第11話 雪の中で、選ぶ
雪は、昼前から降り方を変えた。
最初はただの冬らしい降りだった。
山から静かに流れてくる白い粒が、ホームの端や線路脇を薄く染めていく程度。横川にいれば珍しくもない景色だ。
でも、正午を回る頃には違った。
風が混じる。
雪が横から叩きつけてくる。
ホームの向こうの信号機が、時々白い幕の向こうに消える。
「……やばいな」
詰所の窓から外を見て、宮城先輩が低く言った。
私は隣に立ち、黙って線路の先を見た。
碓氷峠の山影は完全に消えている。見えるのは雪だけだ。白く、重く、容赦なく降っている。
事務室の中では電話が鳴りっぱなしだった。駅から、支社から、軽井沢側から、貨物指令から。黒石先輩が受話器を握るたび声が大きくなり、佐久間区長の顔は朝からずっと険しい。
「高崎方、信号故障?」
「停電か?」
「違う、瞬低だ。だがこの雪じゃ油断できん……!」
情報が錯綜していた。
その中で、一つだけはっきりしていることがある。
まずい。
かなりまずい。
「神尾」
「はい」
黒石先輩が振り返る。
「駅前に行け。売店、案内所、待合室、全部状況見てこい。客が増えてるはずだ」
「はい!」
私は帽子を被り直し、外へ飛び出した。
◇
駅前は、雪に押しつぶされかけていた。
駅舎の屋根から雪がずるりと落ちる。
ロータリーには乗り遅れた観光客が溜まり始めていて、タクシー乗り場には長い列。案内所の前では何人もが時刻表を覗き込んでいる。売店の釜めしは飛ぶように売れ、ホームへ戻る客も、戻らない客も、みんな落ち着かない顔をしていた。
「こっちです、慌てないでください!」
「今確認中です、列車はまだ完全には止まってません!」
「お子さん優先で中にどうぞ!」
優香の声が、雪の中でもよく通る。
私は走って近づいた。
「優香さん!」
「あずさちゃん、よかった!」
優香は一瞬だけほっとした顔をして、すぐに引き締める。
「軽井沢方、かなり乱れてる。待合室もういっぱい。釜めしも追加分出してるけど追いつかない」
「列車は?」
「今のところ完全停止じゃない。でもこの雪、たぶんもうすぐ来る」
その言い方に、私は息を呑んだ。
“来る”。
混乱が本格的に来る。
「案内所、手足りてますか」
「足りない。全然」
「入ります」
「助かる!」
その瞬間、待合室の中から子どもの泣き声が上がった。
年配の夫婦がバスの時刻を聞きに来る。若い観光客が
「いつ動くんですか」
と詰め寄る。駅員は電話を肩に挟んで走っている。
私は自然と身体が動いていた。
「こちら、少し詰めてください!」
「高崎方面の確認、今駅に取ってます!」
「足元滑るので走らないで!」
現場だ。
運転台じゃない。でも、間違いなく現場だった。
列車が止まれば、人が溜まる。
人が溜まれば、不安が増える。
不安が増えれば、小さな混乱が大きくなる。
その流れを少しでも遅らせるのも、今の横川の仕事だ。
◇
午後一時過ぎ、ついに電話が変わった。
高崎方で送電系統に異常。
軽井沢方でも雪による視界不良と信号トラブル。
峠の中腹で列車が抑止。横川・軽井沢双方で足止めが発生。
詰所に戻った私を待っていたのは、さらに張りつめた空気だった。
「完全に来たな……」
宮城先輩が低く言う。
ホワイトボードのダイヤ欄には赤線が増え、手書きの変更が何重にも重なっている。
紙の上の秩序が崩れ始めた時、現場は一気に忙しくなる。
「神尾」
佐久間区長が私を見る。
「待合室の状況は?」
「混雑してます。案内所も売店も人が足りません。バス問い合わせが増えてます」
「そうか……」
区長は深く息を吐いた。
「横川で抱えるしかないな」
その時、詰所の電話が鳴った。
区長が受話器を取る。数秒後、その顔色が変わる。
「……何?」
室内の空気が固まる。
「軽井沢駅前のイベント会場脇で、西園寺くんが足止め……?」
私は反射で顔を上げた。
「本人は無事です。ただ、応援要員と一緒に動けず、駅構内の誘導に残っていると」
「分かった。連絡は維持してくれ」
受話器を置いた区長は、額を押さえた。
「軽井沢側も相当詰まってるな」
私は思わず一歩前へ出た。
「私、行きます」
一瞬、全員がこちらを見る。
「何を言ってる」
黒石先輩が即座に切り返す。
「軽井沢方は今一番不安定だ。新人が行く場所じゃねえ」
「でも、軽井沢側に人が足りないなら――」
「足りなくても、お前を飛ばしていい理由にはならん!」
怒声はもっともだ。
でも、引けなかった。
志織の顔が浮かぶ。
あの完璧な人が、雪の中で一人で捌いている姿。
それを想像した瞬間、胸の奥に妙な熱が走った。
ライバルだから、じゃない。
現場に立っている人間を、そのままにしておけない。
