第13話 隣に立つ
その朝、横川はまだ暗いうちから息をしていた。
駅前の空気は冷たく、山から降りてくる風は頬に痛い。けれど、止まっている感じはしない。むしろ逆だ。空が白み始める前から、駅も、売店も、派出所も、もう動いている。
ホームには、早朝だというのに人影があった。大きなカメラを抱えた鉄道ファン、家族連れ、地元の人間、通勤前に立ち寄ったらしい駅員。誰も大声ではしゃいではいないのに、空気だけが濃い。
特急あさまが来る。
横川にとって、それは特別なことだった。
毎日ある仕事の一つでありながら、やはり特別でもある。峠を越える列車、町の顔、ここで働く人間たちの誇りが、いくつも交わる列車だからだ。
私は派出所の前で帽子を被り直した。
指先は冷えている。
でも、震えてはいなかった。
胸の奥には緊張がある。
それでも、最初にこの場所へ来た時みたいに、どこかへ逃げたくなるような緊張ではない。
今日は、自分の意志でここに立っている。
「神尾」
黒石先輩の声が飛ぶ。
「はい」
「気合い入ってる顔してるな」
「悪いですか」
「悪くねえ。だが、気合いだけで列車は動かん」
「分かってます」
「ならいい。今日は繁忙だ。人も多い。気を抜くな」
「はい!」
黒石先輩は私の返事を聞くと、帳票を小さく丸めて肩を軽く叩いた。
「感傷に浸るなよ」
「浸りません」
「怪しいな」
「浸りませんって」
そう言い返すと、黒石先輩はふんと鼻を鳴らして去っていった。
感傷なんて、ないわけがない。
でも、前に出すつもりはなかった。
今日の私は、見送る人間ではなく、動かす側の一人だ。
◇
機関庫へ向かう途中、宿舎の電話が鳴った。
一瞬だけ胸がざわつく。
この時間の電話に、良い予感なんてない。
それでも受話器を取る。
「……はい」
『あずさか』
父の声だった。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。母ではない。それだけで楽だと思ってしまう自分を、まだ少し嫌だと思う。
「うん」
『今日は……その、特急あさまの日なんだろ』
「そうだよ」
受話器の向こうで咳払いが聞こえた。父が言葉を探している時の癖だ。
『母さんがな、行くと言ってる』
私は黙った。
『俺も行く。……どんな顔で働いてるのか、見ておこうと思ってな』
その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
全部理解したわけじゃない。
認めたわけでもない。
でも、“見ようとしている”。
それだけで十分だと思えた。
「そう」
『お前のやってること、正直、今でも全部は分からん』
「うん」
『危ないし、汚れるし、なんでそこまでって思う。……でも、遊びじゃないのは分かる』
父の言葉はいつも不器用で、飾りがない。
でも今は、その飾りのなさがありがたかった。
「ありがとう」
『母さんはたぶん、また変な言い方するぞ』
私は少しだけ笑う。
「分かってる」
『じゃあ、あとでな』
「うん。気をつけて来て」
電話を切る。
受話器を置いたまま、私はしばらく動かなかった。
完全な和解じゃない。
そんなもの、この先も来ないかもしれない。
でも、私はもうそれを必要としていなかった。
分かり合えない部分が残っていても、ここで働くことはもう揺らがない。
◇
機関庫の中は、いつも通り鉄と油の匂いがした。
それだけで少し呼吸が楽になる。
私にとって、この匂いはもう“逃げ込んだ先の匂い”じゃない。働く場所の匂いだ。
EF63の青い車体が朝の光を鈍く返している。台車、配管、連結器、砂箱。手順に従って一つずつ確認していくと、頭の中がきれいに整っていく。
見習いになったばかりの頃は、ただ全部が怖かった。
今も怖くないわけじゃない。
でも、怖さの中で何を見ればいいかは、前よりずっと分かる。
「神尾」
振り向くと、北斗先輩がいた。
「はい」
「焦るなよ」
「焦ってません」
「少し出てる」
「……そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすい」
相変わらず容赦がない。
「今日は、ちゃんと並びたいんです」
気づけばそう言っていた。
北斗先輩は工具箱の蓋を閉め、こちらを見る。
「何に」
「全部に、です」
自分でも少し笑ってしまう。抽象的すぎる。
「先輩にも、現場にも、横川にも」
言葉にしてみると、案外すっきりした。
北斗先輩は数秒だけ黙り、それから低く言った。
「遅れるな」
「はい」
「置いてくな」
その一言に、私は一瞬だけ息を止めた。
前にも似たようなことを言われた。
でも今日は、もっとはっきり伝わる。
ついて来い、ではない。
置いてくな、だ。
それがどれほど大きなことか、この人はたぶん分かっていない。
