第1話 雨の日のデビュー
鉄の匂いは、思っていたよりずっと重かった。
雨に濡れたアスファルトの湿った匂い。
鼻の奥を刺す機械油。
焦げたブレーキの残り香みたいな熱っぽさ。
全部が混ざって、横川の朝の空気になっていた。
私はその中に立っていた。
いや、立ち尽くしていた、の方が近い。
制帽のつばを叩く雨粒が、頬を伝って首筋へ落ちる。支給されたばかりの青いナッパ服は、もう雨を吸って重かった。
「……最悪」
小さく呟いた声は、すぐ雨音に呑まれた。
群馬県・横川。
信越本線、碓氷峠の麓。
高崎機関区横川派出所。
今日からここが、私の職場だ。
――たぶん、最後の逃げ場所でもある。
◇
数十分前。
派出所に隣接する古い宿舎の六畳一間で、私はスマートフォンの画面を睨んでいた。
『不在着信 母』
昨夜から何件も並んでいる。
嫌な相手ほど、着信履歴だけで息が詰まる。
私は短く息を吐いて、留守番電話を再生した。
『あずさ、いい加減にしなさい』
そこで止めた。
続きなんて聞かなくても分かる。
女の子なんだから。
そんな汚れる仕事。
安定したところにしなさい。
地元に戻ってきなさい。
全部同じだ。
「帰らない」
口に出す。
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるみたいに。
「絶対に」
実家は、私にとって安心する場所じゃない。
“普通”を押しつけられて、勝手に進路を決められて、都合のいい娘役を期待される場所だ。
あの家に戻るのは、負けることだと思っている。
いや、もっと悪い。自分の人生を、自分で諦めることだ。
私は立ち上がって、鏡を見た。
そこに映っているのは、ぶかぶかの作業着を着た、顔色の悪い二十歳の女。寝不足で目の下にうっすら影がある。お世辞にも華やかじゃない。
「……でも」
帽子を被り直す。
「こっちの方がマシ」
綺麗な顔で従う人生より、泥だらけでも、自分で選んだ仕事の方がいい。
そう思ったから、私はここまで来た。
両頬を軽く叩く。
「神尾あずさ、出勤。泣き言は終わり」
そう言って、私は傘も差さずに雨の中へ飛び出した。
◇
「ふざけるなッ! こっちは規定雨量ギリギリなんだぞ!」
派出所の事務室に入った瞬間、怒号が飛んできた。
私は入口で肩を跳ねさせた。
黒電話の受話器を握って怒鳴っているのは、佐久間区長だった。普段は穏やかな人だと聞いていたのに、今は顔を真っ赤にしている。助役の山村さんはダイヤグラムの前で青ざめ、FAXはひっきりなしに紙を吐いていた。
「上越線の土砂崩れで貨物がこっちに迂回だと? 三本も!? 現場を殺す気か!」
空気がぴりついている。
新人の私にだって分かる。ただ事じゃない。
「神尾!」
「は、はいっ!」
振り向くと、黒石数馬先輩がいた。
大きい。声がでかい。近い。怖い。
人間というより怒った機関車だ。
「ぼさっとしてるな! 出撃準備だ!」
「しゅ、出撃って何ですか!? 私、今日座学って聞いて――」
「予定は死んだ! 上越が止まった! 貨物が流れてくる!」
黒石先輩がホワイトボードを叩く。
元のダイヤの上から、乱暴に時刻が書き足されていた。
「一本目は俺。二本目は北斗。三本目――」
嫌な予感がした。
すごく嫌なやつだ。
「お前だ」
「はい?」
聞き間違いであってほしかった。
「三本目の補機。神尾、お前が乗れ」
「無理です!」
反射だった。
「いや無理ですって! 今日が実質初日ですよ!? 雨ですよ!? 碓氷ですよ!? 死にます!」
「死ぬかどうかはお前次第だ!」
「その答えがもう嫌です!」
思わず言い返すと、事務室が一瞬だけ静まり返った。
しまった。
でも引っ込められない。引っ込めたら、そのまま本当に乗せられる。
「神尾はまだ研修中だ」
佐久間区長が割って入る。
「本線の単独乗務経験もない。この豪雨の中で重量貨物は無茶だ」
「じゃあどうするんですか!」
黒石先輩が怒鳴り返す。
「一本目と二本目の間隔は三十分もねえ! 俺が軽井沢まで行って戻ったら間に合わん! 宮城は別件で塞がってる、北斗も一本抱える! 空いてんのはこいつだけだ!」
私はその言葉で理解した。
脅しじゃない。
根性論でもない。
ただ、人数が足りないのだ。
横川派出所は少人数で回っている。
たった四人で、この峠を支えている。
