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絵を描く気力がなくなるなんて初めてです

***




「出せー!」


缶詰部屋の中で、マリアは暴れ回っていた。


「あたしがなにしたっていうのよ!?下衆野郎!人でなし!警察を呼んで!!」


隣室でそれを聞いていたフォニスは、呆れて壁越しに皮肉を返す。


「マリアさん、つい一昨日その警察に捕まったばかりじゃないですか。喉元過ぎればなんとやらと言いますが、いくらなんでも早すぎません?面の皮どころか喉まで分厚いんですか?」


「なにそれ!?ジェニオの真似!?ずいぶんな口をきくようになったじゃない!」


「真似をしているつもりはありませんが……」


「自覚が無いならなおのこと、あんたよくよく気をつけた方がいいわよ。あの狐野郎に毒されたら、いまに皮肉しか口にできなくなるわ。それも人を苛立たせる、不愉快で笑えない言葉選びの!」


「そんなにわたし、口が悪くなりましたかね?」


けれどもしそうだとすれば、それはジェニオというよりもマリアの影響によるところが大きいのではないだろうか。

フォニスはそう思ったが、口には出さず、話題を戻した。


「とにかく警察はもうこりごりですよ」


「あんたはそうでしょうね?でもあたしからしてみればここより留置所の方がずっとマシだったわ!こんなカビ臭いところにまる一日も閉じ込められて、気がヘンになりそうよ!」


壁を蹴っているのか、殴っているのか。果てはその拍子に転んだのか。ドタン、バタンと騒音は響き続ける。

フォニスが向かう作業机は壁に沿っていたため、その振動で揺れ動き、まともに線も引けなくなってしまう。


「暴れても逆効果ですよ」


これでは仕事にならないと、フォニスは筆をおき、マリアを宥めにかかった。


「いい加減に原稿を進めないと、もうトイレにも出してもらえなくなりますよ。それとも留置所のように、バケツを用意してもらいますか?」


「できるわけないでしょ!動物じゃないのよあたしは!」


ドンッ!とまた壁が揺れた。

フォニスは原稿に覆いかぶさり、パラパラと落ちてくる砂粒から、まだインクの乾ききっていない絵を守る。


(崩れたりしませんよね……?)


壁にはもとから幾筋か亀裂が入っていたが、マリアが暴れるうちにそれは少しずつ、しかし確実に、伸びているようだった。


(そういえば、この社屋、いったいいつになったら建て替えるんでしょう?)

(コロンボの売り上げは好調だそうですし、そろそろ建て替えるか、別の場所に移るかしてもいいと思うんですが……)


フォニスがぼんやりと亀裂を眺めていると、マリアがまた壁を殴った。


「――――ちょっと!聞いてるの!?」


「はい?」


「だから――――これじゃ留置所から刑務所に移されたようなもんじゃない、って言ってんのよ!あいつら助けてやったみたいな顔してるけど、そのあと軟禁するんじゃ警察とやってること変わらないじゃない!人のことなんだと思ってるの!?」


「わたしに訊かれましても……」


ジェニオとベアトの手回しによって不起訴処分となった二人は、その足でコロンボまで連行された。

そして缶詰部屋に閉じ込められ、マリアには一週間分の原稿、フォニスにはどんな記事にも合わせられる予備の隙間埋めのイラストの製作という、山のような仕事が押し付けられた。

