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あんたの絵見れば、誰だって女王が本当はどういう人物だったのかわかるわよ

――――幻の名店とは、まさにこの店のことを言うのだろう――――


ベアトが書いたエカテリーナの紹介文は、そんな書き出しから始まった。


――――確かに存在しているのに、食事に手をつけることはおろか、敷居を跨ぐことさえできない。それが河川沿いに立つ名店『EKATERINA』だ。

外観はこざっぱりした町の洋食店だが、その中身はこの国で最も高価なレストランだ。

比喩ではない。この店でランチを楽しむために我々は最も劣悪な工場でひと月もの間ただ働きをしなければならない。この店で恋人とディナーを楽しもうと思ったら、ふたつの工場を掛け持ちし、三か月間ただ働きしなければならない。

『EKATERINA』はこの新聞を読んでいるような人間には到底手の出ない高級店なのだ。

店主のヨゼフ・アラスマンは女王陛下の舌を二十年間つかみ続けたもと宮廷料理人。その技巧は店舗同様見た目ではなく中身に現れる。パスタもステーキも素朴な盛り付けだが、味の奥行きは底知れない。肉汁と交わることで真価を発揮するソース。弾力のある触感でありながらつかえることなく喉に流れ込んでいくパスタ。腹の底から温まるスープに、田園地帯の夏の早朝を思わせるみずみずしいサラダ。食後のエスプレッソと抜群の相性であるケーキ。各料理に添えられるワインも、もちろん最高の相性のものが選ばれている。

