第7話 峠の町の、忙しすぎる一日
朝五時半の横川は、まだ薄青かった。
山の輪郭が空に溶けて、駅前の屋根には夜露が残っている。空気は冷たいのに、どこか湿り気があって、息を吸うと鼻の奥に草と土の匂いが入ってくる。
そしてその匂いの中に、もうひとつ混じっていた。
醤油と出汁の甘い匂い。
炊きたての米の匂い。
駅前を包む、釜めしの匂いだ。
「……お腹すいた」
思わず呟いた声に、隣を歩いていた宮城先輩が鼻で笑った。
「着いて三秒でそれか」
「だって匂いが反則です」
「朝飯食ってないのか」
「食べました。でも別腹です」
「朝から図々しいな」
今日は休日ダイヤに合わせた繁忙日。観光シーズンの入口で、横川駅周辺は早朝から慌ただしい。機関区の仕事自体はいつも通りの点検や構内補助が中心だが、駅前全体が忙しくなるぶん、人手の足りないところへ派出所の人間まで駆り出される。
最初にその話を聞いた時、私は
「機関士見習いが駅前の手伝いまで?」
と顔に出してしまったらしい。
黒石先輩に
「人が足りないっつってんだろ!」
と怒鳴られて終わった。
横川では、誰かの仕事と誰かの仕事の境界が少し曖昧だ。
いや、曖昧というより、みんなで食い破っている感じがある。
「神尾、お前は午前中おぎのや手伝い、そのあと駅前案内に回れ」
「はい」
「顔に『なんで私が』って出てるぞ」
「出してません」
「出てる」
宮城先輩に即答される。
少し悔しい。
「だって、機関区の仕事じゃないじゃないですか」
「横川の仕事だ」
その言い方が、なんだかこの町らしかった。
◇
おぎのやの売店裏は、戦場だった。
「はい次! 釜めし四つ!」
「お茶つけますかー!」
「そっちの包み紙足りない!」
「神尾ちゃん、そこ立ってると邪魔ー!」
「すみません!」
怒号ではない。
でも、機関庫とはまた違う種類の圧がある。
厨房からは湯気が上がり、木箱が積まれ、次々に出来上がった釜めしが運ばれていく。エプロン姿の優香はその中心で、まるで指揮者みたいに動いていた。
「三番の会計お願い!」
「お待たせしました、熱いのでお気をつけください!」
「お子さんいるからスプーンつけて!」
「神尾ちゃん、袋じゃなくて紙ひも!」
「はいっ!」
私は釜めしを包もうとして袋に手を伸ばし、優香に即座に修正される。
この人、接客になると別人みたいだ。
「……すご」
思わず漏れた。
「何か言った?」
「いえ! なんでも!」
優香は忙しいくせにちゃんと聞こえていた。恐ろしい。
一番列車が着くたびに客が流れ込み、売店前には列ができる。みんな笑っているわけじゃない。急いでいる人もいる。子どもがぐずる。釣り銭で手間取る。注文を間違えられたと不機嫌になる客もいる。
その全部に、優香は表情を切り替えながら対応していく。
私は隣で箱を運びながら、それを見ていた。
優しいだけじゃない。
明るいだけでもない。
あの人は、客の顔色も流れも空気も全部見て、町の入口を支えている。
「神尾ちゃん、お箸!」
「はい!」
「違う、その右!」
「え、こっち……あっ」
慌てて掴んだ束を落としかけて、私はぎりぎりで支えた。
優香が一瞬だけこちらを見て、吹き出しそうになるのを堪える。
「機関車より箸の方が苦戦してない?」
「否定できません……!」
「大丈夫、最初はみんなそう」
「みんなじゃないですよね絶対」
「まあね」
さらっと認められて少し悔しい。
でも、そのやり取りをしながらも優香の手は止まらない。
「お待たせしました! 次のお客様どうぞー!」
声が明るく通る。
その明るさが作り物じゃないことを、近くにいるとよく分かる。疲れていても、嫌な客がいても、町の顔として立つ覚悟がある声だ。
私は釜めしの木箱を抱えながら、妙に納得していた。
この人は、機関車に乗れない代わりに、別の形で横川を押している。
◇
昼前、ようやく客足が一段落した頃には、私の腕は小刻みに震えていた。
「……しんど」
木箱を下ろした瞬間、腰に鈍い疲れが走る。
「お疲れさま」
優香がタオルと麦茶を差し出してきた。
「ありがとうございます……」
「顔が終わってる」
「朝から何回も言われてますそれ」
「でも頑張ったじゃん」
そう言われると、単純に少し救われるから悔しい。
「優香さんって、ほんとすごいですね」
「何急に」
「だって全然止まらないし。お客さんの顔見て声変えてるし、釣り銭ミスしないし、子どもにもおじいちゃんにも同じように笑ってるし」
「褒めてる?」
「かなり」
