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逃亡

「やっぱりここにいた」


 愛馬の房の隅に声をかけると、こんもりと山になった藁の中から黒猫が顔を出す。アリアンが隠してくれていた。


 レイが細く白い腕を見せる。何もつけていない。


「誰だって苦手なものくらいあるさ。驚かせてごめんね」

「ミャー」


 レイが駆け寄るモリオンを抱き上げると、ペロペロと頬をなめられた。


「あれはもう処分したよ。2度とつけないから安心して」


 レイは平静を装ったつもりだが、あいつには気づかれただろう。モリオンを隠さなければ。


 厩務員は差し入れした睡眠薬入りの夜食で少しの間眠らせた。それでも音をたてないよう愛馬に鞍をつける。黒いフードですっぽり白銀の髪を覆い、モリオンは柔らかな皮の肩かけ鞄に入れた。アリアンもわかっているのか、じっとしていななきもしない。


「行き先はオルレアンだ」


 月が隠くれている間に急ごう。闇夜に紛れレイは屋敷を抜け出した。


 出かけていたヴィンが戻ると、レイの姿が見えない。私室をのぞくと寝台を使った形跡がない。双子の部屋にもいない。アリアンもいない。ヴィンは舌打ちする。やられた。


 実家に用事ができたと留守にしていた。下手に追っては行けない。追い込むようなことをしたらまた心を閉ざされてしまうかもしれない。ヴィンは深いため息をついた。


「ここまでくれば安心かな。昼になったら屋敷に行こう。こんな早朝じゃ驚かれてしまう」


 オルレアン領は養蜂のための花畑が広がる。広大だがレイにとっては庭のようなもの。隠れる場所も休める場所も探すまでもない。蜂の巣箱のある場所を避けて進む。それでもあちこちで蜂が蜜を求め飛び回る。蜂を興奮させないようにしないと。狙われたら大変。モリオンの入った鞄に白い布を被せ、自身も黒いフードを取り払った。


「このあたりも2人で探検に来たね。懐かしいな。覚えている? 君に花を渡したバーデット兄弟を巣箱に案内したら、蜂がブンブン寄ってきて…」

「ミャー」


 すき間からモリオンがレイを見上げている。どうしてこんな時に彼を思い出すのだろう。


 怒っているだろうか。呆れているか。どっちもか。僕は逃げてきた。大事なものを取り上げられないように。多分引き離されるだろう。


「アリアン、ありがとう。少し休もうか。水をお飲み」


 手綱を放して自由にしてやると、アリアンは小川に入って水を飲み、遊び出す。子馬みたいだ。木陰で持ってきた瓶詰めされた猫用のご飯をモリオンに食べさせ、自分はヴィンがいつも用意しているビスケットを口に入れる。またふいに思い出す。


 ソフィアお婆さまに焼いてもらったお菓子をどこで食べているか聞かれて返事に困った事があった。まさか体の弱いオリビアを森の奥まで連れ回し、外で食べていたなんて言えなかった。バレたら叱られるだけでは済まない。


「君を困らせていたのかな。僕につきあって、どろんこになって。僕は楽しかったけど、女の子にはつまらなかったよね」

「ミャー」

「君のことが大好きで離れたくなくて、城に帰る時は皆を困らせていたな」


 レイがいないとアルバートの食が進まない、レオンが書庫から出てこないとか言われたら帰るしかない。次来るときは少しでも早くオルレアンに着くように乗馬の練習、叔父に認められるように勉学も剣術も頑張った。


