酔わせるだけの酒なんて毒と変わらん
しばらく間が空いてしまいましたが、更新再開します。
投稿は週一くらいのペースになると思います。
感想、評価、ブクマ、いいねのひとつに大変励まされております。
ありがとうございます。
フォニスの絵が世界で一番売れるようになるまで、もうしばらく、お付き合いください。
*
べアトに引きずられてフォニスがやってきたのは、裏道を抜けた先にある、小さなレストランだった。
首都を流れる河川沿いに建てられたその店は、佇まいも内装も年季が入っていたが、看板だけは真新しかった。
「エカテリーナ……」
フォニスは看板に輝く黄金色の店名を読みあげた。
『EKATERINA』
それは、亡き女王の名だった。
「邪魔するぜ」
ベアトが店の扉を開けると、カランカランと、小気味のいい鈴の音が響く。
店内にはひと気が無く、照明も落とされている。
フォニスは扉にCLSEDの掛札がくくられているのを見て、やってないみたいですよ、と指摘した。
けれどベアトはかまわず店の中へ入って行った。
「ランチタイムはしまいじゃ!」
薄暗い店の奥から怒声が響く。
フォニスは驚き、後ずさったが、ベアトは構わず窓際の席へと腰かけた。
「二人分でいい。大盛りにしてくれ」
「休憩中だと言っておる!」
「どうせ今日も暇だったんだろ?材料なら有り余ってるはずだ」
急いでくれよ、と遠慮なく言い添えてから、ベアトは店の入り口で立ち尽くすフォニスを見やった。
「なにぼさっとしてんだ。さっさと座れよ」
「いえ、その……いいんですか?」
「なにがだよ」
「だって、休憩中なんじゃ……?」
「ここはそういう店なんだよ」
ベアトはそれだけ言って、煙草に火をつけた。
どういう店ですか、とぼやきながら、フォニスはベアトの対面に腰を下ろした。
見晴らしのいい席だった。
照明の落とされた店内は、全体的に薄暗かったが、その分窓から差し込む陽光がくっきりとしていた。
特にフォニスの座る席は、河川が反射する陽光も相まって、一際眩い光に照らされている。
スポットライトを浴びているようだ、と思いながら、フォニスは窓の外の広がる河川の輝きに目を細めた。
「それで、なんで飯も食わずにあんな時間にほっつき歩いてやがったんだ?」
半分ほどに減った煙草で灰皿を叩きながら、ベアトは詰問する。
「いつもならとっくに仕事を始めてる時間だろ」
食事をとらないのはまだしも、フォニスがそう易々と絵を描く時間を削るはずはない。
相応の訳があるはずだ、と踏んだベアトは鋭い視線をフォニスに向けた。
「はあ、それがですね――――」
フォニスは隠し立てることなくことのあらましを話した。
バーナビーとつい話し込んでしまったこと。
二人でイメージを固め、『薔薇の木の下で』の登場人物であるケイトとアンソニーの絵を描いたこと。
そしてその際、勝手にバーナビーの筆記具を使用し、泣かせてしまったこと。
話を聞くベアトの表情は次第に険しいものへと変化し、口元は引きつっていったが、フォニスは気にせずに続けた。
「それで、彼に便箋を弁償したら、手持ちのお金が無くなってしまったんです。――――食事をとる気はあったんですよ?でも手持ちがなければどうしようもないじゃないですか。食い逃げをするわけにもいきませんし」
「便箋を百枚も買ってやる必要はねえだろ。なんで飯食う前に財布を空にしちまうんだよ」
「それは……その……なかなか泣き止んでくれなかったもので……」
「たかられてんじぇねーよ」
相手はガキとはいえもう十三だぞ、とベアトは心底呆れたように言った。
フォニスはですが、といじけた口調で反論する。
「彼の大切な便箋を使ってしまったのは事実なんですから、お詫びをするのは当然じゃないですか」
「限度があんだろ。足もと見られてんじゃねえよ」
