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第5話 華やかな場所の端で

 撮影当日の朝、私は鏡の前で死んだ魚みたいな目をしていた。


「……最悪」


 制服はきっちり整えた。帽子の角度も直した。襟も袖も、昨日のうちに何度も確認した。爪だって短く整えて、手の油汚れも念入りに落とした。


 それでも、鏡に映る自分が“そういう女の子”に見えるかと言われたら、全然見えない。


 頬に薄く下地を塗られていることが、もう落ち着かなかった。

 化粧なんて式典で少ししたことがある程度だ。優香に


「顔色が死ぬから少しだけ」


 と押し切られて、今こうなっている。


「だから言ったじゃん。ちょっと血色足すだけで全然違うって」


 後ろから優香が覗き込み、満足そうに頷いた。


「やっぱり可愛いよ、あずさちゃん」


「その評価が一番いらないです」


「そうやってむくれると台無し」


「台無しで結構です」


 私は鏡から目を逸らした。

 宿舎の狭い部屋に、薄いファンデーションの匂いと、いつもの機械油の残り香が混ざっている。そのちぐはぐさが、今の気分そのものだった。


「ほんとにやるんですね、これ」


「やるよ。止めてもなくならないし」


「なくなってほしいんですけど」


「分かる。でも、なくならないなら使うしかない」


 優香は机の上のメモをひらひらさせた。

 昨夜、私が散々書き直した説明用の言葉だ。


「現場の話、ちゃんと入れたんでしょ?」


「入れました」


「なら、ただの飾りにはならない」


 私は少しだけ唇を尖らせた。


「簡単に言いますね」


「簡単じゃないよ」


 優香は笑わなかった。


「接客だって、笑って立ってるだけじゃない。変な客も来るし、嫌なことも言われるし、それでも顔に出さずに立つ。そういうの全部含めて仕事なんだよ」


「……」


「今日のあずさちゃんは、機関士見習いとして前に出るんでしょ」


 私は頷いた。


「なら、堂々としてな」


 優香の言い方は柔らかいのに、背中を押す力があった。

 その力がないと、たぶん私はこの時点で逃げ出していた。


     ◇


 横川駅前の特設スペースには、朝から妙に浮ついた空気が流れていた。


 観光協会の幟。赤い提灯風の装飾。駅前ロータリーに置かれた簡易ステージ。信越本線の写真パネル。EF63のポスター。そして、その横に立てられた私の等身大パネル。


「……消していいですか、あれ」


 思わず本気で言ってしまった。


 パネルの中の私は、少しだけ笑っていた。どう見ても“新人機関士の紹介”というより、“駅前イベントの目玉”だ。見ているだけで胃が痛くなる。


「駄目よ」


 背後から、きっぱりした女の声。


 振り向くと、志織だった。今日もきっちり制服を着こなし、寸分の隙もない。朝の光すらこの人のために当たっているみたいで、腹が立つ。


「人がわざわざ用意したものを、勝手に消すのは良くないわ」


「本人の許可なく作る方がどうかと思います」


「そうかもしれないわね」


 志織はあっさり頷いた。


「でも、見た人が立ち止まるなら、効果はある」


 その言い方が、いちいち正論なのが癪に障る。


「私は、立ち止まってほしいわけじゃありません」


「そう」


 志織は私の制服の襟元を一瞥した。


「でも今日のあなたは、立ち止まってもらわないと話が始まらない立場にいるわ」


 言い返せない。

 分かっているから余計に腹が立つ。


「顔、強張ってるわよ」


「志織さんを見たからです」


「光栄ね」


「全然褒めてません」


「知ってるわ」


 志織は笑って、私の横に並んだ。


「でも一つ言っておく。今日、あなたが嫌がっていることは、お客様には関係ないの」


「……」


「前に立つ以上、見られる。判断される。勝手に意味をつけられる。それが嫌なら、なおさら自分で意味を上書きするしかない」


 その言葉は、ノートに向かいながら考えたことと同じ方向を向いていた。

 悔しい。悔しいけれど、無視できない。


「志織さんは、平気なんですか」


「何が?」


「そうやって勝手に見られて、勝手に意味をつけられるの」


 志織は少しだけ黙った。


「平気なわけないでしょう」


 意外なくらい、素で出た声だった。


「でも、それで仕事が届くなら使う。嫌だとか恥ずかしいとか、そういう感情はあとで処理するものよ」


 私は目を細める。


「強いですね」


