お客さんが求めるものを作るか、自分が作るものを欲しいといってくれるお客さんを探すしかない
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それなりに人通りのある河川沿いの通りにあって、まったく客を寄せ付けないレストラン。
そのオーナー兼シェフである老人、ヨゼフ・アラスマンは、もと宮廷料理人だった。
女王のお気に入りであった彼は、その庇護のもと、二十年近く宮廷で腕を振るい続けた。
しかし彼女の死後はあっさりと任を解かれ、宮廷を追い出されてしまった。
ヨゼフの料理の腕は確かなものだった。
材料の扱いに習熟しており、その日の気温、湿度に合わせて調理法を変えた。
ほんの数度、湯の温度をあげる。ほんの一ミリ、皮を厚く切る。ほんの。ほんの0.1グラム、調味料の配合を減らす。習熟した彼の技術は現在あるどんな計量器よりも正確だった。
ヨゼフは決して多くのレパートリーを持っていたわけでも、次々新しい料理を開発していたわけでもなかったが、いついかなる状況でも最高の料理を供することができた。
そんなヨゼフを高く評価したのは女王だけだった。
彼の得意とする伝統料理を、多くの貴族は時代遅れとみなしていたし、事実彼の作る料理は素朴な見た目のものが多かった。
味にはもちろん見た目から想像もつかないような奥行きがあるが、派手好きで新しいもの好きの貴族たちにとってはものたりない代物だった。
それに付け入ったのが他の宮廷料理人だった。
彼らはずっと、女王のお気に入りである彼を疎ましく思っていた。
そして女王が崩御した途端、派手好きの貴族たちの力を借り、彼を宮廷から追い出した。
「まあわしとてあんな場所に留まる気はなかったがの」
ヨゼフは椅子の上に踏ん反り返り、胸元の勲章を輝かせながら言った。
「わしは宮廷に仕えていたわけじゃない。女王陛下に仕えておったんじゃ。その陛下がお亡くなりになられたのであれば、わしの仕事はもうあそこにはない。そもそもあそこでわしの料理を食べる資格があったのは陛下だけじゃ。ほかのやつらはそのおこぼれを預かっていたにすぎん」
「腹が立たなかったのか?」
「お前は三流記者と肩を並べて仕事をしたいか?」
「そりゃ御免だな」
ベアトは黒く細かな字で埋まったメモ帳を机に放りだし、新しい煙草に火をつけた。
「だがフォニスにしろじいさんにしろ、あっさり引き下がりすぎだろ。俺だったらただで辞めるなんて真似は絶対にしねえ。どんな手を使ってでも一泡吹かせてやるがな」
「陛下の喪も明けておらんというのに、騒ぎを起こすなんて不謹慎な真似ができるわけなかろう。――――もっとも、お主のような忠誠心の欠片もない流れ者にはわからんじゃろうが」
「ああ、ちっともわからねえな」
ベアトは煙草を深く吸い込みながら、ぐるりと店内を見まわした。
「どっちもまんまと出し抜かれたようだが、手元に金を残せた分、じいさんはまだましか」
「どういう意味じゃ」
「宮廷を追い出された後、こうして店を出せる程度の金は持ってたんだろ?」
「当たり前だ。何年宮廷勤めをしたと思っておる」
「出ていくときのどさくさで、商売道具を盗まれるようなこともなかったか?」
「そんなへまはせんわい。――――たしかに宮廷は腐りきっておるからな、使用人同士の窃盗や嫌がらせはしょっちゅうじゃ。それゆえみな慣れきっておって、自分の持ち物は厳重に管理しておる。宮廷内ではむしろ、安易に盗まれる方に問題があるとされているくらいじゃ」
宮廷内で盗みを働かれる者は、なにも知らない新人か、間抜けだけだ。
ヨゼフにそう断言されて、フォニスはただ縮こまるほかなかった。
「ほらな」
ベアトはそんなフォニスを、慰めるでも励ますでもなく言った。
「お前に金を持たせない俺の判断は正しいだろ?」
フォニスは返す言葉もなくベアトを睨みつける。
しかしベアトは意にも介さず、フォニスの眉間によったしわを指で弾き飛ばした。
「いっ……!どうしてそうすぐ手を出すんですか……!」
ベアトはフォニスを無視して、煙草に火をつけた。
「なんじゃい、お前さん、宮廷で盗みにあったのか?」
ヨゼフは哀れむような視線をフォニスに向ける。
フォニスは弾かれた額をなでさすりながら、それは、と口ごもる。
「ちょっと、油断があったといいますか……。普段からではないんですよ、あのときはたまたま――――」
言いかけて、フォニスは思い出す。
(そういえばお金や高価な画材を盗られたことは、あれが初めてではなかったような……?)