アラスマン氏は老齢だが、その腕は一切の衰えを見せない。

宮廷は老齢を理由に氏を解雇したが、氏の腕前は健在であり、なぜ宮廷がその判断をしたのか理解に苦しむところだ。

いやむしろ、宮廷は我々民衆のためにアラスマン氏を解雇したのかもしれない。

おかげで、我々はアラスマン氏の料理を、エカテリーナ女王陛下の愛した宮廷料理を楽しむことができるのだから。

そう考えれば、手の出ない高値も納得するほかない。

舌鼓を打つことは出来ないが、店の傍に寄ればその素晴らしい香りを楽しむことができる。

どんな安い酒でも、それと共に味わうだけでこれ以上ない美酒へと変わることだろう。

酒瓶を片手に店前で美匂を味わう。それがこの幻の店を楽しむ唯一の方法だ。

嘘だと思うなら是非試していてほしい――――




「ひどい記事ね」


マリアは読み終わった新聞を机に投げ捨て、窓の外へ目を向けた。


「こんなもの書いてたら、二度と広告がとれないんじゃない?」


窓の外、店先の歩道は酒盛りをする労働者で溢れ返っている。

みな仕事帰りといった格好で、ほとんどが工場街の職工だったが、中には背広を着こんだ都市の若い労働者の姿も見られる。

彼らはワインやウィスキー、ビールといった、思い思いの酒を片手に、店から漂う芳香を楽しんでいた。


「でも、朝刊が出てから広告依頼殺到しているそうですよ」


「それはあんたの絵を目当てにしてるんでしょ」


「うーん、たしかに会心作でしたが、料理はてんでダメですね。ベアトさんの写真の方がよっぽど美味しそうです」


マリアは新聞をちらりと一瞥し、それはそうね、と言った。


「あんたの描いたペンネは、一口で胃もたれしそうだもの」


まさか本当に一口で胃もたれがする代物じゃないでしょうね、と懸念するマリアに、安心してください、とフォニスは返す。


「大皿いっぱい食べたってもたれませんよ、ここの料理は」


「あんたの舌と胃は信用ならないわ」


マリアは新聞に載ったフォニスの絵を、指先で叩いた。


「でもあんたの絵は信用できる。あんたの描く絵は的確だからね」


「そんなにまずそうですか?」


「まずそうではないわ。重そうなの。これじゃまるで、量と味の濃さだけがうりの、大衆食堂の大皿料理みたいじゃない」


「味の奥行きを表現しようと思ったのですが……料理を描くのは難しいですね」


フォニスが描いたペンネは、浅い大皿に山と盛られていた。

ペンネの形状から、それに絡まるひき肉とチーズ、バジルの微細な葉片まで、正確に描かれている。

印刷に出る限界の細さの線と点で描写されたそれは、写真と見紛う質感を持っていた。

小さいカットとはいえおそろしいほどの描きこみ量だった。


「せめて盛り付けだけでも工夫したらよかったじゃない」


「はあ。ですが、わたしここの料理まだペンネしか食べていませんし、ペンネはこういう形で出されたので――――」


「冗談でしょ?ランチでもひと月分の給料が吹き飛ぶ店なんじゃないの?それでこんな大皿料理が出てくるの?」


「――――ろくに金を払わんヤクザのために盛り付けなどするわけがなかろう」


そこでようやく、厨房の奥からヨゼフが姿を現した。

二人が入店してからすでに十分が経過していたが、ヨゼフはろくな歓迎の挨拶もなく、二人の前にグラスを置いた。


「……いろいろ言いたいことはあるけど、とりあえず、給仕はどうしたのよ」


マリアは机上に広げていた新聞紙を小さく折り畳み、空いている隣席へ放り投げた。


「貴方、ヨゼフ・アラスマンでしょ?なんでコックが給仕に出てくるのよ」


「給仕がいないからじゃ」


ヨゼフはシャンパンの栓を抜き、二人のグラスに注いだ。


「お前たちのせいじゃぞ。今朝のコロンボを読んで、やつめ、朝っぱらから怒鳴りこんできおったわ。――――給料を払わないくせに広告は打つのか、とな」


ヨゼフは苛立った様子でシャンパンにきつく栓を差した。


「わしはコロンボになんぞ一銭も払ってはおらん。なのにやつときたら、コロンボがタダでこんな店を紹介するはずがないと言い張って聞かなんだ。さんざん喚き散らしたあげく出て行きおっての、仕方なく、わしが給仕までやってるんじゃ」


「大変でしたね」


フォニスはヨゼフに同情したが、マリアは頭を抱えた。


「やっぱり私の行きつけにすればよかった……」


昨日反故になってしまった、二人で夕食に行くという約束を果たすため、マリアとフォニスはエカテリーナを訪れていた。

マリアは当初自身の行きつけであるレストランを案内するつもりだったが、朝刊の記事を読み、行き先をエカテリーナに変更した。

挑発的なベアトの記事に興が乗り、魅力的なフォニスの絵に想像をかき立てられてしまったのだ。

川沿いの通りにひっそりと佇む、老いた宮廷料理人が営むレストラン。

借金を抱えるマリアではとうてい手の出ない店だが、ベアトの奢りということもあり、敷居を跨ぐことに躊躇いはなかった。

しかしマリアの期待は料理が供される前から、すでに打ち砕かれていた。

今朝新聞に載ったばかりだというのに、店内に客はいなかった。

適度に抑えられた照明にしわひとつない純白のテーブルクロス。鏡のように磨き抜かれたカトラリーと、品よく折り立てられたテーブルナプキン。小ぶりな花瓶に生けられたクマツヅラ。古びているがよく手入れの行き届いた木目の床と、真新しい漆喰の壁。

