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熟したトマト

 アドルフは冷たい水をかけられ、目を覚ました。体中が痛い。もう動きたくない。


 荷車に石を積み込むように言われ、嫌だと言えば殴られた。唇が切れ、鼻血を出しても拭き取るハンカチはない。袖で拭きとり嫌々作業をしたが、汗も汚れた衣服も気持ち悪い。


 ボビーは弱音など吐かず、黙々と石を運び、水汲みまでしていたという。そんなこと信じられるか。慣れない力仕事に頭が朦朧とする。いつの間にか気を失っていた。


「起きろ。飯だ」

「これが? 泥水じゃないか」


 ジョージから渡された木の器の中は、薄茶色く濁って見える。


「よく見ろ。豆も野菜も入っているだろう」


 良く見れば豆と野菜が少し。こんなもの人の食べ物じゃない。


「パンはないのか?」

「お前が今まで俺たちに寄越した食料はたったの荷車1台分。それも月に2度だけ。それをここにいる者全員で分けた」

「私はそんな細かいことまでは知らん。文句なら見張り役に言え」

「荷車を引いてきた農家の者が売り物にならない野菜を置いていってくれた時は神様かと思ったよ。少しでもしのげるように苗や種芋まで分けてくれた。おかげで俺たちは生き延びてきた。お前にやるパンなんてあるわけがない。嫌なら食うな」


 アドルフは口をつけられず、器を見つめたままだった。


 どれくらい時間がたったのかわからない。もう真夜中だろう。空腹で眠れなかった。こんなことは初めてだ。第2王子として生まれ、幼い頃から自分の言う事は誰も逆らわなかった。好きなものだけを与えられ、嫌だ、飽きたと言えば皆が頭を下げて、代わりのものを持ってくる。いつの間にか周りに人がいなくなったが、高貴さ故のことだと思っていた。一昨日までは温かい寝台に寝ていたのに、今はどうだ。堅い床板が見えそうなほど薄く敷いた藁の上に、すり切れた薄い布が1枚与えられただけ。それも他人と一緒にごろ寝だ。厩舎の馬だってもう少し良い寝床を与えられている。


「気分はどうだ? 明日にはアガサスから現場を指揮する者が来る。せいぜい頑張ってトンネルを埋めるんだな」


 見回りにハリーが顔を出した。見下した態度に腹が立つが、うまく言葉を選んで、取引しなければいけない。


「ハリー王子。レイモンド様に心よりお詫びがしたい。どうか取り次いでもらえないだろうか」

「詫び? 何に対してだ?」

「知らずにレイモンド様のものに手を出してしまったが、2度とこのような事はしない。深く反省している。そうだ私財を全てここの者達に与えよう。手違いで食料が十分行き渡っていなかったようだね。民には本当に辛い思いをさせてしまった」

「お前は鉄鉱山に手を出したから、レイモンド様が怒っていると? まさか、そんなものでクリフを消したりはしない」

「なら何故だ? クリフを自分の領土にしたかったのか?」


 来い! ハリーに襟をつかまれ、引きづられるように、外へ出された。


「いいか。その濁った目で見てみろ。姐さんはな、人の尊厳を踏みにじられた者の代わりに怒っているんだ。ああやってずっと飯も食わずに、1人でも多く助けようとしている。あれはお前が守るべき民じゃないのか?」


 ガラスもはまっていない窓に、顔を押しつけられた。中ではレイが消えそうなほど弱い蝋燭の明かりで手元を照らし、傷口に薬を塗っていた。そしてその隣へ。今度は体を抱き起こしてやり、さじでゆっくりと薬を飲ませている。


「どう? 少しは眠れそうかな。傷口は塞がってきたよ。もう少し頑張ろうね」

「女神様。もう休んでください。夜通しじゃ、あなたが心配だ。なぁに。ここまで生き延びたんだ。すぐに死にゃせんよ」

「僕は女神じゃないよ。でもあなたを死なせたりなどしない。苦いけど残さないで」


 また隣へ。額に乗るタオルを取り替えていた。


「ボビーだってそうだ。脱出できるのに残って、ここにいる者全員を救おうとした。お前みたいなろくでもない奴が王位についたら、民は全員奴隷にされてしまう。だからクリフは滅んだんだよ!」


