第2話 鉄と油の匂いがする場所
翌朝、全身が他人のものみたいだった。
「っ……!」
布団から起き上がろうとした瞬間、背中から太腿にかけて鈍い痛みが走る。腕も重い。肩も痛い。腰にいたっては、存在そのものが間違っている気がした。
私は六畳一間の布団の上で一度うずくまり、それから天井を睨んだ。
「……何これ。峠越えじゃなくて、戦争でもしてた?」
返事はない。古い天井板がしんとしているだけだ。
雨の中の貨物。
EF63の振動。
力みっぱなしだった肩と脚。
無線越しに飛んできた北斗先輩の声。
全部が、今さら身体に請求書を送りつけてきていた。
でも、私は口元を少しだけ緩めた。
「……でも、やれたんだよな」
昨日、私は逃げなかった。
途中で泣き叫んで飛び降りることも、全部投げ出して実家に帰ることも、しなかった。
あの狭い運転台で、鉄と油の匂いに包まれながら、確かに自分の仕事をした。
北斗先輩に「いい判断だ」と言わせた。
たった一言。
でも、その一言が思っていたよりずっと嬉しかった。
「……安いな、私」
呟いてから、首を振る。
違う。
安くなんかない。
自分で勝ち取った一言だ。
嬉しくて何が悪い。
私は身体を引きずるように起こし、鏡の前に立った。
寝癖。ひどい。目の下にはうっすら隈。顔色も万全とは言えない。どう見ても、雑誌の表紙に載るような女の子ではない。
でも、昨日より顔がましだった。
少なくとも、逃げ出したい顔はしていない。
「よし」
頬を軽く叩く。
「痛いけど、行ける」
その時、部屋の外で宿舎の古い廊下が軋んだ。
「神尾ー? 起きてるー?」
明るい女の声。
聞き覚えがある。
「荻野さん?」
「優香でいいよー。入るよー?」
「え、ちょ、待っ――」
止める前に、引き戸ががらりと開いた。
そこに立っていたのは、エプロン姿の荻野優香だった。おぎのやの売店を手伝いながら、横川のことなら何でも知っているみたいな、あの地元娘だ。朝日みたいに明るい笑顔と、遠慮のなさがセットでついてくる。
「おはよ! って、うわー、すごい顔」
「第一声がそれですか!?」
「いやでもほんとに。生きてる?」
「たぶん」
私が答えると、優香はけらけら笑って、手にしていた紙袋を差し出した。
「はい、朝ごはん。うちの母が『あの新人さん、絶対起きられないから』って」
中を覗く。
まだほんのり温かいおにぎりが二つと、玉子焼き。あと漬物まで入っていた。
「……え」
「食べな。昨日すごかったらしいじゃん。黒石さんが『意外と根性ある』って言ってたよ」
「“意外と”はいらないです……」
「北斗さんも何も言わなかったけど、あれ絶対ちょっと見直してたね」
その一言に、ぴくりと反応してしまったのが自分でも分かった。
優香がにやっと笑う。
「分かりやすーい」
「な、何がですか」
「いや別にー?」
「その言い方、絶対何かあるやつじゃないですか!」
優香はにこにこしながら、勝手に部屋へ上がりこんできた。
「でもさ、昨日の貨物。ほんと大変だったでしょ?」
「大変なんてもんじゃなかったです。手は震えるし、足は攣りそうだし、無線のたびに心臓止まりそうだし」
「でも逃げなかった」
優香があっさり言う。
私は口を閉じた。
そうだ。
それだけは、事実だった。
優香は窓の外、機関庫の方を見る。
「横川ってね、優しいけど、甘くはないんだよ」
「……はい」
「仕事できない人には冷たいときもあるし、古い人たちは頑固だし、女の子が来たってだけで物珍しく見られることもある。でも、その代わり、本気で残ろうとする人のことは、ちゃんと見てる」
私は紙袋を握りしめた。
見てる。
その言葉が、少しだけ胸に残る。
「だからさ」
優香は私を見て、少しだけ真面目な顔になる。
「昨日ちゃんと残ったこと、みんな見てたよ」
言われて、喉が少し熱くなった。
昨日の私は、ただ帰りたくなくて、しがみついただけだと思っていた。
でもそれが、誰かの目には“残った”ように見えていたのかもしれない。
「……そうだと、いいです」
それしか言えなかった。
優香は満足そうに頷いた。
