あなたを忘れる前に、婚約を解消してください
婚約解消の書類を差し出すと、ケインは笑った。
「結婚式まで、あと八日だよ」
「はい。だから今です」
寝台の脇には、裾をまだ縫い終えていない白い衣装が掛かっていた。彼が袖を通せるように、私は胸元の釦を少し大きく作り直している。指先に力が入らなくなって、昨日、小さい釦を二つ留め損ねたからだ。
ケインは書類を受け取らなかった。
「式を延ばすのなら、そう書けばいい」
私は机に紙を置いた。
「魂継ぎをします」
彼の笑顔が消えた。
窓の向こうには涸れ森が見える。三年前、あの森で迷った子を連れ戻したとき、ケインの手首に黒い痣ができた。去年は肘まで。今年の春には肩まで。今朝、着替えを手伝うと、肋骨に沿って黒い枝が伸びていた。
薬瓶は机に七本ある。どれも空だ。痛みを軽くすることはできた。枝を消せたものは、一つもなかった。
「君が、僕を忘れる術だろう」
「知っていたんですか」
「母上の書庫で読んだ。君には知られたくなかった」
隠したことを怒る時間が、惜しかった。
「私の薬の知識も、自分の名前も残ります。けれど、あなたと過ごしたことは全部なくなります。今朝の着替えも。初めて会った日も」
私は大きくした釦をつまんだ。
「あなたを知っている、という事実は教え直してもらえます。でも、好きだったことは、説明では戻りません」
「だから婚約を解く?」
「明日の私が、あなたの妻になると決めたわけではないので」
彼は私を見た。病人を見る目をしてほしくなかったのに、私のほうが先に目を逸らした。
「そんなことを頼めると思うか」
「頼んでほしいんです」
「僕を助けたあと、君をどうすればいい」
「それは、その私に聞いてください」
ケインは布団の上で拳を握った。握りきれない左手を、右手で包んだ。
「嫌だ」
私は書類を引っ込めた。
釦を留めて、冷めた湯を取り替えた。湯気に顔を隠すまで、泣かなかった。
*
魂継ぎの銀杯は、治療室の棚から消えていた。
ケインの母、宮廷治療師のミレイユ様は、私が開けた空の箱を見ても驚かなかった。
「私がしまいました」
「どこへ」
「教えません」
私は箱の縁に手をかけた。持ち上げて振れば、底に隠れた杯が転がるような気がした。何も鳴らなかった。
銀杯に二人の血を一滴ずつ落とし、術者が共有した記憶を注ぐ。それ以外の器では、呪いと記憶をつなぎ替えることができない。修行中に何度も写した術式だ。私は杯だけを写せなかった。
「息子を救うために、あなたを壊すことはできません」
「壊れるかどうかまで、決めないでください」
「私もそう言いました」
ミレイユ様は机に腰を下ろした。
「二十年前、あの人を救うとき」
ケインの父は、五年前に亡くなっている。家の肖像画では、ミレイユ様の肩に親しげに手を置いていた。
「ご存じだったのですね」
「術の後も、薬は作れました。息子の顔もわかった。夫だけが、知らない人でした」
私は立ったまま聞いた。
「夫は、私の好きだった菓子を持ってきました。二人で歩いた庭へ連れていき、ここで君はこう言った、と話しました。私は毎回、何かを思い出したふりをしました。生きていてよかったと言ってあげなければ、夫が死んでしまいそうだったから」
肖像画の笑顔を思い浮かべようとした。肩に乗せられた手だけが浮かんだ。
「それで、戻ったのですか」
「一度も」
ミレイユ様は指輪を外した。薬を量るときも外さない、細い指輪だった。
「三年目に別の家へ移りました。私が勝手な女だった、と親類は言います。息子も、父の最期には戻った母しか覚えていないでしょう」
手の上の指輪は、丸いままだった。
「レイル。命を返してもらった人は、その人まで返してもらいたくなるのです」
私は空の箱を閉じた。
「ケインに、今のお話をしていただけますか」
「余計に術を拒むでしょう」
「私も、知らないまま助けたくありません」
ミレイユ様は答えなかった。私はその日の薬を量りに、隣の部屋へ行った。
杯を盗む方法なら、夜までにいくつも考えられた。
ケインに、助かってほしいと言わせる方法は、一つも思いつかなかった。
*
夕方、彼は机に紙を広げていた。
「母上から聞いた」
私は薬を置いた。彼は飲む前に、紙を私のほうへ押した。