壁には雪解けを思わせる抽象画が一枚だけ飾られている。

無名の作家の品だ。堅苦しく遊びが無い、古い時代のものだったが、調和のとれた、美しい油絵だった。

エカテリーナの内装は、高級店にしては飾り気に乏しかったが、無駄がなく、品が良かった。

店に入った直後のマリアは、なんて素敵なんだろうと感嘆の息を漏らしたほどだ。

しかし客を出迎える給仕はなかった。

そもそも自分たち以外の客が誰もいなかった。

店先は見物人で賑わっているのに、店の中はがらんと静まり返っている。

席についてもすぐに案内は現れず、十分たってようやく出てきたのはシェフ本人。不遜な態度の小男で、こちらの要望を聞くこともなくシャンパンを注いでくる。

マリアの期待は打ち砕かれてしまっていた。

素敵なのは内装だけだったと、はやくも店の評価を下していた。


「で、今日のメニューはなにがあるの?」


訊ねるマリアに、ヨゼフはじろりと、値踏みするような目線を投げる。


「お前さん、金は持っているんだろうな?」


「……は?」


不躾な質問を返され、マリアは唖然とする。


「フォニス嬢であればツケにしてやってもいいが、どこの誰ともしれんお前さんにタダ飯を食わせるつもりはないぞ」


「マリアさんはコロンボに小説を載せている作家ですよ」


フォニスはシャンパンを一口舐め、おいしいです、と頬を緩める。


「『薔薇の木の下で』を書いている方です。A・スミスってご存じありませんか?」


「わしは小説は読まん」


「とてもおもしろいですよ。南部地方が舞台の恋愛小説なんですが、郷土料理や家庭料理なんかの描写も詳細で、アラスマンさんが読んでもきっと楽しめると思います」


ヨゼフは目の色を変え、ふむ、と腕を組んだ。


「南部か。どうせ山羊ばかり食っておるんじゃろう」


「ところがですね、意外にも魚料理が発達しているんです。南方は山が多いので、その分水がきれいで、川魚がおいしいみたいなんですよ。身のしまった鱒をじっくり油であげると、骨までかりかりに焼きあがるそうですよ」


気になりませんか、とフォニスが畳み掛けると、ヨゼフは興味を隠しきれなくなる。


「このあたりの川魚は食えたもんじゃない。試しようはないが、一読の価値はあるかもしれん」


「でしたら――――」


「じゃがわしはあんな低俗な新聞に載っているものは読まん」


「――――またそれですか」


フォニスは軽く肩を落とす。


「コロンボはそんなに低俗な新聞じゃありませんよ」


「低俗じゃろうが。人を煽るような記事ばかり載せて、労働者の殿様気取りじゃ。いまにつまらん運動をはじめて、新聞としての意義を失うじゃろう」


「過激であることは認めますが……ジェニオさんもベアトさんも、運動家になりたいわけではないと思いますよ」


「担ぎ上げられてしまえばそれまでじゃ」


「ヨゼフさんは民主化に反対なんですか?」


近隣諸国で頻発する民主化運動。

その風は、この国にも流れ込んできていた。


「反対はしとらん。国王様はさておき、いまの貴族連中は無能じゃからの」


ヨゼフは店の外で酒盛りをする職工たちに目を向けた。


「じゃが民主化にかこつけて伝統や文化を、これまで女王陛下が築き上げてきたものまで壊されてはたまらん」


「そんなことは――――」


ない、とは言い切れなかった。

新聞社に勤めるフォニスの耳には、近隣諸国の情報も遂次入ってくる。

権利の拡大を求める労働者のデモで、参加者の一部が暴徒化し、国会を全焼させた。

実際に労働者たちが政権を勝ち取った後で、既存の制度を労働者優位に根本から書き換えたが、結果として国が大きく傾くことになった。

政権奪取、革命が暴力によってなされ、貴族が軒並み投獄、処刑された国もある。

民主化は抗えない時代の流れだ。

専制政治の終焉を誰もが願っている。より多くの人が豊かになれる社会は、民主化によってこそのみ実現されると信じられている。

けれど民主化を急げば、より多くの不幸が生まれてしまう。

専制政治よりよほどたちの悪い独裁政治がはじまってしまう。

貴族から一部の労働者へ特権が移るだけで、根本はなにも変わらない。


「どうせわしはもうそう長くは生きられん。民主化でもなんでも勝手にすればいい。じゃが女王陛下を蔑ろにすることだけは許さん。運動家の連中は、貴族を全員豚と思っておる。やつらは人を敬うということを知らん。自分たちが最も正しく、古いものはすべて誤りだと思い込んでおる。まったく浅薄で青臭い小僧たちじゃ」