部屋の扉は外側から鍵がかけられ、すでにまる一日が経過している。

トイレ以外で部屋から出ることは許されず、二人は睡眠と食事以外のすべての時間を原稿にあてなければならなかった。


「あいつらなんの権利があってこんなことをするの!?」


マリアはこの仕打ちに憤慨していた。


「雇用主ですからね。わたしは大丈夫でしたけど、マリアさんは昨日の原稿を落としてるわけですし、その罰だと思って諦めるしかないですよ」


一方フォニスの反応は淡々としたものだった。

缶詰部屋に閉じ込められた現状を、むしろ嬉々として受け入れているようでさえあった。

フォニスのそんな態度は、マリアの神経を逆なでするばかりだ。


「社長は神じゃないわ!」


「少なくともコロンボにおける王様ではありますよ」


「とんだ独裁者じゃない」


マリアは壁越しにも聞こえるほど大きなため息をついた。


「あんたにとってはいい王様なのかもしれないけどね?好きなだけ絵が描けるんだから、いまのこの状況だって、あんたにとっちゃ願ったり叶ったりなんでしょうし」


「それは、まあ、そうですね」


マリアが暴れるのをやめたので、フォニスは再び筆をとった。


「同じ牢獄でも、ここなら絵が描けますから。どちらか選べと言われてもわたしは間違いなくコロンボをとりますよ」


「あたしにとってはどっちも地獄よ。――――愛する人に会えない場所なんて!」


マリアの発作が再発する。

ガタンッ!という大きな音と振動が、フォニスの缶詰部屋にまで響いてくる。


「ああ!彼はいまどうしているのかしら……!無事でいるのかしら?うまく逃げおおせているのかしら?『PERCH』にはもういられないでしょうし、寝床はどうしているのかしら――――ああ!こんなことなら、さっさとアパートの鍵を渡しておくんだったわ!」


今日何度目かもわからない、マリアのひとり芝居の幕開けに、フォニスはもう驚きも辟易もせず、淡々と相槌を打った。


「そんなことをしたら、本当に刑務所送りになっていましたよ」


「かまうもんですか!彼のためならあたし、どこへだって行けるわ!」


「もしかしたらもう捕まってるかもしれませんよ?」


「ああ!」


マリアは悲鳴をあげる。


「そうだったらどうしよう!もし彼が強制送還されてしまったら――――もう二度と会えなくなってしまったら――――あたし――――あたしは……!」


ガシャーン!となにかが割れる音がして、マリアは叫ぶ。


「こうしちゃいられないわ!今すぐ彼を助けに行かないと――――誰かっ!」


甲高い声で叫びながら、マリアは再び扉を叩きはじめる。


「誰か来て!具合が悪いの!あたし、いまにも倒れそうなの!病院に行かないと死んじゃうわ!」


「そんな元気な病人がどこにいるんですか」


思わず突っ込んだフォニスを黙らせるように、マリアは喚く。


「聞こえないの!?薄情者!冷血漢!これであたしが死んだらどうするのよ、人殺し!」


ドタンバタンとマリアは再び暴れ回る。

またしても揺れに苛まれ、フォニスの筆は止まってしまう。

しかしフォニスはもうマリアを宥めようとは思わなかった。

フォニスは壁沿いの机から離れ、床に画用紙を敷き、這いつくばって絵を描き始めた。

灰色のスカートを丸めて蹲るフォニスの姿は、遠目に見ると巨大なネズミのようだった。


「――――動物園かここは?」


扉を叩き喚くマリアと、床で絵を描くフォニス。

二人を見たジェニオは、笑いを必死に噛み殺しながら言った。


「見物料で一儲けできそうだな」


ジェニオの隣で煙草を吹かすベアトは、誰が見るんだ、と吐き捨てた。


「こんなきたねえ見せもん、むしろ見るのに金をもらいたいくらいだ」


缶詰部屋の外の廊下に並び立つ二人を見て、マリアは一段と声を大きくする。


「やっときたわね!はやくここから出して!」


「便所か?」


「ふざけないで!家に帰るのよ!」


「原稿は終わったのか?」


「こんな環境で書けるわけないでしょ!」


「じゃあダメだ」


ジェニオは腕時計をちらと見て、肩をすくめた。


「まる一日閉じ込めたってのに、まだ白紙なのか?昨日の分の原稿だって、けっきょくいつも通りギリギリの時間にあげたらしいじゃねえか。出たいなら大人しく仕事にかかれ。一週間分のストックができたら、すぐにでも出してやるから」