「……ベアトさんたちがわたしにちゃんと給料を払ってくれれば、手持ちがなくなるようなことにはなっていないのですが?」
現在、フォニスの給料は日払いで、それも翌日の食事代にしかならない金額しかもらっていなかった。
フォニスの絵で業績を建て直した以上、相応の金額を払うのが筋ということはベアトもジェニオも承知していたが、しかし金を与えればフォニスは画材を買い込み、寝食を忘れて制作に没頭してしまう。
仕事への支障を危惧したジェニオとベアトは、フォニスに食事代以上の金を持たせなかったのだ。
「絵、一枚一枚にきちんと見合った金額を出してやってるだろ」
持ち手がなくなるほど短くなった煙草をもみ消しながら、領収書は渡してるはずだ、とベアトは言った。
「お金をもらえないんじゃ意味がありません」
「安心しろ。ちゃんと蓄えておいてやってるから」
「お金の管理くらい自分でできます……」
何度目かになるこの訴えを、ベアトはしかし今回も取りあわない。
「誰だった?あるだけの金で画材を買い込んでぶっ倒れるまで描き続けた馬鹿は」
そう、フォニスにはすでに前科があった。
コロンボで働きはじめて間もなく、彼女は給金のすべてを画材につぎ込み、職場だけでなく家に帰ってからも絵を描き続け、一度倒れたことがあったのだ。
まる一日寝て、たらふく食事をとって、すぐに元気を取り戻したが、しかし原稿にひとつ
穴をあけてしまった。
それを埋めたのはベアトだった。
さらに彼は倒れたフォニスの看病までしていた。
その大きな借りを持ち出されては、フォニスは閉口するしかなかった。
*
「できたぞ!」
しばらくすると厨房からまた怒鳴り声が響いた。
声は老人のものだったが、その声量は拡声器を使っているのではないかと思えるほどよく響くものだった。
「さっさと取りにこい!」
ベアトは舌を打ち、今まさに火をつけようとしていた煙草を箱に戻して立ち上がった。
「給仕はどうした」
「とっくの昔に帰ったわい!」
「……仕方ねえな」
ベアトは億劫そうに立ち上がると、厨房の中へ入って行った。
「営業時間外にきておいてまともなサービスを受けられるわけなかろう。そもそもお前さんのような品のないガキ、客だと思ったことなんぞ一度もないわい」
「客じゃねえならいつ来たっていいじゃねえか」
「いいわけあるか!本来客じゃないものは店の敷居を跨ぐことすら許しておらん!」
「じゃあ敷居をあと二メートルはあげることだな。――――いただいてくぞ」
厨房から戻ったベアトの手には、大皿が二枚あった。
「残さず食えよ」
そう言ってベアトがフォニスの前に置いたのは、山盛りのペンネだった。
ひき肉、チーズ、バジルソースという、いたってシンプルな具材が絡んでいるだけのように見えたが、まるでフルコースを机いっぱいに広げられたかのような芳ばしさが、フォニスの鼻腔には広がった。
「冷める前に食え」
まるで自分で作ったかのようなもの言いで、ベアトはフォニスにフォークを手渡した。
「……いただきます」
山盛りのペンネは、フォニスの二日分の食事に相当する量だった。
しかしフォニスは食べきれるかどうかの心配など一切せず、かおりに誘われるまま、ペンネを口に運んだ。
「……!」
目を瞠ったフォニスに、ベアト片方の口角をあげて見せる。
「うめえよな」
「はい。とても……!」
それから二人は、黙々と食事に取り掛かった。
大盛りのペンネはみるみるうちに減っていき、あっという間に皿の底が顕わになった。
「悪くない食いっぷりじゃ」
すっかり空になった皿にスプーンを置いてはじめて、フォニスは隣の席に老人が座っておることに気づいた。
「食べ方に品はないがのう」
純白のコック帽をかぶった、この店の店主兼料理長である老人は、よく冷えた白ワインの入ったグラスをフォニスに差し出した。
「ど、どうも……」
