時戻りの悪女は戦場を行く 〜全てを滅ぼして、嘲笑って、救ってあげましょう〜
「あなたがたのような能無しは下がっていなさいな。ここは、わたくしの戦場ですのよ」
血の匂いに満ち満ちた地獄絵図の中、美しく佇むわたくしは、背後に立つ二人に告げる。
片方は救世の英雄と定められた、優しくて哀れな王子。そしてもう片方は慈愛しか取り柄のない聖女。彼らの出る幕など、ここにはない。
「敵はざっと五千人ですよ!? いくらベルティーユ様でも、お一人では……!」
涙目の聖女が叫び、わたくしに縋りついた。
その姿のなんと可愛らしいこと。子鹿のような愛らしさに、思わず顔を歪めてしまう。
「多勢に無勢、そうおっしゃりたいのかしら。――このわたくしが、たかが雑魚の集まりに勝てないわけがないでしょう?」
「でもベルティーユ様、震えるじゃないですかっ」
「ただの武者震いでしてよ」
これ以上、聖女に構っている暇はないだろう。
わたくしは彼女の手から逃れるなり、ゆらりと闇に紛れた。
わたくしの得意は闇魔法。この世を揺るがす悪しき魔族が行使するものと同じ、邪悪なる魔法を扱う異端者……それがわたくしだ。
闇の中をひた走り、影を渡って別なる場所に顔を出しては、隙をついて相手の自由を奪っていく。
振るうのは淑女の嗜みとして持つ鉄扇。闇魔法を込めるだけで、それはいかなる武器よりも凄まじい――人の心の形を変えて自在に操るという、おぞましい威力を発揮するのだ。
「どこだ、どこにいる……!?」
「自分だけ姿を消すとは卑怯なッ!」
「悪女め!」
「殺せ、殺せ!」
この戦い方は少々気分が悪い。けれども敵の悲鳴に似た声を聞いて、少し胸がすく思いがした。
皆の視線が、敵意が、わたくしに集まってくれているから。
――そう。そうよ、もっとわたくしを、わたくしだけを見ればいい。
「ホホホ、あなたがたにわたくしは殺せませんわ。小娘一人に殺られる程度の弱さでは、何人いても変わりませんもの」
かすり傷一つ負わないまま、銀糸のような髪と闇色のドレスの裾を風になびかせながら、血の色の眼を細めてにっこりと嘲笑ってやった。
わたくしの存在を、屈辱の記憶として彼らに刻みつけるように。
「卑怯だとおっしゃるなら、もっと暴れて差し上げてもよろしくってよ?」
英雄や聖女のような品行方正な手は選ばない。
その日、わたくしは軍隊を一つ壊滅させ、軍隊に市民を皆殺しにされて廃墟となった街をぐちゃぐちゃに破壊した。
悪で悪を制す。そのように周囲からは見えるだろう。周囲だけではなく、背後に立つ二人ですらそう思うだろう。
だって、わたくし以外は知らない。
壊滅させた軍隊は魔族に洗脳され、反逆者を静粛するという名目で動いていたことを。
人知れず魔族が隠れ潜んでいて、軍と市民の対立を煽った挙句、市民の死体を喰らおうと目論んでいたことを。
でもそれでいいのだ。
全てを滅ぼし、全てを嘲笑い、全てを救う。
それがわたくし――悪女ベルティーユのやり方だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「どうやら僕が、英雄に選ばれたらしい」
全ての始まりは、その一言だったと思う。
わたくしの婚約者であり、第一王子……そして未来の王太子と目されていたお方。まるで絵本に出てくる王子様であるかのように清く正しい金髪碧眼の美少年、そして十三歳にして国の騎士をも圧倒するほどの凄まじい剣の腕持つ神童として有名であったレオンの言葉。
それを受けたわたくしは、ふっ、と頬を歪に吊り上げた。
やはりこうなってしまいますのね、という失望を隠して、嗤う。
「おめでとうございます……と一応申しておきましょうかしら。お可哀想ですこと」
本心から可哀想でならなかった。
わたくしが憐んでいるのがひしひしと伝わったのだろう、レオンが悔しげな顔をする。
「どうしてそんな風に言うんだ、ベル」
「あら、まさかご自分が英雄に相応しいと思っていて? 王子という地位以外に何も持っていないのに」
わたくしは王国の属国である公国の姫。同い年の幼馴染かつ互いに国家の長の子であるとはいえ、格が違うのだから完全に不敬である。
