第6話 偽物の夢はいらない
高崎駅のコンコースは、朝からやたらと明るかった。
照明が明るいわけじゃない。
人の顔が明るい。
ポスターも、看板も、流れているBGMまで、全部が
「イベントです」
という顔をしている。
中央通路の一角には特設ステージが組まれ、背後のパネルには大きく書かれていた。
ーーようこそ、碓氷峠ロマンフェアへ!
ロマン。
便利な言葉だ。
手の汚れも、眠れない朝も、凍える運転台も、怒鳴り声も、油まみれの作業着も。
全部その一語で包んで、綺麗にしてしまう。
「神尾さん、こちらお願いします!」
観光企画会社の若いスタッフが、満面の笑みで手を振ってくる。
私は返事だけして、指定された位置へ歩いた。
歩きながら、自分の制服の袖口をそっと指でなぞる。
今日は本物の作業服ではない。
イベント用に少し見栄えを整えた制服。帽子も、手袋も、全部が
“見せるため”
に選ばれている。
それが嫌でたまらないくせに、私はそれを着てここに立っている。
「すみません、立ち位置を少し右に」
「笑顔、お願いします」
「もう少しだけ柔らかく」
「そうそう、可愛いです!」
最後の一言で、胃のあたりが冷たくなる。
私は、笑顔の形だけを作った。
可愛い。
その評価が悪いわけではない。
でも、その言葉が最初に来るたび、今ここに立っている
“機関士見習いの私”
が少しずつ削られていく感じがした。
「顔、固いわよ」
背後から志織の声。
振り向くと、今日も完璧だった。高崎側の案内役として呼ばれているらしく、洗練された制服姿で人波の中に立っているだけで目を引く。
「志織さんは、よく平気ですね」
「平気じゃないわ」
「そう見えません」
「そう見せてるの」
志織は私の襟元を一度見て、帽子の角度をほんの少しだけ直した。
「今日のあなたは、“嫌です”って顔が出すぎ」
「嫌ですから」
「知ってるわ」
志織は淡々としていた。
「でも、嫌だと思いながらも前に立ってるなら、それを顔以外で示しなさい」
「顔以外で?」
「言葉とか、立ち方とか、目とか」
そこで少しだけ口元を緩める。
「あなた、怒ってる時の方が目が強いもの」
「褒めてます?」
「半分だけ」
そう言い残して、志織は来客対応の輪の中へ戻っていった。
あの人は本当に腹が立つ。
でも、腹が立つだけで終わらないのが厄介だった。
◇
イベントは、想像していたよりずっと軽かった。
高崎管理局の広報担当。観光ポスターの撮影。地元タレントの司会。鉄道グッズ販売。子ども向け制服試着コーナー。
そこに、
「峠の現場から来た若き機関士見習い」
として私が組み込まれている。
配置としては、きれいだ。
だからこそ、気持ちが悪い。
「神尾さん、こちらで一緒に手を振ってください」
「はい」
「次はお子さんと記念撮影お願いします」
「はい」
「その後、トークステージで“夢を追う女性”としてコメントを」
「……はい」
夢を追う女性。
言葉だけ切り取れば聞こえはいい。
でも中身は、現場の匂いを全部抜いた薄い包装紙みたいだった。
私はずっと、喉の奥に小さな棘が刺さったみたいな感覚を抱えたまま動いていた。
子どもに笑いかける。
親に会釈する。
司会に話を振られれば、短く答える。
やれと言われたことはやる。
逃げる気はない。
でも、やるたびに何かが削れていく感じがした。
「お姉さん、ほんとに電車うごかすの?」
制服姿の男の子に聞かれて、私はしゃがみ込んだ。
「まだ見習いだけどね」
「かっこいい!」
そのまっすぐな目だけが、少し救いだった。
「ありがとう」
「おねえさん、アイドルなの?」
横にいた女の子が無邪気に言った。
その瞬間、笑顔が少しだけ固まったのが自分でも分かった。
母親が慌てて
「違うのよねえ」
と笑って取り繕う。
でも、子どもに罪はない。
このイベントが、そう見えるように作られているだけだ。
「……アイドルじゃないよ」
できるだけ優しく言ったつもりだった。
「じゃあ何?」
私は一瞬、答えに詰まった。
何だ。
