第9話 認められたい
眠れていない自覚は、朝からあった。
それでも大丈夫だと思った。
思いたかった、の方が近いかもしれない。
宿舎の天井を見上げたまま、私は何度も寝返りを打った。まぶたを閉じるたびに、毒島の顔が浮かぶ。あの声、距離の詰め方、値踏みする目。思い出したくないのに、頭が勝手に再生する。
それを振り払うように起き上がり、水で顔を洗い、制服を着て、帽子を整えた。
鏡の中の自分は少し顔色が悪い。
でも、それだけだ。
「……行ける」
そう呟いたのは、自分に言い聞かせるためだった。
行ける。
行かなきゃいけない。
現場は、私の気分なんか待ってくれない。
◇
派出所に入った瞬間、空気がいつもより張っていた。
天候は曇り。峠付近は夜間の冷え込みでレール条件が読みにくい。貨物の時刻にも少し変更が入り、朝から詰所の時計の針だけが妙に早く感じる。
「神尾」
黒石先輩が呼ぶ。
「今日は宮城の後ろにつけ。構内の入換補助、その後、軽井沢方へ回送の添乗だ。気ぃ抜くなよ」
「はい!」
声は出た。
よかった、まだ普通に返事はできる。
でも、返事のあとに視界が一瞬だけ揺れた。
寝不足。
気のせいだと自分に言い聞かせる。
「顔色悪いな」
宮城先輩が帳票をめくりながら言った。
「平気です」
「平気じゃない奴ほどそう言う」
「でも動けます」
意地みたいな声だった。
宮城先輩はそれ以上何も言わなかったが、ちらっとこちらを見た目は、少しだけ厳しかった。
窓際にいた北斗先輩も、一度だけ私を見た。
その視線は短いのに妙に鋭くて、思わず背筋が伸びる。
「神尾」
「はい」
「無理だと思ったら早めに言え」
ただそれだけ。
「……はい」
反射で答えた。
でも心の中では、すぐに別の声が打ち返してくる。
言えるわけがない。
ここで
「無理です」
なんて言ったらどうなる。
結局まだ守られるだけの半人前だと、自分で認めることになる。
そんなの、嫌だった。
◇
午前の構内作業は、最初のうちは持った。
機関車の唸り。連結の確認。無線の短いやりとり。
こういう音の中にいると、余計な考えが少しだけ後ろへ下がる。
ホーム脇を歩きながら、私はレールの分岐、信号、作業員の位置を順に追った。
身体はまだ動く。
少し頭が重いだけだ。
このくらいなら、乗り切れる。
「神尾、ポイント確認」
「はい!」
「声が遅い」
「すみません!」
怒鳴られても、今日はそこまで堪えなかった。
むしろいつもの現場の音として身体に馴染む。
これなら大丈夫だ。
そう思ったのが、甘かった。
回送の添乗に出る直前、無線の呼び出し音が重なった。
構内の別線で入換に遅れ。駅側から確認要請。軽井沢方の進路変更。
細かい情報が一度に飛び込んでくる。
「神尾、そっち確認してこい!」
宮城先輩の声。
「はい!」
私は走った。
走りながら、頭の中で今の指示を整理しようとする。
信号はどうだった。
進路はどこまで取れていた。
次に見るべきは何だ。
――そして、その一瞬だった。
足元のレール際に置かれた工具箱の角を、私は見落とした。
「っ――!」
靴先が引っかかる。
身体が大きく前へ傾く。
咄嗟に手をついたが、帽子が飛び、膝をしたたかに打った。
痛い。
というより、恥ずかしい。
「神尾!」
誰かの声が飛ぶ。
私はすぐに立ち上がろうとした。
「だ、大丈夫です!」
大丈夫じゃない。
膝がじんじんする。手のひらも少し擦れた。
でも、それより嫌なのは、今の一瞬で周囲の目がこちらに集まったことだった。
「何やってんだ!」
黒石先輩の怒声が飛ぶ。
「すみません!」
「謝ってる暇あったら帽子拾え! 構内走るな、視野狭めるな、何度言わせる!」
「はい!」
帽子を拾う手が、少し震えていた。
転んだだけ。大した怪我じゃない。
なのに喉の奥が焼けるみたいに熱い。
周りの作業員たちはすぐに持ち場へ戻った。
誰も大げさにはしない。現場はそういう場所だ。
でも、それが余計に痛い。
私は目立つ形で、初歩的なミスをした。
ただそれだけで十分だった。
◇
その後の添乗でも、私は冴えなかった。
大きな失敗はしていない。
していない、はずだ。
でも、反応が半拍ずつ遅い。確認の声が一瞬詰まる。頭の中で組んだつもりの順番が、微妙にずれる。
それを一番、容赦なく炙り出したのは北斗先輩だった。
「神尾」
構内へ戻ったあと、機関車の脇で呼ばれる。
「今、何を見てた」
「え……信号と、進路と……」
