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アンタを成功させることは、オレ自身の才能の証明でもある



ヨゼフの息子が店主を務める駅前レストラン、『GOLD PLATE』は、開店直後にも関わらず賑わっていた。

席はすでに半分埋まり、二人のウェイトレスがそれぞれ忙しなく店内を行き交っている。

駅前という立地のよさと、値段相応の料理。ゴールドプレートの売りはなによりも手頃であるということだった。

料理の質は値段よりも劣るが、付け合わせのパンが絶品であるためつり合いがとれている。

店構えやインテリアは流行遅れだが、抜群に愛想のいい二人のウェイトレスの存在が居心地も良くしている。

地元の人間に愛される、気安いレストラン。

そんなゴールドプレートでフォニスが食事をとるのは、今日が二度目だった。

ゴールドプレートの常連客の中にはコロンボの人間も多く含まれており、フォニスもそのうちの一人だったが、彼女はいつも昼食用にサンドウィッチをテイクアウトするばかりだったので、席に着くのはこれが二度目、まともな食事をとるのは初めてのことだった。


(あの日はパンしか食べませんでしたからね)


フォニスは二か月前、ジェニオとはじめてレストランを訪れたときのことをぼんやりと思い出していた。


「こうしていると出会ったばかりの頃を思い出すな」


するとジェニオも同じことを口にした。


「せっかくだ、またオレの似顔絵を描いてくれよ」


「嫌ですよ、ただでさえ目立っているのに」


駅前広場に面したテラス席には、フォニスとジェニオの二人しかいなかった。

風はなく、日差しの柔らかい、心地よい昼下がり。

テラス席は込み合っていたが、貴族に扮したジェニオを目にした途端、客は一斉に引き上げてしまった。

昼間に正装をして庶民のレストランで食事をとる貴族などまずいない。人びとはジェニオを変わり者かワケありのどちらかだと決めつけ、距離をとった。

そして店内の座席から、あるいは広場を通りかかるフリをして、遠巻きにジェニオを眺めた。

関わり合いにはなりたくないが、興味は惹かれる、といった具合に。


「つれねえな」


ジェニオはそんな人々の視線などまるで気にも留めず、くつろいだ様子で食事と会話を楽しんでいた。


「あの時といまとじゃ、オレの印象もだいぶ変わったはずだろ」


「変わったどころか、つかめなくなる一方です」


一方、向かい合って座るフォニスは、居心地が悪そうに身を小さくしていた。


「いま描いても、同じようなものになってしまいますよ」


「光栄だな、そりゃ」


なにが光栄なんだろうとフォニスは思ったが、面倒なので口にはしなかった。


「しかし残念だ。アンタが絵を描くとこ、久々にじっくり見たかったんだけどなあ」


「退屈なだけだと思いますが」


「むしろワクワクするね」


ジェニオは食い下がった。


「なあ、描いてくれよ。ソレだって炭がついてないと味気ないだろ?」


「まさか。この美味しさを知っていたら、ぼかしには使いませんでしたよ」


フォニスは白パンの最後のひとかけを名残惜しそうに口に運ぶ。


「何回食べても飽きませんね、ここのパンは」


「アンタ、本当によく食うようになったよな」


「コロンボに入ってから太りました」


「いい傾向じゃねえか。それでもまだ痩せぎすだけどな。食う量も前より増えたってだけで、多くはねえ。もっと食って、その分働いて、人並みの体型にしろ」


ジェニオはハムエッグと白パンが半分残る自分の皿を、フォニスの方に押しやった。

フォニスはもうおなかいっぱいです、とそれを突き返し、カフェオレの残りを飲み干した。


「それにのんびり食事なんかしている暇があるなら、はやく取材に出ましょう。また昨日みたいに夜遅くに帰ってそこから作画なんて御免ですよ」


「今日は絵描きは休業だって言ったろ」


ジェニオは先ほどまで読み耽っていた貴族向けの高級新聞をフォニスに押し付け、食事の残りをさらい始める。

フォニスは新聞を広げ、眉間にしわを寄せる。

目ぼしい記事はない。今朝のコロンボの社会面に数行だけ載せられた隣国の王太子の訪問が一面を占めており、堅苦しく難解な文章で、隣国と自国がいかに友好的な関係にあるか、長く綴られていた。