「やっぱり、違いますよ」


いきり立つヨゼフに、フォニスはきっぱりと否定を返す。


「ヨゼフさんが言うような運動家には、ジェニオさんもベアトさんも絶対になりません」


「わからんぞ」


「わかります」


フォニスは断言した。


「コロンボは決して公平な新聞ではないかもしれませんが、誰かに特別味方することはありません。労働者に対しても、女王陛下に対しても、おもねったりはしません」


「なにを根拠にそう思うんじゃ」


「おもしろくないからです」


「なに?」


「そんなおもしろくないこと、あの二人がするはずありません」


ヨゼフは呆れたように首をふった。


「すっかり毒されてしまったようじゃな」


「なににですか?」


ヨゼフは再びシャンパンの栓を抜き、フォニスのグラスに足した。


「とにかくあの新聞で見る価値があるのはフォニス嬢の絵だけじゃ」


フォニスは目をぱちくりとさせた。


「お気に召していただけたんですか」


「ペンネはいまひとつじゃったがの。あとの二枚はよく書けとる。いかにも陛下の喜びそうな絵じゃ」


フォニスがエカテリーナの紹介記事に合わせて描いた絵は、ペンネ、ヨゼフの肖像、店の外観の計三枚だ。

三枚は三枚ともテイストが異なる。ペンネは写実的に。ヨゼフの肖像は戯画的に。そしてお店の外観は、ロマン主義的に、ドラマチックに描かれていた。


ヨゼフの似顔絵はまるで王様だった。

威厳のある顔つきだが口元はわずかに開かれている。そこからのぞく歯は、老人には似つかわしくない白さで、きらりと光っている。胸元を埋める勲章も、同じように輝いている。

長すぎるコック帽は画面からはみ出してしまっているが、彼の自信たっぷりな眼差しから、それがいかに長いものであるかは十分に伝わってくる。

この絵だけを見れば、彼が実際にコックであると思う者はいないだろう。

フォニスが描いたヨゼフの肖像は、どこかの国の王様か将軍が、コックの仮装をしているようにしか見えなかった。

偏屈な下町のレストランのコック、七十近い小男には、とうてい見えなかった。

けれどヨゼフを描いたものとして、これほど適切なものもなかった。

そしてもう一枚、店の外観を描いた絵にも、このヨゼフは描き込まれていた。

店の外観は写真のように正確に描写されていた。

フォニスはそこに、二人の人物を描き加えていた。

一人はヨゼフで、もうひとりは亡き女王だった。

これまで描いてきた数多くの肖像と同じように、フォニスは女王を、男勝りで豪快な人物として描いた。

女王というよりは、山賊の長といった風体だ。

王様のようなコックと山賊のような女王は、並び立ち、酒を酌み交わしている。

旧友の再会。思い出話に花を咲かせている。新しい人生の門出を祝っている。

そんな喜びにあふれた絵だった。


「しかし、たしかに陛下は豪快なお人じゃったが、もうすこし品があったぞ」


あれではいくらなんでも庶民的すぎる、と苦言を呈するヨゼフに、フォニスはまた目をぱちくりとさせた。


「よくあの人が女王だとわかりましたね」


「実際の陛下を知っている者なら誰でもわかる」


「世に出回っている女王陛下の肖像は、わたしの描く女王陛下とは大きくかけ離れていますが――――」


「アレは陛下ではない」


ヨゼフはばっさりと切り捨てた。


「あんなものは肖像とも呼ばん。輪郭も印象もぼんやりとして、中身には綿がつまっとる。誰を描いた肖像だといってもアレは通じるだろう。女王陛下を描いた、と画家の連中が言ったから、アレが陛下の顔になっているだけじゃ」


まだ写真の方がマシじゃわい、とヨゼフは吐き捨てた。


「陛下のご尊顔を下々の連中が拝むのは気に食わんが、あんな肖像が出回るくらいなら、写真をばらまいた方がまだ陛下の威厳は守れたじゃろう」


ここ数年でカメラは広く普及したが、貴族階級の者たちはそれを画家を持たない庶民の道具と認識している。

彼らは未だに肖像画に強いこだわりを持ち、新聞や書籍に顔を載せる際も、必ず肖像画を用いらせた。

そしてひとつの例外もなく、肖像画はどれも、モデルをひどく美化したものであった。


「お前さんの描いた陛下は、誇張はあるが美化はない。――――王冠がなくとも、『EKATERINA』を差していなくとも、ひとめで誰かわかっただろう」


「そうですか。このままじゃ誰かわからないだろうなと思ってああしたのですが、余計でしたかね?」


「――――余計じゃないわよ」


それまで黙り込んでいたマリアが、唐突に口を挟んだ。


「じいさんは女王陛下を知っているんだから、そりゃわかるでしょう。でも大多数の読者は女王の顔なんて知らない。あたしもよ。あんたが臭わせなきゃ、じいさんと一緒に描かれているのはじいさんの妻かなんかだと思ったわ」


