主義を持っただけで罪になるなんておかしいわ
*
「出せー!」
留置所の鉄格子にしがみつき、マリアは喚いた。
「あたしがなにをしたっていうの!?冤罪よ!不法逮捕よ!いますぐここから出しなさい!!」
がしゃがしゃと鉄格子を揺らすマリアだったが、扉を一枚隔てた先にいる警官たちは呆れたような視線を返すだけだった。
「――――すごいですね」
フォニスは床で膝を抱え、大きな欠伸をした。
「マリアさん、状況わかってますか?わたしたち逮捕されたんですよ?相手は警官なんですよ?」
コロンボの缶詰部屋に閉じ込められているときと変わらないマリアの調子に、フォニスは呆れるべきか感心するべきかわからなかった。
「状況がわかってないのはあんたの方でしょ!」
マリアは格子を握ったままフォニスを睨み付ける。
「なんでそんなに悠長なのよ!?すこしは焦りなさいよ!」
「ここに入れられた時は焦っていましたよ。でもマリアさんが騒いでる姿を眺めてたら、コロンボにいるような気分になってきて――――」
フォニスはまた大きく欠伸をした。
「――――0時を回っちゃいましたね。まずいです、マリアさん、今日の原稿まだあげられてないんですよね?」
マリアはうっと表情を引きつらせ、再び格子を揺さぶり始める。
「ほんとうにもう!なんなのよ!出しなさいよー!」
*
マリアの想い人が務める茶店、『PERCH』に入った二人は、待ち伏せていた警官によって逮捕されてしまった。
罪状は、国家反逆罪。
これは、王国の法律で定められた数ある犯罪の中で、最も定義の曖昧な犯罪であった。
『君主に危害を加える行為、あるいは君主への危害を策謀すること。国家に著しい不利益を生じさせる行為。損害を与え、秩序を乱し、多くの国民生活に影響を与える行為。及びそれらを企てる行為。――――以上すべてが、国家反逆罪に相当する』
法律にはそう明記されているが、この国家に対する不利益が具体的にどういった行為に相当するかはその時代の裁定者に委ねられている。
先代エカテリーナの統治時代、特にその前半は世界的な戦争が勃発していたため、この法律は外患罪としての意味合いが強かった。
世界大戦の終結後は治安維持のために用いられたが、それはほとんどの場合警官が犯罪組織に対して賄賂を求める口実だった。
定義があいまいだからこそ、でっちあげの罪名にはうってつけだったのだ。
国家反逆罪とはすなわち、後ろめたいことのある人間に対して警官がゆすりをかけるために持ち出す罪状だった。
「賄賂があれば、釈放してもらえたんでしょうけどねえ」
一部の警官と裏社会の人間だけが知るその情報を、フォニスはベアトとジェニオからの入れ知恵で知っていた。
「わたしたち、一文無しですもんね」
ひとしきり騒いだのち、ようやく隣に腰を下ろしたマリアに対して、フォニスは言った。
「コロンボに連絡がとれれば、保釈金は容易してもらえるでしょうけど、こうも人がこないと、交渉もできませんね」
茶店で捕らえられた二人は、弁明の余地も与えられないまま警察署に連行された。
そして地下の留置所に押し込められ、罪状の詳細を明かされることも、取り調べを受けることもないまま、かれこれ三時間放置されていた。
フォニスは手錠のはまった手で、ごしごしと目をこすった。
「『EKATERINA』に行かなければ、手持ちがありましたし、こんなに長時間勾留されることもなかったのですが――――」
「……」
マリアはなにも答えない。
フォニスは気にせず、一人で言葉を続けた。
「――――うん?――――あれ、ちがいますね?そもそもわたしたち、『EKATERINA』でも別に、お金を払ったわけじゃありませんでしたね」
「……」
「ヨゼフさんには、対価に絵をお渡ししただけですから、先に『PERCH』に入っていても、同じことでしたね」
