溺
最近、友人治樹の様子がおかしかった。彼の顔からは生気が失われ、いつも疲れた表情を浮かべている。心配した俊哉が理由を尋ねると、治樹は深い溜め息をつき、重々しい口調で語り始めた。
数日前、治樹は近所の川で子供が溺れているのを目撃したという。しかし、治樹は何もできなかった。ただ呆然と立ち尽くす治樹の目の前で、幼き命は静かに水底へと沈んでいった。
その日からだった。治樹は毎晩、自身が水の中で苦しむ夢を見るようになった。息ができずにもがき、激しい苦痛の中で目覚める。それが毎晩のように繰り返され、治樹は深刻な睡眠不足に陥った。日常生活に支障をきたすまでになり、病院を訪れたが、症状は一切改善されなかった。
話を聞いた俊哉は、治樹を励ました。
「お前は泳げないんだから、どうしようもなかったさ。そんなに自分を責める必要はないさ」
しかし、治樹はさらに深刻な表情で俊哉を見つめた。
「もしかしたら、俺はあの子の霊に取り憑かれたのかもしれない」
治樹の突然の言葉に俊哉は驚き、「まさか」としか言うことしかできなかった。
治樹は頭を抱えて、震える声で言った。
「毎晩見る夢、あれはあの子が溺れた時の体験なんじゃないか。自分がどれだけ苦しんで死んだか、それを俺に伝えようとしているとしか考えられないんだ」
それから数日後、治樹は自宅の風呂に入っていた。湯船に浸かっていると、突然、底が抜けるような感覚に襲われた。体が深く沈んでいく。その瞬間、誰かに上から強く押さえつけられるような重圧を感じ、治樹はパニックに陥った。手足を激しく動かし、もがく。腕が何かにぶつかり、強い痛みが走った。
気がつくと、浴槽の中で頭が水に沈んだ状態となっていた。慌てて体を持ち上げると、どうやら湯船に浸かりながら眠ってしまっていたようだ。激しく呼吸をする中、治樹は震える手で顔を拭った。夢なのか、現実なのか、判別がつかない。あの底が抜ける感覚、身体を押さえつけられる重圧、そして腕に走った痛み。すべてがあまりにも生々しかった。腕を見ると、確かに青い痣ができている。
その日以来、治樹は浴槽に浸かるのが怖くなった。シャワーだけで済ませるようにしたが、眠りにつくこと自体が恐怖となっていた。夢の中の溺れる苦しみが、現実の睡眠不足と合わさって、彼の精神を蝕んでいく。
ある夜、治樹はいつものように溺れる夢から覚めた。全身は汗でびっしょり、心臓は警鐘のように激しく鳴り響いている。壁に掛けられた時計は午前3時を指していた。まだ夜は長い。治樹は起き上がり、リビングへと向かった。何か気を紛らわせるものはないかとテレビをつける。深夜の通販番組が、けたたましい声でダイエット器具の宣伝をしていた。
その時、ふと、部屋の隅に置かれた水槽が目に入った。以前、金魚を飼っていたものだ。今は空っぽだが、なぜか中に水が張られている。いつから水が入っていたのか、治樹には記憶がなかった。透明な水は、照明を反射してきらきらと輝いている。
治樹は水槽に近づいた。何かに引き寄せられるように、ゆっくりと手を伸ばす。水面に触れた瞬間、ひんやりとした感覚が指先から伝わった。その冷たさが、なぜか心地よかった。治樹はそのまま、顔を水面に近づけていく。
水面に映る自分の顔が、歪んで見えた。水の中の自分が、苦しそうに口を開閉している。その口から、泡がボコボコと湧き上がっていた。
次の瞬間、水面から手が現れ、治樹の顔を掴んだ。それは、青白く、皺だらけの、まるで水に浸かりきった死人の手だった。指が頬に食い込み、爪が皮膚を深く抉る。
「……ぐ、ああ……」
治樹は声を上げようとしたが、口は水中で開けられ、大量の水が喉に流れ込んできた。息ができない。苦しい。水槽の中へと引きずり込まれる。