フォニスはそれを受け取り、舌を濡らす程度に口をつけた。
「……?!」
フォニスはまたも目を瞠り、ゆっくりと、けれど一度も口をグラスから離すことなく、ワインを飲み干した。
信じられない美味さだった。
フォニスは下戸ではないが、酒が好きというわけではなく、自ら進んで飲むようなことはこれまで一度もなかった。
「ほお。飲みっぷりもいいのう」
老人がワインボトルを差し向けると、フォニスはほとんど反射的に、いただきます、と返していた。
「ほどほどにしとけよ。――――じいさん、俺にもくれ」
「お前はこれから仕事だろう」
「コイツだって仕事だよ」
「なんじゃい、甲斐性がないの。――――女ひとりも食わせてやれんのか」
フォニスとベアトは同時に吹き出した。
「こいつはそういうんじゃねえよ!」
「この人はただの雇用主です」
ベアトに続いて訂正しながら、フォニスはこのやりとりに既視感を覚えた。
が、こんな勘違いをされることがそう何度もあってたまるかと、すぐに頭から追い出した。
「お前さんがコロンボの従業員?」
老人は驚きに声を上ずらせ、しげしげとフォニスを眺めた。
フォニスもまた老人をじっと見つめ返した。
小柄な男だった。背丈はフォニスと変わらず、長いコック帽の先がようやくベアトの目線と重なる、といった具合だった。
そのコック帽からわずかにはみ出る毛髪はくすんだ灰色で、顔や手は細かいしわにまみれていた。
しかし手足は太くがっしりとしていて、欠けのない歯は若々しかった。
ただの老人と言うより、中年の炭鉱夫といった方がしっくりとくるような、そんな印象の男だった。
(どこかで、見たような……?)
一度会えばなかなか忘れられない容貌である。
けれどフォニスは老人とどこで会ったのかさっぱり思い出すことができなかった。
「新聞社務めにしては、ずいぶん地味で田舎臭い娘っ子じゃのう」
老人の方も、フォニスと面識があるような素振りは見せず、無遠慮な言葉を投げつけてくるだけだった。
「掃除婦かなにかか?」
「絵描きだよ」
ベアトは言って、老人の手からワインボトル奪おうとしたが、老人はさっとボトルを遠ざけ、感心したように頷く。
「こんな若い娘がのう」
ベアトは舌を打ち、煙草に火をつけながら、じいさんも見ただろ、と言った。
「皮肉っぽい風刺が効いてる、うちに相応しい絵を描くんだ」
「皮肉のつもりはありませんが……」
フォニスは弁解したが、老人は知らん、と鼻を鳴らすだけだった。
「わしは貴様らの作っているような低俗なものは読まん」
ベアトは煙草を深く吸うと、天井に向かって吐き出した。
「読みもしねえで決めつけるなって、いつも言ってんだろ。それに一面くらいは目にしたことがあるはずだぜ。今じゃどこの売店でも、コロンボを平積みにしてるんだからよ」
「知らんもんは知らん」
「頑固じじいめ……」
ベアトは灰皿に煙草を預けると、おもむろにカーテンを引いた。
窓から座席に差し込んでいた陽光は遮られ、三人の上に落ちるのは、それまでよりずっと淡い、布越しに滲む明りだけとなる。
光と共に、晴天の下に輝く河川と、それを取り囲む街並みの景色も失われる。
すると途端に店の中は、陰気臭く、萎びた趣が増した。
(なぜ急に……)
フォニスが驚いて視線を向けると、それまで喧嘩腰ではあったものの、険はなかった二人の顔つきが変わっていた。
互いの腹を読み合うような、鋭く、隙のないものに。
「調べはついたんじゃろうな?」
「おうよ」
ベアトは皿やグラスを脇におしやり、持ち歩いていた頑丈なトランクケースを荒っぽく机に置いた。
「お望みのブツだ」
ベアトはそう言って、ケースをわずかに開いて見せた。
覗きこんだ老人は、うむ、と唸り、手に取ろうとしたが、ベアトはすぐに鞄を閉じてしまった。
「なんじゃい。ワインの意趣返しか?」
