出せー!
建物の中は本当に戦場だった。
一階部分には巨大な印刷機器が置かれていた。
紙面を刷っているわけではなかったが、なにか致命的な故障が生じているらしく、空回りさせた機器を睨みながら、ああでもないこうでもないと技師と見られる男たちが激しく議論を交わしていた。
「あっ!社長!」
技師の一人がジェニオたちの存在に気づき、声をかける。
「やっぱりどうにもならんですよ!新しいモンをいれるきゃねえ」
「あとひと月だけ持たせてくれ!」
「先月も聞いたぜそれは!動かなくなってから文句言われても、オレらは知りませんぜ」
「腕の見せ所だろ?」
技師たちはなおもジェニオに詰め寄ろうとしたが、ジェニオは逃げるように上階へ足を早めた。
二階の大部屋ではところ狭しと机が並べられ、血走った目の男たちが狂ったようにものを書いていた。
絶えず電話が鳴り響き、電話番であろう女がとってもとってもおさまることがない。
会話はすべて怒鳴り声だった。窓はすべて開け放たれているが、騒音も、充満する煙草の煙も、ほとんど室内にこもったままだった。
ジェニオは気配を消してこの階をやり過ごした。
まるで帰ったことに気づかれたら一貫の終わり、とでも言わんように。
三階は細かく仕切られた部屋がいくつも並んでいた。
仮眠室や給湯室、会議室のような部屋は暗く閉め切られ、人気が無い。
いくつか明りが灯る部屋は、どれも資料庫で、部屋の三辺は天井まである書架が閉めている。
窓はなく、小さな通気口と照明があるだけの、暗く埃っぽい部屋だった。
そんな部屋の中にいる人びとは、中央にある机に座って一心不乱に書き物をしたり、引っ張り出した資料を血眼で精読したりしている。
そのうちの一人、白紙の原稿用紙を前に頭を抱えて唸っていた女が、ジェニオ達三人の足音を聞いて部屋の扉を叩いた。
「社長!おかえりなさい!出してください!」
女は扉についた硝子窓に顔を押し当て、ドアノブをガチャガチャと、壊さんばかりの勢いで捻った。
部屋には外から鍵がかけられていた。
「ごきげんようマリア。原稿はあがったのかい?」
マリアはガラス窓にへばりついたまま、いいえ!と威勢よく返事をする。
「でも、あとすこし、もう少しで降りてきそうなの!」
「そうか。じゃあまだ出してやれねえな」
「ちょっと!待って!待ってよ!そのもう少しを捻りだすためには、一回外の空気を吸う必要があるの!」
「その手には乗らねえぜ」
「逃げやしないわよ!それにあたし、昼からなんにも食べてないのよ!?お腹が減って原稿どころじゃないわ!」
「だめだ。食ったら眠くなるだろ」
「寝ないわよ!――――あっ、いたた、痛いわ!」
マリアは突然うめき声をあげ、苦痛を訴え始める。
「おなかが痛いわ。猛烈に。いますぐトイレに行かないと、取り返しのつかないことに――――」
「こいつ30分前も同じこと言ってましたよ」
口を挟んだのは、マリアの隣の部屋で資料を睨み付けていた男だった。
それを皮切りに、他の部屋からもマリアの虚言を暴く声があがる。
「誰かが通りかかるたびに腹痛になってるよな」
「原稿の中身考える時間よりどうやって逃げ出すか考えてる時間の方が長いんじゃねえか」
「うるさくってかなわない。いっそ放り出して」
それを聞いたマリアは半狂乱になって叫ぶ。
「なんてこと言うの!?ちがう、ちがうのよジェニオ!あたし本当に――――」
「マリア」
ジェニオは奇妙に優しい声で言った。
「いつも言っているだろ。うちの新聞の読者の半分は、お前の小説が目当てなんだって。わかるか?たくさんの人がお前の小説を楽しみにしているんだ。そしてわが社は、そんなお前の小説に、本当に助けられているんだ」
「だったらここから出してよ!恩に報いなさいよ!」
「そうしてやりたいのはやまやまだがな、おれは読者と、わが社の社員のために、なんとしてもお前に書かせなくちゃならないんだ」
これは義務なんだ。神がオレに与えた使命なんだ。
芝居がかった調子で嘯きながら、ジェニオはマリアたちに背を向け、階段を上り始めた。
「見え透いた嘘はやめなさいよ!神なんてこれっぽっちも信じてないくせに!」
悪魔!人でなし!とマリアはわめき続けたが、ジェニオは取りつく島もなく言った。
「あとで甘いものでも差し入れてやるよ」
マリアは動物園の猿にでもなったかのように、出せー!と言って扉を叩いた。
(……やはり逃げておくべきでした)
一連のやりとりを眺めていたフォニスは、なんだかとんでもないところに来てしまったな、と、今更ながら後悔した。