マリアは逮捕されたために原稿を落としてしまっている。

ストックがあれば紙面に穴を空けることもなかっただろうと、ジェニオはマリアに原稿の書き溜めを命じていた。

しかしマリアは暴れるばかりでろくに原稿を進めていなかった。

進めたくても、進められないのだ。

意中の男、ハロルドの安否が気がかりで、それどころではなくなってしまっていたのだ。


「警察を呼んで!」


痺れを切らし、マリアは言った。


「あんたたちよりまだ警察の方が話が通じるわ!」


ジェニオとベアトは顔を見合わせる。


「本当に呼んでやろうか」


「正気か?」


「それはそれでおもしろそうだろ?」


「冗談でもよせ。大枚はたいて買い戻したんだぞ」


ベアトは煙草をもみ消し、フォニスの入っている缶詰部屋の鍵を開けた。

フォニスは手を止めず、まだですよ、と言った。


「これはもうすこしかかります。それとも他に急ぎの案件ができましたか?」


ベアトはフォニスの首根っこをつかみ、立ち上がらせる。


「あっ――――なんですか、急に」


「行くぞ」


「どこへ?」


「取材だ」


ベアトはフォニスを部屋の外へ引っ張っていく。

フォニスは慌ててペンと描きかけの絵を抱えたが、部屋を出た途端ジェニオに没収される。


「イラストのストックは十分だ。これは置いて、取材に集中してこい」


ジェニオはフォニスにスケッチブックを押し付ける。

描きかけの絵に対する執着は、その新しいスケッチブックの手触りで瞬く間に払拭される。

フォニスはスケッチブックをうっとりと見つめながら、わかりました、と快諾する。


「ちなみになんの取材ですか?」


「この前と同じだ。『街角名店紹介』だよ」


ジェニオは目深にかぶっていたハンチング帽を持ち上げ、目を光らせた。


「『EKATERINA』の記事の評判がすこぶるよかったからな。うちも載せてくれって依頼が殺到したんだ」


「ああ、わたしも聞きましたよ。――――ずいぶんな広告料をぶんどっているんだとか?」


「人聞きが悪いな。誰が言ってた?」


フォニスは事務方にいる、おしゃべりな中年女性の名をあげた。

ジェニオはハンチング帽を深くかぶりなおし、仕方ねえなと肩をすくめた。


「事務方の連中はどいつもこいつも新聞社勤めにあるまじき口の軽さだな――――まあそういうわけだから、前とおなじように頼むぜ」


「はあ」


フォニスはスケッチブックを撫でる手を止め、表情を曇らせる。

それを見たジェニオは珍しいな、と驚く。


「お前が仕事を選ぶなんてな」


「嫌なわけではありません。むしろ楽しかったので、またやりたいと思っていました」


でも、とフォニスは伺うような目線をジェニオに送る。


「ヨゼフさんは気に入ってくださったようですが、わたしの絵――――特に似顔絵は、人を選ぶじゃないですか」


フォニスは絵で忖度ができない。

それが新聞に載せるペン画なのか、寝室を飾る油絵なのかで、テイストを変えることはできる。

しかし自分の感性に背くことはできない。特にモデルがある場合は、自分が見たままにした描くことができない。

醜いものを美しく描くことも、欠陥を埋めることも、余分を削ぐこともできない。

むしろそれらをそのモデルの個性として際立たせてしまう。

宮廷画家時代、そんな率直かつ誇張した肖像画を描いたことで貴人を激怒させたことのあるフォニスは、懸念していた。

自分の絵が原因で広告を取り下げられるようなことがあったらまずいのではないか、と。


「――――聞いたか、ベアト」


