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ごちそうさまです


その日フォニスが担当したのは、周辺諸国で頻発する民主化運動を取り上げた記事の挿絵だった。


――――軍靴の代わりに轟くのは労働者たちの足音だ。何千何万もの長靴がかき鳴らすそれは、もはやただのデモの行進ではない。決然たる意志の旋律だ。群衆は統一されている。不自然なほどに――――では誰がタクトを振っているのか?彼らの敵である政権はおろか、彼ら自身も、その正体を把握していないだろう――――


それはジェニオが書いた記事だった。

皮肉の効いた、いかにも彼らしい記事だった。


扱いの難しい記事だった。

どのような挿絵を挟むかで、顔色はかなり左右されてしまうだろう。

フォニスはしかし気負うことなく、楽しんで、挿絵を構想した。

労働者たちを唆しているのは、おそらく現政権に不満を持つ貴族だろう。

内政への介入、同盟という名の隷属契約を目論む列強諸国の差し金も考えられる。


フォニスは塔と小人を描いた。

無数の小人たちが塔に攻め込み、その最上階に駆け昇ろうとしている。

塔を守るのは古びた甲冑をまとった兵士だ。

兵士たちは小人より十倍も大きかったが、数的不利により抑え込まれてしまう。

小人たちは駆け昇る。

やっとの思いでたどり着いた塔の最上階には、汚れた大皿が置かれていた。

大皿は舌なめずりをする巨大な紳士と淑女に囲われている。

自ら皿の上に飛び込んだ小人は、貴人たちが降らす涎の雨を受け、途方に暮れている。


ストーリー仕立ての風刺画だった。

縦に長く、下から上へ順に眺めていくことで、小人の戦いと勝利、そして悲惨な末路を追うことができる。


会心の一作だった。

寓話のようで、滑稽で、絵だけを見ればおもしろおかしい。

しかし記事と合わせると、なんとも皮肉めいてしまう。

フォニスは完成した絵をしばらく眺めた後で、余白に問いかけを記した。


――――塔を占拠しても、腹を空かせた貴人たちの餌になるだけだ。

じゃあ、どうする?

貴人に抗う?

貴人から逃げる?

貴人と共存する?

新しい塔を建てる?

なにもせず、じっとしている?