「……」
フォニスはまたひとつ欠伸をした。
「ふあ……。だめですね。寝ぼけているみたいです。マリアさん、わたしちょっと寝ますね。誰か来たら、対応はお願いします」
フォニスは冷たい石畳の床に体を横たえ、目を閉じた。
「いいわよ――――なんて言うわけないでしょ!」
マリアはフォニスの耳を引っ張る。
フォニスは飛び起きて耳を庇う。
「なにするんですか」
「目が覚めたでしょ」
「乱暴です……わたしはいつもマリアさんのこと、もっと優しく起こしてるのに……」
「人の顔に水をかけることのどこが優しいのよ!」
同居するアパートで、マリアがどうしても起きないとき、フォニスはその顔にグラス一杯分の水をかけたことがあった。
フォニスはしかし悪びれることなく反論した。
「あのときのマリアさん、本当に起きなかったんですよ。わたし1時間くらい粘ったんですよ」
「だからわたしも1時間粘れって?冗談じゃないわ!」
こんなところ一刻も早く出るわよ、とマリアは再びいきり立った。
「っていうかなんでわたしたちなのよ!?金をゆるすだけならジェニオとベアトを捕まえるべきよね!?」
「ゆするにしたって、わたしたちなにも悪いことしてませんからね。いかに『国家反逆罪』といえども、完全に潔白な人間にはかぶせることはできませんもんね」
「わたしたちは、ね」
でもあの二人は怪しいもんだわ、と吐き捨て、マリアは留置所の中を歩き回った。
「目的のためなら手段を選ばないやつらよ。情報のやりとりなんて基本非合法。ネタを引き出すために脅迫まがいのことをするなんてざら。そこら中で恨みを買ってるはずなのに、一度も刺されたことがないのは、やられる前にやってるからよ」
「さすがにそこまでは――――」
言いかけて、フォニスは口をつぐんだ。
あの二人なら、たしかにそのくらいはやるだろう、と。
「でもそれじゃあ、どうしてわたしたちを捕えたんでしょう?」
「同じ新聞社に勤めていて、名前が売れているからでしょ」
マリアは鉄格子を蹴りつけた。
甲高い音が響き、ピンヒールが折れる。
「痛っ!」
自分で蹴っておきながら、なんなのよ!とマリアは怒鳴る。
「最悪よ!もう!」
「すこしは落ち着いたらどうです?」
「だってそうでしょ!どうせあの二人のことよ、これまで警察からうまく逃げおおせてきたんだわ!それで業を煮やした警察が、身代わりにわたしたちを捕まえたのよ!」
「わたしたちは人質ということですか?」
「そうとしか考えられないじゃない!」
マリアはヒールのなくなった靴を格子に投げつけた。
甲高い衝突音が響く。
けれど当然、格子はびくとも動かない。
「最悪よ!原稿もまだ終わってなかったのに……!」
いま留置所を出たところで、明日の朝刊には確実に間に合わない。
すでに校正は終了し、印刷が始められているだろう。
夕食までに終わらせておけばよかったのに、とは、フォニスは口に出さなかった。
呆れよりも、尊敬の方が勝ったからだ。
「やはりマリアさんは読者思いですね」
エカテリーナでの会話を思い出し、フォニスは感心した。
「『薔薇の木の下で』を楽しみにしている読者のために、そこまで怒れるなんて――――」
しかしマリアは、フォニスの話に耳を傾けている余裕はなかった。
「彼に合わせる顔がないわ!」
マリアの頭は、原稿を落としてしまったことより、意中の男のことでいっぱいだった。
「すぐ外に連れ出されてしまったからわからなかったけど、彼、お店にいたのかしら?わたしが逮捕されているところを見たのかしら?最悪だわ。迷惑をかけちゃった……」
いやそれよりも、とマリアは髪の毛をかきむしった。
「誤解されたかもしれないわ!犯罪者だと思われたらどうしよう!いけないわ!すぐに訳を話さないと――――」