「よし。食べたら来てね。今日は雨上がったけど、峠の空気めちゃくちゃ冷たいから」
「はい」
「あと」
戸口で振り返る。
「無理しすぎないでね」
私は反射で言い返した。
「新人にそんなこと言ってくれるの、優香さんだけですよ」
「そりゃどうも」
「でも、無理しないと置いていかれる気がするんです」
ぽろっと出た本音に、自分で一瞬びっくりした。
優香は少しだけ目を細める。
「……うん。分かる。でもさ、潰れたら元も子もないよ」
そして、いつもの明るい顔に戻って笑った。
「まあ、どうしても無理しちゃうなら、ご飯だけはちゃんと食べな!」
言い残して去っていく足音を聞きながら、私はしばらく動けなかった。
潰れたら元も子もない。
頭では分かる。分かるけど、それでも。
「置いていかれたく、ないんだよな……」
誰に。
何に。
聞かれたら困るくせに、答えはなんとなく分かっていた。
◇
その日の横川は、昨日の豪雨が嘘みたいな青空だった。
雨に洗われた山が近い。空気が透き通っている。線路脇の草はまだ濡れていて、朝日を受けてきらきらしていた。
でも派出所の中は、そんな爽やかさとは無縁だった。
「遅い!」
事務室に入るなり、黒石先輩の怒声が飛んできた。
「す、すみません!」
「神尾、お前な、機関士は駅員より早く来る! 乗客の前に列車を起こすのが仕事だ! お姫様出勤してんじゃねえ!」
「誰がお姫様ですか!」
「じゃあ何だ!」
「……新人です!」
「威張るな!」
朝から理不尽だ。
でも怒鳴られているうちに頭が起きてくるのが悔しい。
黒石先輩は帳簿を机に叩きつけた。
「今日はまず機関庫の点検補助、その後に構内入換の見学、昼から宮城の補機添乗だ。いいな?」
「はい!」
「返事だけはいいな!」
「そこだけは褒めてください!」
「褒めねえ!」
佐久間区長が新聞をたたみながら苦笑する。
「朝から元気だなあ、神尾くん」
「元気じゃないです! 全身痛いです!」
「なら静かにしてくれ」
窓際から低い声が飛ぶ。
振り向くと、北斗先輩が湯気の立つ缶コーヒーを片手に、こちらを見もせずに立っていた。
「先輩は朝から嫌味しか言えないんですか」
「必要なら褒める」
私は一瞬だけ期待してしまった。
でも北斗先輩は平然と続ける。
「必要がないから言わないだけだ」
「最悪だ……」
「神尾」
「はいっ」
「昨日の出区点検、何を見た」
急に来た。
私は頭の中で昨日の流れをたぐる。
「えっと……台車、ブレーキ、砂箱、パンタグラフ、連結器、あと……」
「“あと”で済ませるな」
「済ませてません、思い出してるんです!」
「遅い」
「先輩が急なんです!」
言い返しながらも、私は必死だった。
北斗先輩はたぶん、嫌がらせで聞いているんじゃない。確認しているのだ。昨日のあれを、一時の勢いで終わらせないために。
「主抵抗器の状態、配管の漏れ、電空協調、ブレーキシリンダ圧……」
思い出した順に口に出していくと、北斗先輩が初めてこちらを見た。
「……まあいい」
「“まあ”ですか」
「昨日よりはマシだ」
それだけ。
でも、ほんの少しだけ胸が軽くなる。
くそ。やっぱり安い。
いや違う、安くない。たぶん。
「神尾」
今度は佐久間区長が手招きした。
「機関庫に行く前に、これを宮城くんに届けてくれ」
渡されたのは運転時刻票の控えと、駅そば屋の包みだった。
「お昼、忘れたらしい」
「……それを新人に運ばせるんですか?」
「新人だからだよ」
区長がにこにこ笑う。
「横川では、機関士も書類を運ぶし、そばも運ぶ。格好いい仕事だけしていられるほど、うちは人手がない」
その言い方が妙に可笑しくて、私は少しだけ笑ってしまった。
「分かりました。行ってきます」
◇
機関庫へ向かう途中、私はホームの端で足を止めた。
朝日を受けて、線路が光っている。
その先に、碓氷峠の山並みが見えた。昨日は雨でろくに見えなかった景色だ。
あそこを越える。
人と荷物を運ぶ。押し上げる。支える。
やっぱり、すごい仕事だと思う。
「見惚れてる暇があるなら動け」
「うわっ!?」
すぐ後ろから声がして、私は飛び上がった。
