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第12話 すっぴんの敬礼

 朝の鏡に映った自分を見て、私は少しだけ笑った。


 ひどい顔だ。


 寝不足ではない。

 むしろ昨夜は久しぶりにちゃんと眠れた。

 それでも目の下にはうっすら疲れが残っているし、冬の乾燥で頬は少し荒れている。前髪だって完璧には決まっていない。


 でも、嫌じゃなかった。


 机の上には、優香が以前


「一応持っときな」


 と押しつけてきた小さな化粧ポーチがある。

 手を伸ばしかけて、止めた。


「……今日は、いいや」


 誰に見せるためでもない。

 今日の私は、誰かの期待する“見え方”に寄せる必要がない。


 顔を洗い、髪を整え、制服の襟を正す。

 帽子を被る。

 それで十分だった。


 鏡の前の私は、華やかでも、可愛くも、特別でもない。

 ただの機関士見習いだ。


 そして今の私は、そのことを少しだけ好きだと思えた。


     ◇


 詰所に入ると、いつもと違う緊張があった。


 声が小さい。

 動きが速い。

 誰も無駄話をしていない。


 今日の横川には、お召し列車に準ずる特別運転の関連列車が入る。

 要人の移動ではないが、対外的な扱いはかなり重い。ダイヤの乱れは許されず、保安確認も通常以上に厳しい。派手さのない一日になるはずなのに、現場だけがその重さを知っている。


