよう。
私にはそんな風に慎君や他の入所者達を見る事はできない。こうして悩んでいるのもそのためだ。
(本来、クローニング・ヒューマニティに悩みなんて無縁なものなのに……これも、感情を宿しているから?)
隣に座るサラを見てみる。
遺伝子操作と強力な暗示によって感情制御された完全なクローニング・ヒューマニティである彼女に、私の悩みは理解できるのだろうか?
矢神博士のハートシステムなる感情学習プログラムを施されたサラ。いくらか感情を学習した彼女でも、この悩みの本当の意味が理解できるのかどうか、その横顔から知る事はできない。
気を使って無言で佇む彼女の豊かな表情を見ても、その感情が内から出るものでは無く、学習によって身に着けたものにしか見えなかった。
私の視線に気付いたのか、サラは振り向くと言葉をかけた。
「……レイさん、もし何でしたら山崎様に会ってみてはいかがです? 人間の事は人間に聞いてみるのが解決の近道かと思いますよ」
そう言うと柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔には優しさが満ちている。
「私にはまだレイさんの力になれるほど人間の心を知りません。慎さんの事なら、人生経験が豊富な博士達に伺うのがよろしいかと。特に山崎様は既婚者ですから、恋愛についてもいろいろと経験なさっているかと思います」
サラは私の手を取ると包み込む様に握ってきた。
「レイさん、人間とクローニング・ヒューマニティの両者の特色を持つあなたは、もしかしたら私達クローニング・ヒューマニティの希望なのかもしれません。ありきたりな言葉しか言えませんが、これも試練と思って頑張って乗り越えて下さい。そして、どうか私達の先駆者として人間との架け橋となって下さい」
真剣な眼差しを向けサラは思いを打ち明けた。
希望。
その言葉に私は、自分の置かれている立場がクローニング・ヒューマニティにとっても重要な位置にいる事を知った。
感情を持つという事。それはクローニング・ヒューマニティにとっては望めないものだ。
私の事情を知らぬ他のクローニング・ヒューマニティにとっても極めて重要なもの……それを宿した私に対するサラの思いが、私の心に強く響いた。