ジェニオはわざとらしく片手で目頭を押さえ、もう一方の手をベアトの肩に置く。


「フォニスがこんなにもコロンボのことを思ってくれるようになるなんてなあ」


ベアトは煩わしそうにジェニオの手を払いのけ、短くなった煙草を足もとに投げ捨てた。


「当然だろ。会社にでけえ損失を与えた直後だ、なにがなんでも稼ぐ気概を見せてもらわなくちゃ、腹の虫がおさまらねえよ」


そう吐き捨てるベアトの顔には、無精ひげが伸び、色濃い隈が浮いていた。

飄々と振る舞うジェニオも同様に、疲れが顔に滲み出て、シャツにもしわが寄ってしまっている。

彼らがマリアとフォニスのために支払ったのは保釈金だけではない。

各所に手を回し、上役を説き伏せなければならなかった。

握っていたあらゆるスキャンダル、情報を引き換えにしなければならなかったのだ。


「でけえ貸しだからな、これは」


ベアトは煙草を足でもみ消しながら言った。


「似顔絵は描かなくていい。料理と店主は俺が撮る。お前は外観と女王だけ描け」


「女王を?」


「シリーズにするんだよ」


ベアトは新しい煙草に火をつけた。


「三枚じゃあさすがのお前でも他の記事に手が回らなくなるからな。外観の一枚だけでいい。じいさんの店と同じように、女王とその店を合わせて描くんだ」


「はあ、まあ、いいですけど――――」


フォニスはマリアが即興した一節を思い出した。


――――女王は決めていた。

王位を退いたら、国中を見て回ろうと。

民と同じものを食べ、同じ祭りを楽しもうと。


「――――いいんですかね、描いて」


「描きたくないか?」


「むしろ描きたいです。でも似顔絵以上に、抑制は聞きませんよ」


女王は気に入らない店であれば、それをはっきり顔に表すだろう。

そしてフォニスはそれをそのまま描くであろう。


「広告主どころか王宮に目を付けられる、なんてことがあれば――――」


「お上の顔色に振り回されるんじゃ、コロンボを作った意味がねえ」


「まったくだ。むしろヤツらの顔色を、こっちが左右するようじゃなきゃなあ」


ベアトの言葉に、間髪入れず、ジェニオが賛同を示す。


「アンタはそんな心配せずに、ただ描きたいように描いてくれりゃいい。今まで通り」


「はあ、まあ、言われなくてもわたしは描きたいようにしか描けませんが――――」


フォニスは周囲に不安の視線を巡らせる。

電球の切れかけた薄暗い廊下。

壁や天井には亀裂が走り、雨漏りやネズミの糞尿による染みでところどころ変色している。

板張りの床も同様、ベアトの捨てた吸い殻が気にならないほど黒ずんでいる。内部が腐食しているのか、足を乗せると大きく沈む箇所さえある。


「大丈夫ですかね」


「なにをそんなに心配してるんだよ」


「その……もし発禁処分でも受けて、一時的にでも収入が途絶えるか、あるいは膨大な罰金でも課せられたら――――ここ、潰れるんじゃないかって」


「潰れる?まさか!」


ジェニオは大笑した。


「そんなにやわじゃねえよ、コロンボは」


「あ、いえ、倒産とかそういう意味ではなく――――」


フォニスの言葉を、マリアの打撃音が遮る。


「いつまでベラベラ喋ってるのよ!!!」


マリアは缶詰部屋の扉に張り付き、壁を叩きながら怒鳴る。


「黙って聞いてればなに!?あんたたち、あたしの話はろくに聞かないくせに、フォニスにはゆっくり構ってやるのね!?そんなに若い女がいいの!?いつもフォニスのこと子ども扱いするくせに、面と向かうとデレデレしちゃってさ!恥ずかしくないの!?ひと周りも下の子に鼻を伸ばしてんじゃないわよ!」