「そう見えるようにしてるだけ」


 志織はすぐにいつもの顔に戻った。


「あなたも今日、その一歩目を踏むのでしょう?」


 挑発みたいな言い方だった。

 でも、たぶん本気でもある。


 私はパネルを睨みつけたあと、小さく息を吐いた。


「……やりますよ」


「そう」


「ただし、好きにはさせません」


「結構。そういう顔の方が、あなたらしいわ」


     ◇


 イベントが始まると、駅前には思った以上に人が集まった。


 家族連れ。鉄道好きらしい青年。観光客。地元のおばちゃんたち。高校生の集団。

 みんな気軽に笑って、気軽に写真を撮っていく。


「わあ、本物だ」

「可愛いねえ」

「横川にもこういう子いるんだ」

「制服似合うー!」


 その声のひとつひとつが、軽かった。

 いや、悪意があるわけじゃない。むしろ好意的だ。分かっている。分かっているけれど。


 機関士見習いとして見られていない。

 まずそこが、たまらなく悔しかった。


「笑って、笑ってー!」


 観光協会のカメラマンが手を振る。


 私は口角だけを上げる。

 引きつっていないか不安になるくらいには、頬が固い。


「もう少し柔らかく!」


「これが限界です!」


 思わず返すと、周囲が少し笑った。

 笑いが起きたことで、また「親しみやすい新人ちゃん」みたいな空気が生まれる。望んでいないのに。


 優香がすっと横に立ち、小声で囁く。


「怒ってるの、今は半分でいい」


「半分?」


「全部出すと負ける」


 その言い方に、私は一瞬だけ呼吸を整えた。


 全部出すと負ける。

 たしかにその通りだ。


 ステージ横の案内ブースでは、志織が観光客に応対していた。相変わらず完璧だ。子どもに目線を合わせ、年配客にはゆっくり話し、質問には無駄なく答える。あれだけ人数がいても、空気の中心が自然とあの人の方へ流れていく。


 悔しい。

 でも、見れば見るほど仕事ができるのも分かる。


 その時、五十代くらいの男がスマートフォンを片手に近づいてきた。


「君、本当に機関車乗るの?」


「はい。見習いですけど」


「へえー。なんか、そういう制服イベントの人かと思ったよ」


 笑いながら言われた。悪意は薄い。薄いけれど、しっかり刺さる。


「イベントだけの人じゃありません」


 私はなるべく平板に返した。


「横川派出所で勤務しています」


「へえ。じゃあ手、見せてよ」


「……手?」


「機関士って本当に汚れるんでしょ? ほら、女の子の手とは違うのか見たいなと思って」


 私は一瞬、固まった。


 なんだそれ。

 何を言われているのか理解した瞬間、胃のあたりが冷たくなった。


「お客様」


 優香がすっと前に出る。声は笑顔のまま、でも目は笑っていない。


「本日は横川の魅力をご紹介するイベントですので、個人に対するそういったお願いはご遠慮ください」


「いやいや、ちょっと興味があるだけだよ」


「ですので、ご遠慮ください」


 優香は一歩も引かなかった。

 その静かな強さに、私は少しだけ救われる。


 男は


「ああ、ごめんごめん」


 と笑って去っていった。

 悪いことをした自覚がほとんどない顔で。


 私はその背中を見ながら、胃の奥がざらつくのを感じた。


「……こういうの、よくあるんですか」


「あるよ」


 優香は表情を崩さず、次の客にパンフレットを渡しながら答えた。


「女が前に立つ仕事してるとね」


「……最低ですね」


「うん。最低」


 あっさり言い切る。


「でも、だから下がるのは違うでしょ」


 私は黙った。


 違う。

 分かっている。

 下がりたくない。下がったら、あいつらの思う通りになる気がする。


 そのとき、別の方向から歓声が上がった。


 振り向く。

 ステージ中央に、観光協会の司会に呼ばれた志織が立っていた。


「それでは、軽井沢側からも一言お願いします!」


 拍手。笑顔。注目。

 あの人はそういう場所に立つと、本当に強い。


「ありがとうございます」


 志織はマイクを持ち、客席を見渡した。


「軽井沢にいらっしゃる皆さまに、今日はぜひ“その手前の物語”も知っていただきたいんです」


 その一言だけで、人が聞く顔になる。

 やっぱり悔しい。


「華やかな高原列車の旅も、そこへ至る道のりがあるからこそ成立します。横川の皆さんが、目立たないところで支えてきた時間がある。今日はその入口として、若い機関士見習いさんにも立っていただいています」


