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デイジー

 アーサーはレイに知らせる前に、マリアンヌを呼び出した。本人の意思も確かめたい。


「毎日欠かさずお祈りをしているそうじゃないか。真面目に仕事をしている様子にほっとしているよ。レイモンド様に良い報告ができる。いずれここを出ることができるかも知れない。その時はどこかへ奉公に行くか、嫁ぐ気はあるか?」


 いきなり何の話だろう。奉公ならわかるが、嫁ぐ? 政略にでも使う気かしら。そうはさせない。


「私をここに連れてきたあの男が一生ここから出すはずがない。私だって出るつもりはないわ」

「2度と馬鹿な真似はせず、真面目に生きていくのなら、あの方達も許してくださるかも知れない。殺さず生かしておくくらいだ。温情はあるだろう。マリーと呼ばれているそうだね。農家の嫁なんてどうだ?」


 彼と話しているのを見られていたのかしら。無理よ。私は子を捨てるような酷い女なのよ。


「私が誰だか知っているのよね。知っていて元とは言え、公爵家の令嬢に百姓をしろって言うの? 地に這いつくばるなんてごめんだわ。馬鹿にしないで。ここを追い出すなら命を絶ちます。その方が元従兄達も喜ぶわ」

「待て。あの青年は…」

「聞きたくない!」


 マリアンヌは話はもうおしまい。アーサーの言葉を最後まで聞かずに部屋から出て行ってしまった。


 それからのマリアンヌは、仕事をさぼり、注意すれば反抗する。些細なことで激高して手がつけられなかった。仕方なく部屋に鍵をかけ落ち着くのを待った。


「マリアンヌ、どうしたの? そんな事では石牢に入れられてしまうわよ」


 食事を運んできたマイラが机の上にトレーを置いて立ち去ろうとすると、マリアンヌに呼び止められる。


「石牢って何?」

「お仕置き部屋ね。聞いた話だけど、もし数日出されずにいたら気が狂うって言っていたわ。滅多に入れられる者はいないし、数時間で解放されるそうだけど」


 ちょうど良い。自死する勇気もない私にうってつけ。正気を失って全てを忘れてしまえば、夢を見ないで済む。


「あら。スープに虫が入っている。あなたの仕業? 許さない! 土下座して謝れ!」

「そんな! 何も入っていないじゃない!」


 マリアンヌはマイラを押し倒すと、馬乗りになり頬を叩いた。悲鳴と罵声に皆が何事かと集まってくる。そう、ちゃんと証言して。私は暴力まで振るう、どうしようもない女よ。


「マリー! こっちへ来い!」

「離して! 私に触るな!」


 扉につかまり、必死に抵抗していると、司祭がやってきてアーサーと話をしている。


「これはもう石牢に入れるしかない」

「やむをえません。連れて行け」


 神様ありがとう。あとは私を地獄に落としてください。望みはそれだけ。それだけのはず。


 石牢の中は凍えるほど寒く、何も見えない、聞こえない。でも今は王宮の賓客室よりも居心地が良い。落ちぶれた姿を見られる事も、密かにつけた子の名を大声で呼んでも誰にも聞かれない。ずっと我慢していた。


「デイジー! デイジー! 会いたい! 会いたいよ…」


 妊娠を知られて貴族の家を追い出された日。行く当てもなく、暗く沈む心を癒やしてくれたのは道ばたに咲く白い花だった。なんて可愛いのだろう。貴族であった頃は目に入らなかった小さな花。女の子だったらこの花から名をつけよう。そう決めて、フェリシティーを目指した。


 ***


「そんなに酷い状態なの?」

「同僚の女性を傷つけるなど、あってはならないことをしでかしました」


 手紙ではうまく説明できないとアーサーは黒い愛馬でレイの屋敷を訪ねてきた。久々の遠出で年老いた馬はすぐには帰れそうにない。ヴィンに世話を頼むと、あいつか。好みの餌は…。慣れたものだった。