でもレオンはわたくしを強く詰ったりしない。ただ、悔しげな顔をするだけだ。本当に優しくて、完全無欠の神童様だ。
もっとも、彼はわたくしに勝てた覚えがないから強く出られないというのもあるけれど。
彼に代わり、「ひどいです」と非難の声を上げる者がいた。
英雄の供となる慈愛の聖女。その名を、シェリルという。
「あなたはわたくしの引き立て役。そのために仲良くしてやっていますのよ? 輝くのはいつも、わたくし一人ですの」
「……私たちが選ばれたことがそれほどまでにお嫌なのですか?」
「ええ、もちろん。特にシェリル、あなたは気に入りませんわ」
ふわふわとした亜麻色の髪も、新緑色の瞳も、何もかもが愛らしい。
きつい顔立ちのわたくしと違って、柔和な雰囲気のレオンの隣に立つとお似合いに見えて、それがたまらなく腹立たしかった。
「ベルティーユ様は、変わられたのですね」
「それは当然変わりもしますわよ。何せ、世界が変わってしまったのですから」
その時世界は、混乱の最中にあった。
長きに渡って均衡が保たれていた世界の情勢が数年の間に一気に傾ぎ、あちらこちらで紛争が頻発。平和が脅かされていたのだ。
明らかな異常事態。やがてその原因は、わたくしの祖国で発見された古代の予言書となって明らかになる。
『異界より現れし悪しき魔族、人々の不安を煽り戦へ導かん。救世の英雄と慈愛の聖女によって魔族の王が討たれし時、平穏は再び来たるであろう』
この世界には、たまに予言者というものが現れる。
彼らが一体どんな原理で未来を見て、予言を下しているのかは知らない。ただ、残された予言に人々は縋った。縋るしかなかったのだろう。
その結果としてレオンが英雄に、シェリルが聖女になった。誰も背負いたくない重荷を、適任だからと押し付けられるようにして。
そんなのあまりに、不平等だ。平気な顔で請け負おうとしている二人のずるいことと言ったらない。反発の一つでもすればいいのに、どうして笑顔で受け入れるのか。
――だからわたくしが、悪役として、彼らの前に立つ。
「英雄として、聖女として選ばれるべく力を持つのはわたくしですのよ。わたくしを嫌う者たちの悪意によって不当に遠ざけられただけ。思い上がらないでくださいませ。模擬戦で一度もわたくしに勝てた試しがない雑魚レオン。慈愛しか取り柄のない聖女シェリル。わたくしは、あなたがたが主役になることを認めない」
優しい彼らが、世界を救えるわけがないとわたくしだけは知っている。
知っているからこそ。
「弱くてどうしようもないあなたがたを導いて差し上げましょう。わたくしについて来なさい」
今度こそは何が何でも守ろうと決めていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
わたくしには今生きる世界とは似て非なる、もう一つの世界の記憶がある。
今世と同じく、たった十三歳で英雄と聖女に選ばれた二人……わたくしは彼らの背中を見送り、旅立ちを祝った。
不安がなかったわけではない。でも、理想の王子様を詰め込んだような自慢の婚約者であるレオンと、可愛くて強い友人のシェリルなら、きっと何でもないような顔で戻って来てくれると信じていた。
二人は恐れを知らなかった。
闇魔法を持つことで両親や兄弟から嫌われ、公女でありながら社交界でも遠巻きにされていたわたくしに微笑みかけて、手を引いて、一緒に遊んでくれた。
わたくしなんかにどうして構うの、と何度も訊いた。
その度に二人は笑って言うのだ。
『だって僕たち、婚約者だろう? 仲良くして悪いことなんて何もない』
『ベルティーユ様はもっと自信を持ってください。美しくて格好いい、素敵な公女様なんですから!』
婚約者といえど、レオンとは政略結婚のために選ばれただけの関係だった。いくらでも放っておくことができたろうに。
金で成り上がった男爵家の娘で、貴族社会のことをよく知らない元平民のシェリルに少し礼節を教えてやっただけだ。感謝される謂れはない。格好いいなんて思われるようなこともしていないのに。
わたくしはいつも、彼らに救われていたのだと思う。
……そんな二人だからこそ、信じられたはずだった。
