第4話 飾りじゃない
その日、横川の詰所は妙に静かだった。
いや、音はある。
古い扇風機の軋む音。鉛筆で運転時刻を書き込む音。ホームの向こうで入換機が短く汽笛を鳴らす音。
でも、“仕事の音”が少ない。
貨物の発着予定を書いたホワイトボードの空白が、やけに目立っていた。
昨日までなら赤いマグネットで埋まっていたはずの欄が、今日は半分以上白いままだ。
「……少な」
思わず漏らした声に、黒石先輩が帳票から顔も上げずに言った。
「声に出すな。余計に腹立つ」
「すみません」
私は慌てて背筋を伸ばした。
ここ数日、明らかに貨物の本数が減っていた。
上から回ってくる指示は「効率化」「合理化」「要員見直し」。言い方だけは立派だ。要するに、仕事が減っている。
それは新人の私にすら分かった。
暇になる、というのは楽になることじゃない。
現場ではむしろ逆だ。仕事が少ないほど、自分が要らない人間みたいに感じる。
「神尾」
「はい」
佐久間区長に呼ばれ、私は机の前に立った。
「午後、観光協会との打ち合わせがある。お前も同席しろ」
「……観光協会、ですか」
嫌な予感しかしない単語だった。
「そうだ。横川の集客施策について」
区長は穏やかに言ったが、その目は少しだけ疲れていた。
「お前は今、横川でいちばん若い。しかも珍しい」
「珍しいって」
「若い女性の機関士見習い、という意味だ」
私は顔をしかめた。
言われている意味は分かる。
分かるからこそ、気分が悪い。
「それ、仕事ですか?」
口に出してしまってから、少し遅れて後悔した。
でも区長は怒らなかった。
「仕事になるなら、仕事だ」
静かな口調だった。
「神尾くん。今の横川に必要なのは、現場の誇りだけじゃない。人を呼ぶ力だ」
「……」
「人が来なければ、列車は減る。列車が減れば、現場は痩せる。誇りだけで機関車は走らんよ」
その言葉は、正しい。
正しすぎて、反論しにくい。
でも、正しいからって納得できるわけじゃない。
「……分かりました」
私はそう答えるしかなかった。
区長は小さく頷く。
「いい返事だ。嫌そうな顔はしているが」
「してません」
「してるな」
横から黒石先輩が即答する。
「お前ほんと分かりやすいな」
「先輩たちが分かりやすすぎるだけです」
「何だと」
「何でもありません」
机に戻ろうとした時、窓際から低い声が飛んできた。
「神尾」
北斗先輩だった。相変わらず無愛想に缶コーヒーを持っている。
「はい」
「行くなら、現場のつもりで行け」
「……は?」
「客寄せだと思って腐るな。今の横川に必要な仕事なら、それも現場だ」
私は少しむっとした。
「先輩、そういうの平気なんですか」
「平気じゃない」
意外な返答だった。思わず口を閉じる。
北斗先輩は窓の外を見たまま続けた。
「だが、嫌いだからやらない、で済むほど余裕がない」
その言い方が、妙に胸に刺さる。
嫌いだからやらない。
たしかに今の私は、そう言いたかっただけかもしれない。
でも。
「……私、飾りじゃないです」
気づけばそう言っていた。
北斗先輩がこちらを見る。
「分かってる」
「分かってないから、こういう話になるんじゃないですか」
「違う」
短い返答。
「飾りじゃない奴が前に出るから意味がある」
私は言葉を失った。
褒めているのか。仕事を押しつけているのか。どっちだ。
たぶん両方だ。
その曖昧さが、余計に腹立たしい。
◇
午後。
横川駅前の観光会館の会議室には、場違いなくらい白いテーブルクロスが掛かっていた。
壁には観光ポスター。紅葉の碓氷峠、眼鏡橋、釜めし。どれも綺麗だ。綺麗すぎる。機関庫の油臭さも、詰所の古い湯呑みも、そこには一枚も写っていない。
観光協会、町役場、商工会、おぎのや、そして高崎機関区横川派出所。
顔ぶれだけ見ると立派な会議だ。
私は末席に座らされていた。
座らされている、という感覚が抜けない。
「では、本題に入りましょう」
観光協会の若い職員が資料を広げる。
「秋の観光施策についてです。近年、軽井沢側への流出が目立っており、横川側の回遊率は低下傾向にあります。鉄道単体では訴求が弱いため、より分かりやすく、華のある展開が必要です」
言葉がやたら整っている。
でも中身は、身も蓋もない。
鉄道だけでは弱い。
華が必要。