「そんなガキみてーなことするかよ。――――これを渡すのは、お代をいただいてからだ」
老人はうむむ、と唸り、黙りこんでしまう。
(……なんなんでしょう、これは)
状況のつかめないフォニスは、ただ気配を押し殺して縮こまる。
同席していながらも、フォニスの位置からは鞄の中身は見えず、二人がなにを、どんな取引をしようとしているのか露ほどもわからなかった。
しかし傍から見ていて、ろくな取引でないことは察せられた。
二人の雰囲気は尋常でない。わざわざ店内を暗くしたところからも、少なくとも人目を忍ばなければならないことは確かだ。
(なにもかもきな臭いです……)
関わり合いになるべきではない。
絶対に面倒事になる。
フォニスはそう予感し、グラスに残るワインを名残惜しく思いながらも、そっと椅子を引いた。
「便所か?」
お前の考えなどお見通しだ、と書かれた顔で、ベアトは言った。
「厨房の手前にある。すぐすましていこい」
ベアトの遠慮のないもののいいに慣れきったフォニスは、その無礼は無視して立ち上がった。
「いえ、そろそろわたしはお暇しようかと思いまして」
「……そうか」
ベアトはしかし、フォニスを引き留めはしなかった。
肩透かしを食らったフォニスが、ぽかんと口を開けるのを見て、ベアトは鼻を鳴らした。
「行くなら金は置いてけよ」
「は?」
フォニスは目をぱちくりと瞬かせた。
つい先ほど、ベアトには自分が一文無しであることを説明したばかりだ。
それなのに、なにを置いていけというのだろう。
なにかの言葉のアヤだろうか。
フォニスはそう考えたが、ベアトは淡々と繰り返すばかりだった。
「金を置いていけ。――――俺はおごるなんて一言もいってねえからな」
いくらだよ、とベアトが訊くと、老人はどこか呆れた口調で金額を言った。
「……え?」
信じられない高額だった。
それは高級レストランのフルコースの相場であり、ここひと月のフォニスの給金にも匹敵する。
フォニスは開いた口がふさがらず、ただ目を白黒させるだけだった。
「飯もワインも旨かっただろ?」
「――――はい。それはもう、信じられないくらい」
でも金額を聞いて納得しました、とフォニスは天を仰いだ。
「人生で五本の指に入る一皿でした。そして人生で最も高価な一皿でした……」
「ここが流行らねえ理由がわかっただろ?」
ベアトは灰皿の上で燻る煙草をもみ消した。
「じいさんの腕は最高だし、場所もそう悪くない。だがとにかく高すぎる。――――さっき食ったのは賄いみてえなだがな、本来はランチだろうがディナーだろうがコースメニューしかねえんだ。堅苦しい上に、出てくるのに時間がかかる。おまけに値段はこの辺に住んでるやつの給料一ヶ月分だ。そんな店に誰がくるかってんだ」
老人は腕を組み、大きく鼻をならした。
「わしの料理がそう安く食えるはずが無かろう」
「プライドだけじゃ、あんた自身が飯食えなくなるぞ」
「余計なお世話じゃ」
「せめて材料費を削れよ。王室御用達のワインなんざ、安ワインに慣れたやつらには水でしかねえんだから」
「酔わせるだけの酒なんて毒と変わらん。――――毒杯を好んで飲む輩の気なんて知りたくもないわい」
「じいさんだって若いころはそうだっただろ」
とにかく、とベアトは視線をフォニスに戻した。
「フォニス、お前金払えねえんなら、仕事をしていってもらうぜ」
「……皿洗いでもすればいいですか?」
「皿洗い一つでこの代金まかなえると思ってんのか?」
思っていませんよ、とフォニスは苦虫を噛むように言った。
「でも――――その――――わたし……犯罪の片棒は、担ぎませんよ?」
「あ?」
「あ、別に、通報する気はありませんよ?お二人がなにをしていようと咎めるつもりはありませんが、でもわたし自身は、正直関わりたくないといいますか、捕まったら絵が描けなくなってしまうので、警察のお世話になるようなことは――――」