マリアは残った片方の靴を脱ぎ、その硬いヒールで、格子をカンカンと打ち鳴らした。
「ちょっと!聞こえているんでしょ!出てきなさいよ!」
守銭奴!汚職野郎!と罵詈雑言をまくしたてるマリアに、フォニスは静止を呼びかける。
「マリアさん、さすがに署内でそれはまずいですよ。ここで暴れたら釈放してもらえなくなりますよ」
「かまうもんですか!どうせ金のことしか頭にないんだから。どれだけ罵られようが金を握らせれば黙る、プライドなんて欠片もない連中なんだから!」
「――――そうとも限らねえぜ」
マリアとフォニスは口を閉ざし、突然の闖入者を凝視した。
「これか、さっきからカンカンカンカンうるせえのは」
着崩した制服の男は、無精ひげをかきながら、気だるげに言った。
「勘弁してくれ、隣は仮眠室なんだ」
男は格子の中に腕をいれ、唖然とするマリアの手からヒールを奪い取った。
「これ以上騒ぐなら、手錠だけじゃ済まさねえぞ」
男はヒールを檻の外、マリアの手の届かないところに投げ捨てた。
「それからなあ、言っておくが、あんたらはいくら金をつんでも釈放されないからな」
男の言葉に、マリアとフォニスは顔を見合わせた。
男は面倒くさそうに、かぶりを振った。
「しらばっくれても無駄だぞ。あんたらがハロルド・ミュルトンの協力者であることはわかってるんだ」
フォニスとマリアは再び顔を見合わせた。
ハロルド・ミュルトンとは、『PERCH』で給仕を務める、マリアの想い人の名だった。
*
「夜が明けたら尋問がある。正直に答えた方が身のためだぜ」
無精ひげの警官はそれだけ言って留置所を出て行ってしまった。
フォニスは唖然とするマリアに対して説明を求めた。
「……やましいことなんてなにもないはずよ」
それまでの勢いはどこへやら、すっかりしおらしくなって、マリアは言った。
「『PERCH』はたしかにきな臭い店だし、出入りするのも怪しい連中ばかりよ。でも彼は――――ハリーは悪い人じゃないわ。警察に目をつけられるようなことは、絶対にしていないはずよ」
「ではハロルドさんも冤罪ということですか?」
「きっとそうよ――――そのはずだけど――――」
歯切れの悪いマリアの返答に、フォニスは嫌な予感を覚える。
「もしかして、なにか心当たりが?」
「……彼、この国の人じゃないのよ」
マリアはサングラスを外し、崩れたアイメイクが隈のように広がる顔をさらけ出して、言った。
「どこかの国から亡命してきたんだと思うの。確証はないけれど、前に彼が店のお客さんと、とても流暢な外国語でしゃべっているのを見たことがあってね。父親が行商人で、小さい頃から外国を回っていて覚えたんだって彼は言ったけど、それにしては流暢すぎたわ」
「外国語って、どこの国の言葉ですか?」
「それは――――」
国境沿いの街で生まれ育ったマリアも、外国語には覚えがある。
周辺諸国の言葉はなまり程度の差しかなく、基本構造は同じで、意思の疎通は可能だ。
しかしハロルドが使っていた言葉を、マリアはまったく理解できなかった。
彼が使っていたのは、はるか遠方にある国の言葉だった。
「――――たぶん、かの大国よ」
かの大国。
それは新聞の隠語で、東方にある大国を指す言葉だった。
その大国はもともと小国が集まった連邦だったものが、国としてひとつにまとまってできたものだった。
先の大戦はその併合時の小競り合いが飛び火して勃発したもので、かの国が周辺諸国に及ぼす影響は計り知れなかった。
現在もその小競り合いは国内で続いており、資本主義国家を目指す現政権と、共産主義を理想とする市民派との間で軋轢があった。
特に過激な市民派は、共産主義革命のためだとさまざまな破壊行動に及び、国内外にプロパガンダをばらまいていた。