「じゃあ、私はどこで動けばいいですか」
私は黒石先輩を見る。
「ここで足手まといにならない場所、今どこですか」
怒鳴り返すつもりはなかった。
でも声は、思ったより真っ直ぐ出た。
黒石先輩が言葉を詰まらせる。
そこで北斗先輩が口を開いた。
「横川駅構内の整理と待機客対応。それから救援編成の補助」
私はすぐ頷いた。
「やります」
「……神尾」
宮城先輩が少しだけ難しい顔をする。
「無理してる顔してるぞ」
「してます」
自分でも驚くくらい、あっさり認めた。
「でも、帰りません」
その瞬間、詰所の空気が少し変わった。
帰る。
それは今、現場から離れることだけじゃない。
この状況から目を逸らして、自分の怖さに引っ込むことも含んでいた。
「私、残ります」
はっきり言った。
「今ここが一番きついなら、ここにいます」
沈黙。
その後で、区長が小さく頷いた。
「……分かった。なら動け」
それだけで十分だった。
◇
その数分後、宿舎の部屋に置いていた私物を取りに戻った時、電話が鳴った。
見なくても分かる気がした。
受話器を取る。やっぱり、母だった。
『あずさ!? ニュースで見たわよ、そっち雪が大変なんでしょう! もう帰ってきなさい!』
私は部屋の窓の外を見た。
白い。世界が白い。
でも、もうその白さに飲まれる感じはしなかった。
「帰らない」
即答だった。
『何言ってるの、危ないじゃない!』
「危ないから、帰らない」
『意味が分からないわよ!』
「今、横川が大変なんだよ」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「列車が止まりそうで、人が溢れてて、現場が足りないの。だから私は帰らない」
『そんなの、もっと偉い人たちがやることでしょう! あんたが無理する必要ないわ!』
胸の奥で、何かが冷たく固まる。
前なら揺れたかもしれない。
“もっと偉い人”の陰に自分を隠したかもしれない。
でも今は違った。
「あるよ」
『え?』
「必要、あるよ。私は横川で働いてるから」
短く、でもはっきり言う。
「今ここが私の仕事場なんだよ」
受話器の向こうで、母が黙る。
「危ないから帰るんじゃない。危ない時に、ここにいるのが私の仕事なの」
自分で言っていて、胸の奥に一本、硬いものが通るのが分かった。
『……あずさ』
「もう切る。忙しいから」
『でも――』
「帰りません」
最後にはっきり言って、受話器を置いた。
手は少し震えていた。
でも、迷いはなかった。
◇
夕方が近づくにつれ、雪はさらに深くなった。
駅構内では足止め客の誘導。
売店では温かいものの供給。
待合室では座れない人に毛布。
構内放送では状況説明。
派出所では救援編成の組成と、いつ動けるか分からない列車の準備。
横川はもう、町ごと現場になっていた。
「神尾、毛布三枚持ってこい!」
「はい!」
「案内所から追加のポット来た、待合室に回せ!」
「はい!」
「お子さんいる家族、先に中へ!」
声が飛ぶ。
私は走る。
でも今度は足元をちゃんと見る。視野を広く持つ。滑りやすい場所を先に踏み、周囲の人の流れを読む。
この前転んだ痛みが、今は身体の使い方に変わっていた。
待合室の片隅で、泣いていた子どもに釜めしの包みを渡す。
年配の夫婦に毛布をかける。
駅員と連携して、通路の滞留をほどく。
どれも小さなことだ。
でも、その小さなことの積み重ねが、今は大きい。
「神尾!」
優香が叫ぶ。
「軽井沢から連絡! 西園寺さんたち、構内の誘導まだ続いてるって!」
私は一瞬だけ足を止めた。
「怪我は!?」
「無事! でも冷えてるはず!」
よかった、と胸の奥で思う。
同時に、悔しさでも恋でもない、妙な連帯感みたいなものが湧く。
あの人も今、同じように立っている。
雪の中で、客を捌いて、顔を上げて、崩れないようにしている。
負けたくない。
でも、それ以上に、無事でいてほしい。
◇
夜に近づく頃、救援編成の準備が本格化した。
停電は断続的に回復傾向にあるが、峠の中腹では列車が抑止されたまま。状況確認と客の収容準備を兼ねて、補機と要員を出せるようにしておく必要がある。
機関庫の前で、私は北斗先輩の補助に入っていた。
「連結確認」
「はい」
「空気管、漏れなし」
「確認しました」
「砂、補充」
「完了です」
寒さで指先の感覚が鈍い。
でも頭は不思議と冴えていた。
怖い。
もちろん怖い。
でも今はその怖さより、“やることがある”ことの方が大きい。
「神尾」
「はい」
「今、何を優先してる」
急な問い。
でも今回は止まらない。
「客の安全確保。その次に列車の再開準備。今の作業は、そのための前提です」
北斗先輩がこちらを見る。
「その理由は」