「今の僕があるのは全部君のおかげだね」


 後ろで草を踏み分け誰かが近づく。


「おはようございます」

「蜂たちが騒がしいと思ったら、レイが来ていたのか」

「お爺さまは早朝から巣箱の見回り?」


 レイの祖父アイザック。大らかで、レイ達孫を静かに見守ってくれる人。


「1人か。あの黒いのと喧嘩でもしたか」

「僕をいくつだと思っているの? 喧嘩なんてしないよ」

「ここまで散歩でもないだろう」


 祖父が横に座り、背丈も変わらない孫の頭をなぜ、背中をぽんと叩たく。それだけで肩の力が抜けていく。


「お爺さまは今、お婆さまと離れて暮らしているけど、寂しくはないの?」


 唐突に何の話だ? 祖父は迷いもしないで答えてくれた。


「あれは長いこと領のため、家のため、私のためと尽くしてくれた。少し離れたくらいであれの存在が消えたりはしない。焼きたての菓子が食べられないのは惜しいが、椅子に座れば背筋を伸ばせ、夜更かししようものなら早く寝ろと声が聞こえるよ」

「熟年のご夫婦には勝てないな」

「オリビアと過ごした時間が短くても、負けてはいないだろう?」

「そうだね。オリビアはいつだって僕に話かけてくれる。でも側にいて欲しい」

「ゆっくりして行きなさい。屋敷で待っているよ」


 黒猫を抱きしめる孫の頭をもう一度なで、何があったか聞かずに立ち去っていく。


 ざわついていた心が凪いでいく。


 僕だって本気で彼女の生まれ変わりだと思っているわけじゃない。でも不思議なことが次々に起きて、そうならいいのにとは思っている。


 モリオン、君は誰? 魔女の化身なら僕に魔法をかけて欲しい。オリビアに会わせてよ。


「そう都合よくはいかないか」


 レイはもう少し休もうと木に背を預け目を閉じた。



「迷子なの? ずいぶんと綺麗な子ね。お腹は空いていないかしら?」


 あれ。夢? オリビアの声がする。まさかな。目を開けるとなんと彼女がいる。


 本当にオリビア!


 夢なのにオリビアの手が温かいし、いい匂いもするし、それに柔らかい…。ムニュ。ずいぶんと僕は想像力豊か…。あれ、おかしい。オリビアの腕の中に収まっているのは、猫だ。窓ガラスに映るのは白猫!?


 状況がわからない。ここはオルレアンのオリビアの私室だ。とりあえずじっとしていよう。夢なら覚めないで!


「あら。金目銀目なのね。レイが見たら驚くわ」


 部屋の外にいるメイドに声をかけ、ミルクを持ってこさせた。


「冷たくてもいいかしら。この部屋にミルクの匂いはつけたくないの」


 僕が温められたミルクの匂いが苦手だからか。さすが僕のオリビア。


 ミルクを飲んでいる間中、オリビアは部屋の中を行ったり来たりして歩いている。何しているのかな?


「森を沢山歩くには体力をつけなくてはね。みんなには内緒よ」


 どうも家族に内緒で部屋を歩き回り、運動のような事をしているらしい。やっぱり連れ回して無理をさせていたのか。


「次はレイとどこまで行けるかしら。楽しみ。レイはね、いつも私に合わせてゆっくり歩いてくれるの。それにね。帰りは疲れてない? って、おぶってくれるのよ」


 それが嬉しいけど恥ずかしくて、頑張って隣を歩きたいのだと言う。


 楽しみにしてくれていたとわかってほっとした。猫相手と思って何でも話してくれる。君をおんぶするのを僕は役得だって思っていたけど、手をつないで歩くのも楽しいからいいか。それに結婚したらもうおんぶでなく、横抱きになるし。照れた君の顔が可愛かったな。


 ノックがしていつもオリビアの側にいたメイドが入ってきた。僕を見て驚いていたが、「ご飯は何が好きかしら」と聞いてくれる。オルレアンの。特にオリビア付きの使用人は気立ての良い者ばかり。きっと主に似たんだな。僕の側には…。またあいつを思い出す。僕とはぜんぜん似ていない。


 アンバーがいない。ということは結婚する少し前あたりだろう。


「お嬢様。お父様がお呼びですよ」

「今行きます。猫ちゃんはお留守番していてね。後でお庭に行きましょう」


 腰を撫でられ、もうふにゃふにゃになる。いつ見てもオリビアの笑顔は可愛いし、癒やされる。早く帰ってきて!


