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あたしの小説を読みたい人に、あたしの小説を届けるため


彩り野菜と生ハムの前菜。

胡椒の効いたコンソメスープ。

炙りチーズたっぷりの白身魚のグラタン。

薔薇の香りのソースがかかった仔牛のロースト。

みずみずしいオレンジが添えられたクレープシュゼット。


ヨゼフ渾身のフルコースを堪能したフォニスとマリアは、食後のエスプレッソを舐めながら、その余韻に浸っていた。


「これはひと月分の給金を払う価値があるわ」


「ですよね」


「しいていうならパンがいまひとつだったけれど、些細な問題ね」


「いまひとつでしたか?」


「おいしかったわ。でもなんていうか――――他とちがって、絶対的なものではなかったというか――――他が美味しすぎて、もの足りなく感じてしまったの」


贅沢は恐ろしいわ、とマリアは唸った。


「求めればキリがない」


フォニスは両手で頬杖をつき、マリアに顔を近づけた。


「……なによ」


「マリアさんが殊勝にしてるなんて、珍しいと思って」


「あんたあたしのことなんだと思ってるワケ?」


マリアはふんと鼻を鳴らして、腕を組んだ。


「あたしだって妥協くらいするわよ。これまでの人生、手に入れたものより、手に入らなかったもののほうがずっと多いもの。ほどほどのところで手を打たないといけないってことくらい、わかってるわよ」


「そうなんですか?」


「まるで納得してないわね?」


マリアは再び鼻を鳴らした。


「あんただってプロの作家なんだから、覚えがあるでしょ?期限とか誓約とか、いろんなものに縛られた中で、あたしたちはやってかなきゃいけない。自分が思う完成形をそのまま世に出すことなんて、奇跡でも起こらなきゃ無理よ。少なくともあたしは一度もない。思い描いたものをそのままの形で、100パーセントの状態で表に出せたことなんて一度もない」


マリアは小さなカップを持ち上げた。

しかし口元には運ばず、内側を満たす漆黒を、じっと見つめた。


「まあ力量不足でもあるんだけど」


フォニスにはマリアの気持ちはわからなかった。

考えるより先に手が動く。自分がなにを描こうとしていたのか、描きあがってからはじめて知る。

それがフォニスにとっての創作だった。


「時間をかければ、金があればいい作品が書けるというわけでもないから、もどかしいわ」


「それはわかります」


フォニスは自分の手元にあるカップに視線を落とした。

エスプレッソはもう一口分しか残っていなかったが、カップの底を覗くことはできなかった。

その漆黒は白い陶器の中で、まだ絶対の存在感を放っていた。


「故郷にいた頃は好きなだけ絵を描けましたが、いつも同じような絵ばかり描いていました。宮廷にいた頃は、驚くほど高価な画材を好きなだけ使えましたが、筆が乗っていたかというと、そうでもありません。完成したのか、まだ描いた方がいいのかわからなくなることもしょっちゅうでした。ゴールを見失う、といいますか、途方に暮れることがけっこうありました」


「……そう」


マリアは口をつけないまま、カップを受け皿に戻した。

化粧でくっきりと縁どられたアーモンドの瞳が、フォニスをまっすぐ捉える。


「いまは違うのね?」


はい、とフォニスは明るく答え、不満を指折り数えた。


「締め切りは分刻みですし、筆は安物ですし、キャンバスは小さいですし、描くものも選べませんし、描いてる途中でやっぱりこっちを描いてくれ、なんて記事を差し替えられることもあります。仕事以外で絵を描くことを禁じられていますし、正直いって最悪の環境です。不自由極まりないです」


マリアは口角をあげる。


「おまけに財布まで握られるしね」


「それどころか住処まで指定されていますよ」


「あたしだって、居候を強要されたわよ」


「マリアさんは借金があるんだから仕方ないじゃないですか」


「借金なんて!あたしがコロンボに稼がせてやった分に比べれば、大した額じゃないわ」


「それは――――そうかもしれませんね」


今でこそフォニスの絵と挑発的な記事で脚光を浴びるコロンボだが、数か月前までは、マリアの小説がその売り上げを牽引していたのだ。

今でもマリアの小説を目当てにしている購読層は厚い。


「そういえば、マリアさんはどうしてコロンボで連載をしているんですか?」


「なによ、藪から棒に」


「マリアさん、コロンボの創刊から小説を載せていますけど、その前は別の新聞社で連載を持っていましたよね。いまマリアさんが出している単行本はその連載をまとめたものですし、そこでも相当人気だったんじゃないですか?」