記事には大きな挿絵、王太子の肖像画も添えてあった。

伝統的な技法にのっとり、写実的だが柔らかいタッチで描かれた王子は、洒脱な都会の若者、といった雰囲気だった。

美形ではあるが、どこか人を見下しているような趣があった。

フォニスは宮廷画家時代にこの王太子と接見したことがあり、当時の記憶を頼りにコロンボに王太子の似顔絵を載せたこともある。

フォニスの描いた王太子も、高級新聞に載せられた王太子と同じ、微笑を浮かべる美しい若者だった。しかし高慢な雰囲気はなく、悠然として、穏やかで、どこか浮世離れした人物として描いていた。

フォニスが描いた王太子は若い女性に人気が出て、彼女の絵を切り抜いて持ち歩く者もいたほどだったが、高級新聞に載せられたこの王太子を見て、わざわざ切り抜く女性はいないだろう。

自分の絵とは似て非なる肖像画だったが、フォニスは一目見て、その作者が誰であるのか察した。

しかし別段、なにを思うこともなかった。

フォニスが渋面を作ったのは、挿絵ではなく記事の文面のあまりのくどさに辟易したからだった。

フォニスは数行読んだところで嫌気がさし、すぐに新聞を閉じてしまう。


「ひでえだろ?」


ハムに目玉焼きの黄身を絡ませながら、ジェニオは言った。


「見てるだけで胸やけを起こしそうになる」


「いかにも貴族の殿方向けですね。わたしにはすこし難しいです」


「難しい?――――ああ、記事の方か。別に難しいことはねえよ。記者も読者も気取り屋なだけさ。どんなに簡単な問題も難しく考えなきゃ気が済まねえんだよ。あるいは難しい問題を解きほぐすことができないでいるだけさ」


「コロンボは噛み砕きすぎているような気もしますが」


「痛いとこをつくな」


ジェニオは黄身をくぐらせたハムをフォークで器用に丸め、品よく口に運んだ。


「多少は仕方ねえだろ。客の食えないもん出したって残されるだけだからな」


「まず口にしてもらうことが大切、ということですか」


フォニスは新聞を丁寧に折りたたみ、机の端に押しのけた。


「刺激的すぎることもありますが、わたしはコロンボの方が好きです」


ジェニオはにやりと笑って、残った白身にナイフを入れた。


「絵はどうだ?」


「絵?」


「連中、オレたちの真似をして、最近絵を載せるようになったんだ。それも奴さんの絵をな――――どうだ?紙面に載ったとき、自分の絵と奴さん、どっちが勝る?」


「絵に優劣はありません」


試すようなジェニオの問いに、フォニスは淡々と返した。


「こちらの新聞には、わたしの絵よりこういう絵の方が合うんじゃないですか?」


「そりゃ負けてるってことか?」


「コロンボにはわたしの絵の方が合います。相性の問題です」


きっぱりと答えるフォニスに、ジェニオは口角をあげたが、声色は不満そうだった。


「オレはアンタに溜飲を下げてほしんだかがなあ」


「溜飲?」


「奴さんに――――いや、今までアンタを不当に扱ってきたヤツら全員に、わからせてやりたいんだよ。アンタがどれだけすごいやつかってことをさ」


「なんですかそれ」


フォニスはいつもの戯れだろうと取り合わなかったが、続くジェニオの言葉は真剣なものだった。


「オレはアンタの一番のファンだからな。それにアンタにぴったりの舞台を与えた。アンタを見出したって自負があるんだ。だからアンタを成功させることは、オレ自身の才能の証明でもある」