「神尾」


 黒石先輩が資料を渡してくる。


「今日、お前は予備要員だ」


「予備……」


「不満か」


「いえ」


 不満じゃない。

 そう言い切れるほど、私はまだ綺麗にできていない。


 少しだけ悔しい。

 少しだけ、前に立ちたいと思ってしまう。


 でも同時に、今の自分が主役に立つ位置じゃないことも分かっていた。


「勘違いするなよ」


 黒石先輩が低く言う。


「予備は、要らん奴の席じゃねえ。出たら終わらせる奴の席だ」


 私は背筋を伸ばした。


「はい」


「表に出なくても、全部見てろ。何かあったら即動け」


「はい!」


 その返事に、黒石先輩はほんの少しだけ顎を引いた。

 褒めてはいない。

 でも、悪くもなかった。


 窓際では北斗先輩が保安資料を確認していた。

 白い紙の上を指で追いながら、顔を上げずに言う。


「神尾」


「はい」


「今日は“出ないこと”も仕事だ」


 私は一瞬、言葉の意味を測る。


「……不用意に前へ出るな、ってことですか」


「そうだ」


「分かってます」


「本当に分かってるならいい」


 その返しが少しだけ意地悪で、私は唇を尖らせた。


「先輩、私がすぐ無茶する前提で喋ってません?」


「前例がある」


「否定できないのが悔しいです」


 宮城先輩が奥で吹き出した。

 緊張した空気の中で、その小さな笑いが少しだけ肩の力を抜いてくれる。


     ◇


 構内は朝から磨き上げられていた。


 レールの確認。ポイント点検。信号保安。連結状態の再確認。

 気温は低いが、空はよく晴れている。前回の豪雪が嘘みたいだった。


 私は予備要員として、点検の補助と待機を繰り返していた。


 待機は、楽ではない。


 何もしていないわけじゃない。

 むしろ、いつでも入れるように身体も頭も張っていなければならない。

 でも目立たない。成果も見えにくい。

 “主役じゃない”という感覚が、じわじわ自意識を刺激してくる。


 ホームの端で北斗先輩たちの最終確認を見ながら、私は小さく息を吐いた。


「神尾ちゃん」


 振り向くと、優香が立っていた。

 今日は売店側もかなり気を張っているらしく、いつもの明るさの中に少しだけ固さがある。


「おはようございます」


「おはよう。あれ、今日ほんとに何も塗ってないんだ」


 顔を覗き込まれ、私は苦笑する。


「はい。なんか、今日はいいかなって」


「いいと思う」


 優香はあっさり言った。


「今日のあずさちゃん、変に作ってなくて、すごくいい顔してる」


「褒めてます?」


「かなり」


 私は少しだけ照れくさくなり、視線を逸らした。


「なんか……今日は、飾る理由がない気がして」


「うん」


「前は、見られるなら少しでもちゃんとしてなきゃって思ってたんですけど」


「うん」


「でも今日は、見せるためじゃなくて、ちゃんと立つための日だから」


 言葉にしながら、自分でも妙にしっくりきた。


 今日の私は、何かの象徴でも、話題づくりでもない。

 ただ、現場にいる一人として立つ。

 その事実があれば、余計な装飾はいらなかった。


 優香は少しだけ目を細めた。


「いいね、それ」


「そうですか」


「うん。そういうの、自分で言えるようになったんだ」


 言われて、私は少しだけ黙った。


 たしかにそうかもしれない。

 少し前なら、こんなふうには言えなかった。


     ◇


 特別運転の関連列車が近づくにつれ、構内の空気はさらに張った。


 ポイントよし。

 信号よし。

 連結よし。

 構内無線も無駄がない。


 私はホーム脇で待機しながら、ひたすら全体を見ていた。

 前に出たい気持ちはある。

 でも今日は、自分から飛び出す日じゃない。


 その時、機関車側から短い声が飛んだ。


「神尾!」


「はい!」


 反射で駆ける。


 宮城先輩が手袋を外したまま、少し顔をしかめていた。


「留め具、交換頼む。指先の感覚が飛んだ」


「私が?」


「予備だろ。今ここで一番空いてる」


 一瞬だけ迷い、すぐに頷く。


「やります」


 工具箱を開く。

 留め具を外し、固定を確認し、連結周りを再チェック。

 大きな作業ではない。

 でも今、この数分の遅れすら許したくない。


 指先は冷たい。

 それでも、動きは落ち着いていた。


「……よし」


 自分で確認して顔を上げると、宮城先輩が短く言った。


「悪くない」


「ありがとうございます」


「そのまま周辺確認入れ」


「はい!」


 私はすぐに次へ動いた。


 予備要員。

 つまり、隙間を埋める人間だ。

 それは主役ではない。

 でも、“そこに誰かがいてくれてよかった”という役割でもある。


 そのことが、今の私には前より少しだけ分かる。


     ◇


 列車の進入が近づいた頃、ホームに張りつめた静けさが降りた。


 遠くから聞こえる車輪音。

 風の音。

 構内放送の短い案内。


 私は規定位置に立ち、帽子のつばを指で整えた。

 今日は笑わない。

 無理に柔らかくもしない。

 ただ、正しく立つ。


 列車がホームへ滑り込んでくる。

 きっちりとした制動。

 無駄のない停止。


 その瞬間、胸の奥で少しだけ熱いものが動く。

 これだ。

 これを支える側に、自分もいたい。


 誘導、確認、敬礼。

 動きは短く、正確に。

 私は自分の役割の中で、一つも余計なものを乗せないように身体を使った。


 列車が無事に処理され、構内の緊張が少し緩んだ頃、私はようやく息を吐いた。


「神尾」


 背後から北斗先輩の声。


「はい」


「来い」


 短く呼ばれ、私は機関庫脇の人の少ない通路へついていく。


「何ですか」


「さっきの留め具対応」


「はい」


「判断は悪くなかった」


 私は一瞬、言葉を失った。


「……かなり褒めてます?」


「しつこいな」


「先輩が珍しいからです」


 北斗先輩は呆れたように息を吐いた。

 でも、完全には否定しない。


「神尾」


「はい」


「今日は前に出たくてうずうずしてただろ」


「……少し」


「少しじゃないな」


「かなり、です」