「……まあ、そうね」


「国で一、二を争う大きな新聞社じゃないですか。そんなところで連載をしていた人が、発行が続くのかもわからない新規の新聞に鞍替えするなんて、なにかよっぽどの事情があったんじゃないかな、と、ふと思いまして」


マリアは口の端を引きつらせる。


「ジェニオとベアトの影響?ずけずけものを言うのは前からだったけど、あんた最近、容赦がなくなってきたわね」


「やっぱり男性絡みですか?」


「そんなわけないでしょ!」


「じゃあ借金ですか」


「人をなんだと思ってるの?!」


「マリアさんの事情って、だいたいその二つのどちらかに絡んだものじゃないですか」


少なくともフォニスの知る限りではそうだった。

けれどマリアは、違うわよ!と一喝した。


「当時は借金なんてなかったわ!恋人ともうまくいっていたし、仕事にはなんの支障もきたしていなかった!」


「そうなんですか?わたしはてっきり、男性関係でトラブルを起こして、クビにでもなったのかと……」


「あんたと一緒にしないでちょうだい」


「え?わたしはたしかに宮廷をクビにはなりましたが、男性とトラブルになったわけではありませんよ?」


「他の宮廷画家に追い出されたんでしょ?」


「親以上に齢の離れた方々です。色恋沙汰ではありません」


「男とのトラブルには変わりないじゃない」


マリアは皮肉と同情を込めて言った。


「宮廷画家なんてどうせ頭のかたい、権威を傘にきたジジイばっかりでしょ。あたしが前にいた新聞社もそうだったからわかるわ。若い女であるというだけで舐められる。あたしたちのことを性別と年齢でしか見ていない。例え男だったとしても、家柄やら学歴やら、とにかく肩書だけしか見ていない。――――新芽に場所を譲らない枯れ木よ。もう葉をつける力もないのに、いつまでも倒れず、日当たりのいい場所を独占してる。根元でいくら播種しても、枯れ木が日を遮ってろくに育ちやしない」


フォニスは地に深く根差した老木を想像した。

たしかに、その木が倒れない限りは、その木より大きな若木が育つことはないだろう。

でも、とフォニスは呟いた。


「風よけにはなりますよ」


「風よけ?」


「はい。新芽は脆いですから。大木が近くにあれば、風雨を遮ってもらえます」


「あんたねえ……」


マリアはため息をついた。

フォニスに他意がないことはわかっていた。

論破しようとしているのではない。やりこめようとしているのではない。

フォニスがただ思ったことをそのまま口に出しただけであることを、マリアは理解していた。

しかしだからこそ、彼女の呑気な発言に、腹を立てた。

そんな調子だから宮廷の老人たちのいいようにされたのだ、と。


「いくら風雨から守られても、老木がある限り、あたしたちは大きくなれないのよ。老木の下で貧しく生きるなんて御免だわ」


「永遠に倒れない木はありません。きっといつか場所が空きます」


「その前に自分が枯れたらどうするのよ。倒木に巻き込まれて、枯れ木の下敷き、なんてことになったら悲惨すぎるわ」


「そのときはときです。きっとどうにかなります」


「どうしたらそこまで能天気でいられるのかしら……」


マリアはどこか羨ましそうに、フォニスを見つめた。


「まあ、あんた、運良さそうだもんね」


「そうでもありませんよ」


「よく考えて見なさいよ。ジェニオに拾われたのだって、偶然だったんでしょ?いままで流れに身をまかせてだいたいうまく収まってきたんじゃない?それに、そもそもあんたには才能がある。ちょっと不遇なんて簡単に覆しちゃうくらいの、圧倒的な能力がある。――――そんなあんただから言える言葉なのよ、どうにかなる、なんて」


