花言葉は
ヴィンの待つ応接室のドアを開け、姿を確認して安心――するにはまだ早い。
「無事か?」
「おい、いつまで待たせる! 心配で探しに行くところだったぞ!」
テーブルの上のカップの中身は空。自白剤入りのお茶は飲んでしまったようだ。
「ヴィン、落ち着いて。そうだ3番を飲もうか。ちょっと待って」
レイがトランクを開けようとすると、後ろから急に抱き着かれた。レイの首に顔をうずめ心配だったと繰り返す。
「心配かけてごめんね。飲むなって言ったのに」
ヴィンの頭をなでていると、ラベンダーも戻って来た。
「あら。待てはできなかったようね」
「自白剤だけか? 様子がおかしいんだが」
「彼の本心なんでしょ。黒い側近さん。あなたの想い人は誰?」
「主君より大事なものはない」
「そう。主君ねえ。そうは見えないけど。恋人ではないの?」
「違う。家族だ」
「こっちはもっと強力よ。使用には気を付けて」小瓶を渡された。またサンドラのような者が現れたら使うための自白剤。新しく数字が記入され、厳重にトランクの二重底に収納された。
フローレンスが目を覚ます頃にはヴィンは正常な状態に戻っていたが、心配したレイによって3番の解毒剤も飲まされた。
「フローレンスは先に戻っていい」
「もう夜になるぞ。1人で帰すのは危険じゃないか?」
もう黙ってはいられないとヴィンは口をはさむ。レイもラベンダーも咎めないからもういいのだろう。
「ハリーが途中まで迎えに出てるはず。それにフローレンスも馭者もスミス家の者だよ。心配ない」
フローレンスを玄関口で見送っていると晩餐の用意が出来きたと執事が呼びに来た。ラベンダーの手を取りレイが食堂までエスコートする。
「今夜はレイの好きなものだけを用意させたわ」
「ありがとう。でも食前酒に媚薬なんていれなくてもいいのに。朝までずっと一緒にいるよ」
ヴィンがぎょっとする。危ない、グラスに手をかけるところだった。でも朝までとは? 喉がカラカラになり水を口に含んだが、むせた。
前菜、スープ…メインの鴨の香草焼きが運ばれるとレイが席をたった。
「貸して。カットしてあげる」
ラベンダーが両手に持つナイフとフォークを後ろから抱きしめるように手を添えて、一口大の鴨肉をさらに細かくカットした。
席に戻ると今度は、籠に盛られた林檎をひとつ手に取る。
「林檎をハロルドに教わったウサギにしてあげる。ナイフを…」
メイドから受け取り皮に切れ目を入れて渡すと、目を輝かせている。あどけない少女のようだ。
「まあ可愛らしい。ハロルドでも役にたつことがあるのね」
「今は友人なんだ。そっとしておいてあげて」
「わかったわ。もし困ったら言ってちょうだい。お仕置きなら任せて」
こんなにも緊張する食事は初めてだ。何が仕込まれているかわからず、ヴィンはまったく口にできなかった。2人だけが笑みを浮かべて食事をしている。
あとで一曲踊ろうよとレイが誘う。ラベンダーは嬉しそうに着替えてくるわと食堂から出て行った。
「どれだけサービスするんだ?」
「今のうちに食べてしまいなよ。食事には何も盛られていない」
レイが残したものまでヴィンに寄せた。
音楽室で執事がヴァイオリンを奏でる。白いドレスに着替えたラベンダーの容姿はヴィオラに似ているが、雰囲気がまるで違う。今にも壊れそうなガラス細工。笑顔なのだがどこか物悲しい。
レイはラベンダーの腰を抱き、労わるようにゆっくりとリードする。
「レイ。次はいつ来てくれるの? ここはとても寂しいの」
「近いうちに。約束する。どうしても会いたくなったら馬車を寄越して」
「ここであなたを待ってるわ」
レイはまたラベンダーを抱きしめ口づけた。
「お休みなさいませ。ご用がありましたらベルでお呼びください」
メイドが出て行くとカチャッと鍵の閉まる音がした。この部屋から出るなということらしい。レイは今頃ラベンダーのところか。ため息しか出てこない。トランクから水の入った瓶を取り出す。やっと味がした。
翌朝、身なりを整えたレイが何事もなかったかのようにヴィンを迎えに来た。
「帰るよ。支度して」
ラベンダーはまだ寝室で休んでいる。執事だけが見送りに出ていた。
玄関を出ると、ラベンダー畑に人影が見えた。エプロンをつけた女性が押す乳母車から元気な泣き声が聞こえる。ラベンダーの子か、使用人の子か。遠目からでは子の姿まではわからない。
執事が独り言にように「健やかにお育ちです」と呟く。レイが乳母車を見ながら笑みを浮かべていた。まさか、王族の遠い親戚に預けたと言うマリアンヌの子? 聞いてはいけない。何も見なかった。レイの苦手な幽霊だろう。そう思うことにした。