エカテリーナの前で談笑する男女の絵。

長いコック帽をかぶった男は、肖像画ともに掲載されていることもあり、一目で店主のヨゼフであることがわかる。

しかしヨゼフに並び立つ女性は、記事に名前が載っているわけでも、注釈で氏名を明かされているわけでもない。

簡素な平服を身にまとい、ワイングラスを片手に笑う彼女の正体は?

フォニスはそれを絵の中で暗示させた。

彼女が髪を束ねるのに用いているのは、王冠を模した髪留めだった。

いかなる形でも王の持ち物を模倣することは禁じられている。それをあえて描くということは、この女性が、王家に反意があるか、あるいは模倣を許される立場にある人物ということだ。

加えて女性はワイングラスを手にしていない方の手で、自身を指差していた。

女性と並び立つヨゼフは、『EKATERINA』と記された店の看板を指差している。


――――私の名前を冠したのか。

――――恐れ多くも!


そんな会話が聞こえてきそうな笑顔を、二人は浮かべている。

絵に描かれた女性が女王であることに、気づかない者は気づかないままだろう。

しかしマリアのように察しのいい者は、気づくことができた。

フォニスが忍ばせた女王の存在に。


「病で急死したっていうし、巷に出回る肖像は影が薄いし、あたし女王って、もっと病弱な印象があったわ。でもあんたの絵を見てると、そうでもないのかもって気がしてきた」


マリアは窓の外に目をやった。

記事を読んで集まってきた職工たちが陽気に酒盛りをする様子は、絵の中の女王とヨゼフと通じるところがあった。


「――――王位を退いた女王は、庶民に扮して城を出た」


マリアは頭の中に浮かんだ物語を朗読した。




『――――老後まで窮屈な王城で過ごすつもりはなかった。


彼女は王でありながら、自分の足で自分の国を歩いたことがほとんどなかったのだ。

女王は決めていた。

王位を退いたら、国中を見て回ろうと。

王としてではなく、国民として暮らそうと。

民と同じものを食べ、民と同じ家に住み、民と同じ祭りを楽しもうと。


女王は新しい人生の門出を、下町のレストランで祝った。

自分と同じように、第二の人生をはじめたばかりの、かつての臣下が開いた店だ。

味はいい。店の雰囲気も悪くない。けれど客足はさっぱりの店に、女王は首をひねった。


――――なぜこの店は流行らないんだろうか?


女王はまだ庶民の金銭感覚を知らなかった。

値段が高すぎるという、店の致命的な欠点に気づくことができなかった。


――――みなこの店名におそれをなしているんでしょう。


店主のヨゼフは危機感なく笑った。

開店早々閑古鳥が鳴いているのに、まったく強気な奴だと、女王もつられて笑ってしまう。


――――でも変える気はないんだろう?


――――ええ、もちろん。貴方様がお命じにならない限りはね!


――――仕方のないやつだ。


そうして二人は同じ高さにグラスを掲げて、乾杯の音を響かせた』




マリアは自身のシャンパングラスを爪先で弾いた。

カツンッと高く澄んだ音が響き、グラスの中で気泡が立ち昇った。


「素晴らしいです……」


フォニスは感嘆の息を漏らした。


「勝手に話をつくるな」


そうぼやくヨゼフの目元は赤くなっていた。


「わくわくしますよね、マリアさんの物語は」


「わしは小説は好かん」


「マリアさんの小説は、楽しいですよ。これまで読んだものとはきっと違います。いまのだって、聞いてて、思いませんでしたか?本当にありそうだなって。そうだったらきっと楽しかっただろうなって」