あたしには言えないわ、とマリアは吐き捨てた。


「運がないのよ、あたし。運任せにしてどうにかなったことなんてひとつもないわ。だからあたしは自分の力で切り開いてきた。邪魔な枯れ木をどうにか避けて、どうしようもないときはうまく付き合っていく方法を考えたわ。――――あんたどうせ信じないでしょうけど、あたしこれでも、前の新聞社ではけっこううまくやってたのよ。給料の前借りなんてしなかったし、閉め切りだって守ってた。だから辞めるときはずいぶん引き留められたのよ」


「そうですか」


「……やっぱり信じてないわね」


「信じていますよ。だって、手のかからない売れっこ作家なんて、誰も手放したくないに決まっています」


フォニスは小声で、まあ、と付け足した。


「マリアさんが本当にまじめに働いていたのであれば、ですが」


「まじめに働いていたのよ!」


マリアは憤慨した。


「勤めていた五年間一度だって休載したことないわ!編集部との関係はとても良好だったんだから!嘘だと思うなら、ジェニオとベアトに聞いてみなさい!」


「どうして二人に?」


「もと同僚だからよ」


「えっ、そうだったんですか?」


「そうよ。……なによ、知らなかったの?」


「初耳です」


マリアとジェニオ、ベアトの三人は、コロンボ創業以前、同じ新聞社で働いていた。

フォニスはマリアが別の新聞社で連載を持っていたことは知っていたが、そこにジェニオとベアトがいたことまでは知らなかった。


「二人が独立したときに、誘われたのよ。自分たちのところで書かないかって。ちょうど連載がひとつ区切りのついたタイミングだったから、それに乗ることにしたのよ」


「引き抜かれたんですね」


「建前上はね。でも、あいつらの提示した条件は、前の新聞社があたしに出していたものよりはるかに劣る。待遇が悪くなってるのに、ヘッドハンティングされた、とは言えないでしょ?」


「……どうしてコロンボに?」


フォニスは最初の疑問に立ち返った。


「話を聞いていて、ますます理由がわからなくなりました」


マリアはカップを手に取った。

すっかり冷めたエスプレッソを、こくりと一口飲み下した。


「――――あたしの小説を読みたい人に、あたしの小説を届けるためよ」


マリアは店の窓に視線を移す。

店の外で酒盛りをしていた人びとの姿はすでにまばらだった。

二人に料理が供されるたびに、彼らは店に近づき、それを眺め、喉を鳴らした。

彼らは記事にあるように香りを楽しみ、酒を飲んだが、次第に空腹に耐えかね店前をあとにしていった。

重労働でからっぽになった腹を満たすため家に帰った。あるいは安価な食堂に向かった。

どれだけ食欲をそそられる香りがしても、店の敷居を跨ぐものはいなかった。


「フォニス。あんたさっき言ったわね。――――なんで『薔薇の木の下で』は本にならないのかって」


「はい」


「しても売れないからよ」


マリアは窓の外を見つめたまま言った。


「あたしの小説はね、庶民に好かれるのよ。令嬢がヒロインの恋愛ものばかり書いているけど、読者のほとんどは庶民の女性。みんなあたしの描く貴族社会や恋愛模様に憧れを抱いているの。ヒロインに自分を投影して、自分もこんなふうになれたらなって、そういうふうに楽しんでるの。――――中にはあたしの文体や言葉選びが好き、なんて言う人もいるけどね」


「身分を問わず楽しめる物語だと思いますが」


「庶民の書いた貴族小説を、貴族が読むと思う?」


フォニスはすこし考えてから首をふった。


「読めば魅力をわかってもらえますが、そもそも読んでもらえませんね」


「そういうことよ。自分たちに憧れる庶民が、自分たちの生活を一生懸命想像して書いたんだって笑いものにされるわ。いえ、もしかしたらもうされてるかもね。笑われるならまだいいけど、慰みものにされていたら、たまらないわ」