フォニスの言葉が不自然に途切れ、その表情が曇ったことで、とベアトにはフォニスの過去を容易に察することができた。
この女、相当なカモだったのだろう、と。
「――――少なくともあのときのは仕方なかったんです。急に出て行けと言われて、すごく慌てていたので、誰であっても無防備になってしまったと思います」
しかしそれはヨゼフも同じである。
彼も同じように急に解雇を宣言され、宮廷を追い出されたが、それでも貴重品と商売道具はなにひとつ損なうことなく宮廷を出た。
見れば、ヨゼフの表情はフォニスへの憐みで涙も浮かべんばかりである。
フォニスはいたたまれなくなり、半ばヤケクソになってベアトを責めた。
「というか、気づいたらわたしの話になっていましたが、これはヨゼフさんの取材ではなかったんですか?そもそも街角名店紹介の記事なのに、宮廷のときの話なんて聞く必要ないじゃないですか」
余計なことを言うな、とばかりにベアトはフォニスを睨んだが、それを聞いたヨゼフは確かにそうじゃ、と頷いた。
「フォニス嬢がおったもんでつい昔話をしてしまったが、そうじゃな。過去は過去じゃ。お前さんらが知りたいのは、いまのわしの店のことなんじゃろう」
老人は腕を組み居丈高に言う。
「なんでも聞くがよい。取材なんかは嫌いじゃが、対価はもらったからの。フォニス嬢はかつての同僚でもある。特別に大盤ぶるまいじゃ。秘伝のソースのレシピを教えてやろうか?まだ出していない新作の構想を話してやってもいい」
遠慮はいらんぞ、というヨゼフに、ベアトはああ、と気のない返事を返す。
「そりゃ願ったりだが……できればもう少し――――」
「もう少し、なんじゃ?」
ベアトは低くうなり、これまでとってメモをパラパラと見返した。
「――――まあ、これだけありゃ十分か」
ため息をつくと、ベアトは再びペンを握り、メモ帳の新しいページを開いた。
「じゃあ、取材に入らせてもらおうか」
*
二人がエカテリーナを出ると、あたりはすっかり夕日に染まっていた。
「遅くなっちまった」
帰路につく勤め人の流れに逆らい、ベアトとフォニスはコロンボの社屋に向かった。
「急いで仕上げちまわねえとな」
取材のメモを見返しながら、ベアトはぼやいた。
言葉とは裏腹に、その足取りはふだんより鈍重だった。
小柄なフォニスに歩調を合わせているのだ。
「今日の取材を、明日の新聞に載せるんですか?」
しかしフォニスはそんなベアトの配慮にはまったく気づいていなかった。
「ベアトさん、人にはどうこう言うくせに、ずいぶんぎりぎりな仕事をするんですね」
それどころか、どこか嫌味のようにも聞こえる疑問を投げかけた。
「三面の記事なんですから速報性は要りませんよね?もっと前もって作ることもできますよね?」
フォニスに悪意はなかった。
ベアトもそれはわかっていた。
しかし彼は歩みを止め、フォニスの額を指で弾いた。
「いっ――――!」
フォニスは額を押さえ、悶絶する。
「――――な、なんなんですか?わたしなにかしましたか?!」
ベアトは取材のメモを書いた手帳で、フォニスの頭をはたいた。
「ちょっと……?警察呼びますよ……?」
「この辺の警察は何枚か握らせなきゃ動かねえぞ」
文無しのフォニスは閉口した。
ベアトは手帳を胸のポケットにしまい、煙草に火をつけた。
「お前、よく今まで刺されずに生きてこれたな」
「はい?」
「王宮を追い出されて当然、とは言わねえが、追い出されただけで済んでよかったな」
「いろいろ盗まれもしましたが……?」
ベアトは煙草の煙と共に、大きなため息を吐きだした。
それからフォニスの頭を乱暴にかき乱した。
「ほんとうになんなんですか……!?」
フォニスは乱れた髪を手櫛で整えながら唸った。
ベアトはそれを無視して、再び歩き出した。
「――――で、どう思った?」
「どう、とは?」
「じいさんの話を聞いて、なにか思うことはなかったかよ」
二人は西の方向に、夕日に向かって歩いていた。
眩い夕日を避けるため、フォニスはベアトの長い影の中に入った。
「それは――――いろいろありましたよ」
逆光にあるベアトの背は、心なしか、いつもより伸びていた。
まるで夕日に立ち向かっていくような、沈みゆく日に戦いを挑みにいくような後姿だと、フォニスは思った。