「“と”でまとめるな」
低い声。
周囲に誰もいないのが、逆に苦しい。
「何を優先して見てた」
「……」
答えられない。
見ていたつもりだった。全部を見ようとして、たぶん何もきちんと見られていなかった。
「神尾」
北斗先輩の声が、ほんの少しだけ重くなる。
「現場で一番危ないのは、できてないのにできてる顔をする奴だ」
胸の奥に、そのまま刺さる。
「……すみません」
「謝るな」
「でも」
「謝って済むなら事故は起きない」
私は黙った。
その通りすぎて、何も返せない。
「寝てないな」
唐突に言われ、呼吸が止まる。
「……少し」
「少し、じゃない顔だ」
「でも動けます」
「さっき転んだ」
「それは」
言い訳が口に出かけて、止まる。
寝不足で。考え事していて。取材のことが頭に残っていて。
そういう言葉はいくらでも並ぶ。
でも全部、現場では意味がない。
「……私のミスです」
絞り出すように言うと、北斗先輩は静かに頷いた。
「そうだ」
その短い肯定が、妙に痛かった。
慰めない。
でも突き放すだけでもない。
現実をそのまま置いてくる。
「つらいのは分かる」
北斗先輩が続ける。
「だが、つらいことと、ミスすることは別だ」
「……はい」
「お前が何を抱えてても、レールは待たん。信号は待たん。列車も待たん」
私は拳を握った。
「はい」
「現場に立つってのは、そういうことだ」
分かっている。
分かっているつもりだった。
でも今、その言葉は、つもりの薄さごと剥がしてくる。
◇
昼休憩。
詰所の裏手で一人になった私は、冷えた缶茶を握ったまま動けずにいた。
転んだ瞬間が何度も蘇る。
工具箱の角。体勢の崩れ。飛んだ帽子。怒声。周囲の視線。
情けない。
あまりにも情けない。
「隣、いい?」
優香だった。
「……どうぞ」
優香は木箱に腰かけ、私の顔を見るなり眉を寄せた。
「ひどい顔」
「今日はそれしか言われない日なんですかね」
「自分でも分かってるでしょ」
「はい」
素直に答えるしかなかった。
「転んだって聞いた」
「聞くの早いですね」
「横川だよ?」
それで納得してしまうのがこの町だ。
どこで何があっても、妙にすぐ回る。
「怪我は?」
「大したことないです」
「心の方は?」
その聞き方に、私は一瞬だけ笑いそうになって、すぐ笑えなくなった。
「……大したことあるかもしれないです」
優香は何も急かさず、缶コーヒーを開けた。
「私、最近ずっと、守られるだけじゃ嫌だって思ってたんです」
「うん」
「先輩の後ろにいるだけじゃ嫌で。隣に立ちたくて」
「うん」
「なのに今日、こんな初歩的なミスして」
喉が詰まる。
「守られる側とか以前に、現場に立つ資格ないんじゃないかって思いました」
言ってしまうと、急に現実味が増した。
資格がない。
大げさな言い方じゃない。現場で判断が遅れたり、足元を見落としたりすることは、ただ危ないだけだ。
「それは違う」
優香がすぐに言った。
「違いますか」
「違う。資格がないんじゃなくて、今はまだ足りてないだけ」
「同じみたいなものです」
「全然違うよ」
優香はきっぱりしていた。
「資格がないって言葉で自分をまとめるの、楽だから」
私は黙る。
それは図星だった。
“向いてない”“資格がない”と大きい言葉でまとめてしまえば、今の失敗とちゃんと向き合わなくて済む。少なくとも少しは。
「悔しいんでしょ?」
「悔しいです」
「じゃあ、まだ終わってない」
優香はそれだけ言って、缶コーヒーをひと口飲んだ。
「悔しくなくなったら、本当に危ないよ」
◇
午後、派出所の片隅で古い資料箱を運んでいると、南波さんに呼び止められた。
「神尾ちゃん」
「はい」
「ちょっと来い」
整備ピットの脇。
南波さんは油で黒くなった手袋を外し、EF63の台車を軽く叩いた。
「今日転んだんだって?」
「……はい」
「そりゃ転ぶ日もある」
あまりにもあっさり言うので、私は拍子抜けした。
「もっと怒られるかと思いました」
「怒るのは現場で十分だ」
南波さんは鼻を鳴らす。
「ただな。転ぶのは一回で覚えろ。二回目は洒落にならん」
「はい」
「あと、“怖い”を誤魔化すな」
私は顔を上げた。
「誤魔化す?」
「眠れてない顔は、だいたい頭の中で何かが暴れてる顔だ。怖かったんだろ、あの取材の件」
言い当てられて、言葉が詰まる。
「……はい」
「そりゃ怖いさ。嫌なもんは嫌だ」
南波さんはさらりと言った。