私の中で嫌な予感が、徐々に輪郭を持ち始める。
「そこで」
職員が一枚のラフ案を示した。
『峠のアイドル機関士プロジェクト(仮)』
私は目を疑った。
「……は?」
声に出していた。
会議室の視線が一斉にこちらを向く。
しまったと思ったが、遅い。
「神尾さん、でしたっけ?」
観光協会の職員が営業スマイルでこちらを見る。
「率直なリアクション、ありがとうございます」
「いや、すみません、でもちょっと意味が分からなくて」
私は資料を見た。
制服姿の若い女性が笑っているイメージ写真。駅前イベント。記念撮影。地域PR。紹介記事。
どこにも、機関車の重さも、レールの匂いも、現場の緊張もない。
「アイドルって、何ですか」
「誤解しないでください。歌って踊るという意味ではありません」
「してる資料に見えますけど」
横で優香が吹き出しそうになっている。おぎのや代表として同席していた彼女は、慌てて咳払いで誤魔化した。
観光協会の職員は少しだけ困ったように笑う。
「要は、“親しみやすい顔”が必要なんです。鉄道ファンだけでなく、一般のお客様や家族連れにも届く入口として」
「入口に、私を使うってことですか」
「神尾さんは若いし、女性だし、話題性があります。横川の古いイメージを柔らかくできる」
柔らかくできる。
その言い方が気に障った。
「古いイメージ、って」
「いい意味です。レトロ、ノスタルジック、味がある――」
「それって結局、“古い”ってことですよね」
会議室の空気が少しだけ張る。
区長が「神尾」と低く名前を呼んだが、私は止まれなかった。
「古いから、新しい飾りをつけたいって聞こえます」
「神尾くん」
今度は区長の声が少し強くなる。
私は唇を噛んで黙った。
やばい。分かってる。ここで噛みつくのは得じゃない。分かってるけど、喉の奥が熱い。
職員は咳払いをして資料をめくった。
「神尾さんの気持ちは分かります。ですが、現実問題として、横川は発信が弱い。魅力があるのに届いていないんです」
私は黙る。
それは、志織にも言われた。
分かっている。分かっているから、余計に痛い。
「神尾さんのような存在は、橋渡しになれると思います」
橋渡し。
便利な言葉だ。耳当たりがよくて、実態が曖昧な言葉。
「……私は、機関士見習いです」
絞り出すように言う。
「見習いでも機関士だと思ってここにいます。笑顔でパンフレット配るために横川に来たわけじゃありません」
沈黙が落ちた。
観光協会の職員が返答に迷う一瞬を、区長が引き取った。
「神尾くんの気持ちは分かる」
穏やかな声だった。
「だが、現場だけ守っても町は守れない。人が来て、駅が賑わい、店が回って、初めて鉄道も残る」
区長の隣で、優香の父であるおぎのやの専務も静かに頷く。
「うちだって同じだよ。釜めしだけ作って待ってりゃ売れる時代じゃない。呼ばなきゃ来ない。見せなきゃ伝わらない」
私は黙る。
分かっている。
みんなが現実を見ていることは分かる。
私だけが子どもみたいに反発しているのも分かる。
でも。
私は机の下で拳を握った。
どうしても、納得しきれなかった。
◇
会議が終わった後、観光会館の裏口で一人になった私は、自動販売機の前で缶ジュースを睨んでいた。
買うものを選んでいるわけじゃない。
ただ、怒りの置き場所がなくて、そこに立っていただけだ。
「分かりやすいほど怒ってるね」
優香の声がして、私は振り向いた。
「……怒ってません」
「怒ってる人のテンプレみたいな台詞だ」
優香は隣に立って、自販機でコーヒー牛乳を買った。
「はい」
差し出される。
私は受け取った。
「ありがと」
「どういたしまして」
優香は自分の缶を開け、一口飲む。
「でも、あずさちゃんの言いたいことも分かるよ」
「……ほんとですか」
「うん。だって悔しいもんね。現場で必死に汚れてるのに、いざ必要とされるのが“若い女の子”って部分だと」
私は思わず顔を上げた。
そこまで言語化されると、逆に逃げられない。
「……そうです」
小さく認める。
「私、別に若い女としてここに来たんじゃないのに」
「うん」
「機関士になりたくて来たのに。なのに、仕事が減ったら急に“笑って立ってて”って言われるの、おかしいじゃないですか」
「うん」