見てろよ、とジェニオは力強い眼差しをフォニスに向けた。


「オレがアンタを世界一の売れっ子にしてやる」


「はあ……?それはつまり、コロンボを世界一の新聞にするということですか?」


ジェニオは目を大きく見開き、時間が止まってしまったかのように固まる。


「ジェニオさん?どうしました?――――あの、聞こえてますか?」


フォニスはジェニオの眼前で手を振った。


「――――ああ」


ジェニオは目を見開いたままその手を取り、うやうやしく口づけた。


「うわっ」


フォニスは慌てて手を引っ込め、ジェニオを睨む。


「なにするんですか」


「もう少しかわいい反応をしてくれよ」


「二度目ですよ。三度目はありませんからね」


「三度目はコロンボが世界一になったときにするよ」


「銀製の手甲を着けておきます」


「毒が塗りたくられてたってキスしてやる」


ジェニオは細かく刻んだ白身をパンに挟んで平らげ、再び高級新聞を手にとった。


「さてそのためには、コロンボの発行部数をさらに増やさなきゃいけないわけだが――――販路を拡大するためにも、この自惚れ屋をどうにかしなくちゃなあ」


ジェニオは一面記事を指で弾いた。

王太子の訪問は先月に続いて、今年に入って三度目のことだった。

一度目は春先、女王の葬儀への参列のため。

二度目はそのふた月後、これも弔問が目的とされていた。そして三度目ともなる今回は、女王の甥である新王の戴冠を改めて祝うことが目的だという。

立て続けの訪問は隣国が我が国との連携を深めようとしている証だとして、高級新聞は好意的に報じていた。

隣国は近年、国際社会の中でその存在感を強めている。

国土は狭いが重工業が発達しており、印刷機器や車といった大型の製品から、時計やカメラといった精密機器、果ては爆弾や拳銃といった兵器まで幅広く生産されていた。

どれも非常に質が高く、顧客の中にはかの大国の企業すら存在する。

工業立国。技術的先進国。西方の小さな巨人。

国際社会の中で確固たる地位を築きつつある隣国に友好的な姿勢を示されているとあって、新聞はどこか浮かれていた。

これだけ王太子が頻繁に足を運ぶのは、隣国にとって我が国が重要な存在であるからだ。

連携を深め、国際社会におけるさらなる地位の向上を図ろうとしているのだ。

そんな旨のことが、遠回しに、比喩と装飾たっぷりに、報じられていた。


「盲目のごますりが我が国を代表する新聞なんて思われちゃたまらねえ」


ジェニオは広場でかけっこをする子供たちに声をかけた。

彼らは戸惑った様子だった。大人たちが遠巻きにする貴族の男に声をかけられて、どうしたらいいのかわからない様子だった。


「はやくしろよ。いいものやるから」


子供たちは顔を見合わせる。

無視するわけにもいかないと思ったのか、好奇心に負けたのか、そろそろと近寄ってきた。


「ほら、これ」


ジェニオはリーダー格らしい子供に高級新聞を手渡した。

彼は助けをもとめるようにフォニスを見た。


「ジェニオさん、子供が読むものではないのでは?」


フォニスが助け舟を出すと、ジェニオはそうだな、と頷いた。


「まっとうな大人が読むモンでもねえ。――――だが飛ばすにはうってつけだぜ」


「飛ばす?」


「軽いが丈夫だからな、これは」


ジェニオは紙飛行機を飛ばすジェスチャーをしてみせる。

意図を察した子供たちはぱっと表情を明るくし、礼を言って駆け出した。


「コロンボの発行部数はすでに国内一番だ」


広場のベンチを机代わりに、子供たちは紙飛行機を折り始める。

その様子を眺めながら、ジェニオは言った。


「だがまだ、国一番の新聞とは言えない。世界で一番になるためには、まず国で一番にならなきゃいけねえわけだが――――正直なところ、行き詰ってんだ」


「そうなんですか?」


フォニスは首を傾げた。


「そういえば、この前ベアトさんも発行部数が横ばいになっていると言っていましたね。今ではどの売店でもコロンボを一番前にして売っていますし、コロンボ以外の新聞を読んでる人もほとんど見ません。それなのに一番じゃないんですか?」


「貴族は誰も読んでねえからな」


ジェニオは空いた椅子に置いていたシルクハットを手に取り、目深にかぶった。


「国の中枢に影響力を持たねえんじゃ、読者が何人いようともトップとはいえねえ。例えばいまコロンボが政権のスキャンダルを報じても、国をひっくり返すことはおろか、大臣ひとり下ろすことはできやしねえ。捏造だとしてもみ消されるだけだ。――――真に天下をとるには、貴族の連中にもコロンボを読ませなくちゃならねえ」