ヨゼフは鼻をこすり、そっぽを向いた。そして小声でつぶやいた。


「まあ、陛下の考えそうなことではある」


「ですよね」


フォニスは得意げに語った。


「マリアさんは陛下に会ったことはありませんが、いまの一節だけでも、充分その人となりを捉えることができています。きっと丁寧に、あったかもしれない、陛下の第二の人生を描いてくれますよ」


「……それはあんたの絵があったからよ」


マリアもまたそっぽを向きながら言った。


「あたしの手柄じゃないわ。あんたの絵見れば、誰だって女王が本当はどういう人物だったのかわかるわよ」


「わたしの絵だけでは、あんな素敵な物語はつくれませんよ」


「あたしだって、なにもないところからおはなしを作ったりはできないわよ。あんたの絵が――――って、ああもう、なにこれ!やめよ!やめ!」


マリアはばしんと乱暴に机を叩いた。


「なんであんたと持ち上げ合うような真似しなくちゃなんないのよ!」


「どうしたんですか?突然怒り出したりして」


おなかが減ったんですか?と首を傾げるフォニスに、マリアはテーブルナプキンを投げつけた。


「黙らっしゃい!」


「……人間性と作品性ってここまで乖離するものなのでしょうか」


フォニスは頭に乗ったテーブルナプキンを軽く払い、くしゃくしゃに丸めて、マリアに突き返した。


「こんな人ですが、作品は本当にすばらしいものばかりなんですよ。ヨゼフさん、食わず嫌いせず、読んでみてください」


「わしはコロンボは読まん」


頑固ですね、とフォニスため息混じりに言った。


「マリアさんは単行本もだしていますよ。でもわたしのイチオシはやっぱり現在連載中の『薔薇の木の下で』なので是非それを読んでほしいのですが――――」


そこまで言って、フォニスはふと首を傾げた。


「そういえば、『薔薇の木の下で』は本にならないんですか?」


フォニスに突き返されたテーブルナプキンをきれいに折りたたみ直していたマリアは、それを聞いて硬直する。


「アンソニーとケイトが結ばれたところで第一部が終わったじゃないですか。あれをまとめればちょうど一冊になるんじゃないですか?読み返したくなった時いちいち新聞を漁るのが面倒なので、はやく本にしてほしいのですが――――」


「あたしに訊かないでよ!」


マリアはテーブルナプキンを再びフォニスに投げつけ、シャンパンを手に取り、一息で飲み干した。


「仕事の話はもうやめて!食事が不味くなるわ!――――シャンパンのおかわりをちょうだい!それから食事も!客としゃべってないではやく作ってよ!」


マリアは待ちきれないとばかりに、フォニスのシャンパンを奪い、これもまた一息で飲み干した。


「そうだわ。今日はベアトの奢りなんだった。どうせならとびきり高いものにしましょう!酒も料理も、この店で一等のものをもってきてちょうだい!」


豪語するマリアを見て、フォニスは縮こまった。


(まずいです。またなにか琴線に触れてしまったようです)


フォニスはベアトから、今日のお代が入っているから持って行けと、言って手渡された鞄をなでた。


(これで足りればいいのですが……足りなかったらどうしましょう……)


フォニスは鞄にどれだけの金が入っているのか知らなかった。

しかしこの期に及んで改めようとはしなかった。

金が足りない、と言ってもマリアは収まりそうになかった上、焚きつけられたヨゼフは意気込んで厨房に入ってしまった。

ヨゼフが机上に残して行った高価なシャンパンも、すでに半分以上なくなっている。


(……まあ、なるようになりますか)


フォニスは匙を数時間後の自分へ投げ、シャンパンに舌鼓を打った。


(せっかくのフルコースですからね)

(心置きなく堪能しなければ、ご馳走してくれるベアトさんに感謝のひとつも言えなくなってしまいます)


上質なシャンパンで気持ちよく酔ったフォニスは、いつも以上の能天気さで、料理の到着を待つのだった。

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