「しかも、それが正しいって分かっちゃうのが、もっと腹立つ」
最後の一言は、ほとんど呻きだった。
優香は少しだけ空を見上げてから、静かに言った。
「正しいよ。たぶん」
「……」
「でも、悔しくて当たり前だよ」
私はコーヒー牛乳の缶を見つめた。
甘い匂いがする。今の気分には似合わない。
「優香さんは、平気なんですか」
「何が?」
「地元のため、町のためって言って、自分を前に出すこと」
優香は少しだけ笑った。
「平気じゃないよ」
「え」
「おぎのやの娘ってだけで見られるし、売り子の笑顔が足りないとか言われるし、若い女が立ってる方が売れるって空気、私だって好きじゃない」
私は目を瞬いた。
「……そんなふうに見えませんでした」
「見せないようにしてるからね」
優香は缶をくるくる回す。
「でもさ、私は接客を“飾り”だと思ってないんだよ」
「……」
「笑うことも、立つことも、声をかけることも、全部仕事。お客さんが気持ちよく来て、気持ちよく帰ってくれるように整えるのも、現場なんだよ」
その言葉は、観光協会の職員の言葉よりずっと重かった。
この人は、机の上の理屈じゃなくて、自分でやっているからだ。
「私は機関車を動かせない。だから代わりに、人を横川に呼ぶ」
優香は私を見る。
「役割が違うだけで、どっちが偉いとか、本当はないんじゃないかな」
私はしばらく黙っていた。
悔しい。
でも、反論しにくい。
優香は正しい。そして優しい。だから逃げ道がない。
「……私、たぶん」
「うん」
「見下されたくないんです」
言葉にしてしまうと、情けなかった。
「“若い女”だから選ばれたって思いたくない」
優香は少しだけ目を細める。
「そっか」
「現場で使えないから、代わりに笑ってろって言われてるみたいで」
「それは違うと思う」
優香がきっぱりと言った。
「少なくとも、北斗さんはそう思ってない」
その名前が出た瞬間、胸の奥が勝手に反応してしまう。
くそ、分かりやすいな私。
「……なんでそう思うんですか」
「だってあの人、使えないと思ってる相手に、わざわざ厳しくしないもん」
「それ、フォローになってるようで全然嬉しくないです」
「でも本当だよ」
優香は笑った。
「使えない飾りなら、そもそも前に立たせないでしょ。あずさちゃんが現場の人間だから、前に出す意味があるんだよ」
私は缶を握りしめる。
現場の人間だから、前に出す意味がある。
それは、詰所で北斗先輩が言ったことと同じだった。
分かっている。
でも、分かることと、気持ちが追いつくことは別だ。
◇
夕方、詰所に戻ると、机の上に新しい資料が置かれていた。
『峠のアイドル機関士プロジェクト(試行案)』
見た瞬間に眉間が痛くなる。
ほんとうにやる気らしい。
「神尾」
また北斗先輩だった。
この人は本当に、私が一番見られたくない顔をしている時に限って現れる。
「……何ですか」
「明後日、観光協会の試験撮影がある」
「聞きたくなかった情報をありがとうございます」
「逃げるなよ」
「逃げません」
即答した。そこだけは。
北斗先輩は机に寄りかかりながら、資料に目を落とす。
「気に入らないのは分かる」
「なら助けてくださいよ」
「助けてる」
「どこがですか」
「逃げ道を塞いでる」
「最低だ」
本気でそう思った。
でも北斗先輩は少しも怯まない。
「神尾。お前は今、自分が何に怒ってるか分かってるか」
「……分かってます」
「言ってみろ」
「若い女だからって利用されそうなのが嫌なんです」
「半分だな」
「半分?」
「もう半分は、自分にまだ実力がないことだ」
言葉が刺さった。
否定したかった。
でも、できなかった。
「……だったら」
「ん?」
「だったら、使えるようになります」
言ってから、自分でも声が震えているのが分かった。
「現場で必要な人間になります。誰も“笑って立ってろ”なんて言えないくらいに」
北斗先輩はしばらく私を見ていた。
やがて、低く言う。
「そうなれ」
短い。
でも、それだけでいいとも思った。
「ただし」
「はい」
「今、必要な仕事から逃げるな」
「……」
「現場に要る人間になるってことは、現場に必要なことを選ばずやるってことだ」
私は黙る。
悔しい。
でも、また正しい。
北斗先輩は資料を指先で軽く叩いた。
「嫌なら、これをただの飾りで終わらせるな」