「先にレイモンド様に相談するべきでした。実はマリアンヌと結婚したいと言ってきた農夫がいるのです。最近は真面目に仕事をこなしていたので、私の目の届く所なら嫁がせてもいいかと思いまして。先に本人の気持ちを聞こうとしたら、こんなことに」

「そう。その男はなぜマリアンヌを?」

「どうも以前から知り合いだったらしく、邪険にする割には気にしていたと同僚が話していました」


 たしかあの付近にマリアンヌが世話になった農家があったな。ウィステリア領から出てすぐの村だ。後でハリーに確かめよう。


「ところでその子どもはレイモンド様の?」

「違う。預かっているだけだ」


 レイの背には相変わらず、白銀の髪をおしゃぶり代わりにするアザレアがおぶわれていた。また置いて行かれると思っているらしく、またレイから離れなくなった。


「母親も母親なら、子も子だ。もういつになったら大人しくしてくれるんだろう」

「えっ!」

「あっ! えっと、内密にしてくれるよね」

「最近、耳が遠くなりましてな。今なんと言われたか。どうも記憶力も落ちてきたようです」

「それは大変だね。さて、彼女の薬を用意するか。出来上がり次第教会へ行こう」


 アーサーにもわかる。マリアンヌの子ども。王家の血筋だ。何も聞いていない、見なかった。それでいい。


 レイが調剤室に行っている間、アーサーが厩舎に愛馬の様子を見に行くと、老馬にブラシをかけている息子にすぐ気づかれた。


「おい。うろうろするな。応接室で待ってろよ」

「どうも落ち着かなくてな。ここで待たせてもらう」

「なら自分でやれ」


 ブラシを押しつけられた。ヴィンは立ち去ることなく、見覚えのある馬の世話を隣で始めた。


「その馬はレイモンド様の? その隣はオニキスか」

「レイはアリアン以上の馬はいないと言っている。さすがだな」


 何がさすがなんだか。父のやったことは許せないが、父の育てた馬は本当に良い馬だと思う。子どもの頃、厩舎にいる父の姿を見るのは好きだった。


「2頭ともまだまだ走れるな」


 バーデットから出荷した馬は一頭残らず覚えている。隣領に引き取られた牝馬も。オルレアン侯爵が娘に与えたと思ったが、あれが第3王子だったと知ったのは随分たってからだった。今では自分よりも背の高い末子は家を出て苦労もしただろう。それが今では第3王子だった公爵の側近だという。頑張ったなと褒めてやりたいが、嫌がるだろう。


 レイに呼ばれるまで、2人は黙ったまま馬の世話を続けた。



 馬車に揺られて、アザレアはご機嫌だった。大好きなレイの膝にのり、外を眺めては、時々あーうーと何か話している。レイも窓の外を指さし、あれは牛、あれはリンゴの木と教えている。


「幼子はいい。孫に会えるのが最近の楽しみのひとつですよ」

「ヘンリーのところは男の子だったね。ヴィンが1度だけ会いに行っていたな。甥っ子におもちゃを山ほど買っていたよ」

「あれがですか? ずいぶんと丸くなったものだ」

「君には言われたくないと思うけど」


 今もアザレアに、お爺ちゃんのところにもおいでと手を出した途端、噛まれた。怒るどころか元気があっていいと口元が緩んでいる。戦争を引き起こそうとした悪人には見えない。


「あれは嫁も貰わず、一生をあなたに捧げる覚悟のようだ。親らしいことを何一つしていない私が言うのもおかしな話かも知れないが、ヴィンセントを頼みます」

「おかしくないよ。君たちは間違いなく親子。とくに馬馬鹿なところはそっくり」


 年寄りは涙もろくなって。下を向くアーサーの頭を小さな手が、「いーこ、いーこ」と叩いた。


 石牢には1日に1度食事が届く。もう4日が経っていた。食事中の30分だけぼんやりと外の光が入る。皿を回収に来た古参の女性が、また水だけかとため息をついた。


「マリアンヌ、何か深い事情があるのでしょう? 私は怒ってないし、傷も残っていないわ。もう出てきて良いのよ」

「…」

「パンは置いていくね。暗くても探して、きちんと食べるのよ」


 食事を置くだけの小さな扉は閉じられた。人ってなかなか死ねないものね。まだ正気だし。暗闇や無音よりも喉の渇きのほうが辛いなんて笑える。パンには手をつけなくても、水筒だけは手を伸ばしてしまった。