「おなかいっぱいだったのに、話を聞いてるだけで、喉が鳴りました。特に来月から始まる新コース、とても気になりました。お肉のソースの香りづけに薔薇を使ったそうですが、ちっとも味に想像がつきません。薔薇を使ったスイーツなら聞いたことがありますが、お肉に合うんですかね?」
「そっちじゃねえよ」
ベアトはそれまで伸ばしていた背を、ぐっと丸めた。
いつも通りの猫背に戻って、呆れた顔で、フォニスを振り返った。
「じいさんはお前と同じように、女王の崩御後、宮廷を追い出されたんだ。それについてはなんとも思わなかったのかよ」
「ああ、そっちですか」
フォニスはぽんと手を打った。
「あれだけの腕前を持つアラスマンさんをあっさり手放すなんて、驚きました。貴族の方々の価値観が理解できないことはこれまでもありましたが、味覚まで別物とは、驚きました」
率直な感想だった。
他意はなかった。
「一度貴族の方が本当に美味しいと思うものを食べてみたくなりました。わたしでもそれを美味しいと思えますかね?それとも、貴族の方々がアラスマンさんの料理を物足りなく感じたように、口に合わないですかね?――――なんにせよ運がよかったです。アラスマンさんが宮廷料理人である限り、わたしが彼の料理を口にする機会は一生なかったでしょうから」
フォニスはベアトの影の中にいたが、その瞳は、脇を流れる河川が反射する夕日に照らされ、きらきらと輝いていた。
「陛下もずるい人です。あんなにおいしい料理を独り占めするなんて、とんだ暴君です」
「……それだけか?」
ベアトは新しい煙草に火をつけた。
「他にもっとねえのかよ」
「そうですね。――――絵を描きたくなりました」
「そりゃいつもだろ」
「いつもとは少し違います。わたしは生き物を描くことが好きなのですが、いまはとても、ペンネが描きたいです」
「さっき食ったやつか」
「はい。それと、お話にあった、構想中の新メニュー。あれも描きたいです。見たことのない料理を描きたいなんて思ったことは初めてです」
ベアトは煙草の煙をまっすぐ正面に、夕日に向かって吐き出した。
「わからねえな」
「なにがです?」
「お前、その鈍さで、どうしてあんな絵が描けるんだ?」
ベアトはフォニスに背を向けたまま問いかけた。
「お前の絵は笑えるが、決して能天気じゃあねえ。物事の本質を的確に見抜いている。子どもの落書きみてえに無邪気で、遊びがあるのに、一本芯が通ってる。それなのにお前自身にはまるで骨がねえ。気概がねえ。意志がねえ」
「ひどい言いようですね」
「ムカついてんだ、俺は」
ベアトは舌を打った。
「お前もじいさんも、不当な評価を受けて宮廷を追い出されてる。追い出した連中はもちろんだが、それをなんの抵抗もせずに受け入れたてめえらにはもっと腹が立つ」
「……不当な評価、ですか」
フォニスは首を捻った。
「わたしは、不当だとは思っていませんよ」
「自分の絵は宮廷に置く価値がなかったってか?」
「いいえ。そう卑下しているわけではなく――――絵は、見たいように見るものですから」
それを聞いて、ベアトは足を止めた。
すぐ後ろを歩いていたフォニスは、その背にぶつかってしまう。
「うぶっ――――ちょっと……急に立ち止まらないでくださいよ」
フォニスは鼻をさすりながら、ベアトを見上げる。
ベアトはフォニスを見下ろしていたが、夕日を背にした彼の表情は、フォニスには見えなかった。
「お前の絵は、宮廷の連中にとっちゃ価値がなかったってか」
「まあ、そうですね。価値が無かったというか、あそこにわたしの絵を見たいと思ってくれる人はいませんでした。必要とされないのに、居座ることはできません」
アラスマンさんも同じです、とフォニスは言った。
「絵描きも、料理人も、お客さんがいなければ仕事として成り立ちません。アラスマンさんがいかに凄腕の料理人であろうとも、お客さんがつかないのであれば、職場を変えるしかないでしょう?宮廷だろうと、下町のレストランであろうとも、それは同じことです。お客さんが求めるものを作るか、自分の作るものを欲しいといってくれるお客さんを探すしかないんです」
「職人の矜持か」
ベアトは脇を流れる川に目をやった。
彼の瞳にも、水面に反射する夕日が入り込み、きらきらと輝いた。