「術のあと、君をこの屋敷に縛らない。薬房の部屋はそのまま使っていい。僕は患者としてしか入らない。約束する」
紙には、彼の筆跡で日付が並んでいた。
術の翌日。名前を告げる。
三日後。庭を案内する。
七日後。蜂蜜入りの焼き菓子を届ける。
その次の週には、春祭りの橋。
私は指で日付を辿った。春祭りには、ケインが売り子の真似をして、指輪を包み紙に隠した。私が紙まで噛んだので、危うく飲み込むところだった。
あの日は、私のほうから彼の袖を引いた。
「レイル?」
「これ、私を思い出させる予定ですか」
「思い出さなくてもいい。もう一度、君に――」
ケインは言葉を止めた。
私は一番下の日付を見た。次の春祭りまで、線が引かれていた。
「会うたびに、まだかと思われるんですね」
「そんなことはしない」
「今のあなたに会いたくて、昨日、夜中に三度この部屋を覗きました。眠っているから帰りました。四度目には、起きていてくれないかと思いました」
彼は何も言わなかった。
「私だって、しないつもりのことをします」
日付の紙を破ると、ケインの肩が動いた。
婚約解消の書類は、破らなかった。
「明日の私に、今日の私の続きをさせないでください」
床の紙を拾おうとして、彼が咳き込んだ。私は紙を放し、背を支えた。
肩甲骨が指に当たった。去年、ここにはもっと肉があった。
薬を飲ませて、息が整うのを待った。
「卑怯だな」と彼が言った。
「はい」
「断れば死ぬ。受ければ君がいなくなる」
「私は、あなたに死んでほしくありません」
「君がそう願っていることまで、忘れるのか」
私は頷いた。
彼は顔を伏せた。私は背中から手を離せなかった。
*
夜明け前に呼ばれた。
ケインの部屋には、母親と、起こされたばかりの執事がいた。机の上の婚約解消の書類は、まだ署名欄が白かった。
「式を取りやめにした」とケインが言った。
執事の手には、招待客の名簿と、封の切られた祝電がある。
「君のせいで、と書くなと命じた。僕が決めた、と書かせた」
私は彼の口元を見た。昨日より唇が白かった。
「薬房も出られる。部屋代を取らないのは、見習いの勤務分を母上が払うからだ。君がここに残る理由は、僕以外にもあった」
ミレイユ様が、小さく頷いた。
「次の契約は、術のあとで、レイル自身と結びます」
ケインはペンを握った。書き始める前に、私を見た。
「生きたい」
私は近寄った。
「まだ君が好きだ。好きでなくなる約束はできない。忘れた君を見て、つらくないふりをする約束もできない」
ペン先が紙に触れ、止まった。
「でも、そのつらさを君に治してもらおうとはしない。君が、別の人と結婚しても」
彼はそこから先を言わなかった。
私は彼の右手に触れた。震えが、私の指に移った。
「私の名前を呼んでください」
「レイル」
「もう一度」
呼んでもらって、私は笑った。今のうちに、好きな声で呼ばれたかった。
彼が署名した。私は彼の隣に、自分の名前を書いた。執事は二人を見届け、紙を乾かした。
ミレイユ様が銀杯を持ってきた。
「使うかどうかは、まだ決められます」
私は杯を受け取った。掌に冷たく、思ったより重かった。
「使います」
*
窓を開けると、朝の空気が入った。
呪いが心臓に届かないよう、ミレイユ様がケインの肩に手を置く。術が終わるまでは、彼女の力も要る。
私は銀杯に血を落とした。ケインの指を刺す前に、彼が頷くのを待った。
彼の血が、私の血に触れた。
名前を呼び、思い出を一つずつ口にする。銀の底に映った二人の顔が、薄くなり始めた。
「裏庭の梨を盗んだこと」
「僕の家の梨だよ」
「厨房へ運ぶ前に食べたら、盗んだことになるんです」
彼は笑った。笑うと息が浅くなった。
「あなたが先に、私に謝ったこと」
治療師の弟子が果物を盗んだと知れれば、追い出されると思った。彼は自分が誘ったと言った。本当は、梯子を運んだのも、枝を揺すったのも私だった。
あのときの梨の味が、遠くなった。
ケインを知らなかった頃の私が、手前に戻ってくる。
「薬房の戸が、雪で開かなかったこと」
窓から出ようとした私を、彼が下で受け止めた。裾を踏んで、二人で転んだ。冷たかった。笑っているうちに、手袋を片方なくした。
床が一度、傾いた。
この人の手を、いつから握っていたのかわからなくなった。