新規開拓だ、とジェニオはシルクハットの下で目を光らせた。


「新しい客層を作るんだ。そうすりゃ伸び悩んでた売り上げも伸びる。ボロの社屋からもおさらばできるぜ」


ジェニオの言わんとすることはわかったが、しかし実現は不可能ではないだろうか、とフォニスは思った。


コロンボは単価が安いため、部数のわりに売り上げが悪い。

倒産を視野に入れるほどひっ迫してはいないが、操業に余裕はなく、投資に回るためには発行部数を倍増させなければならなかった。

それほど大きくないこの国でさらに部数を伸ばそうと考えると、他社を潰すか国外に新たな読者を設けるしかない。

しかし競合する大手新聞社は政権との癒着により盤石な土台を獲得している。それこそ革命で貴族政治が終わりでもしない限り、潰れることはないだろう。

また人の流入のみならず、物品の輸出入にも厳しい制限が設けられている昨今、国外での発行も難しい。

現在コロンボの売り上げは高止まりで停滞している。しかし経営の安定には至っておらず、さらなる利益が必要とされている。

熱烈なファンも多いコロンボは、多少単価をあげても、さほど売り上げが落ちることはないだろう。

だがジェニオとベアト、経営陣はもちろん、末端の記者に至るまで、それを望む社員はいなかった。

安価で良質な品を提供しているという自負はもちろん、ここで値段を吊り上げれば、間違いなく読者から反発を食らうからだ。

さんざん批判してきた貴族の経営者たちと、やっていることが同じではないか、と。

値上げをすれば読者の反発を買い、最終的に売り上げは落ちる。

そう踏んだコロンボは、値段は据え置きのまま、発行部数を増やす道を模索しなければなら

なかった。

そしてこの狭い国でいま以上の売り上げを獲得する方法はただひとつ。

まだコロンボの行き届いていない階級の人びと――――貴族たちにも、新聞を読ませることだった。


「どうやって売り込むんですか?」


フォニスは率直に質問した。


「まさか貴族向けにもう一紙作るとか?」


「それじゃ意味がねえ」


ジェニオは完成した紙飛行機を飛ばしあう子供たちに目を向けた。

紙飛行機は実によく飛んでいた。

緩い弧を描きながら、長いもので二十メートルは滑空している。

子供たちは大はしゃぎし、飽きることなく何度も飛ばした。


「オレは二枚舌が嫌いなんだ。貴族向けに、紙だけ高級にしてやるのはアリだけどな」


「……余分で紙飛行機大会でも開きますか?」


「妙案だ」


フォニスは首を振った。


「まさか今日の格好は、貴族のところへ営業をかけに行くため、ですか?」


ご名答、とジェニオは手を叩いた。


「新聞売りの格好をしたって門前払いを食らうだけだ。そもそも真正面から売り込んだところで、誰も読みやしない。小間使いの尻ふきにされるだけだ。だからまず、話のわかる貴族を見つけに行く」


「後ろ盾になってもらうんですか?」


「いいや、ファンになってもらうのさ」


有力者の中に広告塔を作るのだと、ジェニオは言った。


「貴族なんて吐いて捨てるほどいるんだ。中には、裏でコロンボを愛読しているやつもいる。表立ってファンを公言してくれるやつを一人でも見つけられれば、宣伝費なしで新しい客を迎えられる、というわけさ」


「名案ですね――――と言いたいところですが」


「なんだよ。気に入らないか?」


「いえ、気分の問題ではなく、そううまくいきますかね?」


フォニスは王宮で嫌というほど見てきた、高慢な貴族たちの態度を思い出す。


「プライドの高いお方ばかりですから、貴族批判ばかりしているコロンボを率先して勧めてくれる方がいるとは到底思えません」


「貴族以外も批判してるぜ、オレたちは」


「敵は全方位にいますが、ふだん読んでるものがあれでは、貴族の方々にコロンボは刺激的すぎますよ」


「目を覚まさせてやるんだ」


フォニスがなにを言っても、ジェニオの自信は揺らぎそうになかった。

フォニスは諦めて席を立った。


「そろそろ行くか?」


「はい。貴族への売り込みにわたしが役に立つとはとうてい思えませんが、どうせなにを言っても連れて行くんでしょう?」


わかってるじゃねえか、とジェニオは立ち上がり、恭しく腕を差し出した。


「けどわかってねえな」


しぶしぶ腕をとったフォニスに、ジェニオはささやいた。


「今回の売り込みの要はアンタなんだぜ」







当然のようにマリアのアパートの合鍵を持っていたジェニオは、服や化粧品の散らかる部屋の中へ、遠慮なくずかずかと立ち入った。


「――――あれ?」


フォニスは無遠慮なジェニオの振る舞いよりも先に、部屋の異変に気をとられた。

三日前の朝に家を出てからアパートの戻るのは初めてだったが、部屋の中がひどく荒らされているように感じたのだ。

もともと散らかっている部屋だったので雑然とした様子はそのままだったが、明らかにものの位置が変わっていた。


(泥棒にでも入られたんでしょうか?)