今ここに立っている私は、何だ。
機関士見習い。
もちろんそうだ。
でも、この場ではその輪郭が妙に曖昧になる。
「……列車を助ける人」
それでも、そう答えた。
男の子が目を丸くする。
「たすけるの?」
「うん。坂をのぼる時、後ろから押すの」
「すげー!」
子どもはそれだけで、ちゃんと目を輝かせた。
その反応の方が、下手な広報資料よりずっと正しかった。
でも、その小さな救いも、すぐ次の仕事の波に飲まれていく。
◇
昼前。
舞台袖で司会進行表を確認していた私は、紙に印字された次のコーナー名を見て、思わず固まった。
ーー碓氷のアイドル機関士・神尾あずささんスペシャルトーク
「……誰が?」
口に出ていた。
近くにいた広報担当が明るく笑う。
「神尾さんですよ。親しみやすく、華やかに、でも頑張ってる感じでいきましょう!」
「頑張ってる感じって何ですか」
「実際頑張ってるじゃないですか」
「そういう話じゃなくて」
私の声が少し低くなる。
担当者は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに営業用の笑顔を貼り直した。
「神尾さん、気持ちは分かります。でも、伝わりやすさって大事なんです。専門的な話ばかりだと一般のお客様は離れますから」
「だから、アイドル機関士?」
「入口としては強いです」
「私は入口じゃありません」
担当者が黙る。
「私は、看板でも飾りでもありません」
「神尾さん」
少し離れたところから、低い声が飛んできた。
北斗先輩だった。
今日は高崎側の運行打ち合わせに来ているだけのはずなのに、なぜかこういう最悪のタイミングで必ず視界に入る。
「こちらへ」
短く呼ばれ、私は唇を噛んで従った。
コンコース脇の人気の少ない通路まで来たところで、北斗先輩が立ち止まる。
「顔に出すな」
第一声がそれだった。
「出ますよ」
「出すな」
「無理です」
「無理じゃない」
いつも通りの調子。
その平然さが、今は余計に腹立たしい。
「先輩は、これでいいんですか」
「よくはない」
「じゃあ何で止めないんですか」
「止めてどうする」
北斗先輩は私を見る。
「今日ここで中止にして、明日から貨物が増えるのか。横川の仕事が戻るのか」
「……」
「戻らないなら、必要なことをやるしかない」
正しい。
また、それだ。
この人の言うことは、腹が立つほど正しい。
「でも」
喉の奥から言葉が出た。
「私、こんなののために横川にいるんじゃない」
「知ってる」
「だったら!」
「だから耐えろ」
短く切られて、私は黙った。
耐えろ。
その言葉ばかりだ。
庇ってはくれない。逃がしてもくれない。ただ、立っていろと言う。
「先輩は」
私は低く言った。
「先輩は、私がここで笑って立ってるだけでも平気なんですか」
北斗先輩はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「平気じゃない」
「……」
「でも、お前が本当にそれだけで終わるとは思ってない」
その一言だけで、心臓が少しだけ強く打った。
「なら、終わるな」
北斗先輩はそれだけ言って、先に歩き出した。
置いていかれた気分になりながら、その背中を見る。
守ってはくれない。
でも、信じていないわけでもない。
その不器用さが、どうしようもなくずるかった。
◇
ステージの時間が来た。
司会の軽妙な声がコンコースに響く。拍手。笑顔。観客の期待。
私は舞台袖で、爪が掌に食い込むほど拳を握っていた。
「それでは皆さま、お待たせしました! 碓氷峠の現場からやってきた、話題の若き機関士見習い――神尾あずささんです!」
拍手。
眩しい照明。
私は足を動かし、ステージ中央へ出た。
笑って。
礼をして。
指定の位置に立つ。
顔は作れる。
声も出せる。
でも胸の奥では、何かがずっと軋んでいた。
「神尾さん、今日はよろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