 そこで、志織の視線が私に向く。


「可愛いから立っているのではありません。現場にいる人だから、ここに立つ意味があるんです」


 ざわ、と空気が揺れた。


 私は目を見開いた。

 まさか、そこでそう来るとは思わなかった。


「ですから皆さまも、ぜひ“写真映え”だけでなく、その向こうにある仕事に少しだけ思いを向けていただけたら嬉しいです」


 拍手が起こる。

 今度は朝よりしっかりした拍手だった。


 悔しい。

 なのに、一瞬だけ救われたのも本当だった。


 自分で言いたかったことを、先に言われた。

 でも、ただ横取りされたという感じでもない。


 志織は本気でそう言っている。

 それが分かってしまうのがまた悔しい。


     ◇


 昼過ぎ。

 ステージ脇の控えスペースで、私はようやく深く息を吐いた。


 ずっと背筋を張っていたせいで、肩がばきばきだった。機関車の振動とは違う疲れ方だ。嫌な緊張がじわじわ身体に残る。


「顔、死んでる」


 宮城先輩が紙コップの麦茶を差し出してきた。今日は裏方として荷物運びを手伝っていたらしい。


「ありがとうございます」


「どうだ、華やかな世界は」


「向いてません」


「知ってる」


「即答しないでくださいよ」


 宮城先輩は笑った。


「でも、逃げてねえな」


 その一言だけで、少しだけ胸の奥が緩む。


「逃げたかったです」


「そりゃそうだろ」


「なんかもう……ずっと値札つけられてる気分です」


 宮城先輩は少しだけ黙った。


「若い女」

「珍しい機関士見習い」

「話題になる顔」

「親しみやすい入口」


 口に出すだけで気分が悪い。


「私、機関車に乗るためにここにいるのに」


「分かってるよ」


「でも周りは、そこじゃなくて」


「そこじゃない連中もいる。そこを見てる連中もいる」


 宮城先輩はストローを噛みながら言った。


「切り分けろ。全部まとめて敵にすると、自分が潰れるぞ」


 私は紙コップを握りしめる。


「……難しいです」


「だろうな」


「でも、悔しいです」


「それでいい」


 宮城先輩は肩をすくめた。


「悔しいってことは、お前がちゃんと機関士になりたいってことだ。最初から何とも思わない奴なら、ここまで怒らねえよ」


 その言葉は、妙にまっすぐ入ってきた。


 怒っている。

 たしかに私は、ずっと怒っている。

 軽く見られることに。勝手に意味をつけられることに。そして、自分にまだそれを跳ね返すだけの力がないことに。


「……利用されるだけで終わるのは、嫌です」


「なら終わるな」


 短い。けれど、その短さがちょうどよかった。


     ◇


 午後のトーク時間。

 今度は私にも、マイクが回ってきた。


「それでは神尾さん。横川で働く機関士見習いとして、この仕事の魅力を教えてください」


 客席がこちらを見る。

 朝より人が増えていた。通りすがりの観光客も足を止めている。


 逃げるな。

 怒っているなら、その怒りを使え。


 私はマイクを握り直した。


「……魅力は、きれいじゃないところです」


 客席が少しざわつく。

 司会が目を瞬かせる。

 でも、もう止まらなかった。


「機関車は、乗れば汚れます。手も、制服も、顔も。夏は暑いし、冬は冷たいし、少しも楽じゃありません」


 私は前を見た。

 等身大パネルの自分が、視界の端に映る。少しだけ笑っていて、少しだけ他人みたいだ。


「でも、それが私は好きです」


 今度は、ちゃんと自分の言葉だと分かった。


「前から見れば、お客さんを乗せた列車が走っていくだけに見えるかもしれません。でも、その後ろで押している人間がいます。滑らないように、止まらないように、ちゃんと峠を越えられるように、見えないところで踏ん張っている人間がいます」