でも、旅立ちから四年を経て戻って来たのは、血まみれになって今にも息絶えそうな少年が一人きり。
ずいぶん成長したが見間違えるはずもない。彼はレオンだとすぐにわかった。
『レオン……シェリルは? それに、その傷はっ』
レオンは語った。シェリルは、悪辣な魔族に騙されて、道半ばでその命を落としたのだと。
レオンは語った。魔族の王と相対したレオンが、闇魔法で洗脳された大勢の人間と殺し合い、その末に務めを果たしたのだと。
『たくさんの人殺しをした自分は英雄なんかじゃない。でも最後にどうしても、ベルに会いたくて。なんて、わがままなんだろうな』
謝ることなんてないのに、ごめんなと謝られた。
謝りながら、レオンの体はどんどん冷たくなっていって。
わたくしはただ涙を流しながら、自分の無力を呪うしかなかった。
そのあとはどうなったのかわからない。
わたくしの中からどす黒い魔力が溢れ出して、何もかもを塗りつぶしたところまでは覚えている。
そして気づけば、わたくしは八歳くらいの子供の姿になっていた。
当然ながら戸惑ったし、もしかするとこれは性質の悪い夢で、すぐに覚めるのではないかと期待した。けれども、一向に現実に回帰することも、体が元の大きさになることもなかった。
時を巻き戻してしまったのだ――そんな荒唐無稽にもほどがある現実を受け入れるのにどれほどの時間を要したろうか。
死に物狂いで文書を漁りまくって闇魔法に時を歪める魔法が存在することを知った。ごく少数の者のみが使える、呪いのような魔法だと。
闇魔法の中でも禁忌を超えた禁忌である故に、己の犠牲をも覚悟しなければ発動しない魔法だという。行使するには代償を必要とするからだ。それは――わたくしの寿命。
魔法を行使した歳、すなわち十七歳以降は生きられない。
「構いませんわ、そんなこと」
あの、優しくて愚かな二人を救えるのなら、それで充分だ。
彼らが選ばれることはきっと避けられない。だからわたくしが彼らを背に庇い、最前線に立とう。
大人しく助けられるだけのか弱い乙女は卒業だ。シェリルがかつて言ってくれた『美しくて格好いい、素敵な公女様』になってやる。
闇魔法は魔族に対抗するにはちょうど良かった。忌々しい魔法も役に立つことがあったのかと驚いた。
この力でレオンよりも……誰よりも強くなろう。誰よりも悪くなろう。悪辣な魔族に負けないように。二人を遺して死んでも、悲しまれずに済むように。
レオンと模擬戦と称して戦い、魔法で痛めつけた。シェリルを執拗に嫌って馬鹿にする素振りを見せた。そうする度に胸が痛んだ。
恐怖に足が震える日があった。わたくしがいなくなればレオンとシェリルは結ばれるのだろう、そう考えて涙を流したくなる日があった。
本当はレオンの隣に並んで、妃として生きてみたかった。
本当はシェリルとずっと親友でいたかった。
――けれど、だからどうした。
自分を奮い立たせるようにわたくしは高く笑い、嗤いながら、戦場を駆け抜ける。
己の命の灯火が消えるその時まで、決して膝を屈するわけにはいかないのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
わたくしが活躍した戦場跡は、大抵見るも無惨な姿になる。洗脳された人間との戦闘であれ、魔族との直接対決であれ、どう戦って被害は避けられない。いっそのこと開き直って大胆にやっていた。
それを見た者は必ず、わたくしに畏怖を抱く。……わたくしの狙い通りに。
銀髪紅眼の毒花。争いに飢えた魔女。破壊の戦姫。様々な呼び名で恐れられているらしく、その噂を聞く度に気分が良くなる。
全ての悪名をわたくしのものに。全ての功績は、レオンとシェリルのものになればいい。
戦場となった街も場合によっては生き残りが多くいたりする。
わたくしの手でボロボロにした街を建て直す手伝いをし、傷ついた人々の傷を癒すのは全て二人に任せた。悪女に人助けなど似合わないからだ。
「そんなやり方をして辛くはないか。……何もかもベルが背負って当たり前のことをやった僕たちだけが感謝される。君の頑張りも、格好いい姿も、誰にも知られない」