水槽の中は、底なしの闇だった。水圧が全身を締め付け、鼓膜が破れそうなほどの圧迫感に襲われる。藻が絡みつき、魚の死骸が漂っている。それらすべてが、治樹の視界を侵食していく。
ふと、闇の奥に、ぼんやりとした光が見えた。それは、幼い子供の形をしていた。手招きをするように、ゆっくりと腕を動かしている。その顔は、あの川で溺れた子供に酷似していた。
「くる……こっちへ……」
その声は、水を通して歪んで聞こえたが、治樹の脳に直接響いた。治樹はもはや抗う術もなく、子供の霊へと引き寄せられていく。意識が遠のく中、最後に治樹の目に映ったのは、水面に映る自分の顔が、満足そうに微笑んでいる姿だった。
翌日、俊哉は治樹と連絡が取れなかったため、心配してアパートを訪れた。ドアは開いていた。俊哉が部屋に入ると、異様な静けさに包まれていた。リビングの床には、大量の水が散らばっており、粉々に割れた水槽の破片が散乱している。
俊哉は部屋中を探したが、治樹の姿はどこにもなかった。ただ、水槽のそばに、一枚の写真が落ちていた。それは、夜の歓楽街と思われる場所で撮影されたと思われる写真だった。写真中央には疲れた顔に無理に笑みを浮かべた治樹が、その周囲に赤ら顔で笑顔を浮かべた数人が道の真ん中に立って写っていた。
一見何もおかしい所はない写真だったが、俊哉は何かが気になり、写真を食い入るように見続けた。
「あっ」
治樹の背後、すぐ後ろに、小さな子供の姿が見える。その子供は治樹を見て嬉しそうに笑っているように思えた。
俊哉は震える手で写真をつかみ直し、あらためて子供の顔を凝視した。やはり、その顔は治樹を見て笑っていた。
その瞬間、俊哉のスマートフォンが震えた。治樹からのメッセージだった。
「ごめん。今、どうしても会いたくて。俺はあの川のほとりにいる」
俊哉は慌ててアパートを飛び出し、治樹がいるあの川へと向かった。川へとたどり着き周辺を探し回るとと、治樹の姿を見つけた。治樹は川岸に立ち、水面を見つめていた。その表情は穏やかで、これまでの苦悩が嘘のようだった。
「治樹、 無事だったのか」
俊哉が駆け寄ると、治樹はゆっくりと振り返った。その瞳は、以前よりも澄んで見えたが、どこか遠い場所を見ているようだった。
「ああ、もう大丈夫だ」
治樹はそう言うと、静かに微笑んだ。その笑顔は、かつての治樹とはどこか違っていた。
「ずっと苦しかったんだ。あの子の助けを求める声が、いつも俺を呼んでいた。でも、もう違う。そう、あの子は一人で寂しかっただけなんだ」
治樹はそうつぶやくと、友人に背を向け、ゆっくりと川の中へと歩み始めた。友人は慌てて止めようと手を伸ばしたが、治樹の体はまるで実体がないかのようにすり抜けていく。
「待て、治樹」
だが、俊哉の声は治樹に届いていないかのように治樹は進んでいった。治樹の体は、深まる水の中へと沈んでいった。そして、水面に頭が隠れる直前、治樹は再び友人を振り返った。その顔は、紛れもなく治樹の顔だったが、その口元は、あの写真に写っていた溺れた子供と同じ、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
治樹の頭が消え、水面には、わずかな波紋が残るだけだった。友人は呆然と立ち尽くした。
しばらくして、川の向こう岸に、幼い子供の姿が見えた。それは、治樹の腕を引くようにして、水面から姿を現した。子供は治樹の顔を見上げ、何かを囁いている。そして、二人の姿は、ゆっくりと消えていった。
俊哉はその場に崩れ落ちた。彼の視線の先、川面には、小さな泡がいくつも浮かび上がり、やがて消えていった。まるで、治樹が別れの言葉を述べたかのように。そして、俊哉の耳には、水面が揺れる音に混じって、楽しげな、子供の笑い声が聞こえたような気がした。