 客席の空気が、朝より静かに集まってくるのが分かった。


「私はまだ見習いです。全然一人前じゃありません。でも、そういう仕事が横川にはあります。格好いいって、私は思っています」


 そこで一拍置く。


「だから、今日ここに立っているのも、ただ見てもらうためじゃありません。知ってほしいからです。きれいな観光地の入口に、泥だらけで踏ん張ってる場所もあるってことを」


 言い切った瞬間、胸の奥で何かが真っ直ぐ立った気がした。


 拍手が起こる。

 今度は朝より、しっかりした拍手だった。


 優香が少し離れた場所で、口元だけで笑っている。

 宮城先輩は腕を組んで頷いた。

 志織は客席の端で静かにこちらを見ていた。その表情は読み取りにくい。でも、馬鹿にしてはいない。


 司会が明るく場をつなぐ。

 イベントはそのまま流れていく。


 でも私の中では、少しだけ違っていた。


 朝はただ消費される側に立っている気分だった。

 今は違う。まだ不十分でも、自分の言葉を差し込めた。奪われるだけでは終わらなかった。


     ◇


 夕方、片付けが終わる頃には、足が棒になっていた。


 ステージの脇で箱を運んでいると、北斗先輩がいつの間にかそこにいた。今日も本当に気配が薄い。


「終わったか」


「……はい」


「顔がひどいな」


「疲れてるんです」


「朝よりはマシだ」


 私は箱を置き、じろりと先輩を見る。


「見てたんですね」


「少し」


「その“少し”信用してません」


 北斗先輩は答えず、等身大パネルの方に視線を向けた。


「撤収したら燃やすか」


「燃やしてください」


「駄目だろうな」


「でしょうね」


 少しだけ笑ってしまう。

 疲れているせいか、そのくらいの軽口がちょうどよかった。


「……先輩」


「何だ」


「今日、すごく嫌でした」


「そうだろうな」


「見られて、勝手に意味つけられて、可愛いだの何だの言われて」


 喉の奥が少し熱くなる。


「でも、ただ逃げるのも違うって分かってるから、余計に腹が立ちました」


 北斗先輩は黙って聞いていた。


「私、こんなのやりたくないです。ほんとは今すぐ運転台に戻りたい」


「だろうな」


「なのに、こういうことも必要で」


「そうだ」


「……先輩、ほんと庇ってくれないですね」


「庇う理由がない」


 淡々とした返答。

 むかつく。でも、この人らしい。


「耐えろ」


 短く言う。


「現場に残りたいなら、嫌な仕事も飲み込め」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃない」


 北斗先輩が初めて少しだけ強い声を出した。


「俺だって嫌なことは山ほどある。合理化も、宣伝も、外向きの体裁も、好きでやってるわけじゃない」


 私は目を見開いた。


「でも、それでも残るなら、必要なもんは全部使うしかない」


 その顔は、朝の私よりずっと疲れて見えた。

 この人も平気なわけじゃない。たぶん、ずっと前から分かったうえで飲み込んでいる。


「神尾」


「はい」


「今日、お前はただ立ってただけじゃない」


 私は黙る。


「嫌な場所で、自分の言葉を出した。それは仕事だ」


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


「……褒めてます?」


「事実を言ってるだけだ」


「じゃあ褒めてるんですね」


「面倒くさいな」


 でも、先輩は少しだけ目を細めた。

 それで十分だった。


「ただし」


「はい」


「次は、もっと上手くやれ」


「うわ、最後それですか」


「当たり前だ」


 私は深く息を吐いた。

 疲れている。腹も立っている。まだまだ納得できないことだらけだ。


 でも。


「……利用されるだけで終わるのは、嫌です」


「なら終わるな」


 また同じ言葉。

 でも今度は、少しだけ分かった気がした。


 終わらないようにするのは、たぶん私だ。

 腹が立つなら、そのまま武器にすればいい。

 見られるのが嫌なら、その視線の中に自分の仕事をねじ込めばいい。


 楽じゃない。

 全然綺麗でもない。

 でも、そうやってしか前に進めないのなら。


 私は荷物箱を持ち上げ、もう一度立ち上がった。


「先輩」


「何だ」


「次は、もっとちゃんとやります」


「そうしろ」


 それだけ言って、北斗先輩は先に歩き出した。


 夕暮れの横川駅前では、提灯風の飾りが風に揺れていた。

 朝はあんなに浮ついて見えたのに、今はその光景の中に、自分の足で立っていた時間が確かに残っている。


 私は等身大パネルの横を通り過ぎる。

 そこにいる笑顔の自分は、やっぱりまだ好きになれなかった。


 でも、その向こう側に、今日の私はちゃんといた。


 笑って立たされていただけじゃない。

 飲み込まれそうになりながら、それでも自分の言葉を押し返した。


 だったら、まだ終わっていない。


 私は心の中ではっきりと言った。


 ――利用されるだけで終わるものか。


この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。

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