不思議なモリオン
いまだに信じられないが、黒猫になってレイの素を見てしまった。
普段もあのくらい寛いでほしいと思う。この小さな家に住むのはレイと俺と黒猫モリオンだけ。麻酔針を仕込んだ靴を脱ぎ棄て、手袋だって外せばいい。誰かのために作る薬草で指先が何色に染まろうが、その手はとても尊く、綺麗だ。
モリオンは不思議な猫だった。
なぜかアグネスが置いて行った蛇の抜け殻を小さな家に入れようとすると、毛を逆立てて、うなり声をあげる。蛇に襲われたことでもあるのか、寄せ付けない。仕方がなく、家とは少し離れた場所に建つ雑貨屋の倉庫に戻した。
「モリオンが側にいると、すごく安心するんだ」
最初は男の子だったと思うけど、女の子だった。猫違いではないと言う。レイは勘違いしてごめんとチーズをあげている。随分とグルメな猫だ。
モリオンはレイの側から離れようとしない。足元にすり寄り、仕事中に膝に乗っても邪魔にされないどころか、おいでとレイも呼ぶくらいだ。そして調剤室ではいつも箱の中で昼寝。よくわかっている。
モリオンが来てからというもの、レイの体調はいいし、何より機嫌がいい。レイは双子と同じくらい可愛がっている。好んでいたミント系のものを極力使わなくなった。
「猫の嗅覚は鋭くて、人とは違うんだよ」
「そこまで気に入るとはな」
鼻が利くのは知っている。俺も体験したからな。ヴィンは気軽に湿布をもらえないのが不満。それよりなにより、あの箱に眠るモリオンがかなり羨ましい。あれは俺の天国だったのに。猫になりたいかと言えば、それは困る。でも本音を言えばもう1度くらい、あの箱に入って昼寝したい。
「僕の元にアリアンが来た時、オリビアに黒い仔猫をプレゼントしたんだ。あの子も懐いてくれて可愛かったな」
レイの漆黒の愛馬と同じ黒い毛並みの仔猫を、オリビアはとても喜んでいた。たまに僕がやきもちを妬くくらいにね。その猫の名はアンバー。目の色もモリオンと同じ琥珀色。2人が結婚する少し前に突然姿を消したそうだ。あちこち探したがとうとう見つからず、ずっと気がかりだったという。
寛いだ姿をみせたのは、オリビア様と過ごした日々を思い出したからだろうか。
「そうだ、ヴィンに先に聞かないで飼うことにしてごめんね。今更だけどいいかな」
「レイが世話するなら、俺は構わない」
ヴィンに世話をさせる気は最初からない。手を出さないで欲しいとまで言う。自分の世話は俺にさせるのにと笑ってしまう。
モリオンの毛はふわふわで、性格は大人しく人懐こい。この美猫は雑貨屋に来る客も虜にした。いるだけで店の雰囲気が柔らかくなった気がする。どんなに人に構われても、レイの姿が見えないと不安そうにキョロキョロと探す様は微笑ましい。
朝食を済ませてヴィンは王都へ帰る準備をする。普段は王都の本邸で過ごしている。小さな家には週に1度、日帰りか1泊の滞在。今回はモリオンのために3泊もした。そろそろ戻らないと書類の山が崩れ落ちる。
モリオンを連れて行くのに蓋つきの籠を用意したが、モリオンがなかなか入ろうとしない。レイが蓋が嫌なんじゃないかと言い出し、慣れた昼寝用の箱に換えた。多分だが、いれ物じゃない。レイの匂いの付いたタオルがなかったからじゃないかと、さすがに言い出せなかった。
王都にあるレイの館の着くと、可愛い双子のルーカスとアナベルが父を待っていた。先に手紙でモリオンの事は知らせてある。
「お父様、モリオンちゃん、お帰りなさいませ」
「お帰りなさい、シルバーと喧嘩にならないかな。仲良くしてくれるといいけど」
片時もレイの側を離れたがらないモリオンが、双子にすり寄っていく。抱かせてと2人は順番に膝に乗せた。
「モリオンちゃん、気に入ってくれるかな」
アナが銀色のリボンを首に結ぶ。
ルーも今日はシルバーに紐をつけて、飛び出さないようにしていた。
「ミャーミャー」
「お話してるのかな、可愛いわね」
「シルバーとも喧嘩しないし、良かった」
双子も虜にしたモリオンは、レイの仕事中は双子の元で過ごした。ヴィンは嫌われてはいないようだが、たいていは素通りされてしまう。レイ一筋なのは一緒だ。ハリーのように喧嘩にならないだけまし。
本邸にハリーがやって来た。レイの執務室に入ると情けない声で助けてほしいと、椅子に座り込む。
アナベルの護衛をしている、毒針使いのフローレンスとの結婚の許しをもらいにクローク国へ行ったはずなのに、何があった。
「姐さん、親父がとんでもないことを言ってフローレンスを怒らせた」
「うちのフローレンスに気に入らない点があった?」
おかしい。気立ても頭も器量だってよい。クローク国王は何が不服?
「それが他国から貰うなら、子爵家の出では足りないとか言い出した。その上勝手にロイス国の何番目だったかな、王女との婚約話をすすめていた」
ロイス国と言えば、以前レイの後妻になりたいと言い出したアイリス姫の国だ。たしか国王は側室を複数置いているんだった。王女も多数いるのだろう。
「フローレンスは何て言ってるの?」
「『自分の実家を誇らしいと思っている。身分が足りないと言うのなら、ご縁がなかったまでのこと。これからは良いお友達でいましょう』って! お友達なんて嫌だ、妻になって欲しい!」
フローレンスは目を合わせてもくれない。もう嫌われたとハリーは涙目だ。
フローレンスの実家であるスミス子爵は代々王家の汚れ仕事を請け負っている。レイの祖父の代から暗殺の仕事は少なくなったが、今も全くないわけではない。高位貴族並みの資産をもつ。目立たないように序列は上から4番目の子爵、姓もありふれたスミスにしている。日々研鑽を積んだ知識は門外不出。誇っていい。
「どこかの養女にして嫁に出すわけにいかないし。この話は…」
「姐さん、真剣に考えて! 俺の一生がかかってる。それに未来のクローク王妃が誰でもいいわけじゃない」
「ハリー王子は次期国王になるんだね。それなら考えようかな」
ハリーはレイの元から去りたくないと、王位は弟に譲るつもりだった。だがレイが望むならなってやろう、認められたのならなるべきだと、腹をくくった。
「ロイス国から何か…あった。建国際に呼ばれているね。一緒に行ってみよう」
レイはロイス国へ向かう準備を始めた。