北斗先輩だった。ほんとに心臓に悪い。
「声かけてくださいよ!」
「かけた」
「遅いです!」
北斗先輩は私の手の包みを見る。
「宮城さんに届けるのか」
「はい」
「なら俺も行く」
「……なんでですか」
「構内を見る目がない奴を一人で歩かせたくない」
「そこまで信用ないんですか」
「昨日、一番最初にどこで転びかけた」
「……分岐器の横です」
「そうだ。構内は線路だけ見て歩く場所じゃない。信号、分岐、車止め、人、全部見ろ」
私は唇を尖らせた。
「分かってます」
「分かってない顔だな」
「何その顔判定」
北斗先輩は無視して歩き出す。
仕方なく、その隣を少し早足で追う。
歩きながら、私は横目で先輩を見た。
今日の北斗先輩はいつもの無愛想な顔をしている。整った横顔。長い睫毛。嫌になるくらい静かな雰囲気。これで口までまともなら完璧なのに、神様は意地悪だ。
「何だ」
「見てません」
「今見た」
「確認しないでください」
北斗先輩が呆れたように息を吐く。
「余裕があるなら結構だ」
「余裕なんてないです」
「あるように見える」
「強がってるだけです」
言ってから、しまったと思った。
今のは、口が滑った。
でも北斗先輩は笑わなかった。からかいもしなかった。
「だろうな」
ただ、それだけ言う。
私は少しだけ目を見開く。
「……分かるんですか」
「昨日から見てれば分かる」
さらりと言われて、胸の奥が変にざわつく。
見ていた。
この人はちゃんと、見ていたのか。
「でも、強がれるうちはマシだ」
北斗先輩は前を向いたまま続ける。
「本当に駄目な奴は、強がる前に逃げる」
「……逃げませんよ」
「知ってる」
短い返事。
それがどうしようもなく嬉しくて、私は顔を背けた。
朝の空気は冷たいのに、耳だけ熱い。
◇
構内の端では、宮城先輩が補機の外回り点検をしていた。
「おう、神尾。区長のお使いか?」
「はい。時刻票と、おそばです」
「助かるー!」
宮城先輩は包みを受け取って、にっと笑う。
「昨日、なかなかやったらしいじゃん」
「らしい、って」
「北斗が珍しく『使えなくはない』って言ってた」
私はその場で固まった。
「……え?」
「え?」
宮城先輩がきょとんとする。
私はゆっくり振り返った。北斗先輩は無言で目を逸らした。
「先輩」
「何だ」
「今の本当ですか」
「宮城さんが勝手に喋っただけだ」
「否定になってませんけど」
「仕事しろ」
「ごまかした!」
宮城先輩が声を上げて笑う。
あまりのことに、私はもう怒るのも忘れて、ただ顔が熱くなるのを感じていた。
使えなくはない。
ものすごく不器用な褒め言葉。
でも北斗先輩がそれを言ったのなら、昨日の一言よりずっと重い。
「神尾」
宮城先輩がふっと表情を変えた。
「昨日できたからって、今日から一人前だと思うなよ」
「……はい」
「峠は毎日違う。天気も貨物も車両も違う。そのたびにゼロからやり直しだ。昨日うまくいったことにしがみつくと、次で死ぬ」
私は背筋を伸ばした。
「はい」
「でも」
宮城先輩はそばの包みをぽんと叩いた。
「昨日逃げなかったのは、本物だ」
その言葉は、優香の言葉とはまた違う重さで響いた。
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
宮城先輩は照れくさそうに鼻をこすり、再び機関車の足回りを覗き込む。
「よし、神尾。ついでにお前、これ見ろ。ブレーキ配管。昨日説明しただろ」
「はい!」
私はしゃがみこんで覗き込んだ。
鉄の匂い。
油の匂い。
少し湿った土の匂い。
冷たい空気の中で、配管に触れる指先がじわりと汚れていく。
でも不思議と、その汚れが嫌じゃなかった。
むしろ、落ち着いた。
こんなに騒がしくて、無骨で、容赦がなくて。
でも、ちゃんと働けば、ちゃんと見てくれる。
綺麗な言葉じゃない。
優しいだけでもない。
けれど、それが今の私にはどうしようもなくありがたかった。
◇
昼過ぎ、私は機関庫の隅で工具箱を抱えたまま、こっそり息を吐いていた。
午前中だけで、もう何回怒鳴られたか分からない。