「わたくしの強さは、輝きは、周囲からどう思われようと薄れるものではありませんもの。くだらない雑用をするよりはよほどマシでしてよ」
「僕は嫌だよ。ベルは、僕の婚約者は、恐れられていいような女の子じゃないんだ」
胸が苦しくなるようなレオンの言葉は、あえて聞かなかったことにした。
少しでも報いたいとわざわざ路銀を割いてまで、ささやかな贈り物――花束だの指輪だの――を贈られたが、「こんな貧相なものならくださらなくて結構ですわ」と突き返した。
「ベルティーユ様はずるいです。私とレオン様を雑用係になんかして、ベルティーユ様の力になることさえ許してくださらない。どうして何もかも持って行ってしまうんですか」
シェリルの優しい恨み言を、「あなたなんかに任せる気にはなれませんの」と盛大に嗤ってやった。
本当の理由なんて言うわけがない。
ぶちまけてしまったらきっと楽だろうけれど、全てを歪んだ笑みの中に押し込め続ける。
――四年後、最終決戦の日に至るまでも、それは変わらなかった。
立派な青年に成長したレオン。体が丸みを帯びて、ずいぶんと女性らしくなったシェリル。
最前線に立たせたことはないが彼らとて何もしていなかったわけではなく、わたくしを見返そうとしてなのか、必死に鍛錬していた。今のレオンは剣士としては最強の域に達しているし、シェリルの治癒魔法はあらゆる傷や病を癒せるほどにまでなっている。選ばれた二人なら、きっと世界を救えるだろう。――捨て身の覚悟で挑むならば、という但し書きはつくが。
彼らの役目を奪って我が物顔をするわたくしは非道なのかも知れない。それでも、わたくしはわたくしの生きる意味を果たそう。
長い長い旅だったようにも、あっという間だったようにも感じる。
失われた世界で、シェリルの死の原因を作り、レオンの心身をズタズタに引き裂いた悪辣なる侵略者。表情のない蝋人形のようなそいつの目前で、わたくしは優雅に微笑んで見せた。
「覚悟なさい、魔族の王。幾度死を与えても足りないほど、あなたに恨みがありますの。生まれてきたことを後悔させて差し上げますわ」
最後の戦いは、禍々しい毒沼に覆われた寂れた城の中で繰り広げられた。
人間同士の争い合いにより、たった数年で滅亡してしまった王国。その王城を乗っ取った魔族は、元国民を自分たちの都合のいいように操って、己の盾としていた。
あまりの数の多さに、闇魔法でいちいち洗脳を歪めているのでは間に合わなくなり、全体的にうっすらと意識を奪う魔法をかけた。
それだけで八割方は倒れたが、なおも諦め悪く襲いかかってくる者もいる。そういう相手は愛用の鉄扇で風を起こし、薙ぎ払っていく。
そうして進みながら、思う。
前回のレオンは一人一人を相手にしなければならなかったに違いない。実際、たくさんの人を殺したと苦しげに言っていた彼の姿ははっきりと脳裏に焼き付いている。
そのことを思い出すだけで胸が詰まった。
今回こそは間違ってもそんな思いをさせないよう、レオンにもシェリルにも一切の手出しはさせなかった。
そうして辿り着いた城の最奥にて。
わたくしはやっと、諸悪の根源にして因縁の相手の面を拝めたのである。
勝負は、常人であれば目で追えないほどの速さで展開された。
魔族の王の放った魔法によってわたくしの視界を闇で染め上げられる。それに構わずわたくしは突っ込み、鉄扇を振るい、その中に仕込んでいた闇魔法で一時的ながら身の自由を奪う。敵が動けない一瞬の間に視界を塞ぐ闇を振り払って、目を開けると魔族の王も自由を取り戻していた。
「ほぅ、闇魔法の使い手か。ごく稀に人間でも見られる属性だが、お前のは他のそれと比べ物にならぬほど強大なのだな。……まったく、惜しいことだ」
魔族の王が何か言っていたが、耳を貸してやらない。さっさと次の攻撃に移る。
だがすぐにかわされてしまって、尖った鉤爪で闇色のドレスが引き裂かれた。……これにはほんの少し目を丸くしてしまう。
今まで圧倒的な力でねじ伏せてきた。洗脳された人間に限らず、魔族相手もそうだ。かわされるのは初めてのことだった。
「ベルティーユ様!!」
背後でシェリルの悲鳴が上がる。