「いやあ、会場でも大人気ですよ。可愛いですし、制服も素敵ですし、まさに“峠のアイドル”という感じで――」
その瞬間だった。
何かが、切れた。
ほんの細い糸みたいなものが、音もなく切れた感覚。
そのあとに来たのは、恐怖じゃなかった。
怒りだった。
「違います」
マイクを握ったまま、私は言った。
司会が一瞬止まる。
客席もざわつく。
「え?」
「違います」
私はもう一度、今度ははっきり言った。
「私は、アイドルじゃありません」
コンコースの空気が一段、冷えた気がした。
広報担当の顔が青ざめるのが見えた。
舞台袖で誰かが
「ちょっと」
と小さく声を漏らす。
でも、もう止まらなかった。
「私は機関士見習いです」
マイクを握る手が熱い。
震えているのに、声は思ったより真っ直ぐ出た。
「手も汚れます。制服も汚れます。綺麗に笑ってるだけの仕事じゃありません」
静まり返った客席の中に、子どもの咳払いだけが小さく響く。
「列車が峠を越える時、後ろで押してる人間がいます。見えないところで、滑らないように、止まらないように、ひたすら踏ん張ってる人間がいます」
喉が熱い。
でも、この熱をもう抑える気はなかった。
「今日ここで、夢とかロマンとか、そういう綺麗な言葉ばかり並べられてきました」
司会が青い顔でこちらを見ている。
広報担当が舞台袖で動く。
志織が客席の端で、じっとこちらを見ている。
「でも、私たちの仕事は、そんなに綺麗じゃない」
その瞬間、自分の中の何かが、ようやく本当の位置に戻った気がした。
「偽物の夢なんて、いりません」
客席がどよめく。
私は前を見た。
奥の柱のそばに、北斗先輩がいた。腕を組み、顔ひとつ動かさずに立っている。
「綺麗に飾られた“頑張ってる女の子”じゃなくていいんです」
マイクを持つ手に、力を込める。
「泥だらけで、汗だらけで、見えないところで押してる。それが私たちの仕事です」
ここで一拍置く。
息を吸う。
腹の底から言葉を引きずり出す。
「これが、私たちのリアルです」
言い切った瞬間、コンコースに完全な沈黙が落ちた。
やってしまった。
頭のどこかでは冷静にそう思う。
終わったかもしれない。
怒られる。たぶんものすごく怒られる。企画だって台無しだ。
でも、不思議と後悔はなかった。
私はようやく、自分の言葉で立てた。
◇
最初に拍手したのは、年配の男だった。
鉄道好きらしい帽子を被った客が、ゆっくり手を叩く。
それに引かれるように、ぱら、ぱらと拍手が広がる。
熱狂じゃない。
でも、確かに本物の拍手だった。
司会は状況を掴みきれず、少し引きつった笑顔のまま立っている。
広報担当は頭を抱えそうな顔だ。
でも、客席の何人かは、明らかにさっきまでとは違う目をしていた。
「……すげえ」
どこかで、そんな呟きが聞こえた。
ステージ袖では宮城先輩が腕を組んでいた。
目が合うと、ほんの少しだけ顎を引く。
それだけだったが、十分だった。
志織は客席の端で静かに拍手していた。
その表情は相変わらず読みづらい。けれど、少なくとも軽蔑ではなかった。
そして北斗先輩は。
何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに目を細めた。
それだけで、私は自分が転んでいないことを知った。
◇
イベント終了後。
案の定、裏ではちょっとした騒ぎになった。
「神尾さん、あの場であの言い方は……!」
「すみません」
「いや、すみませんじゃなくてですね……!」
広報担当が頭を抱える。
怒っている。ごもっともだ。
私は謝るしかない。
でも、謝りながらも、自分の中に奇妙な静けさがあった。
「彼女の言い方は荒かったですけど」
志織が静かに割って入った。
「嘘は言っていません」
広報担当が言葉を詰まらせる。
「ただ、企画の意図としては……」
「企画の意図と、現場の誇りがずれていたのなら、そこは直すべきです」
志織の声は冷静だった。感情的に庇っているわけではない。