「でもな、怖いからって身体の感覚まで持ってかれると危ない。レールは人の事情なんか知らん」
さっき北斗先輩に言われたことと、同じ方向の言葉だった。
「現場の人間は、怖いもんをなくすんじゃない。抱えたまま動けるようになるしかない」
南波さんは台車の横にしゃがみ込む。
「ロクサンだって同じだ。重いもん背負って、滑りそうになって、それでも噛んで進む」
その言い方は、説教というより昔からそこにある理屈みたいだった。
「神尾ちゃん」
「はい」
「お前、先輩に守られるの嫌なんだろ」
「……はい」
「だったら、“助けられない自分”に酔ってる暇はないぞ」
どきりとした。
酔っている。
たしかに少し、そうだったのかもしれない。
失敗した自分に浸る方が、次に何を直すか考えるより楽だ。
「……はい」
「次は足元見ろ。視野広く持て。寝ろ。以上」
乱暴なまとめ方に、思わず少しだけ笑ってしまった。
「最後が雑です」
「大事なことほど雑に言うんだよ」
「ほんとですか」
「知らん」
その適当さが、逆にありがたかった。
◇
夕方の運転台は、少しだけ冷えていた。
私は補助席に座り、前方を見ていた。
今日最後の確認乗務。短い距離だが、気は抜けない。
隣には北斗先輩。
無駄なことは何も言わない。
だからこそ、車内に流れる音が妙にはっきり聞こえる。モーターの唸り、レールの継ぎ目、ブレーキの空気音。
「神尾」
「はい」
「次の信号、言え」
「進行、制限なし」
「その先」
「分岐あり、進路右、作業員位置は――」
今度は詰まらなかった。
完全ではない。
でも、少なくとも朝よりは頭が静かだ。
「足元」
「確認済みです」
「よし」
短い一言。
それだけで、少しだけ背筋が伸びる。
私は前を見たまま、ぽつりと言った。
「先輩」
「何だ」
「私、守ってほしいんじゃないです」
「知ってる」
「認められたいんです」
口に出した瞬間、胸の奥の形がはっきりした。
守られることが嫌なのではない。
守られて安心するだけの自分で終わるのが嫌なのだ。
この人に、現場の人たちに、横川に。
ちゃんと必要な人間だと認められたい。
「今日、転んで」
「……」
「ほんとに悔しかったです。怖かったことも、寝れてなかったことも、全部言い訳になるって分かって」
北斗先輩は黙って聞いていた。
「だから、次はちゃんとやりたいです」
そこでようやく、北斗先輩がこちらを見た。
「それでいい」
それだけだった。
でも、その一言は今日いちばん欲しかった言葉かもしれない。
「神尾」
「はい」
「認められたいなら、まず自分で自分を甘やかすな」
「……はい」
「失敗した日は、反省しろ。だが、そこに居座るな」
私は小さく頷いた。
「はい」
「次で返せ」
短い。
でも、その言葉が前を向かせる。
次で返す。
現場は、そういう場所だ。
一度の失敗を帳消しにはしてくれないが、次の一歩を奪うわけでもない。
◇
夜、宿舎の机に向かって、私はノートを開いた。
今日の失敗を書き出す。
ーー寝不足
注意散漫
視野が狭い
足元確認不足
指示の優先順位整理が遅い
書いていくと、少しずつ腹が据わってくる。
“向いてない”とか“資格がない”とか、そういう大きすぎる言葉に逃げなくて済む。具体的に直すべきことが見える。
最後の行に、私はゆっくり書いた。
ーー守られたいんじゃない。認められたい。
書き終えて、しばらくその文字を見つめる。
認められたい。
先輩に。現場に。町に。
そしてたぶん、自分自身にも。
そのためには、助けられた悔しさに浸っているだけじゃ駄目だ。
失敗した痛みを、次の注意力に変えなければ意味がない。
窓の外で、夜風が少しだけ木を鳴らした。
機関庫の灯りが遠くに見える。
私はペンを置き、深く息を吐く。
悔しい。
情けない。
でも、まだ終わっていない。
次に同じ景色の中へ立つ時、今日よりはましな自分でいたい。
そしていつか、隣に立ってもいいと、誰かに、そして自分に言えるようになりたい。
そのために、まずは寝る。
今の私に必要なのは、ドラマチックな決意より、たぶんそっちだ。
私はノートを閉じ、布団に入った。
目を閉じる直前、最後に浮かんだのは、夕方の運転台で聞いた一言だった。
ーー次で返せ。
そうだ。
次で返す。
そのために、もう言い訳はしない。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