あるいは、分かったうえでこういう言い方しかできないのかもしれない。
「……はい」
それしか言えなかった。
でも、その返事だけで十分だった。
◇
ホームへ出ると、横川はもう完全に一日の顔になっていた。
駅前では優香の声が飛び、売店では釜めしの湯気が立ち、案内所には観光客が並ぶ。ホームにはカメラの列ができ、駅員たちが人の流れを整えている。
忙しい。
騒がしい。
きれいに整っただけの場所ではない。
でも私は、その全部が好きだった。
「おーい!」
優香がこちらに手を振る。私はホーム端まで歩いていった。
「おはようございます」
「おはよう。今日の顔、いいね」
「顔で褒めるの、やめません?」
「違う違う、そういう意味じゃなくて」
優香は笑う。
「変に背伸びしてない顔してる」
私は少しだけ帽子のつばを触った。
「今日は、飾る理由がないですから」
「うん」
「見せるためじゃなくて、働くためにここにいる日だから」
自分で言いながら、その言葉がしっくりと胸の中に収まるのを感じる。
優香は目を細めた。
「ほんと、変わったね」
「そうですか」
「うん。前は“ここにいたい”が先だったけど、今は“ここで働く”が先に来てる」
私は少しだけ黙った。
たしかにそうだ。
あの頃は、横川は私にとって逃げ込むための場所だった。今は違う。ここは、自分で働き、支える場所だ。
「優香さん」
「ん?」
「今日、両親来るらしいです」
「ほんと?」
「はい」
「そっか」
優香は軽く頷く。
「じゃあ、見せつけなよ」
「何をですか」
「働いてる顔」
その言い方に、私は思わず笑ってしまった。
「雑ですね」
「でも一番効くでしょ」
その通りだった。
◇
ホームの混雑は、列車の接近とともにさらに濃くなった。
案内放送。
ざわめき。
足音。
冬の乾いた空気の中で、レールを伝ってくる振動だけがやけに鮮明だった。
私は規定位置に立ち、全体を見る。
人の流れ。ホーム端。危険位置。売店側からの客の流入。駅員の配置。
前だったら、目立つ列車や声の大きい客ばかりに意識を持っていかれていたかもしれない。
今は違う。
全体の中でどこが崩れそうか、少しだけ見える。
その時、人波の向こうに父と母の姿が見えた。
父は無言で立ち、母は少し緊張した顔でホームを見ている。
私は目が合った瞬間、会釈だけした。
母が少しだけ目を見開き、それからぎこちなく頷く。
それで十分だった。
今日は話す日じゃない。
見せる日だ。
遠くから車輪音が近づいてくる。
特急あさまだ。
ホームの空気が、目に見えないほど少しだけ締まる。
「神尾」
北斗先輩の短い声。
「はい」
「確認」
「はい」
やり取りは短い。
でも、それだけで私の中の余計なものが剥がれていく。
特急あさまが、朝の光の中をホームへ滑り込んできた。
美しいと思った。
でもそれは、見物客としての感傷じゃない。
ここまで積み上げられた手順と仕事の重さが、ひとつの列車の形になっていることへの感情だった。
停止。
確認。
安全。
次の動き。
その途中で、ホーム端の一角が少し乱れた。カメラを持った客が一歩前へ出すぎる。危ない位置だ。
「下がってください!」
声が自然に出る。
怒鳴るのではなく、止めるための声。
客がはっとして下がる。すぐに駅員が補助に入り、流れは乱れずに済んだ。
小さなことだ。
でも現場は、こういう小さなことで守られる。
私は静かに息を吐いた。
ちゃんと立てている。
誰かの後ろじゃなく、自分の足で。
◇
出発準備は正確に進んだ。
連絡。確認。敬礼。
ひとつひとつを、余計な力を入れず身体に通す。
フラッシュが光る。
歓声が上がる。
けれどもう、その光も声も、私の足元を揺らさなかった。
特急あさまが動き出す。
レールを伝って重みが遠ざかっていく。
ホームの人々が一斉に視線を送る。
私は敬礼した。
帽子のつばに添えた指先は、まっすぐだった。
列車が小さくなっていく。
見えなくなっても、私はすぐには動かなかった。
終わりではない。
たった一本の列車が、いつものように横川を通っていっただけだ。
でも、その“いつものように”の中に、今の私がちゃんといた。
それがどうしようもなく誇らしかった。
◇
人波が少し落ち着いた頃、私は両親の方へ向かった。
母は制服姿の私を見て、それからホームと機関庫を見比べるようにしていた。父は咳払いを一つして、先に口を開いた。
「……忙しそうだな」
「うん。今日は特に」
父は頷いた。
「ちゃんと働いてるんだな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「働いてるよ」
私は言った。
母はしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開く。