大戦後、世界的な不況に陥ったこともあり、労働者階級の中には彼ら市民派に賛同するものが多く現れ、共産主義は周辺諸国にも波及していった。
しかし周辺諸国のほとんどは立憲君主制をとっていたため、共産主義に対し否定的であった。
かといって資本主義、民主主義も受け入れがたいものであった。
為政者の多くは自らの特権が失われることを恐れ、共産主義も、民主主義も、どうにか締め出そうとしていた。
特に保守的な傾向の強いフォニスの国では、大国からの入国を一切認めないほど神経質になっていた。
もちろん自国民の渡航も禁じており、民衆はごく限られた周辺の友好国以外に足を延ばすことができなくなってしまった。
それによって民衆の不満はさらに高まり、民主化を望む声はより大きくなる一方だったが、それでも大国から扇動家を招くよりはよほどましだと閣僚たちは考えていた。
国外でも名君として知られていたエカテリーナの崩御後は、特にかの国からの流入者に対して宮廷は敏感だった。
女王は民衆の心をつかんでいた。
女王は民衆に厚く信頼されていた。
故に、女王の死後、民衆の心が宮廷から離れていくことは簡単に予想できた。
そしてかの国の煽動家たちは、この隙を決して逃しはしないだろう。
この国の中枢を担う閣僚、貴族からそういい含められた新国王は、密入国者に対する取り締まりを徹底するよう厳命を出していた。
いかに腐敗した警察といえども、国王からの厳命を受けたとあっては、まっとうに職務に励むしかない。
よって警官は外国人に関して厳しい取り締まりを行うようになっていた。
それは内通者、かの国の密入国者を手助けする市民に対しても、同様だった。
「困りましたね」
フォニスはコロンボの記事で、密入国者の援助を疑われた市民が逮捕されたというニュースをこれまで何度も目にしたことがあった。
釈放されたものは一人もおらず、それに関してだけは警察が賄賂を受け取らないということも知っていた。
――――警察は資本主義だ。釈放されたいのであれば、資本主義に鞍替えして、大人しく金を払うしかない。ボスの助けを待っても無駄だ。なにしろ共産主義には金がないのだから。――――あるいは、彼らのボスはあえて彼らを刑務所に詰め込んでいるのかもしれない。厳格な規則のもと、食べ物から着るものまで徹底的に管理された刑務所こそ、究極の共産主義社会、彼らにとっての楽園なのだから――――
ジェニオの書いた挑発的な記事を思い出し、フォニスはため息をついた。
自由に絵を書くことのできない刑務所は、フォニスにとって楽園でもなんでもなかった。
「わたし、刑務所は嫌ですよ」
「……あたしだって嫌よ」
「ハロルドさんが密入国者だと知っていたのに、どうして通報しなかったんですか?」
「するわけないでしょ!」
マリアは頭を抱えた。
「協力者はまだしも、密入国者本人が捕まったら、まず一生刑務所を出れないわ。それどころか祖国に強制送還されて、そこで処刑されてしまうかもしれない。彼は彼の信念に基づいて活動しているだけよ。貧しい人びとをどうにか助けたいと思って、たくさんの危険を冒してここまでやってきたのよ。そんな人をやすやすと売るほど、あたし薄情な人間じゃないわ」
「マリアさん……」
フォニスはまたため息をついた。
「確証はないなんて言って、やっぱり知ってたんじゃないですか」
見抜かれたマリアは、閉口して俯いた。
「ハロルドさんが運動家だってこと、はじめから知ってたんですね」
「……そうよ」
「知ってたのに、好きになっちゃったんですか?」
「好きになってから知ったのよ」
マリアは俯き、両手をぎゅっと握りしめた。