優香は麦茶をひと口飲んで、照れくさそうに笑った。
「仕事だからね」
「私、前に“笑って立つのも仕事だ”って言われた時、正直ちょっと分かったつもりになってたんですけど」
「うん」
「今日見て、全然分かってなかったなって思いました」
優香は少しだけ黙って、それから肩をすくめた。
「そっちだって同じでしょ」
「え?」
「私、機関車のことは全然分かんないもん。運転台の中の緊張とか、坂を押す時の重さとか、そういうのは想像するしかない」
私は言葉を失う。
「お互い、自分の場所でしか分からない大変さがあるよ」
優香はタオルで額をぬぐいながら続けた。
「でもさ、その場所が全部つながって、ようやく横川なんだと思う」
その言葉は、変に飾っていないのに重かった。
横川は、機関区だけじゃない。
駅だけでもない。売店だけでもない。
釜めしの湯気、案内所の笑顔、整備士の油まみれの手、駅員の声、ホームの汽笛。全部がつながって、この町を作っている。
私は麦茶を飲み干した。
「……なんか、悔しいです」
「何が?」
「私、自分のことでいっぱいいっぱいで、横川のこと好きだって言いながら、見えてる範囲が狭かったなって」
優香は笑った。
「それはしょうがないよ。まだ来たばっかりだし」
「でも、ちょっと嫌です」
「向上心あって結構」
「その言い方、北斗先輩みたいですね」
「やめてよ、全然嬉しくない」
思わず二人で笑ってしまう。
笑ったあとで、私はふと駅前を見た。
木箱の湯気が立ちのぼり、客が行き交い、ホームでは列車が短く笛を鳴らしている。
忙しくて、騒がしくて、きれいに整ってなんていない。
でも、その雑多さが妙に愛おしかった。
◇
午後は駅前の案内所に回された。
観光マップを並べ、乗り継ぎを説明し、バス時刻を聞かれ、眼鏡橋への行き方を答える。最初は
「なんで私が」
と思っていたくせに、客が
「助かった」
と笑うたび、仕事として普通に成立しているのが分かってしまう。
「すみません、碓氷峠ってどっちですか?」
「こちらの道をまっすぐ行って、途中で右に――」
「バスは何分後?」
「あと十五分です」
「釜めしはもう売り切れ?」
「追加分が今ちょうど……」
気づけば、私はかなり自然に動いていた。
もちろん、現場とは違う。
でも、
“ここに来た人が困らないように支える”
という意味では、どこか近い。
「神尾」
低い声に振り向く。
北斗先輩だった。制服姿のまま、案内所の脇に立っている。なんでこの人は毎回こう、気づいたら視界にいるんだろう。
「何ですか」
「乗り継ぎ表、上下逆だ」
「えっ」
慌てて見れば、本当だった。
顔が一気に熱くなる。
「うわ……すみません」
「謝る相手が違うだろ」
「ですよね……」
私は慌てて表を直した。
「いつからですか」
「三分前」
「もっと早く言ってください!」
「見てた」
「何をですか!」
「お前がいつ気づくか」
「性格悪い!」
そう言い返すと、北斗先輩は少しだけ口元を歪めた。
笑った、気がする。気のせいじゃないと思いたい。
「でも」
私は表を直しながら言う。
「案外、嫌いじゃないです。こういうの」
「そうか」
「意外でした?」
「少し」
「先輩も顔に出てますよ」
「出してない」
「出てます」
言いながら、私は小さく息を吐いた。
「……人が来て、困って、道を聞いて、ちゃんと帰っていくのを見ると、これも横川を回してるんだなって」
北斗先輩は黙って聞いている。
「今さらですけど」
「今さらでいい」
その返しが意外と優しくて、少しだけ言葉が詰まった。
「神尾」
「はい」
「横川を好きだと言うなら、機関車だけ見てても駄目だ」
「……はい」
「町ごと見ろ」
短いのに、妙に重かった。
私は頷いた。
この人はいつも肝心なところだけを雑に真ん中へ投げてくる。
拾うのが大変なのに、拾ってしまうとちゃんと自分の中に残る。
◇
夕方、案内所の電話が鳴った。
観光会館からの連絡かと思って受話器を取ると、聞き覚えのある声が耳に入った。
『あずさ?』
母だった。
心臓が嫌なふうに跳ねる。
「……何」
『今いい?』
「仕事中」
『少しだけ』
その“少しだけ”が少しで済んだことなんてない。
でも切るほどの勇気も、すぐには出なかった。
『親戚から聞いたの。横川でまた何か人前に出てるんですって? そんなに目立ちたいの?』
私は目を閉じた。
またそれだ。
勝手に話を作る。勝手に意味をつける。
『女の子なんだから、もっと落ち着いた仕事を選べばよかったのに。駅で案内とか売り子さんならまだしも、どうしてそんな危ない――』