「峠が止まったままだと、横川側も軽井沢側も人が溜まり続けるからです。今は一つでも早く、動ける選択肢を作る方が全体の混乱を減らせます」
言い切った後、少しだけ息が上がる。
でも、言えた。
北斗先輩は短く頷いた。
「よし」
その一言が、ひどく重く、嬉しかった。
◇
その後、待合室で一つ小さな揉め事が起きた。
足止めされた若い男が
「どうしてはっきり再開時刻を言わないんだ」
と駅員に詰め寄っていた。
駅員も限界に近い顔をしている。声を荒げれば、一気に空気が悪くなる。
私はとっさに間へ入った。
「お客様」
「何だよ!」
怒鳴られても、足は引かなかった。
「今、確約できる情報だけをお伝えしています。曖昧な時間を言って、それが外れる方が余計に混乱します」
「でも待たされてる側は困るんだよ!」
「はい。分かります」
分かる、と口にした瞬間、不思議と相手の声が半拍落ちた。
「だからこそ、今は温かい場所と次の案内を優先しています。必要なら高崎方面の代替手段の案内もします。怒る先を探すより、今動ける手を一緒に探させてください」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声だった。
男はしばらく私を睨んでいたが、やがて舌打ちして視線を逸らした。
「……分かったよ」
「ありがとうございます」
その場を収めたあと、私は少しだけ膝が震えるのを感じた。
「今の、よかった」
隣で優香が小声で言う。
「そうですか」
「うん。ちゃんと選んで喋ってた」
選んで喋る。
前なら、悔しさか怒りで噛みついていたかもしれない。
でも今は違った。
守りたいものが、自分の意地だけじゃなくなっていた。
◇
夜。
雪はようやく少しだけ勢いを落とし始めた。
待合室の混乱も、完全ではないがひとまず山を越えた。救援編成の準備も整い、あとは指示待ち。機関庫の前で私は深く息を吐いた。
その時、軽井沢側から無線が入る。
構内整理が一段落。
志織も無事。
軽井沢側の対応班に大きな怪我人なし。
その知らせに、私は肩の力が抜けるのを感じた。
「よかったですね」
隣にいた宮城先輩がちらっとこちらを見る。
「誰がだ」
「……みんなです」
「今、一瞬間があったな」
「気のせいです」
「分かりやすいな」
そんな軽口を叩けるくらいには、少し空気が戻ってきていた。
その少しあと。
機関庫の脇で北斗先輩に呼ばれた。
「神尾」
「はい」
「今日はよく動いた」
私は一瞬、言葉を失った。
「……それ、かなり褒めてます?」
「事実だ」
「じゃあ褒めてるんですね」
「面倒くさいな」
でも、先輩の声はいつもより少しだけ柔らかかった。
「お前、今日は自分で残ると決めたな」
その一言が胸の奥に落ちる。
「……はい」
「言われて動いただけじゃない」
私は小さく頷いた。
たしかにそうだった。
怖かった。揺れた。でも帰らないと、自分で言った。自分で残ると決めた。
「それは大きい」
短い評価。
でも、今日の私はその一言で十分だった。
「先輩」
「何だ」
「私、今まで“ここにいたい”ばっかり思ってました」
「……」
「でも今日は、“ここで働く”って、少し分かった気がします」
雪明かりが、機関庫の外に白く反射している。
その中で、北斗先輩はほんの少しだけ目を細めた。
「そうか」
「はい」
「なら、次はもっとやれる」
それは期待だった。
少なくとも、私はそう受け取った。
◇
宿舎に戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
制服は湿って重い。靴も冷えきっている。
でも心の奥には、不思議な熱が残っていた。
机に向かい、ノートを開く。
今日のことを書こうとして、少しだけペンが止まる。
書きたいことが多すぎる。
雪、停電、怒号、子どもの泣き声、優香の声、志織の無事、先輩の一言。
全部が白い雪の中で、妙に鮮明だった。
私は一行目に、ゆっくり書いた。
ーー今日は、自分で残ると決めた。
それから続ける。
ーー帰らないと自分で言えた
怖さより、やることを優先できた
守りたいのは自分の居場所だけじゃない
横川で働く人たちと、ここに来た人たちを守りたい
ここに“いたい”から、ここで“働く”へ変わった
最後に、もう一行。
ーー私はここにいる。ここで働く。
文字を見つめていると、胸の奥が静かに満ちていった。
前より少しだけ、自分の足で立てた気がする。
まだ足りない。まだ未熟だ。
でも今日は、誰かに押し出されただけじゃなかった。
雪の夜の中で、自分で選んで立った。
それだけは、確かだった。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