「なにを言ってやがるんだお前は」
ベアトは呆れてフォニスの額を指で弾いた。
ぺちっと大きな音が立ち、フォニスは思わず額を押さえたが、痛みはなく、ベアトの爪の感触が残るだけだった。
「俺がいったいいつ犯罪を犯したんだよ」
「え、でもいま――――」
フォニスはアタッシュケースに視線を投げる。
ベアトは大きくため息をついて、フォニスに中身を見せてやる。
「この国ではいつからパンを持ち歩くのが犯罪になったんだ?」
アタッシュケースの中には、フランスパンやサンドウィッチといった、数種類のパンが入っていた。
それは駅前にある、料理はいまひとつだがパンは美味しいと評判の駅前レストランのものだった。
「正真正銘ただのパンだ。それもお前がよく知ってる店のな」
ベアトはアタッシュケースを閉じ、机の上から降ろすと、手元に灰皿を引き寄せた。
そして新しいに火をつけ、で?とフォニスを詰問する。
「この国ではいつからパンを持ち歩くのが犯罪になったんだ?」
「……嫌味はよしてくださいよ。ちょっと早とちりしただけじゃないですか」
「お前、その思い込みの激しい癖直した方がいいぞ」
「お説教もよしてください」
「じゃあおとなしく座れ」
フォニスはしぶしぶ着席した。
ベアトのいう「仕事」が犯罪でないことはわかったが、しかしでは一体なにをすればいいのか、フォニスは皆目見当もつかなかった。
「――――さて、話が逸れちまったな」
ベアトは老人へと向き直り、足元のアタッシュケースをコツコツとつま先で小突いた。
「これのほかに、メニューの詳細や経営状況、客層、仕入先、それから店主の健康状態に、嫁と二人の娘との仲、浮気相手のウェイトレスのことまでしっかり調べ上げてきたぜ」
「……そこまでやれとはいっとらん」
「でも知りたいだろ?」
店主は鼻を鳴らし、アタッシュケースを取り上げた。
「やつには勘づかれておらんじゃろうな?」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってるんだ?」
「……ヤクザめ」
老人は毒づきながら、アタッシュケースから白パンをひとつ取り出し、頬張った。
「どうだ?少しは腕をあげてるか?」
ベアトは胸ポケットから折りたたまれた紙片を取り出し、老人の前に置いた。
老人は紙片を広げると、目を細めてそこに記載された駅前のレストランの状況――――息子の近況を読み耽った。
「このじいさんはずいぶん昔に息子と大喧嘩してな、絶縁してるんだよ」
老人が紙片に目を通している間に、ベアトはフォニスに現状を説明してやった。
「だがずっと様子が気になって仕方なかったみてえなんだ。ここに店を構えたのだって、息子のレストランと近いからでよ。こんな値段の料理、首都の一等地でなきゃ売れねえし、じいさんの腕ならそこに店を構えることだってできたはずなのに、わざわざこんな工場街に店構えて、案の定閑古鳥を鳴かせてるってわけだ」
「はあ。それでその息子さんというのが、あの駅前レストランの?」
「そう。あの腹の出た店主だ――――だが近くに店を構えても、自分から会いに行くことはじいさんのプライドが許さなかった。さらに店はこんな調子だろ?客足がまるでねえから幽霊みたいなもんだ。近くの商工会の連中にさえ認知されてねえんだから、息子も当然気づいてないだろ。親父がこんな近くで店をやり始めたなんて。――――自分からは会いに行けねえし、息子も会いにこない、それでも気になっちまって、いまこのザマよ」
難儀な性格だよな、と言って、ベアトは老人に視線を向けた。
「探偵の真似事までしてやったんだ。じいさん。約束通り、取材を受けてもらうぜ」
老人は鼻を鳴らすと、紙片から顔をあげた。
「ここに書かれたことはすべて事実じゃろうな?」
「女王陛下に誓って」