「今、その“駅で案内”してる最中なんだけど」
つい低い声が出た。
『え?』
「案内も売店も、町を回してる仕事だよ。“まだしも”とか言わないで」
自分でも少し驚いた。
前なら、自分の仕事を否定されることにしか反応しなかったはずだ。
でも今は違った。
優香の顔。
売店の湯気。
案内所で困っていた客の顔。
それが頭に浮かんで、勝手に言葉になった。
「機関車だけじゃ横川は回らないの。駅だって店だって人だって、みんなで回してるんだよ」
受話器の向こうで、母が黙る。
「……あんた、そんな言い方」
「ごめん、もう切る。忙しいから」
『あずさ――』
「じゃあね」
受話器を置く。
手が少し震えていた。
でも、前みたいにただ息が詰まるだけじゃない。
腹は立つ。ざらつく。
それでも、今の私は、何を守りたくて怒っているのかが少し分かる。
「顔、最悪」
振り向くと、いつの間にか優香が立っていた。
「聞いてたんですか」
「ちょっとだけ」
「最悪ですよね」
「うん、相手がね」
即答だった。
私は思わず吹き出してしまう。
「優香さん、そういうとこ好きです」
「でしょ」
「自分で言うんだ」
「言うよ」
優香は案内所の机に肘をついて、私を見る。
「でも、今のあずさちゃん、ちょっと良かったよ」
「何がですか」
「自分のことだけじゃなくて、ちゃんと横川全体のこと庇ってた」
私は一瞬、言葉を失った。
「……そんなつもり、あったのかな」
「あったから出たんでしょ」
優香の言い方は軽いのに、胸に落ちる。
そうかもしれない。
私はさっき、自分の進路や意地のためだけに怒ったんじゃない。
この町の仕事を軽く言われたことに腹が立った。
それはたぶん、前とは少し違う。
◇
日が傾き、駅前の人波がようやく薄くなった頃、私は売店裏の木箱に腰かけていた。
足が重い。肩も痛い。
でも、疲労の中に妙な充実感があった。
空気の中には、まだ釜めしの残り香がある。
ホームの向こうでは列車がゆっくり出ていき、車輪の音が山あいに吸い込まれていく。
「座ると終わるぞ」
低い声。
見なくても分かる。
「もうほぼ終わってます」
北斗先輩がすぐ横に立っていた。缶コーヒーを一本、無言で差し出してくる。
「……ありがとうございます」
「今日は少し役に立ったな」
「少しですか」
「箸よりはマシだった」
「それ比較対象にするのやめてください」
缶の温かさが、疲れた手にちょうどいい。
「先輩」
「何だ」
「今日、変でした」
「何が」
「朝は“なんで私が”って思ってたのに、途中から普通に必死で動いてて」
北斗先輩は何も言わない。
「売店も案内所も、現場とは全然違うのに、でも、どっちも横川を支えてるんだなって分かって」
缶を両手で包み込みながら、私はぽつりと言った。
「私、ここを“逃げ込んだ場所”だと思ってたんです」
言ってから、自分でも少し驚く。
「でも今日、違うかもって思いました」
「……」
「ここ、守る側にも回りたいです」
静かな風が吹いた。
ホームの向こうで誰かが笑っている声がする。
北斗先輩は少しだけ目を細めた。
「やっとか」
「やっとって何ですか」
「そのくらいでいい」
相変わらず言い方は雑だ。
でも、今は嫌じゃなかった。
「神尾」
「はい」
「守りたいなら、もっと見ろ」
「町ごと、ですよね」
「そうだ」
私は頷いた。
機関車だけじゃない。
町ごと。人ごと。匂いごと。騒がしさごと。
そうやって全部抱えて初めて、横川なのだ。
優香が店じまいの片付けをしながらこちらに手を振ってくる。
黒石先輩の怒鳴り声が遠くで響く。
宮城先輩が誰かと笑っている。
整備士たちの油まみれの手が見える。
駅の放送が、少し間の抜けた声で次の列車を告げる。
どれも雑然としていて、完璧とは程遠い。
でも、その不格好さごと愛おしいと思った。
私は缶コーヒーをひと口飲み、夕暮れの横川駅前を見渡した。
「……守りたいです」
今度は、ちゃんと自分に聞こえるように言った。
逃げ場だからじゃない。
居心地がいいからだけでもない。
ここで働く人たちが、ちゃんと好きだからだ。
ここがなくなるのは嫌だ。
この騒がしさも、匂いも、やたら不器用な優しさも、なくなってほしくない。
その感情が、自分の中で初めてはっきり形を持った。
北斗先輩は何も言わなかった。
でも、否定もしなかった。
それで十分だった。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