(それともまさか、マリアさんを頼って、彼がやってきたとか……?)


フォニスは部屋の異変についてジェニオに知らせた。

すると彼は、心配するな、とクローゼットを開けながら答えた。


「やったのはオレだからな」


ジェニオはクローゼットの中から、ドレスだけを選び出し、ベッドの上に広げていく。


「お前らが釈放されたって噂を流して、ここでハロルド・ミュルトンを待ち伏せしたんだ。そんときに今日使えるモンがねえか、まあいろいろ見させてもらったんだよ」


「……絶対マリアさんの許可とってませんよね?」


「ここは会社が借りてるアパートだ。オレはいわば家主なんだから、当然の権利だろ」


「当然ではないと思いますが……」


フォニスは足元に落ちていたマリアの下着を拾い上げ、洗濯籠の奥に押し込んだ。


「それで、ハロルドさんは来たんですか?」


「いいや、こなかった」


クローゼットの見分をあらかた済ませたジェニオは、ベッドに出したドレスを一着ずつフォニスにあてがう。


「思ったより馬鹿じゃなかったみたいだ。小物だと思っていたが、存外キレる男らしい。――――あるいは、裏に大物がいるか」


「面識があるんですか?」


「『PERCH』で接客を受けた程度にな」


ジェニオは最後の一枚のドレスを合わせると、これだな、と言ってフォニスに押し付けた。


「靴や小物はこっちで揃えてやるから、とりあえず着替えて化粧だけしておいてくれ」


フォニスは目をぱちくりとさせ、おうむ返しに訊ねる。


「着替えるんですか?わたしがこれに?」


「化粧もな。すっぴんじゃあどこのガキが紛れ込んだのかとつまみ出されちまうだろうからな」


フォニスは手渡されたドレスを広げ、姿見の前に立つ。

淡い菫色のドレスだった。

ボリュームの控えめなベルラインで、襟元は空いているが肩から肘にかけては上品なレースで覆われている。

数年前、マリアが下級貴族の男と付き合っていた時に作ったという、彼女が持つ中で最も高価なドレスだった。


「なんでマリアさんのドレスを着なくちゃいけないんですか?」


「お前夜会に出るためのドレスなんて持ってないだろ?仕立ててやりたかったが、時間が無くてな。既製品よりはマシだろ?それで我慢してくれよ」


「いや、ドレス自体に文句があるわけではなく……これすごく高価な品なんですよ?勝手に着たらわたしマリアさんに殺されます」


「どうせもう着ないだろ」


ジェニオはドレスの並べたベッドの上に、躊躇いなく腰かけた。


「すぐに目移りするくせに、古いものをいつまでも後生大事に抱え込む。あいつの悪い癖だ」


むしろこれは親切だぜ、とジェニオは言った。


「少なくとも一着分のスペースがクローゼットにできたわけだからな」


「たしかに、放っておけばこの部屋は服で埋もれてしまうでしょうが――――なんにせよこのドレス、わたしには着れませんよ。大きすぎます」


「ちょっと手直しすりゃ済むだろ」


針子を呼んである、と言ってジェニオは立ち上がった。


「うまく化けてくれよ。地味すぎず、派手過ぎない、凡庸な令嬢に変身してくれ」


ジェニオはそれだけ言うと、部屋を出て行ってしまった。

フォニスは菫色のドレスを手に、途方に暮れる。


「凡庸な令嬢と言われましても……」







二時間後。

ジェニオが部屋の扉をノックすると、中から小鳥の鳴き声のような返事が返ってきた。