 正直に言うと、北斗先輩は小さく頷いた。


「でも出なかった」


「はい」


「そこは成長だ」


 その一言が、妙に嬉しい。


「予備って、思ったより難しいですね」


「そうだな」


「何もしないで待つんじゃなくて、全部見てて、穴が空いたら入る」


「そうだ」


「目立たないし、評価もされにくい」


「そうだな」


「でも、必要だって分かりました」


 北斗先輩は壁にもたれ、少しだけ私を見た。


「分かったならいい」


 そこで終わると思ったら、私は少しだけ踏み込んだ。


「先輩」


「何だ」


「私、先輩の相棒でいたいです」


 言った瞬間、自分で自分の心臓が跳ねた。


 なんで今ここで、こんなことを。

 もっと言い方があっただろう。

 でも、引っ込められない。


 北斗先輩は黙った。

 その沈黙が、やけに長く感じる。


「……相棒、ね」


 低く返ってきた声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「まだ早いですか」


 半分は冗談のつもりで聞いた。

 でも声は少しだけ本気だった。


「そういうのは」


 北斗先輩が言う。


「自分で名乗るもんじゃない」


「うわ、厳しい」


「事実だ」


「でも否定はしないんですね」


「面倒くさいな、本当に」


 そう言いながらも、先輩は目を逸らさなかった。


「神尾」


「はい」


「今日のお前は、少なくとも現場に立ってた」


 胸の奥がじわっと熱くなる。


「飾ってない顔の方が、らしいな」


 その一言に、私は完全に言葉を失った。


 見ていた。

 そういうところを、この人はちゃんと見ている。


「……先輩、それ反則です」


「何がだ」


「そういうの、急に言うの」


「別に褒めてない」


「どう考えても褒めてます」


 北斗先輩は少しだけ口元を歪めた。


 笑った。

 今度こそ、たぶん本当に。


     ◇


 その後、夕方の構内でちょっとした確認ミスが見つかった。


 大事には至らない。

 ただ、記録の転記が一箇所ずれていた。こういう特別運転の日に見逃せば、あとで面倒になる類の小さなミスだ。


「神尾」


 区長に呼ばれ、私はすぐに返事をした。


「はい」


「これ、追えるか」


 紙を見た瞬間、私は頷いた。


「追えます。さっきの留め具交換の時刻と、その後の確認順で見れば繋がるはずです」


「やってみろ」


「はい」


 詰所の中で、私は帳票と運転記録を照合した。

 周囲の声は遠い。

 紙の数字と時刻をひとつずつ繋ぎ、どこでずれたかを拾う。


 以前より、少しだけ早くできた。

 全部を見ようとして何も見えなくなるんじゃなくて、必要な順番を選んで追えるようになっていた。


「……ここです」


 私は記録票を差し出す。


「転記ミスはこの時点。現場処理は正しいので、訂正で済みます」


 区長が紙を見て、ゆっくり頷いた。


「よし。助かった」


 たったそれだけ。

 でも、その“助かった”が思ったより深く刺さる。


 役に立った。

 予備でも、補助でも、ちゃんと役に立てた。


     ◇


 日が落ちたあと、構内の張りつめた空気はようやく解けた。


 特別運転は無事終了。

 大きなトラブルなし。

 現場にとっては、派手さのない一番いい終わり方だ。


 機関庫の前で空を見上げると、澄んだ夜気の中に星がいくつか見えた。

 雪の翌日とも違う、乾いた静けさがある。


「お疲れ」


 優香が缶入りの甘いコーヒーを差し出してくる。


「ありがとうございます」


「どうだった?」


「……変な感じでした」


「何が」


「主役じゃないのに、すごく大事な日に立ってる感じ」


 優香が笑う。


「いいじゃん、それ」


「いいんですかね」


「いいよ。だって今日のあずさちゃん、すごくちゃんとしてた」


 私は少しだけ肩の力を抜いた。


「今日は、変に盛らなくてよかったです」


「うん」


「すっぴんでよかった」


 口にしてから、自分で少し驚いた。

 でも、それが一番しっくりきた。


 作った顔じゃない。

 誰かの期待する見え方でもない。

 ただの私で、ちゃんと立てた。


「もう、“見られる私”じゃなくて、“働く私”の方が大きくなってきたんじゃない?」


 優香が何気なく言う。


 私は缶コーヒーを握りながら、少しだけ考えた。


「……そうだと、いいです」


「なってるよ」


 優香は迷わず言った。


     ◇


 宿舎に戻って、私は鏡を見た。


 朝とほとんど変わらない顔。

 いや、少しだけ違う。疲れている。でも、その疲れ方が嫌じゃない。


 机に向かい、ノートを開く。


 今日のことを書き出す。


ーーすっぴんで立った

  飾らなくても、現場では困らなかった

  予備要員は“主役ではないが必要な人”の席

  出ないことも仕事

  穴が空いた時に入れるように見ておくことが大事

  自分の役割を受け入れた時、落ち着いて動けた

  相棒でいたい、と口にした


 最後の一行だけ、少し見つめる。


 相棒でいたい。

 まだ早いのかもしれない。

 でも、もう引っ込める気はなかった。


 私は続けて書く。


ーー飾らない私で、ここに立つ。


 さらに、その下に。


ーー帰る場所のない少女じゃない。ここで働く鉄道員になる。


 ペンを置いた時、胸の奥に静かな熱が残っていた。


 今日、私は主役ではなかった。

 でも、だからこそ見えたものがある。

 前に出るだけが立つことじゃない。誰かの穴を埋めるために待つことも、正しく立つことの一つだ。


 それを、自分の顔のままで引き受けられた。

 たぶん、それは前より少し強くなったということだ。


 窓の外の夜は静かだった。

 機関庫の灯りが遠くに滲んでいる。


 私はその灯りを見ながら、小さく息を吐いた。


 次に前へ出る時も、きっと同じ顔でいたい。

 作った私じゃなく、働く私で。


この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。

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