マリアは残っていたエスプレッソを一息で飲み干し、粗っぽい所作で、しかし音は立てずに、カップを受け皿に戻した。


「そして悔しいけど事実なのよ。読者も、作者であるあたし自身も、貴族の生活に憧れてる。貴族は大嫌いだけど、大きなお屋敷で、ご令嬢として大切にされたい。どこかの国の王子様と、燃えるような恋に落ちたい。――――乙女の一生の憧れよ。現実ではまず手に入らないけど、物語の中でなら、あたしたちはなんにだってなれる。物語の中で、あたしたちは自由で、無敵なんだから」


マリアの声は暗かったが、背筋は伸びていた。

胸を張って、マリアは語っていた。


「あたしの小説を娯楽だって揶揄するやつがいるけど、むしろ褒め言葉よ。あたしはずっと現実がつまらなかった。あたしの実家は国境の地方都市にあるんだけど、貧乏で、人が多くてね。下町の狭い商店の二階で、家族10人がひしめき合うように暮らしてたわ。誰も彼もうるさくて、小汚くて。あたしは見た目も頭もよくなかったから、いつも兄姉に馬鹿にされてた」


不満だらけの毎日だったわ、と言って、マリアはまた窓に視線を移した。

フォニスはその視線を追った。

彼女は窓の外ではなく、窓ガラスに映る自分を見ていた。


「不満がたくさんあったわ。欲しいものがたくさんあった。でも――――小説を読んでいるときだけは、満たされたわ。周りの騒音も耳に入らなくなって、没入できた。小説という楽しみがあったから、あたしは貧しくて惨めな日々をやり過ごすことができた」


「マリアさんにとって小説は、生活の糧なんですね」


フォニスは窓ガラスに映るマリアと目を合わせた。

マリアは目を細めてほほ笑んだ。


「心の食事よ。なければ飢えて死んでしまう。――――そしてそれは、あたしの読者も同じ」


マリアは窓ガラスに映るフォニスから、窓ガラスの奥へと視線を戻す。

風が強いのだろう。未だ酒盛りを続ける少数の職工たちは、肩を寄せ合い、縮こまりながら、路上でワインを回し飲みしている。

そのワインは、パンひとつと同じ値段で買える安酒だった。

二人が先ほどまで舌鼓を打っていたシャンパンは、貴族の間では手ごろな品として親しまれているものだが、彼らが飲むワイン1000本分の値段がする。


「ジェニオとベアトは大衆向けの新聞を作ると言ったわ。安価で、雑多な記事を取り扱う、庶民のための新聞を作る、と」


マリアの視線に気づいた職工たちは、茶化すように手を振った。

マリアは軽く手を振ってあしらうと、鞄の中からサングラスを取り出し、気取った仕草で目を隠した。


「あたしがそれまで書いていた新聞は、大衆向けをとうたっていたけれど、内容は貴族におもねったものばかりだった。それに庶民が買うにはすこし高価だった。――――むかしある女の子からもらったファンレターに書いてあったの。友だちと協力して、少しずつお小遣いを出し合って新聞を買ってるって。なかにはそのお金を捻出するために、お昼を抜いている子もいるんだって。お腹は減るけど、どうしてもあたしの小説が読みたいから――――」


マリアはそこで言葉を切った。

上を向き、鼻をすすり、どうにか震えを押さえた声で続けた。


「――――いやになっちゃうわよね。あたしのファン、貧乏人ばっかりなんだもの。紙面では人気だったのに、本にしてもちっとも売れなかったのがその証拠よ。なんていったって本は高いからね。本は買いたいけど買えない、お金を貯めていつか買う、なんてファンレターもきたわ。まったくもう、本当に――――ずるいわよね。そんなふうに言われたら、いたたまれなくなるじゃない」


マリアはまた大きく鼻をすすった。


「それで、しょうがないから、コロンボに移ったのよ。コロンボは安いし、創業直後は週刊紙だったから、お昼を抜かなくても買えるでしょ?あたしはファンのために――――いや、ファンの脅しに屈したの。それでいま、あんな性悪男どもの下で、馬車馬のように働かされているのよ」