馬車に乗り込むと、レイが息を深く吐いた。2人になると急にねじが止まったように、横になりたいとヴィンの膝の上に倒れ込んだ。
「フーレの家に行った時に話すよ」
ラベンダーとの関係とスミス家で起きた事だろう。一言だけ言って目を閉じた。
顔色もよくない、まだ声がかすれていた。麻痺毒が完全に抜けていなかったのだろう。寝顔は見えないが穏やかな寝息に安堵する。
しかし、レイにあれほど親密な女性がいたとは。叩き起こして聞きたい気もするが、話すと言ってくれた。ここは待てだ。
ラベンダーが目覚めるとまだ隣が温かい。1番好きだと言ってくれた自分の名と同じ花の香りがする。まだ浸っていたい。身体中に浮き出た斑紋を消すように赤く花が咲いていた。寝台脇にはスミレ色のリボンが結ばれている小瓶。もう必要ないのに。引き出しから違う小瓶をとりだした。
王都の本邸ではハリーが待っていた。
「レイモンド様、ありがとうございました。これでフローレンスをクロークへ連れて行ける」
「無事に君へ嫁がせることが出来そうで良かった。式は1年先?」
「花嫁衣装の刺繍を急がせているけど、ウィステリアの職人は妥協しないからな。最短でも1年先かそれよりかかるかも」
「その間は君も自由に動けるね。婚姻後はもう気安く来てくれるなよ」
「クロークは姐さんをいつでも歓迎します。ドレスも用意しときます」
ふふ。それはないとレイが笑う。
「アナベルの護衛はどうする?」
「あてはあるんだ。もうじきこっちへ来るだろう」
「まさか」
「レイラを呼んだ。母国カステルには居場所がないからね。ここなら問題ない。それにアナの護衛と言ったら即答でお願いしますってさ」
オリビアの友人でもあるレイラはカステル王となったデービッドの実妹。体は女性、心は男性。腕はたつが騎士団にも入れず、行き場を失っていた。
執務室でそんな話をしていると、フローレンスが慌てて飛び込んできた。
「レイ様! すぐお戻りを! 今スミス家から早馬が来ました!」
「落ち着いて。彼女に何があった?」
レイは上着を羽織り、持ち帰ったばかりのトランクを抱えた。フローレンスはなおも急いでとドアをあけたままレイを急かす。ヴィンも同様に剣を携え、レイの後を追い馬に跨った。
馬車ではわからなかったが、スミス家は意外と王都から近かった。遠回りして位置をごまかしていたのだろう。途中馬を乗り換え最速でスミス家に着いた。玄関を走り抜け、ラベンダーの部屋に入る。
横たわるラベンダーが薄目をあけ、レイを見ると微笑んだ。
「…君まで僕をおいていくの…」
ラベンダーはレイが屋敷を出たあと、しばらく寝室で休むといって人払いしていた。なかなか部屋から出てこないことを不審に思った侍女が見に行くと横たわったまま反応がない。床には空の瓶が転がっている。あわてて服毒した形跡があると執事を呼びにいった。
「すぐに吐き出させたのですが、あとどれくらいもつか…」
「ありがとう。2人にして」
皆を部屋から出すと、レイはラベンダーの手を取り、白銀の髪をなでる。
「レイ。最後にもう1度会えて嬉しい」
「ヴィオラ。君まで失いたくない」
「まだラベンダーよ。お願い。あなたの離宮に。オリビアの隣に寝かせて欲しい。最後のわがままを聞いてくれる?」
「急がなくていいのに。オリビアはずっと待ってくれているよ」
「先に2人でおしゃべりしたいの。男子禁制の話よ」
「愛してる」
「私もよ。愛してる。あなたに愛されてとても幸せ」
レイはラベンダーに口づけた。白く乾いた唇から液体がこぼれる。レイがハンカチでそっとぬぐう。もう解毒剤を飲み込む力もない。
「もう終わりが近いの。わかるでしょ? だからあなたの温もりが消えないうちにいかせて」
「ダメだ。君のための薬を作ってる。もう少しなんだ。お願いだから待ってよ。僕を1人にしないで」
「あなたは1人じゃない。恋人なんて不確かな関係よりも深い家族がいるわ」
恋人を待ち続けた。今日来るかしら。明日は来るかも。会えば帰したくないが、花言葉を教えてくれた恋人はまた来るよと約束してくれた。待つ事が生きる希望になった。家族にはなれなかったが、待ちわびる時間が幸せだった。ラベンダーの花言葉は〈あなたを待っています〉。今度はオリビアと2人で待とう。
ラベンダーはレイの瞳に映る自分を見る。そして最愛の人の瞳に焼け付けるように微笑む。私のこと忘れないでと願いながら瞳を閉じた。
ラベンダーの部屋からすすり泣く声が止み、執事がそっと扉を開けた。ヴィンは気を失ったレイを抱き上げ客室に運んだ。