わたくしのかけた魔法の影響で放心状態になったり気絶したりしている大勢の治療に奔走する彼女。彼女がわざわざ駆けつけなくてもいいように、独り言のように言って聞かせた。
「ちょうどいいですわ。これくらいではないと、張り合いがありませんものね」
足が震えた。恐怖なんてしていない。そんな素振りは欠片も面に出すわけにはいかなかった。
勝てないかも知れないなど、考えた時点で負けだ。わたくしは絶対に敗北するつもりはない。
それから数度に渡って繰り返される激突。わたくしの玉の肌に傷はつけさせなかったけれど、わたくしもまた、一度も触れることは叶わずに次第に体力を削られていく。
どうにか早めに決着をつけなければ。そう思うのに、攻撃と防御を繰り返すので手一杯で糸口さえも見出せない――そんなもどかしい状況の中、魔族の王が醜悪な笑みを浮かべた。
「そろそろ我に力が及ばぬことを認めてはどうだ?」
「あら、どうしてかしら。まだ前戯ですわよ? 死んだ方がマシと思える苦しみをあなたに味わせておりませんのに」
「口が達者なのだな。だが、言い訳をしたところでただの時間の無駄だ。そんなことより」
鉄扇の先端を掴まれる。
わたくしは瞬時に奪い返そうとしたが間に合わず、引きずられるようにして抱き込まれた。
まるで愛しい人にするように抱きしめられたのだ。
「我の仲間になれ。お前の願いを叶えてやろう。あるのだろう? 英雄にも聖女にも縋らない、その理由が。我ならばお前の苦しみを取り除いてやれる。怒りでも、悲しみでも、苦しみでも。あるいは、呪いさえもな」
背筋にゾッと冷たいものが駆け上がる。
魔族の王の行動がまるで理解できなかった。わかり合えないことは最初からわかり切っているが、魔族というものはこれほどに歪な生物なのか。
内容はわたくしの心を見透かしているかのよう。それなのに、告げられた言葉も、わたくしを見つめる濁った瞳も全てが嘘臭くて薄っぺらい。
ただ一つわかったのは、矜持も何もないからこそ、気高き英雄が打ち倒すには向かなかったのだろうということだけである。
魔族の王は、こちらの弱点を本当に見抜いているらしい。もしかすると願えばわたくしの寿命を引き延ばしてくれるのではないか、そう思わないわけではなかった。
けれど、明らかにこいつはわたくしを利用しようとしている。一人でも多くの人間を喰らうために。
魔族の主食。それは、死骸……特に人間のそれだ。
そんな相手に縋りたくはない。絶対に。
「我を疑うか? それなら、今この場で解いてやろうか。お前の体に絡みつく、呪いのような闇魔法――」
つらつらと垂れ流される魔族の王の戯言。
それと同時に顎を掴まれ、そのまま互いの顔面が近づいて――。
「ベルを穢すな、魔族風情が」
魔族の王の唇から血の花が咲いた。魔族の血は黒く、そして腐ったような匂いがした。
目を背けたくなる壮絶な光景だった。思わず喉を引き攣らせるわたくしは、血飛沫を真っ向から浴びそうになって、直前で突き飛ばされる。
驚いて咄嗟に振り返ると、そこにレオンが立っていた。
その表情は今まで見たことがないほど静かな怒りを湛えている。握りしめる剣の先端が黒く濡れているのを見れば、彼が手を下したのは明らかだった。
「レオン!」
「最後くらい、活躍してもいいだろう? 何のために英雄に選ばれたと思っているんだ」
ほんの少し優しい顔になってレオンは笑う。
彼の後ろ姿は力強く、英雄然としていた。
わたくしは彼のそういう姿が一番好きで、なのに何よりも恐ろしい。
また死んでしまうのではないかと、そう思えてしまうから。
「出しゃばらないでくださいませ。わたくしは、わたくしの手で勝利を掴みますのよ!」
だからわたくしは、レオンの手からするりと騎士剣を引き抜いた。
本当はレオンに敵を斬らせたくはなかった。格好をつけておきながら圧倒的な力を見せつけられなかっただけではなく、生きる意味まで肩代わりされてたまるか。
でも、レオンのおかげで勝ち筋が見えた。
闇魔法に闇魔法で対抗しようとするからいけなかったのだ。物理ならば、魔族の王にも届く。
魔族の王の肩に剣を突き刺して、それを支えにしながら飛び上がった。