黒石先輩には「遅い!」と怒鳴られ、宮城先輩には「雑!」と叱られ、整備の南波さんには「そこ触るな、手順が逆!」と頭を小突かれた。
正直、心が折れそうだった。
「……向いてないのかな」
「誰がだ」
また後ろだ。
本当にこの人は気配を消すのが上手すぎる。
「北斗先輩……驚かさないでください」
「勝手に驚いてるだけだ」
「それで、何ですか」
「今の」
私は視線を逸らした。
「……別に」
「向いてないのか、って言ったな」
「聞こえてるなら聞き返さないでくださいよ」
少し投げやりに言うと、北斗先輩は私の手元を見た。工具箱を抱えたまま、手袋の指先が油で黒く汚れている。
「痛いか」
「はい?」
「手も足も腰も。全部だ」
私は一瞬黙った。
「……痛いです」
「だろうな」
「昨日より今日の方がきついです」
「そういうもんだ」
北斗先輩は壁にもたれて腕を組む。
「新人は最初、自分が何もできないことを思い知る。昨日できたと思っても、次の日にはまたできない。峠はそういう場所だ」
「慰めてるんですか、それ」
「事実だ」
「全然優しくない」
「優しくする必要があるか?」
「……ないです」
悔しいけど、その通りだった。
「でも」
北斗先輩が続ける。
「向いてるか向いてないかは、今決めることじゃない」
私は顔を上げた。
「残るか、逃げるか。それだけだ」
ああ、またそういうことを言う。
厳しい。冷たい。人の心がない。
そう思うのに、その言葉はやっぱり嫌いになれなかった。
「……逃げませんよ」
「知ってる」
「先輩、そればっかりですね」
「十分だろ」
「よくないです。もっとこう、たまには分かりやすく褒めるとか」
「贅沢だな」
「昨日も言いました」
「覚えてない」
「嘘です絶対覚えてます!」
私が抗議すると、北斗先輩はほんの少しだけ目を細めた。
「神尾」
「はい」
「手を出せ」
「え」
「いいから」
言われるまま差し出すと、北斗先輩は私の掌を一瞥し、それから自分の作業上着のポケットから小さな缶を出した。白いラベルのハンドクリームだ。
「……何ですか、これ」
「南波さんが使ってるやつだ。油と洗剤で手が割れる。ひどくなる前に塗れ」
私はしばらく、その缶と先輩の顔を交互に見た。
「先輩」
「何だ」
「それ、優しさじゃないですか」
「違う」
「どう見てもそうです」
「手が割れると作業が遅くなる」
「理屈つけるの下手ですね」
言うと、北斗先輩はあからさまに顔をしかめた。
「返せ」
「返しません!」
私は慌てて缶を握りしめる。
「ありがたくもらいます!」
「図々しいな」
「先輩にだけは言われたくないです」
北斗先輩は何か言い返そうとしたが、結局何も言わずに踵を返した。
去っていく背中を見ながら、私はそっと缶の蓋を開けた。
少しだけ薬品っぽい、でも清潔な匂いがした。
「……なんだ、それ」
こんなの、ずるいだろ。
厳しいくせに。
冷たいくせに。
ちゃんと見ていて、ちゃんと手を差し出す。
こんな人、気にならない方がおかしいじゃないか。
いや、違う。まだそこまでじゃない。
たぶん。きっと。おそらく。
私は深呼吸して、クリームを手に塗りこんだ。
ひび割れかけた皮膚に、少ししみる。
でも、その痛みすら少し誇らしかった。
◇
夕方。詰所の窓は西日に赤く染まっていた。
帳票整理を終え、私は一人で湯呑みを洗っていた。金属の流し台に当たる水の音が小さく響く。
外では、入換を終えた機関車が低く唸っている。
その音を聞いているだけで、なぜか落ち着く。
「おつかれさまー」
優香が顔を出した。仕事帰りらしく、髪に夕方の光が透けている。
「お疲れさまです」
「どう? 二日目」
「ボロボロです」
「だろうねえ」
優香は笑いながら、流し台の横に紙包みを置いた。
「差し入れ。釜めしの端っこ、おにぎりにしたやつ」
「端っこって」
「でもおいしいよ」
私は思わず笑った。
優香は洗い物をする私の手を見て、ふっと眉を上げる。
「あ、クリーム塗ってる」
「……まあ」
「へえ。気が利く人もいるんだ」
にやにやしている。
私は無言で顔をしかめた。
「その顔、図星だ」
