黒猫
ミルクと魚で腹が膨れて眠くなった俺は、レイに抱かれて、調剤室に連れて行かれた。
「清潔第1のこの部屋に猫はダメなんだ。この箱の中で大人しくしてくれるかな」
「ミャーミャー(寝て待ってる。でも早く気づいてくれ!)」
「大人しくて、いい子だね」
箱に柔らかいタオルが敷き詰められ、そっと下ろされた。タオルからレイの匂いがする。いつもより匂いが濃い。猫の嗅覚すごい。大好きな匂いに包まれて、俺の天国はここかもしれないと思う。
頭と顎をなでて、レイは作業に入った。
ゴリゴリ…。静かな調剤室にレイの薬草をすり潰す音だけが響く。薄眼をあけてレイの横顔を眺める。
いつもは軽口ばかり叩くが、本当は真面目で、真剣に薬を作ってるよな。
それにしてもつくづく綺麗な顔だと思う。長いまつ毛に、切れ長な青紫の目。目鼻口の配置がいいんだな。毎日見ていても時々ドキッとする。あの顔で甘い声を出されると、それこそ心臓が飛び跳ねてしまう。
あれこれ想像しながら、いつの間にか眠ってしまった。
目覚めると、レイが昼食をとっていた。朝の残りのスープだけ。おい、もう少し食べてくれ。お茶は丁寧に淹れている。レイの母グレース様の侍女に習った俺よりもいい香りがする。
「猫ちゃん、お昼寝は終わった? 少し外に出ようか」
小さくなった俺は、レイに追いつくために走らなければならなかった。机も椅子も大きくて、まるで巨人の家にでも来たようだ。
レイは掃除用具入れから愛剣を抜き取り、裏庭に出ると、素振りを始めた。ヴィンが帰る前に日課をこなすと言う。
俺の知らないうちにこんな鍛錬もしてたのか。一緒に暮らし始めてから2年ほどたつが、これは初めて見る。そうだよな。日頃動かないで、あれだけの剣を振れるわけないのだ。
レイの剣は目で追えないくらいに速い。細い剣を一瞬で斬りつける、戦闘不能にするだけの一閃。確かに腹いっぱいであの動きはできない。白銀の一閃に変貌するスイッチを確かめるようなイメージトレーニング。鍛錬にしてはかなり時間が短い。レイには時間ではなく、集中できるか、できないかなんだろう。
「今日はこれでおしまい。おいで」
店に戻ると、レイは掃除用具入れに剣を投げ入れた。
長椅子に座り手袋と靴を脱いで、素足になるとゴロンと横になる。
薬草で指先は少し青黒く染まっている。素手がいいと言うが、お願いだから手袋をはめて作業してくれ。
しかしこいつでも、こんなだらけたりするんだ。王族だけあって、背筋はいつもピンと伸ばしている。どこで誰に見られているかわからない、油断大敵だ。夜ベッドではゴロゴロするが、昼間はここまで気を抜くことがない。
胸の上に黒猫を乗せて、抱きしめたり、なでたり好き勝手放題だ。「可愛いな」と極上の笑顔を見せる。間近でみる破壊力が凄まじい。
突然レイに頬ずりされた。
「やっぱり可愛いな。シルバーも可愛いけど僕のじゃないし」
フェレットのシルバーは今王都にいるレイが溺愛する双子のペットだ。そろそろ帰らないと、この子煩悩な父は双子が足りないと騒ぎだす。
もうレイから離れたい。俺の心臓が爆発する前にぴょんと飛び降りた。つれないなと言いながら、レイが目を閉じる。
長椅子の下に隠れていると、時々寝返りをうちたいのか、ギシっときしむ音がする。気になる。寝顔を見るくらいなら許されるだろう。
うたたねしていたレイが起きると、とんでもないことを口に出す。
「汗かいたな。一緒にお風呂入ろうか。猫って水が嫌いだっけ?」
「ミャーミャー(水は多分大丈夫だ、猫だけど猫じゃないから。でも一緒の風呂は遠慮したい)」
沸かしたお湯に足し水して、湯加減を確かめている。手慣れたものだ。俺が一緒に住む前は全部自分で用意してたんだったな。
「おいで。洗ってあげる」
「ミャ、ミャーー(だから俺は入りたくない!)
逃げ出そうとしたが、捕まえられた。
泡だらけにされ、優しく体中全部洗われてしまった後に、レイと一緒に湯船につかる。いつもはレイの髪をヴィンが丁寧に洗い流すが、レイは自分でささっと終わらせていた。
「はふー。気持ちいいね」
「ミャー(もう出してくれ!)」
お湯に浸かり、下からレイを見あげる。この角度から見るレイはもちろん初めてだ。髪からお湯がしたたり落ち、顔も上気している。髪をかき上げる仕草が何とも言えない。俺、ここで溺れ死んでも文句言えない、絶景をみた。
「ヴィン遅いね。もう夕飯の時間が過ぎてる」
夕飯は先に伝えておけば離宮から届く。レイは受け取るだけ。肉料理を半分ヴィンの皿にのせている。よく足りるな。果物だけは残さないが心配になる。
「猫ちゃんにも分けてあげるね」
ソースをかける前の肉をくれた。レイの分がさらに減る。明日は俺の分も食べさせよう!
「休むよ。おいで」
本を読んで、書類を見ていたレイが黒猫を抱いてベッドに入る。
「ヴィンのやつ、無断外泊かな。帰ってきたら追及してやる」
「ミャーミャー(ここにいる! なんで気づかないんだ?)」
それは無理だ。だって猫だもの。
レイに抱かれて体が温まっていく。息がかかるくらいに近い。近すぎる。もう寝よう。それしか今の俺に選択肢はない。
ゆすぶられて目を覚ました。
「いつまで寝てるの? いつの間にか帰宅して、そのまま僕のベッドに潜り込むか?」
キョロキョロと見回すと、家具やレイが元の大きさに戻ってる! というか俺が戻ったんだ!
「おはよう。いい天気だな」
「どうしたの? 窓の外見なよ、雨だよ」
話したところで寝ぼけていると言われそうだ。昨日のことは胸の内にしまっておくことに決めた。
雨の日は午前中だけ仕事して、あとはのんびりくつろぐ。長いすに座り、菓子をつまみ、カードで遊んだりする。2人黙って本を読む時間も心地がいい。
「昨日、迷子の猫が来たんだ。朝にはいなくなってたけど、雨に震えていないかな」
レイは窓から庭にいないか探している。
「大丈夫だろう。軒下にでも隠れているさ」
「だといいけど…」
ガリガリガリ。
レイが扉に飛びついた。開けるとそこには黒猫がちょこんと座っていた。
「猫ちゃんお帰り。おいで、拭いてあげる」
レイは黒猫を抱き上げ、濡れて可哀そうにとキスしている。おい待て、それ昨日はしてくれなかったぞ!
不思議なこともあるものだ。俺は夢を見ていたのか、現実だったのか。
黒猫の名前はモリオン。雑貨屋3号店の看板猫になった。