だから今、空いている手が私しかない。
分かった瞬間、余計に怖くなった。
「む、無理です……」
喉がひくつく。
「事故を起こしたらどうするんですか。私、まだ――」
「……無理なら、いい」
低い声が割って入った。
事務室の扉が開いて、冷たい風が吹き込む。
ずぶ濡れの制服。目深に被った帽子。眠そうなくせに妙に鋭い目。
杉浦北斗先輩だった。
この派出所のエース。
私の指導係。
そして、いちばん苦手な人。
「北斗! 戻ったか!」
黒石先輩の声が少しだけ緩む。
私は反射で駆け寄った。
「先輩! 止めてください! 黒石先輩が私に貨物を引けって、無茶苦茶なこと――」
北斗先輩は私を見た。
その目が冷たくて、言葉が止まる。
「状況は聞いた」
「だったら――」
「一本目は黒石さん。二本目は俺がやる」
全身の力が抜けかけた。
やっぱりこの人は、冷たいけど無茶はしない。新人をいきなり放り込むような真似は――
「ただし問題がある」
次の一言で、その期待は砕けた。
「二本目、先頭のEF62側の機関士が足りない。高崎からの繰り合わせが崩れた。つまり、こっちで二人出す必要がある」
嫌な予感が、もっと大きくなって戻ってくる。
北斗先輩がゆっくりこちらを向いた。
「だから、こいつに行かせる」
「……は?」
「俺が先頭のEF62。本務機を受け持つ。神尾、お前が後ろのEF63だ」
頭が真っ白になった。
「正気ですか!?」
悲鳴みたいな声が出る。
「私まだ新人ですよ!? 指導員なしで!? この雨で!? 補機!? いや無理ですって、ほんとに!」
「無理なら帰れ」
ぴたりと、私は黙った。
「え……?」
「臆病風に吹かれる奴は邪魔だ。実家に帰って、親の言う通りに生きればいい」
胸の奥に、刃物みたいに刺さる。
帰れ。
その一言だけで、喉の奥が焼ける。
実家の玄関。母の顔。勝ち誇った声。
――ほら見なさい。だから無理だって言ったでしょう。
嫌だ。
それだけは絶対に嫌だ。
怖い。
でも、それ以上に、ここで引き返す方が怖かった。
私は拳を握った。爪が掌に食い込む。
「……乗ります」
掠れた声だった。
「何だって?」
北斗先輩が眉を動かす。
私は顔を上げた。涙目のまま、でも睨む。
「乗ります! 帰る場所なんてないんです! 私にはここしかないんです! だから……ここで降りろって言われても、降りません!」
最後の方は半分やけくそだった。
でも、これが今の本音だった。
数秒、沈黙が落ちた。
北斗先輩は私を見ていた。
試すように。測るように。
やがて、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「……そうかよ」
それだけ言って、私の横を通り過ぎる。
「なら、ついてこい。泣く暇はない」
「泣いてません!」
「今にも泣きそうな顔だ」
「雨です!」
「便利だな」
むかつく。
ほんとにむかつく。
でも、そのむかつきがさっきまでの恐怖を少し押し流してくれた。
「行くぞ、神尾!」
「はいッ!」
私はヘルメットを掴み、雨のホームへ飛び出した。
◇
機関庫に入った瞬間、空気が変わった。
雨の音が遠くなる。
代わりに、鉄と油の匂いが濃くなる。
鼻をつき、肺に沈み、身体の奥まで入り込んでくる匂い。
薄暗い水銀灯の下に、二つの巨体がいた。
EF63。
通称ロクサン。
碓氷峠を押し上げる、国鉄のシェルパ。
青い車体は鈍く光り、巨大な足回りは要塞みたいな迫力を放っていた。見上げるだけで息が詰まる。こんな化け物を、私が。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
「怖じ気づいたか?」
背後から北斗先輩の声。
「ち、違います。格好いいなって思っただけです」
「顔が引きつってる」
「感動でです」
「強情だな」
「先輩にだけは言われたくありません」
言い返すと、北斗先輩がふっと息だけで笑った。
たぶん、初めてだった。
その時、カン、カン、と澄んだ音が響いた。
「ボルトよし。台車枠よし。砂箱――よし」
ピットの中から整備士の南波さんが顔を出した。
「おいおい、マジか。神尾ちゃん本当に乗るのかよ」
「乗ります」
言い切った瞬間、少しだけ自分が頼もしく聞こえた。ほんの少しだけ。
「北斗、お前も容赦ねえな。初日みてえなもんだろ」