「思っていたより……ずっと、ちゃんとしてた」
「それ、前も聞いた気がする」
つい笑ってしまうと、母は少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
「だって、こういう場所で……その、そんなふうに立ってるとは思ってなかったのよ」
「どんなふうに?」
「……堂々と」
その一言は、母にしては十分すぎるくらいまっすぐだった。
私は少しだけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「全部分かってもらわなくていいよ」
母がこちらを見る。
「でも、遊びじゃないって分かってくれたなら、それでいい」
父が小さく頷き、母もゆっくり息を吐いた。
「……本気なのは、分かったわ」
私は笑った。
「私の職場、最高でしょ」
母は困ったように、でもほんの少しだけ笑う。
「そうみたいね」
全面的な理解なんてない。
けれど、拒絶だけでもない。
その距離で十分だった。
「終わったら、少し話す」
私がそう言うと、父は「ああ」と答えた。
母も黙って頷いた。
◇
ホームの片づけが進み、客の数が減り始めた頃、私は機関庫裏の通路で北斗先輩を見つけた。
いつものように壁にもたれて、缶コーヒーを持っている。
騒がしい一日のあとでも、この人だけは妙に普段通りだ。
「先輩」
「何だ」
私は少しだけ足を止めた。
ここで何を言いたいのかは、もう分かっている。
でも、声にするまでに少しだけ勇気が要った。
「先輩の隣に、立てましたか」
北斗先輩はすぐには答えなかった。
数秒、私を見て、それから低く言う。
「とっくに立ってる」
その一言で、胸の奥に張っていたものがすっと緩む。
冗談でもなく、濁しもなく、ただまっすぐに返された。
それが嬉しくて、少しだけ息が苦しくなる。
「……ほんとに?」
「何度も言わせるな」
「そこは、もう少しこう」
「面倒くさいな」
そう言いながら、北斗先輩の声は少しだけ柔らかかった。
私は思わず笑う。
言いたいことは、もっとたくさんある。
守られて悔しかったこと。認められたかったこと。隣に立ちたいと思っていたこと。
でも今は、その全部を説明しなくてもいい気がした。
「神尾」
「はい」
「明日も遅れるな」
私は一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。
「はい」
終わりじゃない。
特別な別れでもない。
明日がある。次の勤務がある。次の貨物も、次の点検も、次の叱責もある。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
◇
「神尾! 何ぼさっとしてる!」
ホームの向こうから黒石先輩の怒声が飛ぶ。
「次の確認だ! 感傷は終わったか!」
「はい!」
反射みたいに返事をして、私は走り出した。
鉄と油の匂いがする。
少し騒がしくて、不器用で、でも温かい場所。
ここはもう、逃げ込むための場所じゃない。
私はここで働いている。
明日も、その次も、たぶんずっと。
ホームを渡りながら、私は自分の足音を聞いていた。
置いていかれる音じゃない。
同じ現場へ向かう音だ。
◇
夜。
宿舎に戻った私は、机に向かってノートを開いた。
最後のページに、ゆっくりと書いていく。
ーー今日は自分の足で立てた
両親は全部分からなくても、本気は見た
先輩に「とっくに立ってる」と言われた
特急あさまは今日も走った
横川派出所の日常は続いていく
私も、その中にいる
ペンを止めて、少し考える。
それから、もう一行書いた。
ーー私はもう、帰る場所のない少女じゃない。
さらに、その下に。
ーー私は、ここで働く鉄道員だ。
書き終えて、私は小さく息を吐いた。
窓の外には、夜の機関庫の灯りが見える。
初めてこの灯りを見た時、私はそこに逃げ込むことしか考えていなかった。
今は違う。
あそこは、私が働く場所だ。
汚れて、冷えて、怒鳴られて、でも誇らしい場所だ。
たぶん、この先もずっと楽じゃない。
悔しいことも、怖いことも、たくさんある。
それでも、もう分かっている。
私はここにいていい。
いや、違う。
私はここで働く。
窓を少しだけ開ける。
夜の冷たい空気の中に、鉄と油の匂いが微かに残っていた。
私はその匂いを胸いっぱいに吸い込んで、小さく笑った。
「私の職場、最高でしょ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
詰所の電話が遠くで鳴る。
誰かの声がする。
現場は、今日も止まらない。
そして、その中に、もう私はいる。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