「……どういう意味ですか」
「笑って写真を撮られるだけで終わるから腹が立つんだろ」
「当たり前です」
「なら、そこにお前の仕事を持ち込め」
私は眉を寄せた。
「仕事を?」
「機関士見習いとして立て。勉強したことを喋れ。現場の言葉を出せ。中身まで空っぽの飾りになる必要はない」
その発想は、なかった。
飾られるか、拒むか。
その二択で頭がいっぱいだったから。
「……そんなの、できるんですか」
「やるしかないだろ」
北斗先輩はいつもの調子で言う。
「嫌な場所でも、自分の立ち位置を作る。それも仕事だ」
私は資料を見つめた。
腹は立つ。
今も立っている。
でも、もし本当に、自分の言葉を持ち込めるなら。
もしここで、“機関士見習い・神尾あずさ”として前に立てるなら。
それは、ただの屈辱では終わらないかもしれない。
◇
その夜、宿舎の机に向かった私は、観光協会の資料の横に、自分のノートを広げていた。
EF63の基本構造。碓氷峠の勾配。補機の役割。雨天時の空転対策。
殴り書きのメモが並んでいる。
「……何やってるんだろ、私」
自分で呟く。
アイドル企画なんてふざけてる。
ほんとは資料なんて破って寝てしまいたい。
でも、破っても現実は消えない。
明後日には試験撮影がある。
だったら、そこに自分の仕事を持ち込むしかない。
私はノートをめくった。
客に伝えるなら、専門用語を減らす。
一番好きなものを、一番分かる言葉に変える。
志織に言われたことが、頭の中に蘇る。
「……日本一、手のかかる坂」
口に出してみる。
たしかに、分かりやすい。
「後ろから押す人間がいるから、前に進める列車がある」
それも悪くない。
私はペンを走らせた。
苛立ちはまだ消えていない。
でも、その苛立ちが今は、不思議と手を止めなかった。
飾りじゃない。
飾りで終わるつもりもない。
もし前に立たされるなら、そこに自分の仕事を持ち込む。
現場の匂いを、鉄の重さを、ちゃんと言葉にする。
そう決めた瞬間、少しだけ呼吸がしやすくなった。
窓の外では、夜の機関庫の灯りがぼんやり光っている。
あそこに帰りたいと思う気持ちは、本物だ。
だから私は、その場所を守るためなら、嫌いなことだって飲み込むしかない。
悔しいけれど。
情けないけれど。
今はまだ、そのくらいしかできない。
私はノートに最後の一行を書き足した。
ーー私は、飾りじゃない。
その文字を見つめていると、宿舎の電話が鳴った。
びくりとして受話器を取る。
「……はい」
『あずさ?』
母の声だった。
背筋が冷たくなる。
『聞いたわよ。あなた、町の観光の何かに出るんですって? やっぱりそういう目立つことがしたかったのね』
胸の奥が一瞬でざらつく。
『だから言ったでしょう。女の子なんだから、最初からそういう仕事を選べばよかったのよ。泥だらけの仕事なんかしなくても――』
「違う」
気づけば、口を挟んでいた。
『え?』
「違うから」
声が震える。
でも、止めなかった。
「私は、笑って立ってるだけのために横川にいるんじゃない」
『あずさ、何を――』
「機関車に乗るためにいるの。現場で働くためにいるの。そこを勝手に書き換えないで」
受話器の向こうで、母が息を呑む気配がした。
言った。
初めて、ここまで真正面から言った。
『……そんな汚い仕事に、どうしてそこまで』
「好きだからだよ」
それは思ったよりも、ずっとまっすぐな声だった。
「好きで、ここにいたいからやってるの。だから、あなたが何を言っても、私はやめない」
沈黙。
それから、母が何か言いかけたけれど、私はもう聞かなかった。
「もう切るから」
『あずさ――』
「おやすみ」
受話器を置く。
手が震えていた。
でも、少しだけ、呼吸が軽い。
私は机に戻り、さっき書いた文字をもう一度見た。
ーー私は、飾りじゃない。
そうだ。
誰に何を言われても、それだけは譲れない。
譲れないまま、前に出るしかないのなら。
だったらせめて、飾りのまま終わらない戦い方をする。
夜の静けさの中で、私は小さく息を吐いた。
次の戦場は、運転台じゃない。
でも、逃げる場所でもない。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