「初日でなきゃ困る。二日目でこれなら終わりだ」
「言い方!」
私が噛みつくと、南波さんが吹き出した。
「いいねえ、そのくらい吠えられるならまだ死なねえな」
南波さんはウエスで手を拭きながら、ロクサンの側面を軽く叩いた。
「いいか、神尾ちゃん。今日は雨だ。レールと車輪の間に水膜ができる。計算どおりにはいかねえ。頼れるのは、砂と、お前の尻だ」
「最後だけ急に嫌な表現やめてください」
「機関車は手より先に尻で分かるんだよ」
「全然格好よくないのに妙に説得力あるのやめてください……」
南波さんは笑って、私の肩を叩いた。
「大丈夫だ。こいつは応える。ちゃんと扱えばな」
私はもう一度ロクサンを見上げた。
巨大で、無骨で、怖い。
でもさっきより少しだけ、冷たい鉄の塊じゃなく見えた。
先輩たちが油まみれで守ってきた機関車。
この峠を何年も支えてきた相棒。
「……よろしく」
誰に向けたのか分からないまま呟いて、私はタラップを上がった。
◇
運転台は狭かった。
でも、不思議と落ち着くと思った。
濃い機械油の匂い。冷たい金属の感触。計器の並ぶ盤面。
無骨で、飾り気がなくて、ひとつひとつに意味がある。
私はブレーキ弁に手を置いた。
冷たい。
でも、その冷たさが妙に安心できた。
「EF63、神尾あずさ。出区します」
バッテリースイッチ投入。パンタグラフ上昇。
頭上で火花が弾け、電流が流れ込む。
次の瞬間。
ブオオオオオオオオ――!
床下から、巨人が目を覚ますような低い唸りが響いた。
すごい。
怖い。
でも、格好いい。
私は思わず口元を引き上げた。
「……やば。好きかも」
その時、無線が鳴った。
『――こちら本務機、EF62杉浦。神尾、聞こえるか』
北斗先輩の声だった。ノイズ混じりでも、妙に耳に残る。
「はい! こちら補機EF63、神尾。感度良好です!」
『今日は総括制御なしだ。間に貨車が挟まる。俺が引く力と、お前が押す力が喧嘩すれば終わる』
「はい……」
『頼れるのは無線と、お前の腕だけだ』
胃が縮む。
さっきまで格好いいとか思っていた自分を殴りたい。
でも、北斗先輩は続けた。
『神尾』
「はい」
『俺の背中だけ見てろ』
一瞬、息が止まった。
『タイミングは俺が作る。お前は食らいつけ。それでいい』
乱暴な言い方なのに、不思議と呼吸が戻る。
信じてる、とは言わない。
大丈夫だ、とも言わない。
でも、そこに私の居場所を一瞬だけ作ってくれる言い方だった。
私はマイクを握り直した。
「了解です。食らいつきます」
『よし。出発進行』
「出発進行!」
『三、二、一――進段』
「進段!」
ノッチを入れる。
重低音が唸り、背中にどん、と圧がかかった。
動いた。
貨車の重みが、確かにこちらへ返ってくる。
『いいぞ。そのまま』
北斗先輩の声が飛ぶ。
私は前を見た。
灰色の雨。ワイパー。濡れたレール。遠い信号。
でも、不思議と視界はさっきより明るかった。
こわい。
まだ全然こわい。
でも、それだけじゃない。
私は今、逃げていない。
雨に叩かれながら、鉄と油の匂いの中で、機関車を動かしている。
誰かに決められた人生じゃない。
自分で選んだ場所で、自分の手で。
『神尾、来るぞ。踏ん張れ』
「はい!」
その瞬間、わずかに車体が空転しかけた。
腰に嫌な軽さが走る。
でも、私は迷わなかった。
「砂、撒きます!」
ペダルを踏む。
車輪の下へ砂が噛み、ロクサンが踏みとどまる。
床下の唸りが、持ち直した。
『……いい判断だ』
短い一言。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
「当然です」
『調子に乗るな、新人』
「褒めたなら最後まで褒めてください!」
『贅沢言うな』
無線の向こうで、少しだけ笑った気配がした。
私は唇を噛んで、でも笑ってしまう。
雨はまだ止まない。
峠は厳しい。
私は半人前で、きっと今も危なっかしい。
それでも。
鉄と油の匂いが満ちる、この狭い運転台。
雨音とモーター音に包まれた、この場所で。
私ははっきりと分かった。
――ここが、私の世界だ。
この小説は、私が20年前に執筆した「こちら高崎機関区横川派出所です!」をベースにして、生成AI(ChatGPT)を用いて全体プロットの練り直し、各話詳細プロットの壁打ち・作成、本文の作成を行なっています。