ミレイユ様が私の肘を支えた。詠唱の続きを忘れるわけではない。自分の声で、続きを言った。
「春祭りの、包み紙のこと」
銀杯の縁が白く光った。
そこにいた男の顔が霞んだ。指輪を渡されたとき、何と答えたか、もう取り出せなかった。
最後に残ったのは、昨日の夜だった。
咳をしている彼の背に手を当て、次の息を待っていた。あの背中がずっと温かければいいと思った。何でもよかった。梨を盗まなくても、私の名前を呼ばなくても、私の知らない人を好きになっても。
私はその背中を、手放した。
握っていた手に脈が強く打ち、その人を抱きしめたかった理由が、なくなった。
銀杯を落としかけた。ミレイユ様が受け止める。
寝台には、私より少し年上らしい男がいた。濡れた顔で、こちらを見ている。
胸元がはだけていたので、上掛けを直した。素肌に、消えかけた黒い線があった。涸れ森の痣だ。術は、通ったらしい。
「レイル」
患者が私の名前を呼んだ。
「気分はいかがですか」
彼は目を閉じた。
私は顔色を見るために、屈んだ。
「痛むところは」
ミレイユ様が、私の肩に手を置いた。
「少し、待ってあげましょう」
私は身を起こした。窓辺に白い衣装が掛かっている。自分が縫ったらしい釦の形には、見覚えがあった。
誰が着るのかは、わからなかった。
*
六週間後、私は城下の薬房にいた。
術の前後を、ミレイユ様に何度も教わった。彼女と過ごした修行は覚えている。けれど、途中で息子さんが来たはずの時間は、穴になっていた。
彼を救うために私がしたことは、書類に書いてある。その頃の私が婚約解消を求めたことも。
私が選んだと教わった。納得できる日も、できない日もあった。署名欄の名前を何度見ても、その日の気持ちはわからなかった。
城の薬房に残る契約を断ったのは、私だ。屋敷の人たちは親切だった。けれど、廊下で会うたび、私の顔に昔のレイルを探した。覚えていない話の続きを求められるのは疲れた。ミレイユ様は一度だけ引き留め、それから昔の師匠に紹介状を書いてくれた。
新しい店の主人は、指を痛めていた。私が調合し、主人が値段をつける。婚約者がいた頃に何を望んでいたのかは知らないけれど、今の私は、この仕事が好きだった。
昼前、店の戸が鳴った。
ケイン様が立っていた。ひとりで歩いてきたらしい。息は少し上がっていたが、顔色はよかった。
「書類が戻ったので」
彼は机に封筒を置いた。領主府の印が押された、婚約解消の証書だった。
私は二人の名前と日付を確かめた。
「わざわざ、ありがとうございます」
「これで、終わりです」
彼の目が、店の奥の棚へ動いた。薬瓶の間に、白い布が置いてある。
「あれは」
「釦を切り取った残りです。ずいぶん上等な麻だったので、無駄にするのが惜しくて。瓶を拭くのに使っています」
布が何だったのかは、聞いていた。
私は、その話をしたほうがいいのか迷った。目の前の人にとっては、大事な物だったかもしれない。
ケイン様は棚から目を離した。
「いい布だから」
「釦は、店主の上着につけました。指が曲がりにくい方なので」
彼の唇が、少しだけ動いた。
「それは、留めやすいでしょうね」
私は椅子を勧めた。六週間前まで寝たきりだった人を、立たせておきたくなかった。
湯を沸かしながら、好みを尋ねた。
「蜂蜜は」
「少し」
私は彼の杯にだけ入れた。
「君は?」
「甘いお茶は、あまり」
ケイン様は、自分の杯を見た。私は、好みを覚えておいてくれる人がいるのだろうかと、少し気になった。それをこの人に聞く理由はなかった。
店主が奥から呼んだ。次の薬を量る時間だった。
「お仕事の邪魔をしたね」
「お茶、熱いのでお気をつけて」
私は証書を畳み、雇用契約や修了証と一緒に引き出しへしまった。
店へ戻ると、ケイン様は飲み終えた杯を机の端へ寄せていた。彼は立ち上がり、礼を言った。私も頭を下げた。
戸口で、彼が振り返った。
「レイル」
「はい」
私の名を確かめるように、一度口を閉じた。
「お元気で」
私は頷いた。
彼は、ひとりで通りを歩いていった。
見送ってから、大きな釦のついた上着を店主の肩へ掛けた。店主はゆっくりと釦を留め、今日は自分でできた、と笑った。
私は空いた杯を洗い、次の患者を呼んだ。