「前付き合っていた男が『PERCH』の常連だったの。――――あんたも知ってるでしょ、あたしのお金もって消えた、あの嘘つき男。――――あいつがまた来るんじゃないかと思って、だめもとで、あたし別れたあとも店に通ってたのよ。そしたら彼がやってきて、最初はお客さんだったみたいだけど、そのうち店に住み込みで働くようになって――――」
危ない人だってわかってたわ、と、マリアはどこか酔いしれたように続けた。
「でも、すごく親切な人だったの。あたしの話をすごくよく聞いてくれて、慰めてくれたの。あんなに優しいひと、あたし今まで、会ったことがなかったの」
「犯罪者ですよ」
「人を殺したわけでも盗みを働いたわけでもないわ。ただ主義を持っただけで罪になるなんておかしいわじゃない」
「それはそうですけど……まさかマリアさん、本当になにか手を貸しちゃったりしたんですか?」
「してないわよ。まだ」
「まだ?」
「あたし、共産主義は嫌いよ。だって自由にものを書いちゃいけないんだもの。――――でも彼のことは好きよ。近頃じゃちがう宗教の人間が結婚することだってあるんだから。主義が違うことはあたしたちにとって大きな試練ではあるけれど、乗りこえられないものでもないわ」
「はあ……」
「だからね、あたし、彼の活動を支援することはできないけど、でも彼に危機に陥ったなら必ず助けようって心に誓ってたの」
「そうですか……」
熱っぽく語るマリアに、フォニスはただ曖昧な相槌を返すばかりだった。
こうなったマリアにはなにを言っても無駄だということを、フォニスはよく知っていた。
(恋は人を盲目にするって、マリアさん自分の小説でも書いてたんですけどね)
どうせ聞き入れてはもらえないだろうと思いつつ、フォニスはマリアに忠告した。
「マリアさん、利用されたんじゃないんですか?」
「あんた話聞いてた?あたしはまだ彼のためになにをしたわけでもないのよ。それに彼も、巻き込みたくはないからって、詳しい活動内容だってあたしには教えなかったのよ」
「それはそうですよ。出会って間もない人に、そんな重要な情報明かすわけないじゃないですか」
「彼を知らないからそう思うのよ」
マリアはなぜか得意げになった。
「でもね、彼に会えば、その考えが間違っていることにはすぐ気づけるわ」
「……一応聞きますが、なぜそうと言い切れるんです?」
「彼があたしを愛しているからよ!」
フォニスは頭を抱えた。
どうしようもないなこの人、と、楽観的な彼女には珍しく、匙を投げるような心持ちになった。
「二人はまだ恋人同士というわけではないんですよね?」
「今回のことでそうなることが確実になったわ」
「ええ……」
「だって彼、言ったもの。あたしに危機が迫ったら、すぐに助けにいくって。そう言ってくれたもの」
「うーん……それはどっちが先ですか?」
「え?」
「マリアさんも、彼を助けると約束したんですよね?それはどちらが先に言いだしたんですか?」
「彼の方よ」
マリアは嬉しそうに頬を染めた。
「彼ったら、そんな余裕はないくせに、困ったことがあったらいつでも自分を頼ってくれって言ったのよ。優しく頭まで撫でてくれて――――あたしもう、心臓が破裂するかと思ったわ。今まで読んだどんな物語の王子様よりも、彼は紳士的で――――」
「それでマリアさんも、ハロルドさんに助力を約束したんですか?」
マリアの熱弁を遮り、フォニスは言った。
「やっぱり利用されてませんか?マリアさん、いいように転がされたんじゃないですか?」
「本当にわかってないわね!」
マリアは自信たっぷりに、片目を閉じて見せた。
「まあ見てなさい。あたしたちはすぐに釈放されるから。きっと彼がうまく手を回して、あたしたちを救い出してくれるはずだから」
そのハロルドもすでに逮捕されていたらどうするのか。
フォニスはそう思ったが、それ以上マリアとやり合う気にはなれず、石の床に横たわった。