「宮廷に未練はねえのか?」
「少しあります」
フォニスはうっとりと目を細めた。
「宮廷では最高級の画材を好きなだけ使えましたからね」
「戻りたいか?」
「戻りたくはありません」
フォニスは即答した。
「いまはもっぱらペン画ばかりですし、画材も労働環境も、はっきりいって粗悪ですが――――」
「経営者相手によく言うぜ」
「事実ですから。――――でも今の方が宮廷にいた頃よりずっと自由です。描きたいものがいくらでも沸いてきます。わたし、いまの自分の絵が好きです。いま、人生でいちばん、絵を描くのが楽しいです」
「……そうか」
「はい。それに、ここにきて欲もでました」
「欲?」
「コロンボに絵を載せるようになってから、わたしの絵、本当にたくさんの人に見てもらえるようになりました。それが自分でも驚くくらい嬉しかったんです」
「ああ、お前は、絵が描ければそれでよかったんだもんな」
「はい。でも、いまはそれだけじゃなくて、たくさんのひとに見てもらいたいなって思います。わたしの絵を見て、笑ったり、怒ったり、いろいろなことを考えてもらえたらいいなって思っています」
「はっ!」
ベアトは笑った。
一口吸っただけで、ただいたずらに燻し続けていた煙草を投げ捨て、フォニスの背を強く叩いた。
「いっ――――たい!」
フォニスは悲鳴をあげる。
「その暴力癖、本当にどうにかしてください……」
「暴力ふったつもりねえよ。ただ鼓舞しただけだ」
「なんの鼓舞ですか……。そっちにその気が無くても、やられてるわたしがそれを暴力だと感じたらそれは暴力になると思うんですけど……」
「もっと肉をつけろ。そしたら痛くねえだろ」
「人に求める前にまずご自分の悪癖を治してください。――――わかりました。いいでしょう。それならわたし、これから毎日エカテリーナで食事をとることにします」
「破産するぞ」
「ベアトさんの名前でつけておいてもらいます」
「お前の給料から引くまでだ」
フォニスは自分の給金の大部分をベアトとジェニオに握られていたことを思い出し、歯噛みする。
「……横領で訴えます」
「勝手にしろ。俺はひとに飯を奢ることがなによりも嫌いなんだ」
「ケチですね」
「俺にとっちゃ褒め言葉だ」
「コロンボはいま儲かってるんじゃないんですか?」
「発行部数は伸びてるが、その分単価を下げてるからな。新しい印刷機の導入やらなんやらで経費もかかる。まだ俺らの懐が潤うほど稼げてねえよ」
コロンボの経営状況はひと月前に比べて好転したが、まだ危機を脱したに過ぎなかった。
「発行部数もここにきて横ばいだ。そろそろなにか、次の一手を打たなきゃいけねえんだが――――」
ベアトは胸のポケットにしまった取材メモを、指で弾いた。
「まだ足りねえんだ」
「なにがです?」
「時間がいる。繋ぎが必要だ」
「はあ……?」
フォニスはベアトの言葉の意味を解すことができなかったが、ベアトはそれきり黙り込み、なにかひとりで思考に耽ってしまった。
フォニスはまあいいか、と言及を避け、大きく伸びをした。
工場街に近づくにつれ、すれ違う人はまばらになっていく。
みな仕事を終え家に帰ったのだろう。
どこからか夕食の匂いが漂ってくる。
シャッターを下ろす音と、次いで交わされる別れの挨拶が耳に入る。
街全体が、一日の終わりを迎えようとしていた。
しかしそんな中、ベアトとフォニスの足はこれから始まる仕事へまっすぐ向けられていた。
ベアトは睨み付けるように太陽を直視している。
ベアトを追うフォニスの鼻腔は煙草の臭いに支配されている。
二人の耳に入るのは、帰路につく職工たちのどこか浮ついた話し声ではなく、コロンボから響いてくる戦場のような喧騒だ。
これから一日が始まらんといわんばかりに、コロンボの社屋の窓からは明かりと怒鳴り声、電話のベルでけたたましい。
遅い出社となったが、フォニスはいつになくやる気に満ち溢れていた。
エカテリーナでの食事がきいたのか、女王の思い出話ができたからか、それとも絵を描くことに対する自分の想いを口にしたからかは、わからない。
あるいはそのすべてかもしれない。
ともかくフォニスは、やる気であふれていた。
いまならどれだけ難解な記事の挿絵でも描ける気がしていた。