フォニスは感嘆の息をもらした。


「ファン想いなんですね」


作家としてのマリアの心構えに、在り方に、フォニスは深い敬意を抱いた。


「そ、そうよ。あたしほどファンのことを考えている作家もいないわ!」


熱い眼差しを受け、マリアは居心地が悪そうに顔を背けた。


「作者と人間性は、やっぱり一致するんですね」


マリアの顔が、みるみる赤くなっていく。


「マリアさんのこと、わたし、ちっともわかっていませんでした。マリアさんみたいな人と仕事ができて、わたし、光栄です」


心からの賛辞を受け、マリアは照れながらも鼻を高くした。


「まあね。あたしと仕事ができるなんて、フォニスあんた、本当に運がいいわよ」


「自分でもそう思います」


生真面目に頷くフォニスを見て、マリアはすっかり有頂天になった。


「まったく!あんたもようやくあたしという人間の偉大さがわかったようね!遅すぎるけど、許してあげるわ!あたしは懐の深い人間だからね!――――ああ、気分がいいわ。今なら何枚でも書けそう。でもこういう調子のときに書くと、筆が滑るのよね。コントロールがきなかくなるのよね。どこかで一度クールダウンしないと……そうだわ!」


マリアは鞄をつかみ、飛ぶように椅子から立ち上がった!


「フォニス、いまから『PERCH』に行くわよ!」


パーチとは、現在マリアが熱を入れあげている青年が勤める茶店のことだった。

マリアはフォニスが返事をする間もなくまくしたてた。


「彼と話せばすこしは気が落ち着くと思うの。彼、とっても聞き上手だから。まだ会って一週間なのに、あたしのこともうなにもかも知り尽くしているのよ。心の一番やわらかいところも、温めてほしいところも、気づいたらすっかりつかまれてしまっていたの。手慣れているのかしら?いいえ、きっとちがうわ。あたしと彼は運命なのよ。だってあたしにも、彼の心がわかるもの。彼の孤独や、傷だらけの心は、きっとあたしにしか触れないわ」


こうしちゃいられない、とマリアはフォニスの腕を引いた。


「そうと決まればすぐに行くわよ!」


「え、いや、でも、わたしは――――」


「――――食後まで騒がしい連中じゃの」


食後の珈琲の提供まで済ませ、厨房で一息ついていたヨゼフが現れる。

一組だけとはいえ久しぶりのフルコースで、それも給仕まですべて一人で行ったということもあり、顔には疲労の色が浮かんでいた。

しかしただ疲れているだけではなく、心地の良い達成感にも、同時に包まれていた。


「それで、お代は払えるんじゃろうな?」


ヨゼフは伝票を二人にかざして見せた。

わかっていたことだったが、そこに書かれた金額に、フォニスは渋面を作った。


「あら、意外とたいしたことないわね」


一方、マリアは上機嫌のまま鼻を鳴らした。


「フォニス、あんたベアトから食事代受け取ったんでしょ?さっさと払っちゃいなさいよ」


「はあ……」


フォニスは恐る恐る鞄を持ち上げた。


(足りればいいのですが……)