ドンドンと、マリアは激しい殴打を繰り返す。

その振動はフォニスたちの立つ廊下まで伝わり、壁の亀裂からパラパラと砂埃が落ちた。


「――――ほら、これですよ」


フォニスはマリアの暴言は一切無視して、亀裂を指でなぞる。


「はやいところ建て替えるかよそに移るかしないと、倒産する前に倒れますよ、コロンボは」


ジェニオは肩をすくめ、ベアトは舌を打つ。


「なるほどな。アンタの懸念はもっともだ――――つまりこんなオンボロから移れないくらいに金がねえのに、お上を敵に回して大丈夫なのか、ってことだよな」


「お金、やっぱりないんですか?売り上げはいいのに、どうして――――」


「ちょっとフォニス!あんたまで無視するの!?」


フォニスの言葉は、またしてもマリアにかき消されてしまう。


「建物よりあたしの心配をしなさいよ!」


「そんなこと言われましても」


「鍵をあげて!あたしをここから出して!」


フォニスはジェニオとベアトに視線を送る。

二人は当然、首をふる。


「ダメに決まってんだろ」


「もう行くぞ」


ですよね、と言ってフォニスはマリアに向き直る。


「じゃあマリアさん、原稿がんばってください」


「ちょっと!待ちなさいよ!外に出るならせめてハロルドがどうなったのか調べてきて!」


「そんなこと言われても、ジェニオさんとベアトさんですら、彼の行方はつかめていないんですよ?」


フォニスとマリアが捕まった原因。

多額の保釈金と労力を浪費させた男の行方を、ジェニオとベアトは当然追ったが、しかしそれをつかむことはできていなかった。

逃げおおせているのか、秘密裏に捕らえられたのか、それさえも判然としていなかった。


「こいつらが嘘をついてるだけかもしれないじゃない!」


しかしマリアは引き下がらなかった。


「『PERCH』の様子を見に行くだけでもいいわ!お願いよ!それからアパートも見てきて!鍵は渡さなかったけど、住所は教えてあるから、もしかしたら――――ああ、それとついでに化粧箱も持ってきて!あと着替えと、香水と――――」