ドレスをふわりと膨らませ、頭上高くへ。そこからハイヒールの踵を敵の脳天に蹴り下ろし、その衝撃で奪い取られていた鉄扇を地面に落とさせた。
地上に舞い戻ってサッと回収してから、即座に扇の柄で鼻っ柱を殴りつける。魔法の込められていない、純粋なる鈍器だ。
肩を切り落として剣を手の中に戻し、それを盾としながら、返り血を避ける。
「……っ!?」
「ホホホ。口は裂かれ鼻も潰され、無様ですこと」
形勢逆転。
虚をついて押し倒し、と同時に、股間を思い切り踏んでやった。
ギィィィ、と、耳障りな絶叫が城中に響き渡るのが小気味いい。魔族も人間と弱点は同じだったようである。
それから何度も何度も腹や胸などを踏んでやり、その度にぎゃんぎゃん鳴くので嗜虐心が刺激された。
たっぷりと苦しみ抜き、汚らしい声で許しを乞えばいい。わたくしは許すつもりは微塵もないけれど。
「ただの鉄扇と、英雄の剣とは名ばかりの安物の剣に負かされるだなんて、お可哀想に」
「お前……やめろ……ッ」
「次は目でしてよ」
「あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛! だずげ、ろ゛、やめでぐれぇ゛ぇ゛ぇ゛!!」
魔族の王を甚振る間、今までのどの瞬間よりも残虐な悪女らしい顔をしていたと思う。
そんなわたくしをレオンは、咎めるでもなく恐ろしがるでもなく、魔族の王の体が無惨に破壊され尽くして塵となって消える様をただじっと見つめていた。
どこか満足そうだったのはきっと、彼の一撃が魔王を討ち取れた大きな一因になったからだろう。決して感謝していないわけではないけれど、その顔が少し憎らしかった。
――以上が、最終決戦の顛末。
慣れない殴る蹴るの戦いをしたせいで体力的に限界だったのか、うっかり倒れてしまってシェリルに面倒をかけたが、それくらいは良しとしてほしい。
レオンもシェリルも、死なないどころか傷一つつけさせずに戦い抜くことができたのだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
魔族たちが拠点としていた荒廃した国は、いずれは復興して元通りになるだろう。
後片付け――生き残っていた魔族の斬滅――も終えて、わたくしたちは祖国への帰路を辿ることとなった。
行きは魔族の妨害を受けてなかなか進まなかったが、帰りは案外あっという間である。馬車を捕まえて乗り継ぎながら進めば、半年ほどで済んだ。
がたがたと音を立てながら、馬車がゆっくりと国境を越え、祖国に入っていった。
「懐かしの祖国ですね……。なんだか、感慨深いです」
「そうかしら? 力の足りないあなたがたに全てを押し付けた、ろくでなしどもの巣窟ですのに」
ほぅ、とため息混じりに呟くシェリル。反対に苦々しく吐き捨てるわたくし。
わたくしたちをなぜか微笑ましく見つめながら、レオンがとある提案をする。
「そんなこと言うものじゃないよ。……そうだ、せっかくだから僕たち三人だけで帰国を祝わないか。魔王討伐の祝いも兼ねて」
「いいですね、それ! なんだか楽しそうです! ベルティーユ様もご一緒いただけますよね?」
「……くだらないですけれど、付き合って差し上げてもよろしいですわ。馬車を止めて準備なさい」
そんなわけで、国境沿いの森の開けた場所にて、わたくしたちは密やかな宴を開いた。
いずれ王都で催されるであろうパーティーとは天と地の差だ。食事も豪華とは程遠く、特別と言える点は保存食ではない肉があることくらい。それでも、誰も不満がったりはしなかった。
「今日はお祝いなんです。ベルティーユ様、お好きなものをどんどん食べてくださいね!」
にこにこと肉を振る舞うシェリル。旅の道中、食事を管理するのはいつも彼女の役目だった。生粋の姫のわたくしには包丁が握れなかったので。
彼女一人に押し付ける申し訳なさから、あまり食欲が進まなかったのだが、ここで遠慮する方が悪い。たとえ、体調があまり芳しくなかったとしても、だ。
久々に満腹になるまで味わった食事は、とても美味しかったと思う。味はよくわからなかったけれど。
レオンとシェリルが今までの旅に思いを馳せ、明るい声で、満面の笑顔で語らっていたからだろうか。