なにが一番マシだろう――――




「できたか?」


フォニスがペンを置いた瞬間、いつの間にか背後に立っていたベアトがさっと原稿を取り上げた。


「――――はっ、いいじゃねえか」


ベアトはちょうど廊下を通りかかった構成係に画用紙を渡した。


「例の記事の挿絵だ。文言も抜かさずにでっかく一面に載せてくれ」


フォニスはえっと、驚きの声をあげた。


「あれ、載せるんですか?」


「なんだ、まだ完成してなかったのか?」


「いえ、その、脇に余計なことを書きつけてしまったので……あれは個人的な自問自答で、あとで消そうと思ったのですが……」


今度はベアトが驚きの声をあげた。


「ジェニオの野郎が考えたもんじゃないのか?あの問答」


ベアトは腰をおり、フォニスの顔をまじまじと眺めた。

身長差のある二人は、ふだん話していても目線が合うことはほとんどない。

フォニスは珍しい光景に、目を丸くした。

近くで見るベアトの瞳は、とても澄んだ灰色をしていた。


「お前が考えたのか?」


ベアトの瞳は、煙草の煙を透明な硝子球に閉じ込めたような色だが、それはただ煙を閉じ込めただけであり、硝子球そのものには一切の淀みも着色もない。

この目はどんなものもありのままの形で映すことができるだろうな、とフォニスは思った。

不思議と、悲しみが湧いた。

背の高いベアトは、人よりたくさんのものを見渡すことができるだろう。

そしてその澄んだ目は、この世界のすべてを、ありのままに映すだろう。

フォニスはなぜ彼が新聞記者をしているのか、わかった気がした。


「お前が考えたのか?」


答えないフォニスに、ベアトは質問を繰り返した。


「え?」


「絵の脇に書いてある問答だよ」


「ああ、はい……」


フォニスはベアトの澄んだ灰色に見入ったまま、質問を返す。


「ベアトさん、目はいいですか?」


「あ?悪くはねえが、それほどよくもねえよ」


それがどうした、とベアトは訝しんだが、フォニスは首を振った。


「どうもしません。――――でも、よかったです」


「はっきり言えよ。俺の目がなんだってんだ?」


「本当になんでもないんです。ただ視力まで優れていたら、さらに大変だっただろうな、とうだけで」


人よりたくさんのものが見えることは、いいことばかりではない。

絵描きとして優れた眼力をもつフォニスは、本能的にそう考えていた。


「どっかで頭でも打ったのか?寝ぼけてんのか?おかしなっことばっか言ってよ」


ベアトは曲げていた腰を伸ばし、いつも通りの、フォニスを見下す姿勢に戻った。


「頭打ってあの文言が出るなら、俺はこれから毎日お前の頭を殴らなくちゃならねえが」


フォニスは慌てて頭を抑えた。


「絶対にやめてください」


それまでの心配は、同情は、瞬く間に弾け飛んだ。


(こんな野蛮な人の心配をするなんて、どうかしていました)


フォニスはベアトを上目遣いで睨み付ける。

ベアトは鼻で笑い、丸めた原稿用紙でフォニスの頭を軽く叩いた。


「寝ぼけてるわけでもなさそうだな」


ベアトは原稿用紙をフォニスに押し付けた。

開いてみると、そこにはエカテリーナの紹介文が書かれていた。


「これ、『街角名店紹介』の記事じゃないですか」


「ついさっき書きあがった。――――フォニス、これに挿絵をつけてくれ」


フォニスはひと仕事終えたばかりだったが、ベアトには申し訳なさそうな素振りも悪びれる様子もなかった。


「調子が悪いとは思っちゃいたんだが、やっぱりカメラがダメでな。ろくなもんが現像できなかったんだ。代わりを絵で埋めてくれねえか」


「はあ、まあ、いいですけど……期限は?」


「22時までにはあげてくれ」


フォニスはちらと時計を見た。

時刻はまだ8時を少し過ぎたところだった。

今日は筆の乗りが良い。遅い昼食をたらふく食べたため、体力にも余裕がある。

いける、とフォニスは頷いた。


「街角紹介はたしか、店の外観と店主、それに看板メニューの三点の写真を記事と合わせて掲載していましたよね?わたしも同じように、三点描けばいいですか?」


「写真と絵は別もんだろ。合わせる必要はねえよ」


「いえ、写真と同じように描かせてください」


早くも作画スイッチの入ったフォニスは、これからとりかかる材料、記事の内容に目を走らせながら言った。


「ベアトさんの写真、わたし好きなんです。特にあのコーナーの写真は、いつも判を押したように同じ構図なのに、すごく目を引きます。まったく異なるものをまったく同じ形に置いて、どれも最大限魅力を引き出している……素晴らしい技巧だと、前々から思っていたんです」


フォニスは原稿から目を離さないまま、ほとんど無意識で、ベアトを称賛した。


「だからこそ、同じ構図で挑んでみたいんです。わたしの絵は、自分で言うのもなんですが、遊びがありすぎるというか、小手先に頼っているところがありますから。たまには真面目に、腰を据えた一枚を描きたいんです」