マリアの声は次第に遠ざかっていく。

フォニスはベアトに腕をつかまれ、半ば引きずられるように、歩かされていた。


「あの」


「なんだ」


「マリアさん、ああ言ってますけど……?」


「聞くな。無視しろ」


フォニスは隣を歩くジェニオに視線を送った。

ジェニオはそうだなあ、と言って、にやりと笑った。


「取材がスムーズに終わって、かつお前にその気力があるなら、行ってもいいんじゃないか?」


含みのあるその発言の真意をフォニスが理解したのは、その日の深夜だった。







「疲れた……」


フォニスは缶詰部屋の床に、手足を投げ出すようにして倒れ込んだ。


「足が棒です……もう一歩も歩けません……」


呻きながら、十二件分の取材で埋まったスケッチブックをパラパラとめくる。


「我ながらよくやりました……」


最後の一枚はまだ白紙のままだったが、フォニスはもうなにも描きたいと思えなかった。


「絵を描く気力がなくなるなんて初めてです……おなかもはち切れそうですし……うう……最後の方はもうぜんぜん味わえませんでした……当分なにも食べたくありません……」


フォニスの声から次第に力が抜けていく。瞼がゆっくりと降りていく。


「本当に疲れました。今日はもう、なにも――――」


「寝るなよ」


ガチャンと大きな音を立てて、ベアトはフォニスの入った缶詰部屋の鍵を外側からかける。


「明日はジェニオの取材に同行してもらうからな。寝るのは明日の分の仕事を終わらせてからにしろ」


ベアトはフォニス以上に疲れた顔つきをしていた。

記者、カメラマン、運転手、店主との記事内容の打ち合わせ。

そのすべてを一人でこなしたベアトだったが、彼もこれから記事の作成に取り掛からなければならなかった。


「これで明日の記事を落としたら、今日の仕事は全部無駄になるからな」


「……前も言いましたよね?どうしてこんなにギリギリの仕事をしなければならないんですか?」


「お前とちがって俺は忙しいんだ」


「他の人に振り分ければいいじゃないですか。そうしたらベアトさんの負担は減りますし、もっと余裕のある仕事を行えますよ」


「だから振ってるんだろ、お前に」


「……絵の一枚じゃないですか」


「お前の絵に見合う記事をかけるのは俺かベアトくらいだ」


ベアトは新しい煙草に火をつけた。

フォニスは漂う紫煙を深く吸い込み、吐き出した。


「ベアトさん、そうとう疲れてますね?答えがめちゃくちゃですよ。――――それじゃあ、わたしの絵を使わなければ楽ができるってことじゃないですか」


「本末転倒だろ。そこまで言うならお前、誰か代わりを探して来いよ」


ベアトは他の缶詰部屋に視線を送る。


「俺の抱えた案件を引きとる余裕のあるやつがいるならな」


フォニスとマリア以外にも、缶詰部屋に閉じ込められている社員は三人ほどいた。

全員が記者だったが、彼らはベアトの言葉には聞こえないふりをして、黙々とペンを走らせる。

コロンボの社員、特に記者と印刷工が激務であることをフォニスは承知していた。

ろくに家に帰れていない彼らに仕事を増やせとは、口が裂けても言えなかった。


「……明日載るのは四件目の靴屋さんでしたね?」


「そうだ。原稿は一時間であげる。だがそれに左右される必要はねえ。お前は自由に、女王を描け」


ベアトはそれだけ言って去ってしまった。

フォニスはスケッチブックを拾い上げ、作業机に座る。

全身が重い。

肩は石になってしまったようだ。

頭にはおもりが縛り付けられているようで、瞼は筋肉を失ってしまったかのように降りてくる。

フォニスは机に座ったはいいものの、そのまま突っ伏してしまう。


「フォニス!」


睡魔を吹き飛ばしたのは、マリアの甲高い声だった。


「どうだった!?『PERCH』に彼はいた!?」


「……マリアさん、さっきのわたしの話、聞いてました?」


フォニスは両目をこすりながら言い返す。


「わたし今日十二件も回ったんですよ、取材。車で移動することもありましたが、渋滞につかまったり人通りの多い道だったりで、後半はほとんど歩きだったんですよ。短い時間で写生しなければなりませんでしたし、飲食店では出された食事にも手をつけなきゃなりませんでしたし、マリアさんの要望を叶える暇なんてあるわけないじゃないですか」


この時間に帰ってこられただけでも奇跡です、というフォニスに、マリアは大きなため息を返す。


「ああ、愛しのハリー……。今頃どうしているのかしら……」


これにフォニスもため息を返す。


「懲りない人ですね、その人のせいで捕まったっていうのに」


「黙りなさい!」


「マリアさんこそ、すこしは静かにしてくださいよ」


「なんですって!?朝もそうだったけど、フォニスあんた年上に対する礼儀ってものが――――」


マリアのおしゃべりはその後もとまらなかったが、フォニスはそのおかげで眠りに落ちてしまうことなく仕事に取り組むことができた。




コロンボの文化面の一画を占める『街角名店紹介』は、今回からグルメコラムではなく飲食店以外も扱う、包括的な名店紹介コラムとなった。

エカテリーナの記事を目にした店主たちは、うちも是非乗せてくれと競い合って挙手したのだが、その中には飲食店ではない店の者も多く含まれており、間口を広げることになったのだ。

フォニスが取り掛かったのは、明後日の朝刊に載る靴屋の挿絵だった。

庶民でも手が出される、比較的安価な紳士用の革靴専門店。開店してまだ日が浅く、取材中も店は開いていたが、客が入ってくることはなかった。


「つい最近まで首都の一等地で店をやっていたんだ。王宮に使用人用の靴を卸していてね、それほど儲けてはいなかったが、まあ暮らしていけるくらいにはやっていけていた。だけど女王陛下が身罷られてから、買い取り額をうんと引き下げられてしまってね。おまけに不況で、皮の仕入れ値もあがったし、これじゃやっていけないと思って、こちらに移ってきたんだよ」