だからこそ重い。
「今日、立ち止まって聞いていたお客様の顔、見ましたか? あれは失敗の顔ではなかったと思います」
広報担当は何か言い返しかけ、結局黙った。
その沈黙の間に、私は志織を見た。
助けられた。
その事実が、少し悔しい。
「……ありがとうございます」
小さく言うと、志織は肩をすくめた。
「勘違いしないで。助けたわけじゃないわ。筋が通っていたから、そっちに乗っただけ」
「ほんと可愛げないですね」
「あなたに言われたくないわ」
でも、少しだけ笑っていた。
◇
夕方。
コンコースの装飾が少しずつ片づけられていく中、私は人気の少ない連絡通路で壁にもたれていた。
どっと疲れが押し寄せてくる。
喉は少し痛いし、足も重い。胃のあたりにはまだじわじわした熱が残っていた。
「立てるか」
低い声。
顔を上げると、北斗先輩がいた。
「一応」
「そうか」
短い。
でも、その短さが今はありがたかった。
「……怒ってますか」
「何に」
「今日のこと」
「別に」
「別にって」
「予想より早かっただけだ」
「何がですか」
「お前がああやって噛みつくのが」
私は思わず眉を寄せた。
「止めないんですね」
「止める必要があったか」
「ありましたよ。たぶん普通に」
北斗先輩は少しだけ息を吐く。
「企画は荒れた。だが、お前の言葉は届いた」
その評価が、この人らしいと思った。
綺麗事も慰めもない。ただ、見たままを言う。
「先輩」
「何だ」
「私、やりすぎましたか」
北斗先輩は少し考えるように黙り、それから言った。
「少しな」
「やっぱり」
「でも、必要だった」
私は顔を上げる。
「必要?」
「お前が、何者かを自分で言わないといけないタイミングだった」
連絡通路の向こうで、撤収作業の台車がごろごろと音を立てている。
その雑音の中で、北斗先輩の声だけが妙にまっすぐ聞こえた。
「今日、お前は初めて自分で名乗った」
「……機関士見習い、って?」
「そうだ」
私はしばらく黙っていた。
たしかにそうだった。
これまでも何度も口にはしてきた。
でも今日は、説明のためでも言い訳のためでもなく、戦うためにその言葉を使った。
「……先輩」
「何だ」
「私、あの場で、ほんとに腹が立ってたんです」
「見れば分かる」
「もう、自分が削られていく感じがして」
「そうだろうな」
「でも、言ったら戻ってきた気がしました」
北斗先輩は、ほんの少しだけ目を細めた。
「ならそれでいい」
その一言で、ようやく全身の力が抜けた。
壁に背を預けたまま、私は小さく笑う。
「先輩って、ほんと庇ってくれないですね」
「必要ならする」
「今日はしませんでしたよね」
「自分で立てたからな」
その答えが、胸の奥にじわりと落ちる。
守られなかった。
でも見捨てられたわけでもない。
たぶんその真ん中に、今の私の立ち位置がある。
「神尾」
「はい」
「次からは、噛みつく前に段取りくらい見ろ」
「うわ、そこなんだ」
「当たり前だ。現場でも同じだろ」
「……はい」
「感情は武器になる。だが、振り回すだけなら事故と変わらん」
私は素直に頷いた。
「覚えます」
「そうしろ」
北斗先輩はそれだけ言って、先に歩き出した。
私はその背中を見ながら、深く息を吐く。
怒りはまだ消えていない。
悔しさも、恥ずかしさもある。
でも、少なくとも今日、私は
“誰かが作った役”
のまま終わらなかった。
それだけは確かだった。
連絡通路の窓の向こうでは、夕方の光が線路を照らしていた。
きらきらしているのに、綺麗なだけじゃない。
鉄の冷たさも、油の匂いも、その向こうにちゃんとある。
私は小さく拳を握った。
綺麗に飾られた夢なんていらない。
欲しいのは、もっと重くて、不格好で、本物の場所だ。
私は機関士だ。
まだ見習いでも。半人前でも。
それだけは、もう誰にも勝手に書き換えさせない。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