「……好きにしろ」


ベアトはフォニスの頭を乱暴に撫でまわした。


「頼むぞ」


「まかせてください」


フォニスは乱れた髪の毛を整えることもせず、机に座り、ペンをとった。

ベアトはまた別の仕事に取り掛かるべく、フォニスの作業部屋を出て行こうとした。




「――――ちょっと待ちなさいよ」




しかし作業部屋の入り口は、マリアによって塞がれていた。


「なにいいかんじの雰囲気でまとめようとしてるの?これからまた仕事なんてありえないんだけど!」


ベアトは面倒な奴につかまった、とあからさまに表情を曇らせ、舌打ちする。


「お前に関係ねえだろ」


「あるわよ!――――フォニス、あんた今日こそあたしと夕飯を食べるって約束したわよね?」


マリアはフォニスに詰め寄ったが、フォニスは机から顔をあげなかった。

フォニスはすでに作画に取り掛かっていた。

周囲の音など、まるで耳に入っていなかった。


「ちょっと聞いてるの!?」


マリアはフォニスの手からペンを取り上げる。


「あっ!?――――えっ?マリアさん、いつの間に?」


「今すぐ身支度を整えなさい。夕食に行くわよ」


「え?どうしてですか?」


「……ほんと、鳩なみの記憶力ね」


フォニスは首を捻った。

怖い顔をして並び立つベアトとマリアを見比べ、しばらく考えてから、ぽんと手を打つ。


「そういえば、昨日の夜、約束しましたね――――」


昨日の帰路、車中でのやりとりをフォニスは思い出した。


「――――マリアさんに爪の垢を飲ませる、って」


「飲むわけないでしょ!?」


マリアは絶叫した。


「どう記憶していればそんな約束が頭に残るのよ!?ああ、まったく!フォニスあんた鳩以下よ!あんたと比べられたんじゃ、鳩の方がかわいそうだわ!」


「はあ……。じゃあ、夕食はなしということでいいですか?ペンを返してください」


マリアはまた怒鳴りそうになったが、どうにか堪え、引きつった満面の笑みで首を振る。


「夕食には行くわよ」


「でも爪の垢はいらないんですよね?」


「いらないわよ!大金積まれたって飲むもんですか!あんたみたいなワーカーホリックの爪なんて!」


インクの染みが歯につきそうだわ、とマリアは半ばやけくそになって吐き捨てる。


「とにかくあんたはわたしを夕食をとるのよ!わたしは予定を反故にされることがなによりも嫌いなんだから!」


「ですが、わたしまだ仕事が――――」


「知ったこっちゃないわよ!今日のノルマは終わったんでしょ!?カメラの故障なんてベアトのミスじゃない、あんたが身を削ってまでその尻ぬぐいをする必要はないわよ!」


「そうかもしれませんが、わたし自身、やりたいと思っているので……」


フォニスは言いながら、マリアの握るペンに手をそろそろと伸ばす。

しかしマリアは、ペンを鞄の中へ仕舞いこんでしまう。

口紅一本しか収まらないような小さな鞄だったが、フォニスのペンはすっかり隠されてしまった。


「あんたは絵が描ければなんでもいいだけでしょ。いっぱしの職人みたいな口をきかないでよ」


「そういうてめえの原稿はどうなってんだ」


いつの間にか火をつけていた煙草を深く吸い込みながら、ベアトは言った。


「呑気に飯食いに行ってる余裕あんのか?」


「あるわよ!」


マリアはいつになく自信たっぷりに断言した。


「下書きはもう済んだの!あとは推敲して清書するだけ!1時間で済むわ!」


本当かよ、とベアトは訝しんだが、あえて詮索はしなかった。

ベアトにも次の仕事は控えている。

彼はこの厄介な女を、一刻も早くフォニスから引き離したいと考えていた。


「1時間で済むならさっさと終わらせて、それからゆっくり飯に行きゃいいだろ」


「レストランがしまっちゃうわ」


「じゃあ日を改めろ」


「いやよ」


「フォニスはあと2時間で3枚仕上げなきゃなんねえんだ」


「だから?」


ベアトは煙草を深く吸い込み、天井に向けて素早く吐き出した。


「……仕方ねえ。日を改めるなら、俺が飯代をもってやる」


「えっ」


「えっ!?」


フォニスは目を丸くし、マリアは待ってましたといわんばかりに輝かせた。


「そこまで言うなら仕方ないわね!今日のところは一人で夕食を楽しむことにするわ!」


マリアは鞄からペンを取り出し、フォニスに手渡した。


「明日はとびきり豪華な夕食になりそうね」


マリアは濃いサングラスを下げ、フォニスにウインクした。

そして踊るような足取りで、ピンヒールで床を軽やかに打ち付けながら、作業部屋を出て行った。


嵐が過ぎ去った部屋の中は、重い沈黙に包まれた。


「……ベアトさん」


「……なんだよ」


「ごちそうさまです」


ベアトは手を振り上げた。

フォニスはすかさず頭を守ったが、彼の手はフォニスの頭ではなく頬をつかんだ。

そしてこれでもかというほど、横に引っ張ったのだった。

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