人当たりの良さそうな店主には、七人の子どもがいた。

まだ小さい彼らを養うために、店主は一念発起したという。


「コロンボを読んで決心がついたんだ。――――ほら、喪に伏した都市と、その中で元気に生きる犬や猫や鼠を描いた絵があっただろう?あれを見て、いつまでも落ち込んでいる場合じゃないな、と思ったんだよ。なんもしなければ状況は変わらない、むしろ悪くなる一方だってね。短絡的と思われても、犬や猫のように、立ち止まっている人たちの間をすり抜けて、自分の足で飯の種を探しに行こうってね」


そして男が選んだのが、労働者向けの安価な靴を作ることだった。


「これもコロンボからの受け入りだけど、これからは労働者の時代だ。値段では工場の大量生産品に敵わないけど、履き心地では比較にならないという自負がある。長く使えるし、見た目もいいし、きっと繁盛すると思ったんだけど――――」


店を開いてひと月、売れた靴は十足に満たない。

実際に靴を履いた者はその素晴らしさに感心し、多少無理をしてでも購入したが、そもそも店に入ってくる客が少なかった。

日当たりの悪い裏路地にあって、一見客を招くのは困難だった。


「知ってもらわないことにはどうしようもないな、と思ってね」


できるだけ明るく描いてほしい、それが店主の要望だった。

フォニスはしかし、あえて店の外観は暗いまま描いた。

実際の店舗がそうであるように、息苦しく壁にレンガを積み寄せ、ショウウィンドウには対面に立つ、老朽化により半ば廃屋と化したアパートを映した。

ショウウィンドウにはさらに、店の前を歩く疲れ果てた労働者たちの姿も反射していた。

困窮した街の、潰れかけた靴屋。

背景だけ見るとそんな印象を与えられるが、絵の中央に描かれた人びとがそれを一変させている。

それは女王と店主の子どもたちだった。

陰鬱な雰囲気の中にあって、店から飛び出してくる彼らは、太陽のように明るかった。


子どもたちと女王は、揃いの革靴を履いている。

飾り気はないが、こざっぱりとした革靴だ。

子どもたちと女王はピカピカのその新しい靴を見せびらかすように、足を大きくあげて駆けまわっている。

鬼ごっこでもしているのか、それともふざけてはしゃぎまわっているのか。

いずれにせよ女王は童心に帰っていた。

庶民風のドレスを翻し、心からの笑顔を振りまいていた。


――――新しい靴を履いた日は誰だって子供に戻っていい。

――――駆け回って、新しい相棒を街中に知らしめよう。


ショウウィンドウに真新しいペンキでそう書きつけ、フォニスは筆をおいた。

完成した絵をじっくりと眺めていると、耳の中に声が聞こえてきた。

子どもたちと女王の笑い声。

パタパタと駆け回る、軽やかな足音。

フォニスはそれに耳を傾けているうちに、幻想的で愉快な夢の世界へ入りこんでいった。


(疲れたけど、いい仕事ができました)