それが嬉しくて、なのに妬ましく、羨ましくてたまらなくて、泣きそうな気持ちになってしまうからだろうか。
……それとも、食後すぐに激しい動悸に襲われ、徐々に呼吸ができなくなってきている事実を知られないようにするのに精一杯だからかも知れない。
これ以上この場にいてはきっと、二人の邪魔になる。
「少しお花摘みに行きたくなってしまったので、失礼いたしますわ。楽しいお話しでもしながらおとなしく待っていてくださいませ」
いつも通りの嫌味を紡いだ。いつも通りに聞こえますように、と祈りながら。
おそらくだが、きちんと虚勢は張れたはず。
ふらつくことなくしっかりとした足取りで席を離れて、木立の中へ。どこへ行くのかと呼び止められたが、いちいち構っていられない。
もう、限界だった。
がふっ、と音がして、口からどろりとした液体が溢れ出す。
魔族のそれとは違う、わたくしの瞳と同色の綺麗な紅。喉を焼き尽くすようにして次々と上ってくるそれを見て、驚きはなかった。
前回のあの日の日付は記憶していないけれど、同じ日を迎えたということなのだろう。
王城に辿り着いてしまったら国王との謁見の前に姿を消さなければならなかったから、むしろ手間が省けたくらいだ。
ああ、苦しい。
この不調が始まる前触れらしいものなかったから、苦痛を感じる時間が短く済みそうなのが不幸中の幸いだった。それでも苦しいものは苦しいのだが、うめき声なんてみっともないものは漏らさない。
頭が激しく痛む。内側から爆ぜてしまいそうだ。
立っていられなくなって座り込み、茂みに身を預ける。ちょうど天に顔を向ける形になり、嫌になるくらいに輝かしい夜空の星々と見つめ合った。
「このまま、ここで、最期を迎えるのも……悪くはありませんわ」
ただ、一つ予想外のことが起きた。
「――ベル?」
逃れて来たはずの、声がした。
来ないで。どうか、お願いだから。心の中で懇願しても足音が止まるはずもない。
すぐ背後まで気配が迫って来て、わたくしは振り返らずにはいられなかった。
そこに、驚きに染まるレオンの顔がある。
「待っていなさい、と……言ったでしょう?」
「――――」
「乙女の、秘密を覗く、だなんて。王子殿下ともあろう者が、はしたない、ですわ」
言葉が途切れ途切れになってしまうのはどうしようもなく、溢れ出るものを誤魔化すことも不可能。だからもう開き直ってやった。
一瞬にしてレオンはすぐに今の状況を理解したらしい。さすが元神童様だけある。
彼は今まで聞いたことがないくらい、全力であろう声を響かせ、叫んだ。
「ベルが……! シェリル、来てくれ!」
それを聞いて、「は、はいっ」と慌てて木立の向こうからシェリルがすっ飛んでくる。
亜麻色の髪を振り乱しながら走ってきた彼女は、わたくしの姿を見るなり顔を強張らせ、足を止めた。
「何があったんですか!?」
「僕にもわからない。だが、危ない状況なのは確かだ。早く治癒を頼む!」
「わかりました! ベルティーユ様、今、助けますから」
突然の事態に混乱しているだろうに、迷わずわたくしへの治療を始めるシェリル。
彼女はまさしく聖女の鑑だ。その力で、慈愛で、今まで一体どれだけの人の命を救ってきたことか。
――けれど、彼女とて、何もかもを癒せるわけではない。
「治癒が効かない!?」
シェリルの手から発せられるあたたかな魔法は、わたくしの体をするりと通り抜けてしまう。
当然だ。これは病でも傷でもない。時戻りの代償の支払いの刻が来た、それだけのことなのだ。
鮮血が漆黒のドレスを濡らし、流れ落ちていく。
それと同時にわたくしの存在がこの世から薄れるような、そんな気がした。
本当にこのまま塵も残らずなくなってしまえればどんなにいいだろう。
今すぐ消えてしまえるのなら、必死に無駄な奮闘を続けるシェリルの姿に目を向けなくても済むのに、と思った。
「嫌、嫌です、待ってください。ねぇっ。魔王にやられたんですか。まさか、後遺症が今になって現れた? 私たちを庇って、前に立ってくださったから……!」
見当違いも甚だしいことを言いながら、シェリルは涙を流していた。声は震え、可愛い顔はくしゃくしゃになってしまっている。