「もうすぐ終わるわ!」

「もう開けていいわよ!」

「あと少し待って!」


どっちなんだよ、とジェニオは笑い、そして躊躇なく扉を開けた。


「――――あ?」


ジェニオはシルクハットのツバを持ち上げ、刮目した。


扉の先にいたのは、三人の針子に囲まれたフォニスだった。

すっかり着飾った彼女は、ふだんの地味で素朴な雰囲気をすっかり失っている。

絶世の美女に変身したわけではない。

貧相な体躯はそのままで、コルセットで腰はほっそりと締め上げられているものの、肉付きの悪さは誤魔化しようがなかった。

しかし余った布をフリル部分へうまく流すことで、ドレスにはボリュームが生まれ、そのボリュームはフォニスの細身を自然にカバーした。

借りものでありながら、フォニスはドレスをすっかり着こなしていた。

緩やかで遊びのある、流行のまとめ髪へ変えられた髪型も、ドレスによく合っている。

なによりフォニスを変えたのは、化粧だった。

むらなく塗られた白粉に、頬と唇にそれぞれ淡く差された紅。鼻筋を際立たせ、あごの丸みを削るシャドウ。自然に、しかし定規を当てたように左右対称に引かれた眉。控えめに縁どられた目元。

特徴のない顔立ちであることに変わりはないが、化粧をしたフォニスはすっかりあか抜けていた。

人目を引くタイプではないが、美人と呼んで差し支えない。

黙っていれば育ちの良いご令嬢にしか見えない。夜会で十分に通用する女性へと、フォニスは変貌を遂げていた。


「突っ立ってないで、なにか言ったら?」


フォニスに見入ったまま言葉を失うジェニオに、針子の一人が甲高い声で言った。


「その前に扉を閉めてよ」

「はやく中に入ってきたら?」


二人の針子が、それに続いて声をあげた。

ジェニオは後ろ手に部屋の扉を閉じ、そのまま腕を組んで、扉に背を預けた。


「――――驚いたな。誰かと思ったぜ」


針子に囲まれて動けないフォニスは、視線だけをジェニオによこす。


「大げさです」


「いや、本当に……ダメ元だったんだがな。まさかここまで化けるとはなあ……」


参ったぜ、とジェニオは唸った。


「見る目はあるつもりだったんだがな、お前ら意外と腕が立つんだな?それとも素材がよかったか?どっちにしろ裏切られたぜ――――いい意味でな」


フォニスを取り囲む三人の針子は、仕上げの手を止めることなく一斉に声をあげる。


「意外と、ってなによ、ウチらのこと舐めてたってこと?」

「ウチらの仕事が想像以上で驚いてるのよ。許してあげよ」

「つまりお代をはずんでくれるってこと?やったあ!ケーキ買って帰ろう!」

「当然でしょ。相場しかくれないんだったら、パパにいいつけてやる」

「ウチらこの辺じゃ一番の針子だもんね。ママの次に、だけど」

「お代、はずんでね。びっくりするくらいきれいになったと思うでしょ?だからお代たくさんちょうだいね?ママとパパにもケーキ買って行ってあげたいの」


小鳥のようにわめく三人に、いいぜ、とジェニオは気前よく返した。


「ブティックに寄る必要がなくなったからな。その分はずんでやるよ」


三人の針子はきゃあっと歓声をあげた。

まだ十代半ばの彼女たちは、工場街の顔役、ダフィーの娘たちだった。

三姉妹の母親は界隈でも評判の針子であり、彼女に衣装の手直しを依頼する貴族も多い。その娘である三人姉妹もまた優れた針子であり、ジェニオはその腕を買って彼女たちにドレスの仕立て直しを依頼したのだ。