「……ふん。しらじらしい」
老人は読み終えた紙片を握りつぶして、灰皿の中に放り込んだ。
「女好きはどうにもなんねえが、息災でなによりだっただろ?レストランも繁盛してるしよ」
「まったく――――なにがレストランじゃ――――ほとんどパン屋じゃないか――――」
老人はぶつぶつと文句を言いながら、億劫そうに立ち上がった。
「仕方ない。約束通り取材は受けてやる」
「よし」
ベアトは吸いかけの煙草をもみ消し、閉め切っていたカーテンを開け放った。
下り始めた陽光は、窓際の席ではなくその奥にある老人の立つ場所にまっすぐ差し込む。
ベアトはすかさずカメラを構えたが、老人は片手を振ってそれを制した。
「少し待っとれ」
老人は二人の席に残されていた空の皿とグラスを持って、厨房に戻る。
「早くしろよ」
ベアトは舌を打って、構えたカメラを下ろした。
「――――取材だったんですか」
食事代を理由にこの場にとどめ置かれたフォニスは、ここでようやく二人の取引を理解した。
「息子さんの情報と引き換えに、取材を受けてもらう――――ということだったんですね」
ベアトはカメラの調整をしながら、そうだ、と答えた。
「頑固なジジイでな。何度言っても応じやしねえんだ。店の宣伝にもなるっていうのによ」
「一体なんの取材なんです?」
「『街角名店紹介』」
フォニスはぱちくりと目を瞬かせた。
「街角名店紹介?」
「ああ」
「あの――――この周辺の隠れた名店を紹介する、グルメコラムですか?」
「そうだよ」
次第に目を丸くしていくフォニスに、なんだそのおかしな反応は、とベアトは怪訝な表情を返す。
「だって――――わたし、あのコーナー好きなんです。なにかと剣呑なコロンボの中にあって唯一の癒しというか、牧歌的な記事だったので――――」
それをまさか、とフォニスは驚きを隠さずに言った。
「ベアトさんが書いていたなんて」
「……なんか文句でもあんのか」
もちろんありません、とフォニスは即答する。
「でも驚きました。ベアトさんはもっと大きな案件を担当されているとばかり思っていたので」
「わかってねえな。これは十分でかい案件だぜ」
「……?ただのお店紹介ですよね?」
ベアトはそうだ、と適当に相槌を打ち、カメラのレンズをのぞき込んだ。
「――――調子悪いな。戻ったら修理に出すか」
「あの記事って広告なんじゃないんですか?」
「あ?」
「お金をもらって紹介記事を書いているんだと思っていましたよ」
「ああ、そうだよ」
じゃなきゃあんなリップサービスしねえよ、とベアトはカメラの調整を続けながら言う。
「だが今回だけは別だ。こっちが対価を払ってでも、俺はあのじいさんに取材をしなきゃなんねえ」
フォニスは深く考えずに、そうですね、と頷いた。
「値段はともかく、味は絶品です。もっと多くの人に知られるべき名店ですよね。――――じゃあ、わたしを引き留めたのは、取材の手伝いをさせるためですか?」
「そうだ。連れてきたのは偶然だが、よく考えたらお前がいた方がじいさんを懐柔できそうだ、と思ってな」
「懐柔?」
フォニスは首をひねったが、ベアトはそれ以上の説明を加えなかった。
まあいいか、とフォニスは疑問をそのままにして話を戻した。
「ただの取材の手伝いなら、最初からそう言ってくださいよ。あんな脅すような真似しなくても、お手伝いしましたよ。――――それで、わたしはなにをすればいいですか?メモでもとりますか?」
「そんなことする必要はねえ。――――お前はじいさんと、昔話に花でも咲かせてくれりゃあいい」
「……はい?」
ベアトはカメラのレンズをのぞき込み、厨房の奥へと向けた。
「お前にとってはそう昔でもねえか」
ストロボが光り、店内に閃光が広がる。
遅れてシャッターが下り、バシャッ!と乾いた音が響き渡った。
「いきなり撮るやつがあるか」