「違います」
「誰にもらったの?」
「言いません」
「北斗さん?」
「なんで分かるんですか!」
「あ、やっぱり」
「誘導尋問ずるい!」
優香は楽しそうに笑ってから、ふっと真面目な顔になる。
「でもよかった」
「何がですか」
「あずさちゃん、朝より顔がいい」
私は一瞬、動きを止めた。
「……そうですか?」
「うん。疲れてるけど、ちゃんとここにいる顔してる」
その言い方に、私は言葉を失った。
ここにいる顔。
そんなものがあるのかと思った。
でも、もしあるのなら。
昨日の朝の私には、きっとなかった顔だ。
優香は窓の外の線路を見た。
「横川ってさ、ちょっと変な町なんだよね」
「変、ですか」
「うん。みんな古くて、不器用で、やたら意地っ張りで。なくなるものを、分かってるのに守ろうとしてる」
私は静かに頷いた。
仕事は減っている。
人も少ない。
時代は変わっていく。
この場所は、ずっと同じではいられない。
「でもね」
優香は笑った。
「だからこそ、今ここにいるって、すごいことだと思うよ」
私は窓の外の線路を見た。
夕陽に照らされたレールは、遠くまで赤く伸びている。
その先に山があって、峠があって、機関車がいて、人がいる。
綺麗なだけの世界じゃない。
むしろ汚くて、きつくて、痛いことの方が多い。
でも、そこに自分の手を入れる余地がある。
ちゃんと働けば、ちゃんと誰かの役に立てる。
実家では、そんな実感は一度も持てなかった。
私は洗い終えた湯呑みを伏せ、ぽつりと呟いた。
「……残りたいです」
優香がこちらを見る。
「ここに」
自分の声なのに、驚くほど静かだった。
「ただ逃げてきただけじゃなくて。ちゃんと仕事ができるようになって、ここにいていいって思えるようになりたいです」
優香は少しだけ目を丸くして、それから優しく笑った。
「うん」
たった一言。
でも、その“うん”は、変に慰めるでもなく、軽く流すでもなく、ただまっすぐ受け止めてくれる音だった。
私は胸の奥が、少しだけほどけるのを感じた。
ここがある。
鉄と油の匂いがする、少し騒がしくて、不器用で、でもあたたかい場所が。
この場所に、残りたい。
そう思った瞬間、それはもう“逃げ場所”じゃなかった。
私が、自分の意志で帰りたいと思った場所だ。
◇
宿舎への帰り道。
夕暮れの線路沿いを一人で歩いていると、背後から足音がした。
「また急に現れないでください」
「まだ何もしてない」
「気配で分かります」
北斗先輩だった。
並んで歩くわけでもなく、少し後ろを歩いている。なんだこの距離感。落ち着かない。
「……先輩」
「何だ」
「私、昨日より今日の方が、この仕事やりたいって思いました」
言ってから、ちょっと後悔した。
なんでこんなことを、この人に報告してるんだ。
でも北斗先輩は馬鹿にしなかった。
「そうか」
「はい」
「なら明日も来い」
「当たり前です」
「遅れるな」
「お姫様出勤しません」
少し間があって、北斗先輩がふっと息を吐いた。
たぶん、笑った。
「神尾」
「はい」
「残りたいと思うなら、覚えることは山ほどある」
「はい」
「手を抜くな」
「抜きません」
「見栄を張るな」
「それは……ちょっと無理かもです」
「だろうな」
また、その言い方だった。
でも今度は嫌じゃなかった。
私は足を止めて、振り返る。
「でも、逃げません」
北斗先輩は夕暮れの中で、少しだけ目を細めた。
「知ってる」
その短い返事だけで、胸がいっぱいになる自分が悔しい。
でも、悪くなかった。
線路の向こうに、夕日に染まった機関庫が見える。
古くて、煤けていて、決して綺麗じゃない建物。
それでも今の私には、どんな立派な家よりも、ずっとあたたかく見えた。
私はその景色を見つめながら、もう一度はっきりと思った。
ここがある。
この、鉄と油の匂いがする、少し騒がしくて温かい場所が。
だから私は、明日もここへ来る。
逃げ込むためじゃない。
残るために。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




