中庭にて
中庭に出ると、いつもの場所でいつもの様に本を読む少年の姿があった。
まるで精巧に造られた置物ではないか、と疑ってしまうほど生命の波動を感じさせないその姿に私は、本当に感情を喪失したのではないかと思わずにはいられなかった。
そう思うくらい慎君は微動だにしなかったのだ。
(……どうしようかしら……)
あまり迂闊な事は言えない。二人きりの会話とはいえ、午後のカウンセリングで福室主任達に筒抜けになる可能性は高い。
関係機関の監視が無い、と少し油断していたのかもしれない。味方と思っていた研究者達こそが警戒すべき相手だった事を私はすっかり失念していた――。
人間社会に生きる上で生活に支障の無い様、人間学習のためにこの施設で“介護”というかたちで人間と交流するクローニング・ヒューマニティ。
ふと思ったのだが、もしかしたら研究者達はこの施設での学習テストで何かしらの研究・実験を行っているのではないだろうか?
国際機関の監視も無く、また相手は人間に心を開かない者達。そのため、施設内の情報が外部に漏れる事はおそらく無い。
たとえ国際機関の監査官が査察に来たとしても、疑似とはいえマスターである博士達の不利になる証言をクローニング・ヒューマニティがするわけもないし、ましてや人に心を開かぬ患者達が監査官の質問に答える事はまずあり得ない。
これらを踏まえて考えてみると、研究者達が福祉施設で人間との交流を深めていく事によるクローニング・ヒューマニティの心の変化などを観察し、何かしらの実験―たとえるなら疑似恋愛など―を故意に行う事ができる。
(……研究者達はクローニング・ヒューマニティの生みの親。でも、決して人間の家族の様な深い絆で結ばれた関係ではない……)
という事は、客観的に見て非人道的な実験だって躊躇無くできるはず。つまり、慎君との交流も細心の注意を払って行わなければ、私と慎君の関係を滅茶苦茶にされる恐れもあるという事だ。
これからは軽はずみな発言は慎まなければいけない。
(……あまり深入りし過ぎない様に気をつけないと……)
私はゆっくりと慎君に近づく。
「――おはよう、慎君」
いつもと変わらない口調で挨拶をする。慎君は一瞬、ビクッと体を震わせて私に視線を向ける。
「……レイさん、おはよう」
私を認識すると慎君の顔に感情が宿っていく。
少しおどおどした態度ではあったが、思ったより元気がある様に見える。
もしかしたら昨日の事で傷ついていなかったのかもしれない。私の考え過ぎだったのかしら。
とりあえず反応が普通なので私はいつもの様に慎君の隣に座った。
「今日の一冊は何かな?」
これも、いつもと同じセリフ。そして、いつもと変わらぬ同じ口調で問いかける。
本当はもっと違う話もしたいが、あまり深入りしてはならない。そう思うと同じ言葉しか出てこないのだ。
「……今日のは『恋は虹色、愛はバラ色』っていう恋のお話。様々な恋のかたちを描いた、ちょっと大人のお話なんだ……」
そう言って、少し遠慮がちに視線を向ける慎君。その視線に熱い感情が宿っているのを私は見逃さなかった。
「……レイさん……昨日、あれからずっと考えたんだ。そして、答えが出たんだ……僕がレイさんに恋を教えてあげる……人を愛する気持ち、人間にとって一番大切なモノを教えてあげるよ……」
慎君は意を決した様に私ににじり寄って来る。
その目に宿るモノは、まるで狂気じみた獣の様に光っていた。
それを見た瞬間、私は身の危険を感じ身を強ばらせる。
慎君はそんな私の状況を知ってか知らずか、両手を肩に乗せると私を抱き寄せてきた……。
(――えっ?)
ああ、慎君の心がわからない。
何故?
人間不信、それも女性に対して重度の嫌悪感を持つ慎君が私を抱き寄せるの?
まさか、データファイルに入力された内容が偽物だったとか?
……いや、それはあり得ない。では、彼の行動をどう説明できる?
抱き締められた私は慎君の心が見えずに動揺していた。
「……レイさん、怖がらないで。何もしないから。ただ、この温もりを感じてほしいだけなんだ……」
私の体のかすかな反応を感じたのか、声を震わせ耳元で小さく囁く慎君。
私は静かに頷くと、優しく包み込まれる様に抱かれながら慎君の胸の鼓動が早鐘の様に鳴り響くのを感じていた。
この状況は研究者達には見せられない。私は不思議と慎君の行為よりも、研究者達に知られる事への不安の方が怖く感じていた。
何故だろう?
慎君の抱擁には性的なものを強く感じるのに。あまりにも突飛的な行動に私の思考回路が麻痺したのだろうか?
身の危険を感じながらも何故か抵抗する気になれず、私はしばらくの間慎君の腕の中でその温もりを感じていた――。