レオンは泣いてはいなかった。でも、苦しそうな顔は油断をすれば今にも泣き出しそうに見える。
つい先ほどまでの楽しげな笑顔がまるで嘘のようだった。
世界を救った悪女の僕、誰からも称えられるべき英雄たる少年と聖なる乙女がしていいような表情ではない。
こんな顔をさせるつもりではなかった。わたくしは、こんな顔をさせないために頑張ってきたのではなかっただろうか。
わからない。二人がこんな顔をする理由が理解できなかった。
だからつい、子供のような弱々しい声で訊いてしまう。
「泣か……ないで。どうして、泣くの?」
悪辣で、傲慢で、わがままで、どうしようもない女だったはずだ。最初から最後までそのように演じ、振る舞ってきたのだ。
わたくしのために流す涙なんて、あなたがたにはない。家族は悲しみもしないだろうから、誰一人として泣かれることはないと思っていた。――なのに。
「ここで、こんなので終わっていいわけがないじゃないですか! 私はまだ、ベルティーユ様に受けた恩を一つも返せてない!」
「あら……そんなこと、ですの? 借り、など……作った覚えは、ありません、わよ?」
逆に、わたくしの方が借りを返し切れたか怪しい。一度目の人生だけではなく、今回だって旅の道中のあれこれやら怪我人の治療やら、様々な負担を負わせてしまった。
わたくしにできることは全力でやり切ったと自信を持って言えるけれど、それだけでは精算できるはずもない。
けれどそんな本音は押し隠して、笑みを浮かべた。
「わた、くしは……生きたいように、生きた。世界も、救って、みせましたわ。だからもう、充分……」
「ベル、死ぬな。たとえ君が充分でも、僕もシェリルも何も納得していない。ずっとおかしいと思っていたんだ。せめて説明してもらわないと、夢見が悪いじゃないか。頼むよ」
「教えて、やりません、わよ。だって……わたくし、悪女、ですもの」
「待ってくれ。ベルは僕の婚約者だろう。妃としての輝かしい未来が待っているはずだろう。こんなところで終わるのは間違ってる――!!」
いいや、間違ってなんていない。
わたくしはわたくしの生きる意味を正しく果たしたのだから。
「素敵な、お誘い……ですわね。ですが……お断り、ですわ。わたくし……あなたがたが嫌い、ですので。あなたがたは、勝手に、わたく……しの華々……しい功績……を盗んで、悪人に……なればいい」
まるっきり嘘だった。大好きで、何よりも守りたいと思ってきた人たちに、わたくしは呪詛を吐く。
わたくしが奪ってしまった栄光は彼らに正しく得てもらわなければならない。そのために、とびっきりの悪女を演じ切ってやるのだ。
ちかちかと視界が明滅していた。声なんて、もうほとんど出ていない気がする。
すぐそこまで訪れている終焉を感じ、全身が冷たくなっていく感覚。
わたくしは今も、美しく嗤えているだろうか。
「せいぜい……二人で、お幸せに」
すすり泣く聖女の声、「ベル」と幾度もわたくしの名を呼ぶ英雄の声が聞こえた気がしたけれど、きっとそんなのは幻聴だ。幻聴だと思い込むことにした。
わたくしは静かに目を閉じて――そのまま二度と開くことはしない。
「置いて逝かないでくれ。好きなんだ、ベルティーユ」
最後に唇に感じたあたたかさは一体何だったのか、わからない。
考える暇もなく自分が失われていくことが、わたくしはなぜか悔しかった。
お読みいただきありがとうございました。
純度100%の悲恋、いかがでしたでしょうか。お楽しみいただければ幸いです。
最後に、詳しく語ることができなかった二人 (レオンとシェリル)についてつらつらと。
全力で悪女になろうとしたベル。ですが、彼女が時戻りする前の幼少期を知っている二度目の世界のレオンとシェリルは、彼女のそれが演技であると気づいていました。変わった理由こそわからなかったものの、だからこそ彼女に寄り添おうとしたのです。
二人は、特にレオンはベルのことが好きでした。
ベルの死後、彼女の遺した「お幸せに」という言葉を胸に抱えて、レオンとシェリルは大勢に祝福されながら結ばれることになります。それでも一生、ベルを忘れられることはないでしょうけれど……。