目を細めながら仁王立ちする老人は、先ほどとは装いが変わっていた。
コック帽はそのままだったが、コックコートは使い古され、黄ばんだものから、一点のシミもない新品へと変わっていた。そしてその上から、真っ赤な生地に金の刺繍が施された豪奢なサッシュをかけていた。
サッシュには勲章がいくつも留められており、それはどれも、女王から臣下へと贈られる功労の証であった。
「じいさんはもと宮廷料理人だ」
驚くフォニスに、ベアトは耳打ちする。
「お前とほぼ同時期に宮廷をクビになった――――お仲間だよ」
「そうだったんですか……」
フォニスは勲章を輝かせている老人をじっと眺め、どうりで、と思った。
(どこかで見たことがあると思ったら、宮廷にいた方だったんですね)
しかし二人は宮廷で直接関わりあったことはなかった。
宮廷の優れた使用人を表彰する式典や、女王主催の晩餐ですれ違ったことがあるに過ぎない。フォニスはかろうじて老人を記憶に残していたが、老人の方はさっぱりといった具合で、自分を眺めるフォニスに珍しかろう、と得意げに言った。
「これはすべて女王陛下に賜ったものじゃ。どれも本物の純金でできておる。あの方は倹約家での、功労賞など滅多に出さんかったが、見ろ、わしはこの通り、金を五つも頂いたのじゃ。女王は茶目っ気のある方でのう。――――『お前をよそにとられないために、こうして金で繋ぎとめているんだ』――――とな、表彰式でそうささやかれたことを、わしは今でも覚えておる」
フォニスはしみじみと頷いた。
「陛下がおっしゃりそうな言葉です」
「じゃろう?まったく、そんな必要はないのにのう!例えこれが金メッキでできていたとしても、わしは女王陛下のために料理を作り続けたよ」
「陛下のことを、お慕いしていたんですね」
「わしはこの国で生まれ育って、今日までで三代の王を知っておる。じゃが主君と呼ぶべきお人は、生涯あの方ただお一人じゃ」
老人は憐みの中に自尊心を滲ませながら言った。
「お前さんももう少し早く生まれれば、女王陛下に謁見する機会も、一度くらいはあったかもしれんがの。あの方の魅力を知らずにこの国の民として生きていくなど、わしには耐えられんよ」
「知ってるぞ」
すかさず、ベアトは横やりを入れた。
「じいさん。こいつはあんたよりもずっと女王の魅力を知ってるよ」
「まさか。王宮勤めをしていたでもあるまいに、こんな小娘が――――」
「そのまさかさ」
ベアトは老人に、フォニスの身の上を明かした。
若き天才画家として召し上げられ、女王の寵愛を欲しいままにし、その女王の崩御とともにあっさりと宮廷を追われたフォニスの過去を、かいつまんで話した。
「――――陛下が若い絵描きに熱をあげておったのは知っていたが、まさかお前のような小娘だったとはのう」
老人はどこか恨めしげにぼやいた。
「たしかに絵描きの方が陛下と話す機会は多かろう。じゃがわしは二十年間陛下の胃袋をつかみ続けてきた。そう考えればほんの数年側にいただけのお前など足元にも及ばんわい」
「拗ねるなよじいさん」
ジジイの嫉妬なんて誰も食わねえぞ、とベアトがうんざりしたように言うと、老人はきっと目をつりあげた。
「拗ねとらんわい!」
「ガキか。――――まあいい。それよりもじいさん、思うところはねえのかよ?」
ベアトは胸ポケットからペンを取り出し、切っ先を老人の勲章へ向けた。
「あんたもフォニスと似たように宮廷を追い出されたんだろ?」
老人はむっと、口を尖らせたが、しばらくして大きく息を吐いた。
「似てるどころか、まったく同じじゃよ」
老人とフォニスは視線を交わした。
二人は互いに確かな才を持つ職人だった。
女王にその腕を見込まれ、抱えこまれ、故に周囲の嫉妬を受けた。
不当な評価を与えられたのち失脚した、不遇の天才だった。