 見なければ良かった。私のせいじゃない。食料を渡さなかったのも、怪我をしたのも私のせいじゃない。計画をたてたのも、知れてしまったのも私のせいじゃない。私の…。


 翌朝。トンネルの前にただニコニコと笑うばかりの男がいた。具のないスープを美味しいと言い、石を楽しそうに荷馬車へ積んでいく。足の上に石を落としても痛くないと言う。レイの姿を見つけると、女神様だと手を振っている。


「どうしたのかな? 一晩で別人だね。演技ではなさそうだけど」

「姐さん、昨夜までは会話できていたんだよ。なんで壊れたんだろう。俺、お仕置きなんてしてないのにさ」

「あれじゃ作業の邪魔だ。牢にでも連れて行くか?」

「そうだね。本当にどうしようもないな。仲良しさんの世話でもさせておくか。あれをここに連れてきても石ころひとつ拾えないからね」


 財務大臣は全てを話すと言って、証拠となる書類の置いてある書棚に案内させると、隙をみて隠していた毒薬を煽った。後はないと自死しようとしたが、すぐに吐き出させられた。命は取りとめたものの、目を覚ましても真っ暗闇だと言う。手を伸ばし、歩こうとするが椅子に躓いてしまう。仕方なく、また牢へ放り込まれた。


「午後には友好国から食料も資材も、人も来る。彼らに任せて僕らもノアールへ戻ろう」

「ボビーは先に鳩と一緒に荷馬車に乗って出たけど、そろそろ着く頃だな」


 ハリーは鳩たちが自分よりもボビーに懐いているように見えるのが不満そうだ。酒飲みたい時だけは王子と呼んで、寄ってくる。俺だってあいつらにいつも気を遣っているのにさ。


「乗馬は無理でも、馬車なら御せるようになったんだ。嬉しそうだったね」

「レイ。今日はお前もフローレンス達と一緒に馬車に乗ってくれ。道中少しは休めるだろう」

「ありがとう。でも馬で行くよ。報告だけしたらもうフェリシティーに帰りたい」


 なんだかんだあって、もうひと月近くたつ。これ以上の滞在は無理だ。


「フローレンス達はゆっくりとおいで。アダムスとアンナには本当に助けて貰った。落ち着いたらうちの温泉村へ招待するよ」

「ありがとうございます!」


 1度は行ってみたい噂のリゾート地。頑張った甲斐があった。


 ノアールに着くと、またヴィオラに変装して王宮に入った。先に戻ったボビーと共にリリス女王とフレデリック、リリア、アイクに詳細を説明した。宰相ほか主だった臣下が立ち並ぶ。


「ボビー。ひと月も音沙汰なしで、リリアにひどく心労をかけました。今後このようなことがないように。本当にあなたが無事でよかった。心配しましたよ。それと土産にしてはずいぶんと大きなものを持ち帰りましたね」