「ちょっと、よしなさいっていったでしょ、それ」
「眠いんですよ」
「ほんと呑気ね。よくこんなときに眠れるわね」
少しは怖がりなさいよ、とマリアは言ったが、フォニスは首を振って目を閉じた。
「わたしは巻き込まれただけですので。ハロルドさんとは面識もありませんし、すぐに釈放されますから」
「……ほんと、豪胆な女ね」
マリアはそれからしばらく沈黙していたが、やがて小声で言った。
「悪かったわね」
しかしフォニスはすでに眠りに落ちていた。
力尽きて工房や作業部屋の床で眠ってしまうことがざらだったフォニスにとって、冷たい石畳は馴染のある寝床でさえあった。
*
翌朝、九時を過ぎてようやく、二人のもとに警官がやってきた。
「二人とも、出ろ」
黒い制服を着た、屈強な体躯の四人の警官だった。
フォニスとマリアは大人しく彼らに従った。
二人ともひどい格好だった。
フォニスの顔には石畳のあとがくっきりと残っている。服は皺だらけで、髪には砂埃が付着し、寝ぐせも酷い。
一方眠らずに夜を明かしたマリアの顔には濃い隈が染みついていた。それは化粧が落ちたためにできたものでもあり、サングラスをかけてもなお透けて見えてしまうほど色濃かった。
ヒールの折れた靴はカコカコと間抜けな音を立て、自暴自棄になった娼婦を思わせる、悲惨な出で立ちだった。
警官たちはしかし、そんな二人を揶揄するわけでもなく、どこか緊張さえ滲む面持ちで、上階へと連行していった。
「いまから取り調べですか?」
フォニスは欠伸を噛み殺しながら訊ねた。
「その前に、お水の一杯でもいただけるとありがたいのですが」
警官たちは歩調を乱す。
なんだこいつは、と、まるで珍獣でも見るかのような視線をフォニスに向ける。
「黙って歩きなさいよ」
まるで緊張感のないフォニスを、マリアは小声で叱りつける。
「余計なこと言ってこいつらの機嫌を損ねない方がいいわよ。取り調べなんてどうせろくなもんじゃない――――拷問みたいなもんなんだから」
「えっ、拷問ですか?」
「そうよ。お金さえあれば人並みに扱ってもらえるけど、無一文のあたしたち相手には容赦する必要ないもの。知ってること洗いざらい吐かせるために、何時間だって怒鳴られるし、鞭打たれたり爪剥がされたりだってするわよ」
フォニスは顔色を変えて両手を強く握りしめる。
「爪は……困ります。絵が描けなくなるじゃないですか……」
「だから大人しくしていなさいって。それにいつも通りの仏頂面じゃだめよ。泣いたり怯えたりすれば、あんたは子どもみたいな見た目だし、そこまで痛めつけられることも――――」
ごほん、と、大きな咳払いがマリアの言葉を遮る。
「――――あのさあ、あんたたち、警官のこと舐めてんの?」
発したのは、昨日ふたりの騒音を咎めた、無精ひげの警官だった。
取調室の前に立つその中年男は、昨日とは異なり、きちんと制服をまとっていた。
しかしひげの剃りは甘く、半端に残った毛がだらしなく口元を囲っていた。
「いまどき拷問なんてするわけねえだろ」
まあ恐喝はするけどな、と物騒なことを言って、無精ひげの警官は顎をしゃくった。
合図を受けた四人の警官は、フォニスとマリアの手錠を外し、引き上げていった。
「迎えが来てるぜ」
無精ひげの警官は、取調室をノックした。
「迎え?」
それを聞いて、マリアはぱっと顔色を明るくした。
「ほらね!やっぱり!」
マリアはフォニスに抱きつき、飛び跳ねた。
「やっぱり彼は助けにきてくれたわ!」
まさか本当にハロルドが?
瞠目するフォニスの前で、取調室の扉はゆっくりと開かれた。
「――――あれ?」
中から現れたのは、鬼の形相をしたベアトと、にやにや笑いのジェニオだった。
「お前ら――――覚悟はできてるんだろうな?」