ベアトから渡された鞄は、革製の丈夫なものだったが、ひどく軽かった。

大金が入っているようには、とても思えなかった。


「――――あれ?」


ところが、いざ鞄を開けてみると、大金どころか一枚の紙幣も入ってはいなかった。

中にあったのは、一枚の絵だった。

それはフォニスが今日の新聞に載せた、エカテリーナの絵だった。

亡き女王とヨゼフが店前で酒を酌み交わす絵の原本が、鞄の中には入っていた。


「なんじゃそれは?」


ヨゼフは愕然とするフォニスの手から絵を奪い取った。


「あ、ま、待ってください!」


フォニスは慌てて鞄をひっくり返す。

しかし中は空だった。

銅貨の一枚も入ってはいなかった。


「これはその――――なにかの間違いです。ベアトさん、きっと渡す鞄を間違えたんだと思います。すみません、今すぐお金をもってきますから――――」


「その必要はない」


ヨゼフはじっと絵に見入ったまま、首を振った。


「これで十分じゃ。いや――――むしろ足らんな」


「え?」


ヨゼフはフォニスの肩を叩いた。


「フォニス嬢。これから一生、お前さんからお代はいただかんよ」


またいつでも食べに来てくれ、と、ヨゼフは満面の笑顔で言った。







「本当によかったんでしょうか」


マリアに腕を引かれながら、フォニスは何度も後ろを振り返った。


「あんなフルコースを無償で振る舞ってもらってしまって……ただでさえお客さんがはいっていないのに、ヨゼフさん、お金は大丈夫なんでしょうか……?」


「本人がいいって言ったんだから、いいのよ」


軽やかな足取りで夜道を進みながら、マリアは言った。


「それにあんたは絵をあげたんだから、タダじゃないわ」


「わたしの絵を売っても、あの食事代にはなりませんよ」


「馬鹿ねえ。売るわけないでしょ」


予言するわ、とマリアは笑った。


「あんたが次に店に行ったとき、あの絵は金の額縁に入れられて、店内で一番目立つところに飾られているはずよ」


「『EKATERINA』の雰囲気に、わたしの絵は合いませんよ」


「合う合わないの問題じゃないのよ。――――まあいいわ。それよりもねえ、ベアトのやつ、うまくやったわね。あたしたちに夕食をおごる、なんて言っておいて、けっきょくフォニスが払ったようなものじゃない。ズルいわね」


「コロンボ用に描いた絵は、会社の所有物ですから、ズルではないのでは……?」


「ズルよ。ズル。あたしたちは今日、あいつの財布を空にしにきたのよ。昨日余分に働かされた賃金をもらわなくちゃいけないのよ」


「マリアさんは仕事を増やされてませんよね?」


「そうだ、『EKATERINA』で使わなかった分、『PERCH』で使えばいいんだわ!」


「マリアさん?聞いてます?」


「『PERCH』はツケがきくし、彼も入れてもう一度乾杯しましょう!」


マリアはフォニスを無視して話を進めた。


「まだ21時過ぎだし、23時までに戻れば、今日の仕事は十分片がつくわ」


「いや、あの、わたしは早く戻って仕事がしたいのですが……」


「あんただどうせもう今日の分はあがってるんでしょ?少しくらい付き合いなさいよ」


「嫌です」


フォニスはきっぱりと断った。


「もうおなかいっぱいなので、わたしはコロンボに戻ります」


「だめよ」


マリアはフォニスの断りを、さらにきっぱりと断った。


「この機にあんたに社交性というものを身につけさせてあげるわ」


「必要ありません」


「あるわよ。それに会ってみたいでしょ?あたしの彼に」


「あたしの彼って……まだ恋人ではないんですよね?」


「まだお互いの気持ちを口にしていないだけよ!」


「……わたしがいたら、邪魔なんじゃないですか?」


「邪魔よ。でもあんたがどうしてもって言うから、一杯だけなら、同席させてあげるわ」


「どうしてもなんて言ってませんが……」


そうこう言い合っているうちに、二人はパーチに到着してしまう。


パーチはコロンボから徒歩五分ほどの場所にある古びた茶店だった。

人気のない裏通りにあるが、なぜか客足の絶えない店で、裏通りには店のドアベルが一時間と響かないことはなかった。

店は昼夜問わず営業を続けており、茶店でありながら酒も提供している。

薄暗い店内は広いが、客席は少ない。

常時、壮大なオーケストラのクラシック音楽が大音量で流されているため、客同士の会話はほとんどかき消されてしまう。

そんな雰囲気であるため、店には黒い噂が絶えなかった。

工場街に勤めるまっとうな人間は、まず近づこうとしなかった。


しかしマリアは、まったく臆せずに、店の扉を開いた。


ガラン、ガランと、異様に大きなドアベルが鳴り響く。


「こんばんは――――っ!?」


二人が店に足を踏み入れた、次の瞬間。

店内にいた客が一斉に立ち上がり、二人を取り囲んだ。


「警察だ」


客は全員男で、全員おなじ、警察官であることを示す帽子をかぶっていた。


「国家反逆罪で、貴様らを逮捕する」

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