薄れゆく意識の片隅で、そんなことを思いながら。







翌朝。

午前十時きっかりに、フォニスの作業部屋の扉は開け放たれた。


「おはよう!清々しい日和だな!」


机の上につっぷして眠りこけていたフォニスは、これでもかというほど顔にしわをよせ、声の主を睨む。


「もう少し寝かせてください……」


「却下だ」


ジェニオは即答する。


「起きろ。顔を洗え。こんな陽気の日に寝こけていたら女神の機嫌を損なうぞ」


フォニスは廊下から入り込んでくる明かりに目を細める。

それは古ぼけた電灯から発せられるものだったが、寝起きのフォニスには十分眩しく、それを背負うジェニオの姿は影しかわからなかった。


「窓のひとつもないんです。外の天気なんてわかりませんよ」


缶詰部屋には通気口があるだけで窓はない。

廊下を挟んで向かい側の資料庫には窓があるが、年中雨戸が閉じられているため、陽光が差し込んでくることはない。


「もしかしたら大雨に変わっているかもしれません。その場合、もっと寝てもいいという女神の思し召しです」


「いつの間にそんな屁理屈を覚えたんだ?」


ジェニオはコツコツと小気味の良い靴音を響かせながら、部屋の中に入ってくる。


「安心しろ。今日は本当に雲ひとつない快晴だ。雨を降らそうと思えばどんな神でも半日はかかる」


「それは残念です」


「フォニス、起きて顔を洗え」


ジェニオはフォニスの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。


「デートに行くぞ」


「……は?」


「まず駅前のレストランのテラス席で、ちょっとはやい昼食にしよう。熱い珈琲をたっぷり飲んで、卵とハムのサンドイッチをつまむんだ。それからアパートに寄る。着替えて化粧をして、問題なきゃそのまま直行だ。ダメなら仕方ない、どっかのブティックに寄る」


フォニスは話半分で、はあ、と適当な返事をする。


「昨日食べたものがまだおなかに残っているんですが……」


「今日は長くなる。無理やりにでも詰め込んでおいた方がいい」


「また長丁場ですか……。今日は何件回るんですか?」


「取材は夕方に一件だけだ。だが身支度に時間がかかるからな」


「身支度――――」


ふと、薔薇を火にくべたような、焦げた甘い芳香が漂う。

何の香りだろうと思って顔をあげ、フォニスは瞠目する。


「――――なんですか、その恰好」


目の前にいたジェニオは、普段のシャツとスラックスといった、いかにも記者らしい格好ではなくなっていた。

見るからに上等そうな、黒の燕尾服に身を包んでいた。


「デートだって言っただろ」


トレードマークのハンチング帽は、輝くシルクハットに変わっている。

まるで別人のような出で立ちのジェニオを目にして、フォニスの眠気は吹き飛んでしまう。


「ようやくお目覚めか、眠り姫」


「いや、ずっと起きていましたよ」


皮肉を返す余裕も、フォニスにはなかった。

ジェニオはつまらなそうに肩をすくめると、フォニスの腕をとった。


「どっちかっていうと灰かぶりか。――――だが残念なことにオレは魔法使いじゃない。身支度は自分でしてもらうぜ」


わけもわからないまま、フォニスは缶詰部屋の外へと引っ張り出された。

隣室のマリアはショールを毛布のように体に巻き付け、机の下に頭を突っ込んで眠っている。

昨晩、フォニス相手に散々喚き散らし、ようやくらちが明かないと理解したらしい。

マリアは大人しく原稿に取り組み、今朝遅く、フォニスよりあとにようやく眠りについたのだ。

フォニスとジェニオは目配せをし、マリアが起きないようそっと廊下を通り抜けた。


「――――それで、その胡散臭い格好は本当になんなんですか?」


トイレで顔を洗い、乱れた髪をまとめなおし、フォニスは改めて訊ねた。


「失敬だな。似合ってるだろ?」


ジェニオは胸元から付け髭を取り出し、口に当てて見せる。

くるんとカールした髭は、まるで本当に生えているかのようによく馴染んでいる。


「似合い過ぎて、胡散臭いです」


いまのジェニオに、実は貴族の出自なんだ、と言われたら、フォニスは信じただろう。

それほどまでに、ジェニオの正装は様になっていた。


「そうか?あまり目立ちたくはねえからな、コレはやめておくか」


ジェニオは付け髭を懐に戻した。

髭の問題ではない、とフォニスは思ったが、あえて口にはしなかった。

それよりも聞かなければならないことがあった。


「取材に行くんですよね?どうしてそんな恰好をする必要があるんです?」


「マナーだよ」


「……一体どこへ取材に行くつもりですか?」


「気負わなくていい。今日の取材は営業と接待を兼ねたもんだからな。アンタはただのオレのツレとしていてくれればそれでいい」


「答えになっていません……」


嫌な予感がして、フォニスはジェニオから距離をとろうとする。

しかしジェニオはフォニスの腰をがっちりと抱き留める。


「今日だけ絵描きは休業だ。きっちり着飾って、オレに相応しい女になってもらうぜ」

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