「大したものだ。工事に関わった者を見捨てないばかりか、クリフ国民を全員救ったのだからな。君にならもう王配の席を託せられる」


 リリスもフレデリックも満足そうだ。臣下達も大きく頷いている。


「無血開城には本当に驚いた。あちこちに手紙を出したのはこの私だがね。ただののろまな牛…痛い! リリア、叩くな!」


 黙ったままのリリアがアイクの頭を扇で叩いた。


「全部ここにいるレ…ヴィオラ達の助けがあってのこと。まだ国境付近に手助けが必要です。しばらくあちらで指揮を執りたいのですが、お許しいただけますでしょうか」

「アガサスとの話し合いも、全てボビーに一任しましょう」

「務めを果たして参ります」


 もう弱気で影が薄いなどと誰にも言わせない。どこか自信に満ちた未来の王配がいた。


 ヴィオラはリリアの私室を訪ねた。


「リリア、食事をとって一休みしたら帰るよ。もう後始末まではしていられない」

「レイ。本当にありがとう。返せないほどの恩をどうしたらいいのかしら」

「出産して、もし姫君だったらルーカスの許嫁に貰おうかな」

「えっ! うちはどうなるのよ!」

「もう1人でも2人でももうければ良い。いくらあると言っても年が離れすぎていてはね」

「そうね。その時はお願いします。ルカ君にお母様って呼ばれるのね。楽しみだわ」

「さてここでの最後の食事だ。ボビーも誘って畑に行こうよ」

「そうね」


 畑に着くとボビーが先にトマトを獲っていた。


「この畑は国境のものとは違うね。管理している者を連れていこうかな」

「料理人だがいいと思う。病人にも良いメニューを考えてくれるだろう」


 あれ。リリアが木陰から出てこない。午後の日差しが強すぎたか? その隣で侍女ではなくヴィンが日傘を差してやっていた。


「リリアたんが全然口を聞いてくれないんだ。身重の妻に心配かけたと、いくら謝っても許してくれない。もう私たちはダメだろうか」


 本当に困ったお姫様だ。素直じゃないんだから。


「大丈夫。すぐに元通りになるさ。ボビー、そのトマト貸して。僕に抱きついてくれ」

「そんな! いくらレイでも今はヴィオラちゃんだよ! 皆に浮気でもしているように見えたら困る!」

「いいから早くしろ。できない? お節介もこれが最後だからね」


 ヴィオラがリリアをちらっと見ると、帽子を取り、極上の笑顔を見せる。ヴィンが何だあれとつぶやく。また良からぬことをしでかす予感がする。


「いただきまーす」


 ヴィオラがいきなりボビーに抱きつき、まるで、キスしている!? 


「キャー! 止めて! 私のボビーに何してんのよ! 」

「おい! ボビー! ヴィオラから今すぐに離れろ!」


 ヴィンが引き離しに大股で駆けていった。走れないリリアはボビーの名を呼びながら、侍女に手を引かれゆっくりだが急ぎ足。


「ほら! ヴィオラはこっち来い!」


 ヴィンが引き剥がすと、ボビーは熟したトマトより真っ赤になって、トマトを咥えていた。口からはみ出したトマトにはヴィオラのかじり後がついていた。


「嫌だわ。私はトマトをいただいただけよ。ごちそうさまでした」


 追いついたリリアがボビーの手をつかんだ。


「ヴィオラ! お父様がお待ちかねよ。食堂には1人で行って! ボビー。私、気分が悪いの。今すぐ部屋まで連れて行ってちょうだい」

「ボビー様。安定期に入るまではお控えくださいね」

「なっ! 何を! 私は、えっーと。リリアたん、今日の仕事は全てキャンセルしよう」


 侍女も遠慮して、2人だけで戻って行く。あんなにくっついて。仲いいじゃないか。


「ヴィオラは後で説教だ。覚悟しておけ」

「旦那様はずいぶんと焼きもち焼きなのね。大丈夫。浮気なんてしませんよ」


 ふふふ。まだ笑いが止まらないようだ。


 食堂に着くと、リリス夫妻が待っていた。


「フレデリック様。少しお会いしない間に、お顔がすっきりしたような」

「そうなのだ。今では色々な食材を少しずつ並べて、楽しんでいる。ヴィオラおすすめのパンの中でも、特にこの黒パンが気に入ってね。ほらクロークの魚ともワインともよく合う」


 ライ麦パンはレイも好んで食べる。


 食事が終わると帰国の挨拶を述べる。フレデリックからとても楽しかった。もう一緒に食事ができないのは残念だとヴィオラを抱きしめた。


「ぜひ、我が領の温泉村へ静養にお越し下さい。おもてなしさせていただきます」

「近いうちに夫婦で訪ねよう。やはりうちの養女にならないか?」


 引き留められたのは嬉しいが、フードを深くかぶり白銀の髪を隠したレイは、馬に跨がって帰国の途についた。

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