「ドレスの直しはさておき、ヘアメイクの腕がここまでとは思わなかったよ」


感心するジェニオに対し、あら違うわよ、と三姉妹は異口同音に答えた。


「やったのはフォニス。ウチらはドレスしか直してないよ」

「ウチらヘアメイクは専門外だって言ったでしょ。それはフォニスの仕事よ」

「一応ウチらもやったのよ?頼まれた以上仕方ないからね。でも全然だめで、フォニスが自分でやった方がマシだからって言ってさ」


三姉妹はそれぞれフォニスの顔を見上げ、うっとりと目を細めた。


「ウチらも仕上がり見て驚いたよね。まさかフォニスにこんな才能があるなんて」

「ねえ、さっきも言ったけど、今度ウチらにも化粧してよ」

「こっちでも十分食べていけそうじゃない?絵描きを辞めて、四人で店を開くなんてどう?」


きゃあきゃあと好き勝手なお喋りを繰り広げる三姉妹を無視して、ジェニオはフォニスに言う。


「恐れ入ったぜ、まさかそんな技を隠し持っていたとはな」


「別に隠していたわけでは――――化粧くらい、誰でもできるじゃないですか」


「そこまでのモンはなかなかできねえよ」


フォニスは鏡に映る自分の顔を見て、そうですか?と首を傾げた。


「マリアさんに手ほどきを受けたのがよかったのかもしません」


「……その出来じゃ、アンタがマリアに手ほどきしてやるべきだぜ」


ジェニオは腕時計にちらと視線を落とした。


「勉強になったぜ。絵の上手い奴は化粧も上手いってこったな。考えてみれば似たようなもんだ――――さて、そろそろ時間だ」


ジェニオは扉に預けていた背を伸ばし、手を叩いた。


「仕上げは済んだか?そろそろ出るぞ」


三姉妹はお喋りをぴたりと止め、声を揃える。


「あと三分!」







アパートの下には、豪華な馬車が一台止まっていた。

下町には似つかわしくないその馬車を珍しがって、近所の子どもたちが群がっていたが、アパートから出てきたフォニスとジェニオを目にすると、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。


「……見世物になった気分です」


古びたアパートから着飾った自分が出てくる様はひどく滑稽だろうと思い、フォニスはぼやいた。


「変な噂が立ったらどうしましょう」


フォニスをエスコートするジェニオは、そうか?と不思議そうに言った。


「こういうの、むしろアンタは好きだと思ったけど。――――ボロアパートから出てくる紳士と淑女。アンタの描きそうな絵だ」


「モチーフと構図としては面白いことは否定しませんが、自分が実際にやるとなると、辱めでしかありません。同じ罰なら、まだ昨日のように取材で駆け回るほうがマシです」


「なんだ。アンタこれを罰だと思ってるのか?」


「実際罰でしょう。釈放してもらった恩がなければ、こんな仕事は断っていますよ」


「そうなると、オレたちは警察に感謝しなくちゃならねえな」


ジェニオは馬車の扉を開きながら言った。


「アンタを夜会に連れて行く口実ができたわけだから」


ジェニオはフォニスに手を差し出したが、フォニスはそれを無視し、ドレスの裾をたくし上げ、一人で馬車に乗り込む。


「やっぱり断ればよかったです。だいたい、警察に捕まったのはわたしのせいではないわけですし」


「連帯責任だろ」


「……ジェニオさんはいい借金取りになれそうですね」


「金を巻き上げることはあっても、借すことはねえよ、オレは」


ジェニオは馬車の扉をしめ、御者に出発するよう声をかける。

ガタゴトと、馬車は荒い舗装の道を進み始める。


「いつもの車はどうしたんですか?」


「あんなボロ車じゃ、門前払いを食らうだろ」


「それでわざわざ馬車を?」


光沢のあるビロード張りのソファに、フォニスは身を沈めた。


「靴といい、手袋といい、あなたの衣装といい、営業で参加する夜会にどれだけお金をかけてるんですか」


ジェニオはフォニスの着替えを待っている間に、ドレスに合ったローヒールのダンスシューズに、サテンのグローブ、造花の髪飾りや真珠のネックレスといった小物をひとしきり買い揃えてきた。

どれもフォニスのサイズにぴったりと合うもので、シューズに至っては、フォニスが昨日ベアトと取材に言った店の、オーダーメイド品だった。

取材の際、顧客の気分を味わうため、と理由をつけられて足のサイズを測られたことを思い出し、フォニスは慄いた。


(まさかたった一晩で一足仕上げてもらうなんて)


履き心地の良い白色のダンスシューズをちらりと見やって、フォニスはため息を吐いた。


「わたしを着飾らせるより、賄賂のひとつでも用意した方が、ずっと成果に繋がると思いますが」


「生半可な賄賂が通じる相手じゃねえんだよ」


ジェニオは懐から付け髭を取り出すと、自身の口元に張り付けた。


「似合いませんよ」


「いいんだよ。あんまりツラを割りたくないからな」


「……今さらですけど、一体どこの夜会に行くつもりですか?」


「王宮だよ」


「……は?」


フォニスは耳を疑った。

言ってなかったか?とジェニオはしたり顔で笑った。


「今夜王宮で開かれる舞踏会。オレたちはそれに参加するんだよ」

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