 ガタッ。また小さな扉が開き、コトンと小さな瓶が置かれた。もう人の気配はしないが、わずかにラベンダーの残り香がする。やっと私に情けをかける気になったのね。瓶の中身を煽った。


 目が覚めると、地獄でないことに落胆する。教会の与えられた部屋に寝かされていた。本当に嫌な奴。次に顔を見せたら、綺麗な顔に傷つけてやる。そうすればいつも隣にいる黒いのに斬り捨ててもらえる。


「マリアンヌ。気分はどう? 窓開けるね。外の空気を吸うといいわ」

「マイラ。ごめんね」

「いいよ。早く元気になってね」


 マイラが窓を開けると、子どもの笑い声が聞こえる。


「あれは…」

「ああ。ここを支援してくれている貴族の方が、孤児院を作ったのよ。まだ数人しかいないけどね」


 あいつらしい。どこまでお人好しなのよ。


「マリアンヌこっちに来て。あの人が来てるわよ」


 姿を見てはいけないと思いながら、つい足が勝手に動いてしまった。


「マリー! 病気だったんだって? 何日も顔が見られなくて心配したよ」


 部屋は1階。ベンが駆け寄って来た。その腕にはすやすやと眠る小さな女の子を抱えて。


「その子は…お願いだから泣かないでちょうだい」

「レー! レー!」


 パチッと目を覚ました子どもはベンとマリアンヌを見て泣き叫び、逃れようと暴れだした。


「生みの母親に捨てられ、育ての母も亡くした子なんだそうだ。可愛いだろう?」

「可愛いけど、すごく泣かれているわね」

「元気があっていい。ほら新しい母ちゃんだよ。父ちゃんの代わりに花束を渡してくれ」

「なっ! 勝手に何を言っているのよ!」

「マリー。俺の嫁さんになって欲しい。司祭様にも施設長にも許可を貰った。もうここから出て良いって。母ちゃんも弟達も待ってる。一緒に帰ろう」


 嫁さんと子どもまで連れ帰ったら、みんな驚くな。元々子どもは好きだ。寝ている顔がなんとなくマリーに似ていて、抱かせて貰ったら離せなくなったという。無理矢理小さな手に握らせた花束はデイジー。


「この花好きだっただろう?」


 受け取れる訳がない。ふらつく足で礼拝室に駆け込むと、跪いて手を合わせた。


「神様、ありがとうございます。あの子に会えただけで十分です。大好きな人にも最後に会わせてくれてありがとう。もう思い残す事はないです」


 コツン。靴音がした。


「好きに生きろ」

「レイモンド。私は…」

「君の飲んだ薬は弱毒はしているが毒薬だ。死んでもおかしくなかった。君と会うのは本当にこれが最後。僕の従妹マリアンヌは両親の元へ行った。これからはただのマリーだ」


 涙が止まらない。ハンカチを差し出され、頑張ったねと抱きしめてくれた。ずっと冷たいと思っていた従兄の胸は温かくてまた涙がでる。ずっと気にかけてくれた。最後まで見捨てないでくれた。


 最後に握手した。


「ありがとう。沢山迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい。もう2度と馬鹿な真似はしないと誓います」

「ベンは数人の中からあの子を選んだ。そして君はすぐに自分の産んだ子だと気づいた。きっとうまくいくよ」


 自分で着せておやり。小さな服が手渡された。名を聞いたが、ないと言われた。


 夫のひく荷車に乗って、マリアンヌ親子は去って行く。レイを求める声が聞こえるが、もう気にならない。

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