 未来の夫とはいえ、部屋を勝手に見て回るのは良くない。猫になっても紳士でありたい。大人しく長椅子でごろんと横になって待っていると、ふと覚えのある香りがする。あれは前にスミス家に行ったときに作ったラベンダーのポプリ。まだ残してくれていたのか。ポブリはおねだりされて結婚してからもたびたび作っていたな。


 バタン。珍しい事もあるものだ。オリビアが音をたてて扉を閉めるなんて。


「ミャー(どうしたの?)」

「猫ちゃん。お庭に行きましょう」


 帽子をかぶり、手袋をする。そうそう日焼けしたら大変。今ならおすすめの日焼け止めが雑貨屋に置いてあるのに。渡せないのが残念。


 僕らの秘密基地。古い方のガゼボにやってきた。オリビアは少し怒っている? 悲しそう?


「ミャー(何を言われたの?)」

「猫ちゃん。聞いてくれる? お父様ったらまた私に縁談を薦めてくるの。今度は隣領のバーデット辺境伯のご子息ですって。実家に近くていいだろうなんて言うのよ」

「ミャー!! (ヴィンか? 兄か? 誰であろうと絶対にダメだ!!)」

「もちろんお断りしたわ。でもね。いつか誰かに嫁がなければいけないのかしら…」

「ミャー(君と結婚するのは僕!)」


 オリビアが悲しそうな目で遠くの空を見る。


「結婚できなくても…たまにここに訪ねてくれたら。それで満足しなくちゃ」


 ベンチの下の扉を開ける。そこは物入れになっていて、僕らは色々ものを隠していた。


「特別に私の宝物を見せてあげるわ」


 僕がずいぶん前にお土産に渡したお菓子の缶を取り出す。オリビアは秘密と見せてくれなかったけど、何を入れていたんだろう。


「これは王宮の森で拾ったどんぐりでお人形を作ってくれたの。こっちがレイでこっちが私。石はたくさんもらったわ。しましま石、ピカピカ石。ふふ。ひとつひとつに名前もあるの。この押し花はね、戦場で見つけた花を兵法の本にはさんで送ってくれたの。それから…」

「ミャー(ありがとう)」


 胸がいっぱいになる。どれも拾い集めたガラクタなのに。それでもオリビアはひとつひとつを愛おしむように手に取り、そしてまた大事にしまわれた。


 幼かった僕は商人が並べる宝石よりも、自分で見つけたものを贈っていた。大人になってもそれは変わらなかった。人が見たら笑われてしまうようなものでも、君はとびきりの笑顔を返してくれたね。


「なぜかしら。猫ちゃんといるとレイに無性に会いたくなるわ。早く会いたい。無事に私の元に返ってきて欲しい。本当は誰にも隣を渡したくないの」


 愛おしすぎる。なぜ猫なんだ? キスできないじゃないか! もしかして今僕は隣国との戦いに行っているのか。ならもうすぐ君の元に帰るよと言ってあげたい。オリビアの膝に乗って思い切り背を伸ばし、頬をペロリとなめた。


「お嬢様――!!」


 ずいぶんと急ぎの用なのかメイドが駆けてくる。ニコニコと笑っているからいい知らせなのかな。


「いっ…今レイモンド様がご帰還されました! 先に旦那様とお話されるそうです。その間に早くお支度を!」

「無事にお戻りなのね! 猫ちゃん! 急ごう!」


 オリビアがドレスの裾を持って駆け出した。


 猫の僕は追いかけない。今頃オルレアン侯爵に許しをもらった僕が君を待っている。そのあとニオイスミレの咲く庭でオリビアに求婚する。


 しばらくガゼボのベンチに座っていた。黄昏時。空が黄金色に輝き出す。待ち人が現れた。

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